NIkkei Net  BizPlus 2001/10/01--    http://bizplus.nikkei.co.jp/    

リスク戦略の発想法
   (KPMGフィナンシャル社長 木村 剛氏)

第1回「”大手30社問題”とは何か?」   2001/10/01

 不良債権問題に関し、少なからぬメディアで「大手30社問題」が取り上げられるようになってきた。難病の治療には、正しい診断が欠かせない。誤った処方せんは、ただでさえ重くなっている難病を悪化させかねないという思いから、「大手30社問題」の重要性を訴えてきた者としては、これをきっかけに正しい治療が始まってほしいと心から願っている。
 ただ、誤解も同時に流布しているので、私が「大手30社問題」を主張している背景を明らかにしておきたい。

 マスコミなどで報じられている不良債権処理のコンセプトをなぞると、
 (1)不良債権処理は直接償却である
 (2)直接償却はオフバランス化である
 (3)オフバランス化は法的処理である
 (4)法的処理は企業倒産を意味する
 (5)その結果、中小企業がつぶれる
という流れになっている場合が多い。要するに、「不良債権処理を進めると、中小企業倒産が増える」という論理構成になっている。確かに、現在進められている不良債権処理は、「破たん懸念先以下を2〜3年で直接償却する」というものであり、「破たん懸念先以下」の3分の2は中小企業だから、そういう論理展開になってもおかしくはない。

 不良債権処理の常識に反する現在の論調
 しかし、この論理的な帰結こそが、私が問題にしている最大のポイントなのである。不良債権処理は、不良債権問題を解決するために実施される −− この命題を否定する人はいないだろう。不良債権を処理した結果、いわゆる「不良債権問題」は解決されねばならない。

 しかし、どう考えても、「破たん懸念先以下」の中小企業をつぶしても、不良債権問題は解決しない。「正常先」「要注意先」にランクされている問題企業に手がつかないからだ。実際、つい最近破たんしたマイカルは、多くの金融機関で「正常先」「要注意先」として資産査定されていた。

 また、諸外国の事例をみても、中小企業を不良債権問題の核心ととらえて対処する例はない。1億円の貸出先が5000社同時に潰れることにより、銀行が倒れるケースはないからである。銀行危機というものは、ほとんどの場合、
おのおのの銀行が抱える問題企業(関連会社を含む)20〜30社に対する引き当て不足が表面化することによって引き起こされるものだ。

 したがって、不良債権処理の結果、中小企業の倒産ばかりがクローズアップされている現在の論調は、不良債権処理の常識に明らかに反している。これは、診断がゆがんでいるので、処方せんが誤っているとしか思われない。この誤った処方せんを白紙撤回し、正しい診断を基点にしない限り、いわゆる「不良債権問題」は解決しない。私はその誤った処方せんを「大手30社問題」という言葉に象徴させている。

 問題の核心は「大手30社問題」
 このため、「大手30社問題」という言葉は、巷間に流布している誤った論理構成のいくつかを象徴しているのだが、その中には次のような視点が含まれている。

(1) 不良債権問題の核心は、「大手30社問題」である=中小企業を倒産させても問題は解決しない
(2) 「大手30社問題」は、限られた産業と企業に集中した問題である=早晩、退場せざるを得ない大企業の問題である
(3) 不良債権問題は銀行の引当不足の問題である=一義的には企業を倒産させるか否かという問題ではない
(4) 「直接償却をしなければならない」という理屈はない=間接償却(引き当て)が十分であればオフバランス化は進む
(5) 処理すべき対象は「破たん懸念先以下」ではない=問題の核心は処理が進まない「正常先」「要注意先」である

 もっとも、私が「大手30社問題」と申し上げていることが、「中小企業の不良債権は問題ではない」ということを意味しない点には留意してほしい。私の主張は、「不良債権問題の核心は中小企業問題ではない」という点にある。現在の不良債権処理を黙認し続けるならば、問題の核心に触れることなく、その周辺を漂白するだけに終わってしまい、いつまで経っても「不良債権問題」は解決されないだろう。処方せんを書くなら、問題の核心である「大手30社」に焦点を当てるべきである。

