2006-5-1 化学及血清治療法研究所

日本経済新聞 2016/3/14

化血研のドン、膨張と挫折 薬害エイズと背徳の20年
 

 不正な方法で血液製剤を製造し、110日間の業務停止処分を科された化学及血清治療法研究所(化血研)。同社は、薬害エイズ事件の被告企業だった1996 年当時からウソを重ねていた。今月末で和解から20年。患者側の大規模な集会も予定され、化血研への批判が高まっている。不正と隠蔽は、なぜ長期間にわたって続いたのか、「化血研の天皇(ドン)」と呼ばれる男の軌跡とともに探っていく。

2015/6/5

一般財団法人化学及血清療法研究所において製造販売される血液製剤について

 一般財団法人化学及血清療法研究所において、同社が製造販売する血液製剤のうち12製品26品目(別紙)が、承認書と異なる製造方法により製造されていることが判明しました。

 

  <承認書と異なる製造方法>

    ・ 承認書に記載していないヘパリンを添加。

    ・ 承認書に記載された量と異なる添加剤を使用。

    ・ 承認書に記載された工程を一部改変・省略。


 

これら12製品26品目について、これまで把握した情報や現在までの健康被害の報告からは、健康に重大な影響を与える可能性は低いと考えます。


厚生労働省としては、12製品26品目について、出荷を差し止めるとともに、速やかに承認内容の一部変更申請等必要な対応を行うよう、化血研に指導しています。


さらに、代替製品がない、又は代替品に切り替えると患者の生命に影響を及ぼす6製品16品目(別紙1〜6)については、医療現場での使用に影響が出ないよう、現在の正確な製造工程、製造記録などにより安全性を確認した上で、一部変更承認等必要な対応がとられる前であっても例外的に出荷を認めることとしています。


2015年11月5日

血液製剤を不正製造、記録も偽装 化血研、20年以上


 血液製剤やワクチンを製造する「化学及血清療法研究所」(化血研・熊本市)が、20年以上前から国に承認された内容と異なる方法で血液製剤をつくっていたことが明らかになり、厚生労働省は処分を検討している。化血研は発覚を免れるため、製造記録の偽造もしていた。

 化血研は原因調査などをする第三者委員会を設置しており、近く報告書をまとめる。厚労省は報告書をみたうえで、処分を決める。

 化血研によると、1990年ごろから、工程を安定化させるため、血液を固まりにくくするヘパリンを承認されていないのに添加。また実際の製造記録のほかに、国の承認通りに製造したとするにせの記録もつくり、国の定期調査に対応していた。製造法の変更による健康被害は報告されていないという。

 厚労省は6月に血液製剤12製品の出荷を差し止めた。ワクチンでも同様の問題がないか調べ、安全性が確認されるまで出荷の自粛を要請している。

 インフルエンザワクチンでは製造書類に誤記などが見つかり、出荷が遅れた。百日ぜきや破傷風などの四種混合ワクチンは現在も出荷が止まっており、今月中旬には化血研製の在庫はなくなる見込み。

 化血研は「長年にわたる法令軽視の姿勢があり申し訳ない。第三者委の報告を踏まえて品質保証体制の再構築に努める」としている。

 

■「治外法権なのか」

 東京・永田町の議員会館5階にある参議院議員、川田龍平の事務所には、昨年6月に化血研の事件が報じられて以降、血友病患者からの電話が次々とかかってくる。

 「薬害エイズ訴訟で和解した時の謝罪の言葉は、まったくのウソだということか」「化血研を存続させてはならない」

 かつて訴訟の陣頭に立ち、その後も血友病患者の思いを代弁してきた川田は、そうした声を受け止めながら、考え続けてきた。すでに国内血液製剤メーカーは3社に集約されている。化血研が潰れて2社の「寡占」になっていいのか。それとも外資を入れるのか……。どの結末にも不安を覚える。

