潟gクヤマ

東ソーとの関連 

岩井商店

塩ビ関連歴史(徳山曹達70年史より)

石油化学進出と周南石油化学の設立

サン・アロー化学の設立

サン・アロー化学の全株式取得と周南石油化学の解散

塩ビなどの技術輸出とイースタン・ポリマー社への経営参加


東ソーとの関連

  トクヤマ 東ソー
1896 岩井勝次郎、岩井商店を興す  
1912  滑竏苡、店に  
1918 岩井勝次郎、日本曹達工業鰍創立  
1935 岩瀬徳三郎専務退社(社員33名同行)      岩瀬徳三郎 東洋曹達工業叶ン立
1936 徳山曹達鰍ノ変更  日本曹達鰍ニの混同対策  
1964                         「周南石油化学梶v設立
                     (徳山でEDC/PO、東曹でEDC生産)
1966 鉄興社・ダイセルと サン・アロー化学梶@設立  
1969   鉄興社と四日市鉄興社を設立
1974   鉄興社、四日市鉄興社を合併
1975 東曹が鉄興社合併でサン・アローに出資    鉄興社を吸収合併
1978 サン・アロー100%化(ダイセル、東曹出資分引取)  
1978                        周南石油化学梶@ 解散
     
1987   東ソー鰍ノ改称
1990   新大協和石油化学鰍ニ合併
1994 潟gクヤマに改称  
1995 新第一塩ビ設立・参加  
1996   大洋塩ビ設立・参加
1999 サン・アローを吸収合併
新第一塩ビ改組(71%出資へ)
 
2000   大洋塩ビ改組(70%出資)

岩井商店

  1912年、岩井勝次郎(1863〜1936) 、「滑竏苡、店」を発足。鉄鋼商社として急成長。
   
  「岩井商店」は
  1919 大日本セルロイド(ダイセル)

1919/9 セルロイド8社の合併により大日本セルロイド椛n立
1934/1 写真フィルム事業を分離し、
富士写真フイルム鰍設立
1956/9 大日本プラスチックスを設立、プラスチックス加工に着手
1964/5 ポリプラスチックスを設立
1966/2 社名をダイセル鰍ニ改称

  1911 亜鉛鍍(後の日新製鋼)

1911/5、大阪で亜鉛鍍(株)設立。1916/7、大阪鉄板製造(株)に改称。1953/11、徳山鉄板(株)に合併され、日本鐵板(株)に。
1959/4、日亜製鋼(株)と合併、日新製鋼(株)に

  1918 日本曹達工業(トクヤマ)、関西ペイント

  など、各分野のリーディングカンパニーとして活躍する会社を設立し、グループ企業を形成。

1943 「岩井産業株式会社」と改称。

   

 1968/10 日商鰍ニ合併、「日商岩井梶vとして新たなスタート。


日商

1902年、鈴木岩治郎は神戸に「鈴木商店」を設立。
大番頭、金子直吉の采配のもと、砂糖貿易商として世界的な拠点網を確立するとともに、製糖・製粉・製鋼・タバコ・ビールなどの事業を展開。さらに、保険・海運・造船などの分野にも進出。
その後、金融恐慌期の苦難を経て、1928年、「日商株式会社」を新たに設立。


 

石油化学進出と周南石油化学の設立 

塩素利用の石油化学製品に着目
 塩ビの原料転換を背景として

 昭和30年代に入って電解法ソーダ設備の増設が相ついだ。当初は化繊メーカー向けの品質のよい苛性の需要に応ずるためであったので、副生する塩素の有効利用は大きな課題であった。折から国産化の時期を迎えた石油化学の誘導品に塩素が使用され、そのなかでも塩ビの占める地位は大きかった。
 塩ビは低廉な汎用合成樹脂としてその用途が急拡大し、31年にはその生産量は合成樹脂中第1位となった。
 32年に年産10万dに達した塩ビの生産はその後も増大を続け、36年には30万dを超えたが,これ以上の拡大を図るには炭化水素源としてアセチレンからの原料転換が必要となった。
 アセチレンの原料であるカーバイドは、従来から低廉な水力発電に依存していたが、発電が水力から火力中心へ移行するなかで異常渇水やカーバイドの肥料用向けの需要増などの要因によって価格が高騰し、また量的にも塩ビの需要に応じ切れない状況となった。
 そこで登場したのがエチレンを炭化水素源として塩ビモノマーの原料、EDCを製造する方法である。
 この方法は、EDCを分解して塩ビモノマーを生産すると同時に副生する大量の塩化水素をアセチレンと反応させ塩ビモノマーをつくるので完全な原料転換とはいえなかったが、のちに述べるオキシ法が開発されるまでの過渡的な製法であった。
 36年の塩ビ第3次増設に当たっては、ほとんどの塩ビ企業はEDC法による増設計画を通産省に提出、塩ビ企業以外でもEDCの製造を計画する会社が続出した。当社をはじめとするア法各社もそのなかに含まれている。
 同年11月、通産省は次のような方針に基づいて増設計画の調整を行なった。
 @炭化水素源をEDCなどコストダウンが可能な原料に移行させる。
 A増設はスクラップ・アンド・ビルド方式とする。
 B塩素はア法ソーダの電解法への転換により確保する。
 Cしたがってア法ソーダメーカーのEDC製造計画は、電解法への転換による塩素消化策として支援する。
 通産省のこの調整基準にもかかわらず第3次増設計画は難航したが,最終的に37年10月にEDCメーカーとして当社,東洋曹達工業およびセントラル硝子梶i旧宇部曹達工業)の3計画が、またEDCから塩ビ樹脂までの一貫メーカーとして三菱モンサント化成鰍ィよび呉羽化学工業の2社が認可されることになった。これに対し鐘淵化学工業鰍ネど5社はEDCを購入して塩ビモノマーの原料転換を実現することになった。
 このうち,セントラル硝子は当初の予定を変更して東亜燃料工業鰍ニの合弁でセントラル化学鰍設立、川崎でEDCを企業化し、また当社と東洋曹達工業は共同で周南石油化学を設立することになった。

PO、EDCの技術開発
 当社が新規塩素誘導品の本格的な開発に着手するのは、昭和36年1月に「塩素開発班」が設置されてからである。
 これより前の30年ごろから、研究部で石油分解によるオレフィンの利用の面で、塩素製品の研究が進められたことがあるが、予期したほどの成果はあがらなかった。この大きな原因の一つは、オレフィンなどの炭化水素源が現実に入手できる見込みがなかったからである。
 しかしその後、石油化学製品の国産開始、さらに徳山における出光興産の石油化学計画が35年ごろから具体化し始め、エチレンが入手可能の状態となって、ようやくエチレンと塩素からEDCを製造する計画が本格化し、「塩素開発班」がPOとEDCの企業化プランを進めることになった。
 EDCについては、36年2月にベンチスケールの反応装置によって原料から製品に至る各工程について実験を重ね、必要なデータを集積したうえで37年4月から日産100kgのパイロットプラントを設置、これによって本プラント建設のためのデータを得たうえで、38年12月にEDC月産4,500トンの本プラントの建設に着手し、39年10月に完成した。
 実験からプラント建設まで急テンポで進めることができたのは、当社に技術の蓄積があったことにほかならないが、EDCが塩ビの製法転換によって急激にその需要を増やしたという客観情勢が、本プラントの完成を急がせたことも事実である。
 塩素開発班はこれと並行して,36年4月からベンチスケールによPOの製造実験にも着手した。
 POは、水中でプロピレンと塩素を反応させて得られるプロピレン・クロールヒドリンをアルカリで脱塩酸してつくる。
 POの重合によって得られるポリプロピレン・グリコール(PPG)は,寝具のマットに使われるポリウレタン樹脂の主原料となるが、35年の武田薬品工業の徳山進出決定のときにPPG用にPOを供給するよう申入れを受けていた。このため、POの技術開発を急がねばならなかったが,同班でベンチスケールでの実験、パイロットプラントでの実験運転を経て38年12月、月産750dのPO工場の建設に入り、39年7月に完成した。
 このようにPO、EDCとも同時期にプラント建設に着工,旧珪酸ソーダ工場を撤去した跡地と隣接の空地に建設されたが、工事を始めたころにはすでに東洋曹達工業との間に、周南石油化学での共同化事業の話が進行中であった。