 「あの時、批判がミドリ十字に集中してしまった」。川田はそう振り返る。薬害エイズ訴訟では、エイズウイルス(HIV)に感染した血液から非加熱血液製剤を製造・販売したことで、国内メーカーではミドリ十字(当時)と化血研が提訴された。矢面に立ったのはミドリ十字だ。同社の創業者は、旧日本軍「731部隊」に関与していた過去を持つ。サリドマイド事件で謝罪した厚生省(現厚生労働省)薬務局長が天下っていたことも、患者の神経を逆なでした。マスコミと患者団体から集中砲火を受け、1996年の和解に際しては、経営陣が土下座した。その後、経営は傾き、吉富製薬(現・田辺三菱製薬)との合併にともなって法人格が消滅している。

 化血研はその陰に隠れた。被害者の1人だった、はばたき福祉事業団理事長の大平勝美は当時、非加熱製剤を扱った企業を1社ずつ回ったが、化血研には門前払いにされたという。その時の言葉が脳裏に焼き付いている。

 「うちはミドリ十字と違って財団法人だから、営利を求めていない。安全なものを提供している」

 だが、結果的には被告企業として和解に応じる。その時、裁判所で「安全な医薬品を供給する義務を深く自覚する」と誓約した。「法廷でウソをついたことになる。化血研は治外法権なのか」(大平)

■紫外線をあて古く見せかける

 第三者委員会が昨年末にまとめた「調査結果報告書」によると、血友病患者が使う製剤で最初の「虚偽記録」が作成されたのは、96年3月の和解の前年だった。96年9月には、和解後の経緯などが説明された会議で、不正製造についても議題に上がり、解消できない場合、査察では隠蔽するしかないと報告されていた。

 隠蔽工作はさらにエスカレートしていく。98年からの査察の厳格化にともない、完璧なトリックを準備する必要に迫られていた。書類は、虚偽の記録はゴシック体、実製造は明朝体で作成した。隠すべき書類は、ページ数に「2.5」などと小数点を打ってはさんでおき、査察時には抜き取って対応する。過去の記録も改ざんし、筆跡が似ている人にサインさせ、古い書類に見せるために紫外線を当てて焼いていた。

 31カ所に上る不正の中で、最も影響が大きいのが、血友病治療製剤の工程に抗凝固薬「ヘパリン」を添加したことだ。血友病とは、血液の凝固因子が足りずに出血が止まらない症状を指す。ところが、ヘパリンは逆に凝固を阻止する作用を持つ。製造中に血液製剤が固まってしまう状況を解決するため、工程の上流にヘパリンを入れたことで、そのまま多くの製品に混入して、不正が広がった。

 2014年、現場の社員たちが不正製造を洗い出してまとめ、経営幹部に少なくとも2回報告した。だが、一向に動く気配がない。そうして半年が過ぎた。2015年5月の連休明け、厚労省に差出人不明の封書が届く。中にはA4で2枚のワープロ打ちの書類が入っていた。秘密裏に実施されているヘパリン添加の状況が、克明に記されていた。

 「これは、内部事情を知っている者しか書けない」。厚労省医薬・生活衛生局監視指導・麻薬対策課課長補佐の日下部哲也はそう思った。そして5月28日、厚労省や査察機関は合同チームを組み、抜き打ちで化血研に立ち入り調査に入る。

■医薬史上最悪

 「血液製剤、12品を出荷停止」。6月5日に発表された行政指導は、全国紙ではベタ記事扱いだった。化血研のワクチン部門に所属する50代の幹部は、「対岸の火事だと思っていた」と話す。

 9月、厚労省は化血研に、ワクチン部門の調査を指示するが、2週間たっても手をつけていない。3カ月後には、ボツリヌス毒素を無届けで運搬していたことが判明する。「生物兵器になる危険があり、各国が協調してテロ対策を敷いているのに、対応マニュアルすら作っていなかった」(厚労省感染症情報管理室長の宮川昭二)