周南石油化学の設立
 当社と東洋曹達工業との間でPO、EDCの共同事業化を模索

 昭和39年は、EDC法塩ビモノマーにとって夜明けの年であった。
 塩ビ工業がEDC法塩ビモノマーに転換したことにより、EDCは塩素需要の伸びの中心となり、ア法苛性ソーダをスムーズに電解法苛性ソーダヘ転換させる主役となった。
 EDCは、輪送の点でも危険性が少なく、物流の面からみると塩素という危険物をEDCという安全な形に変えて輸送できるという大きなメリットがあった。
 前述したように、当社も東洋曹達工業もEDCメーカーとして認可され、当社は38年12月にEDC 4,500d、P0 750dのプラントの建設に着手した。この過程で原料のエチレン、プロピレンを製造、供給する出光興産、EDCのユーザーである鐘淵化学工業、POのユーザーである武田薬品工業との間で詳細な出荷、受入れの詰めを行なった。
 わが国の石油化学工業は、欧米のそれに比べて資本、技術、販売の各面でいまだ体質的に弱く、また石油化学そのもの将来にも一抹の不安を残していたので、一企業単独で原料のナフサから製品までを一貫して生産することは困難であった。
 にもかかわらず、他方では石油化学に参入を計画する企業はあとを絶たない。勢い原料、中間物、製品を各企業が分担するコンビナート方式でリスクの分散を図りつつ、参入企業の調整をも図るという一石二鳥の方法がとられることになった。
 当社の場合、他企業とのコンビナート方式で原料、製品の流れの一端を担うという形は初めての経験であった。
 特にPO、EDCの販売の成否は当社の電解戦略に直接影響するだけに、そのスタートに当たっては販売、品質、コストの面で慎重を期さざるをえなかった。
 その点では、同じくPO,EDCの企業化を計画していた東洋曹達工業も同様の環境下にあったと推測される。
 同一コンビナートという地理的条件、原料、生産技術の共通性などから、両社が個別に生産するよりも、共同して集中生産するほうが合理的であるとの考えが生まれたのは、自然の成行きであった。
 共同化の端緒は、39年1月に開かれた同社との会合において、EDCのタンカー輸送に関し共同配船を行なうことを取り決めたことに始まる。
 また通産省はこの当時、同一コンビナート内での同一製品の重複企業化は好ましくないという方針をとっていたし,金融筋も共同化の方向を支持したことが両社のPO、EDC共同化を促進する力となった。
 共同輪送化の計画は、しだいに共同販売、共同生産の方向にまとまってゆき、39年3月に入ると両社の間で別々に行なわれていた建設工事の進め方について調整を図るための話合いがもたれた。
 
でに当社は、前年の11月には工場建設を始めていたので、この工事の続行または中止する部分を決めることが必要であった。
 このような経過を経て、両社首脳は最終的にPO、EDCの共同事業化が双方にとって新しい道をひらくものであり、かつ事業としても効率的であるとの合意に達した。

共同出資で新会社を設立

 昭和39年5月ごろまでにPO、EDCおよび関連設備の建設分担がほぼ決定し、当社構内では粗EDCの製造とPOの製造および出荷設備、東洋曹達工業構内に粗EDC製造とその精製設備および出荷設備を建設することになった。
 また原料の塩素は折半供給することも確認された。
 塩ビはこのころ需給が逼迫し、EDCの1日も早い生産開始が待たれていた。
 EDC計画の遅れていたセントラル化学が予定を早めて39年7月から操業を開始すると伝えられ、当社EDCの生産開始が遅れるとユーザーを失うおそれがあった。
 そこでEDC生産の共同化の推進を早める一方、原料のエチレンの生産開始も急がれた。
 原料のエチレン、プロピレンを供給する出光興産は、38年4月から出光石油化学の工場建設に入った。一方EDCとともに有力なエチレンの誘導品であるアセトアルデヒドを生産する徳山石油化学鰍フ計画が予定より遅れ、そのプラント操業は同年11月とされたので、出光石油化学のナフサクラッキングの火入式は9月18日と決定した。
 このようなあわただしい経緯のなかで、東洋曹達工業との間に共同事業化に伴う従業員派遣、管理、経理などの実務細目の打合せを行なうなど、新会社設立の準備はとどこおりなく進められた。かくて39年9月5日、両社の合弁による新会社「周南石油化学株式会社」が設立の運びとなった。
 資本金5億円で両社の折半出資、代表取締役に当社の蔭山社長と東洋曹達工業の二宮善基社長が就任し、東京に本杜を、大阪に
営業所を設置、両社からの出向者約80名をもってスタートした。
 生産能力はEDC年産11万d、PO年産9,000dであった。
 EDC工場は10月1日、出荷設備は同月中に完成して製品の出荷が開始された。
 蔭山社長は40年の年頭所感で、石油化学の進出を東洋曹達工業との共同化によりスタートした意義について、「きわめて画期的な事柄であり、両社が力を合わせれば個々ではできない仕事も可能となる」と強調している。
 ともあれ周南石油化学の出発は、両社にとって石油化学時代への新たな参入となり、社内には清新の気がみなぎった。

 