 史上最長の110日間の業務停止――。副作用による死亡者を出した日本商事の105日間業務停止を上回る、医薬史上もっとも重い処分となった。その後、業界団体の製薬協は、化血研に除名処分を下している。

 不正と隠蔽を指示した人物として、調査報告書に幾度となく登場するのが「A前理事長」だ。「1992年から約20年間にわたり理事(内約4年間は副所長、約8年間は理事長)を務め」「経営層の中でも圧倒的な発言力を有し、人事権も掌握」「経営層を含む役職員は、A前理事長の意向に反することはできなかった」

 船津昭信(70)――。化血研の社内でも、強権ぶりは知れ渡っている。50代幹部はこう怒鳴られた。「この部門は収益に貢献していないし、もういらんのじゃないか」。「見ただけで権力者だと分かる強いオーラを発している」(40代幹部)

 事件後、船津は長らく表に出てこなかった。化血研の本社から東に約3キロ、熊本市内の住宅街に船津の自宅がある。平日の午後3時、その扉が開いた。

 「ぼくが『極悪人』にされている」。船津は、玄関に腰掛け、そう語り始めた。

■「血液の話は過去のこと」

──長い間、不正や隠蔽を認識していたと第三者委員会が繰り返し指摘している。

船津 そんなことは、たくさんありますよ。激動の中で「よい製剤を作ろう」とやっておったわけですね。ですから、そのこと(不正)は、(製造が)安定したら、ぜんぶ当局と申請書の修正をする予定だった。

──96年の常務理事会で、「98年までに不整合を解消する」としたことを指しているのか。

船津 ですから、すべて直っておると思っておるわけです、その後。ところが、意図的に(自分に)報告しないという状況をつくっていた。ぼくもこれ(調査報告書)を読んでびっくりしますよね。97年には、関心がワクチンに行って、(血液製剤は)「あとは頼む」といって、宮本(誠二・前理事長)君と谷川(久・元理事)君に任せたんです。

──血液製剤には関心がなくなった。

船津 ぼくはもう血液の話は(頭から)消えておるわけです。ほかのことに一生懸命になっておるから、過去のことになっている。だから、調査報告書をもらって読んでびっくりした。こんなことがあったのか、と。大橋(高明・元副理事長)さんが(開発の)リーダーでしたが、大橋さんと谷川君はもう死んでいる。だから、私しかおらんので、(第三者委員会に)古い話ばっかり聞かれる。

──ヘパリンを上流工程で添加したことが、不正を多くの製剤に広げた。

船津 「ヘパリンを何で入れたのか」と聞かれても、その時は体調を壊して入院しとった。ノバクトM(血友病治療製剤)の開発で、(工程で)血液が固まる問題は聞いていた。それで大橋さんが、こういうの(ヘパリン)を使って、うまくいったと。私は、「ああよかったね、そういうのが見つかって」と。一時的(な対策)で、3年か5年ぐらいすれば落ち着くだろうな、というつもりでおりましたね。それを(厚労省に)申し出たら、「すべて許可をとりなさい」という指示をされる可能性が頭をちょっとよぎりました。化血研の(売上高の)7割を占めている血液がとまったら、それは困った話になる。言わんでよかったなと。

──しかし、ヘパリンは血液を固まらないようにするので、(血友病患者に使う)凝固製剤に混じると逆の作用を起こす危険はないのか。

船津 (ヘパリンが製品に)あればですね。最終的には製品からほとんどなくなるんです。だけど、「絶対に入ってないか」と言われると、「絶対」ということはないですよ。でも、ごく微量で、ものすごく悪い状況は起こさないということは、想像できたわけ。しかし、役所から「勝手にそういうものをやった」といって今、怒られているわけです。

■県内一の名門

 船津は「技術先行でおごっている、ガバナンス(企業統治)がなってない、と言われたら何の弁解もできない」と反省してみせた。その言葉こそが「技術がルールに優る」という経営を続けてきたことを物語る。