サン・アロー化学の設立

塩ビ需要の急増と製法の転換

 昭和38年から39年にかけて、塩ビの需要は伸び続け、業界では第3次増設に引き続いて第4次増設の検討を開始したが、この調整には第3次以上の困難が予想された。
 すなわち、国際競争力の強化のため塩ビ各社がこぞって大型増設を打ち出し、またカーバイド、樹脂加工、電解ソーダの各企業が新たに塩ビモノマーおよびポリマー部門への参入を意図するなどが重なって、新増設希望は予定された増設枠の3倍を超える有様であった。
 この第4次増設は、一部新規企業化が認められたほか、既存メーカーの増設の一部も認められて決着したが、各社の大型化を目指す希望増設量には程遠いものであった。
 第4次増設の認可があった直後の40年は、一時的な不況で各社は増設を延期したため一時小康状態を保ったが、41年下期からは再び塩ビの需要は急回復し、増設計画は再燃した。
 このような状態のなかで、塩ビ業界は塩素の優先確保と、塩素中心のソーダ工業政策の推進および塩ビ業界への新規参入の抑制を通産省に要望した。
 通産省は41年12月、塩ビ工業の長期対策を明らかにし、そのなかでエチレン原料による塩ビモノマー年産10万dプラントを中核とする業界再編成と、カーバイド原料による製法を早急にオキシ法に転換する構想を示した。
 EDCを熱分解すると塩ビモノマーとともに多量の塩化水素が発生するので、これをカーバイドを原料とするアセチレンと反応させてモノマーを製造するというのが、これまでのEDCによる塩ビモノマーの製法であった。
 この方法では、生産の半分は新しい石油化学原料に置き換えられるが、残りの半分は従来どおりカーバイド原料のアセチレンに頼るという中途半端な方法である。電力を多く使うアセチレンを原料とするので、モノマーの製造コストは高いものにつく。
 この欠点を解決する方法がオキシ法である。
 同法は、副生する塩化水素にエチレンと空気を反応させて再びEDCとするもので、アセチレンを全く用いないで工程を組むことができる。
 同法はイギリスのICI社が特許をもっていたが、わが国では当社をはじめとして東洋曹達工業、東洋高圧工業梶i→三井東圧→三井化学)、三井化学工業(→三井東圧→三井化学)等が40年ごろから工業化のための自社技術の開発を進めていた。
 こうして塩ビ工業をめぐる市場、原料、技術の変化により、,塩ビ業界のみならずソーダ工業等の関連業界は大きな転換期を迎え、それは42年のエチレン年産30万dを基準とするコンビナート構想によってさらに進展することになった。

オキシ法の自社開発を契機に
 当社の塩素開発班の取り組んだテーマの一つに、オキシ法塩ビモノマー製法があるが、周南石油化学の設立が契機となって、オキシ法塩ビモノマーの企業化も共同化の対象として取り上げられた。
 当社塩素開発班がオキシ法の基礎研究に取り組んだのは昭和37年10月からであるが、別途海外ではストウファー社との技術接触にって、技術導入のオプション契約を締結することになった。
 東洋曹達工業もストウファー杜の技術の調査を進めており、当社を含めた3社の技術の比較を行なった。当社の流動床方式に対し、東洋曹達工業は固定床方式であり、またストウファー社の技術導入について東洋曹達工業と合意するに至らず、結局
技術上の点で同社とオキシ法塩ビモノマーの共同事業を行なうことは不可能となり、おのおのが企業化を進めることになった。
 