 医薬行政をないがしろにした化血研に、厚労相の塩崎恭久は怒りが収まらない。「110日の業務停止処分にとりあえずするが、本来ならば許可取り消しにすべき案件。(処分明けの5月に)化血研という組織のままで製造販売をすることはない」と断言した。

 熊本県は戦々恐々としている。スーパーのニコニコ堂が2002年に事実上破綻して以降、売上高474億円、従業員1900人の化血研は、「県内一の名門企業」となった。熊本医科大学(現熊本大学医学部)教授の太田原豊一が戦後に創業し、毎年のように九州の国立大学から多くの卒業生が入る。「知の拠点」。熊本県総務部長の木村敬はそう表現し、雇用と施設を残すために霞が関や永田町を奔走している。

 化血研は、血液製剤とワクチンを両輪に戦後70年を渡り歩いた。それは、血液事業の戦後史とも重なる。

 血液事業は、難病とともに大転換を迫られてきた。終戦直後まで、輸血といえば病院内で血液を注射器で採取し、そのまま患者に投与していた。だが、 48年に東大病院分院で輸血による梅毒感染事件が発生、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が血液銀行を設立して保存血液を供給することを指示する。そして、51年に民間の日本ブラッド・バンク(後のミドリ十字)が創業、翌52年に日本赤十字社も日赤中央病院に血液銀行を開設している。化血研は戦後にワクチン事業でスタートしていたが、53年、熊本市に血液銀行を設置して買血に乗り出す。

 当時、供出者は1回の売血で400〜500円を手にした。だが、頻繁に売血して健康を害したり、あっせん業者が横行するなど社会問題となり、64年に「献血の推進」が閣議決定される。65年、駐日米国大使が輸血によって肝炎にかかる「ライシャワー事件」が起きると、献血キャンペーンが沸き上がり、69年には売血制度が事実上廃止された。

  67年、化血研は血液銀行を閉鎖、代替事業として血漿(けっしょう)分画事業をスタートさせている。血液の中で赤血球や血小板といった有形成分は採血から3週間しかもたない。だが、残りの液体成分(血漿)は2年近く使うことができる。この血漿から各種のタンパク質を抽出することを「血漿分画」という。血漿ならば、日赤が集めた献血の転用血(有効期限切れ血液)を受け入れて、血液製剤を作ることができる。69年、船津が化血研に入社して研究部門に配属された時、血液事業の売上比率はわずか6%という赤字弱小部門だった。

■焼け太り

 化血研では75年、「血液製剤プロジェクトチーム」が結成された。翌年、船津が開発を担当した「静注グロブリン製剤」が発売され、生産が急カーブを描いて上昇していく。77年には日赤からの転用血が底をつき、米国からの輸入が始まる。79年には、血液製剤が売上高の53%に、82年には7割に達し、船津が入社してからの13年で100倍の規模に膨れあがった。血液部門に人材が集中的に配置され、社内のプレゼンスは強大になっていく。

 化血研が血友病治療製剤を発売したのは、そんな絶頂期の79年。81年、最初のエイズ患者が米ロサンゼルスで発見され、米国で患者が急増していく。化血研はエイズウイルスの不活化を目指した加熱製剤の開発を進めたが、承認が取れたのは85年のことだった。その後、薬害エイズ事件が社会問題として大きな渦を巻き起こしていく。

 このとき、最大のピンチを迎えたはずの化血研に、2つの神風が吹いた。1つは、日本の血液政策が大転換され、「国産」の血液製剤を増やしていく方針が打ち出されたことだ。海外からの輸入を抑え、国内の献血は積極的に民間企業に流された。血液製剤用の血漿は、90年代に入ると 10万リットルから50万リットル規模まで一気に引き上げられる。