当社は技術室におけるパイロットプラントによる実験も好成績を収め、独自の企業化の準備を進めたが、問題はどのようた形で塩ビ事業に乗り出すかであった。

社名の「サン・アロー」は3社の結束を象徴

 塩ビの急成長によって新増設が相つく“のを調整するため、塩ビ業界は早くから通産省の行政指導を受け、新規参入が年とともに困難になっていった。この情勢のなかで、当社は早急に何らかの形で塩ビ市場への参入を果たし、石油化学事業の柱をつくるとともに、最大の塩素需要分野を確保することが必要であった。
 早期事業化を進めるためには、既存の塩ビ企業および、樹脂加工企業との提携による方法が現実的である。
 この方針に沿って提携先を検討した結果、前者については願c興者が最も可能性の高い対象企業となった。
 同社は北陸地方に立地して、水力発電による低廉な電力を利用し合金鉄、カーバイドを生産し、カーバイドを原料とするアセチレン法塩ビへ早くから進出した企業である。
 第3次増設でEDC分解による塩ビモノマー工場の建設を計画し、エチレン源を求めて表日本へ進出し他企業との捉携を図ることを検討していた。
 また後者についてはかつての岩井産業の系列会社であったダイセル鰍ェ、プラスチック加工企業を傘下にもっており、同社との提携が最適と判断して交渉に入った。
 この両社との提携を実現するためには半年余の歳月を必要としたが、塩ビ業界をめぐる情勢が急変し、早急に具体化を進めなければ提携の実現は困難との客観情勢も幸いして最終的に円満合意に達し、ここに3社共同出資による「サン・アロー化学株式会社」を41年9月19日をもって設立することとなった。
 資本金は2億5,000万円、出資比率は鐵興社55%、ダイセル20%、当社25%となり、社長には当社の蔭山社長が就任した。
 社名の「サン・アロー化学」の由来については、地元山口の英傑毛利元就公の「3本の矢を束ねれば1本ずつの矢に勝る」との古伝にちなみ3社の強い結束を表わすものとして選ばれた。
 工場は徳山湾3号埋立地の当社東工場内に建設され、本社事務所も同じ場所におかれた。
 生産能力は塩ビモノマー年産6万トン、同ポリマー3万4,500d、オキシ法の技術は当社の開発による流動床方式を採用した。
 結果からみると、アメリカのグッドリッチ社、モンサント社、PPG社など定評のある塩ビメーカーは当社と同じく流動床方式であり、同方式が世界の大勢を占めろことが実証された。
 42年12月にすべての設備が整って完工式を行ない、ここに徳山・新南陽石油化学コンビナートのエチレン消化のゆるぎない柱として、待望の塩ビ事業が操業をスタートすることになった。

 

サン・アロー化学の全株式取得と周南石油化学の解散

 サン・アロー化学は、当社が塩ビ生産に進出するための拠点として、昭和41年に鐵興杜およびダイセルとの3社合弁で設立したものである。
 ところが50年に鐵興社が東洋曹達工業に吸収合併されるという経営環境の大きな変化があったため、その出資比率の変更について話合いをを行なった。その結果、53年に当社はダイセルの出資分を引き取ったのに続き、東洋曹達工業の出資分も引き取り、当社100%出資の関連会社としてサン・アロー化学を再スタートさせることになった。
 また周南石油化学は、当社の石油化学への進出の第1弾として39年に東洋曹達工業と折半出資により設立されたが,サン・アロー化学の出資比率が変わったことを契機に、両社合意のもとに53年、周南石油化学を解散し、両社の構内にある生産設備を各々の責任において引き取ることにした。
 当社はただちに100%出資の「周南ケミカル株式会社」を設立し、ここでPOとEDCの生産を継続した。しかしその後、工場が当社と同一構内にあり、別会社として存続させるよりは当社の組織内に組み込んだほうが効率的であるとの見地から、61年10月に周南ケミカルを吸収合併した。PO、EDCは有機品製造部第3課として製造を継続、現在に至っている。
 以上の変化は、石油化学の勃興期と低成長期に入って経営の見直しを迫られた時期との間に会社の立場に大きな変化が生じたこと表わす象徴的な出来事であった。

 

 

塩ビなどの技術輸出とイースタン・ポリマー社への経営参加

 当社の技術輸出は、昭和44年にアメリカ有数の化学会社PPG社に対してEDCの製造技術を供与したことに始まる。
 続いて、44年に台湾の国営石油会社(CPC)に対して、塩ビモノマー製造技術を供与した。これはCPCが民間企業数社と共同で設立した台湾VCM社の年産4万dプラントの基本設計、運転指導を含めた契約で、初めての本格的な技術輸出であった。
 その後、50年12月に当社は三菱商事鰍ニともにインドネシアの塩ビ製造会社イースタン・ポリマー社(EPC)の親会社である香港ユナイテッド・インダストリーズ社(HKUI)の株式9.5%を取得し、非常勤役員を派遣した。
 またHKUI社の要請に基づき、5年間の技術援助契約を結ぶとともにEPC社に技術者を派遣して、建設以来休眠状態にあった工場の運転を開始し、インドネシアにおける最初の塩ビポリマー生産を軌道に乗せることに成功Lた。
 その後、56年4月に、当社は三菱商事と共同してHKUI社からEPC社の株式の譲渡を受けることになり、EPC社は出資比率が当社20%、三菱商事30%、現地資本50%の合弁会社となった。
 設備能力は、当初塩ビポリマー年産1万6,000dであったが、58年5月に増設して同3万8,000d、さらにその後の手直しにより62年には4万dに達した。
 EPC社の事業は、当初、ルピアの切下げなど経済環境の不安定ななかで苦難のスタートを切ったが、その後順調に事業を拡大し,同国の塩ビ生産に貢献している。

   → 現状