 もう1つの追い風は、思いがけないものだった。「ミドリ十字が薬害エイズで集中砲火を浴びると、そのシェアが化血研に流れてきた」(化血研幹部)。血液製剤事業は90年頃にはピークの半分まで落ち込んでいたが、96年には過去最高の数字を記録している。

 焼け太りとも言える血液製剤事業の復活だが、国内に閉じた血液事業の政策転換は、その副作用も大きかった。

 事実、血友病治療製剤(血液凝固第8因子製剤)は、海外メーカーの遺伝子組み換え製剤に席巻された。人の血液を使わず、遺伝子工学で製造するためウイルス感染を避けられるとあって、国内シェアは外資2社で85%に達する。「国産」へと方針転換するきっかけとなった血友病治療製剤が、事実上、海外メーカーの独壇場になっている。化血研は80年代から開発に取り組んだが、90年代前半には断念、その後、再びこの分野で開発に乗りだした形跡はない。

 「国(厚労省)と日赤が手を組んで血液事業を牛耳っていくから、この業界は新しいことに挑戦する気概がなくなってしまった」。厚労省の血液事業部会長を務めた経験がある日本専門医機構理事長の池田康夫は、そう言ってはばからない。

 「親方日の丸」は、化血研のもう1つの事業、ワクチン事業にも当てはまる。

 血液事業が復活した化血研は、97年に常務理事になった船津のもとでワクチン部門を飛躍させた。96年に20億円強だった部門を、理事長辞任までの12年間で216億円の主力部門に引き上げた。営業利益率26%は、日赤系の日本血液製剤機構(JB)の営業利益率0.9%を大きく引き離す。

 その内実は、国や自治体が定期接種などで予算を流す官製需要だ。「ワクチンはジェネリック(後発医薬品)がない」(日本ワクチン産業協会常務理事の植村展生)ことも、高い利益率につながっている。海外大手の参入は、基本的に国内6社が作っていない製品分野に限られている。さしたる国際競争がないため、利益を上げやすい構造となる。

 象徴がインフルエンザワクチンだ。微妙に「日本向け」に製造株を修正するため、海外メーカーが参入しにくい。94年に約30万本だった国内製造量は、現在は3000万本にも達する。2001年に高齢者への定期接種化が決まったことも、需要を底上げしている。

■国産至上主義の果て

 あふれる利益で、次世代の血液製剤が開発されていれば、社会的意義は見いだせる。だが化血研は官需獲得に少なからぬ人員と資金を費消する。

 化血研が2013年に新設した新型インフルエンザの大流行(パンデミック)に備えた4000万人分のワクチン製造施設。国の助成金240億円を使って建設したが、地上6階建ての製造棟は、ほとんど稼働していない。従業員数十人が勤務するが、人件費やランニングコストは化血研が負担している。ライバル企業は、将来の負担を計算したのか、獲得した240億円を返上したが、化血研はその大半を代わりに引き受けて、追加で1700万人分の施設を2017年までに建設する計画だ。パンデミックが起きた場合、合計5700万人分のワクチンが化血研によって生産されることになる。

 「百年に一度の賭け。当たらなくても、今後もワクチンの需要を回してもらうための人質にはなる」。ライバル会社幹部はそう苦笑する。

 「国産至上主義の果て」。東京大学医科学研究所客員研究員(日本血液学会専門医)の谷本哲也はそう表現する。日本人から「善意の献血」を受け、日本メーカーに配って生産するものが最高の品質だと信じて疑わない。「だが、高齢化と人種の多様化が進む日本で、献血に頼った安全神話はどこまで持ちこたえられるのか」

 そして、遺伝子組み換えやiPS細胞といった新技術が台頭して、「血液を使わない血液製剤」の時代が本格的に到来しようとしている。血液の歴史は、再び大転換期を迎える。後に振り返ったとき、化血研事件は、日本の血液産業の地盤沈下の序章と位置づけられるのではないか。

=敬称略

(編集委員 金田信一郎)