 また私は、
「大手30社問題」という言葉で「銀行の引き当て不足」を指摘しており、銀行サイドから「不良債権問題」を解決すべきだと主張している点にも留意して欲しい。よく「不良債権と過剰債務企業はコインの裏表」という言い方で、「過剰債務企業を処理しないと問題は解決しない」という論理が展開されるが、不良債権問題において「過剰債務企業の処理」はあくまでも二次的な問題である。銀行における十分な引き当てがすべての出発点であり、それが諸外国でも不良債権処理の王道になっている。マスコミは「大手30社」をつぶすことが「不良債権問題」の解決になると早合点しがちだが、そういう産業サイドからのアプローチを採る国は少ない。銀行サイドにおける引き当て処理を通じて、産業サイドの外科手術も自然になされていくものである。

 構造改革成功のため真の不良債権処理断行を
 小泉政権はこれからが正念場だ。構造改革を成功させるためには、「大手30社問題」に象徴される誤謬をただした上で、真の不良債権処理を断行しなければならない。「大手30社」に焦点を当てることなく、中小企業つぶしに精を出しているようであれば、日本経済の前途が拓かれることはないだろう。

 

第2回「『大手30社リスト』のナンセンス」 2001/10/04

 最近「大手30社問題」にかこつけて、「問題企業30社のリスト」と言われるものが、私自身が作成したというふれ込みで出回っているらしい。誤解に満ちた記事もいくつか書かれ始めた。本人に意図を確認もせずに、様々な憶測をもとにもっともらしい記事をねつ造するあたり、日本のジャーナリズムというものの素性がうかがい知れる。金融界向けのネタかもしれないが、興味を持っているビジネスマンも多いし、誤解がまん延してもいけないので、真実を明らかにしておきたい。
 まず、私が「大手30社問題」を指摘した背景については、第1回におおむね解説したとおりだが、確認の意味で核心部分をおさらいしておく。それは、「破たん懸念先以下を直接償却する」という現在の金融当局の方針では中小企業がつぶれるというだけで、「正常先」「要注意先」の問題企業に手が付かないということだ。問題の核心を避けて、その周辺を漂白するだけでは問題は治癒されない。おそらくこのままでは、中小企業の悲鳴に怖じ気付いて、不良債権処理そのものを先送りするということになるだろう。だからこそ、今その方向を変えるための議論が必要なのである。「大手30社問題」は、
議論の方向を変えるためのキャッチフレーズといってよい。

 私が主張する「大手30社問題」は、「何らかの特定30社のリストを作り、その30社に対する引き当てさえすれば問題は解決する」ということを意味しているわけではない。「大手30社問題」とは、各々の銀行が抱えるそれぞれの問題企業グループ、20〜30グループに対する引き当てが不足しているという点が、不良債権問題の核心であるということを意味している。したがって、

(1) 「30社」は、各銀行によって、銘柄が相当異なっている。特に問題となり得る関連ノンバンクや「飛ばし」用の特殊会社については、各銀行によって銘柄が異なっている。このため、各銀行の「30社」を持ち寄り重複を整理して足しあげれば、主要行だけでも数十社以上になると予想される。また、
(2) 銀行によっては、「30社」ではなく「10社」かもしれないし、「50社」かもしれない。いずれにしても、自己資本に対して相当のインパクトを持つ、引き当て不足といえる問題企業グループの数の象徴として「30社」と指摘しているだけである。銀行によって、その対象となる企業数は大きく異なり得る。ただし、経験則的には、「30社(グループ)」程度を網羅すれば、通常、問題の大部分は捕そくされることは知られている。

 私がいうところの「大手30社問題」は、上記に示したとおり、各銀行によって数と銘柄が変わる性質のものである。したがって、理論上、「大手30社リスト」は銀行の数だけあるということになることに留意していただきたい。

 現在、「木村リスト」としてもっともらしく流れている表は、3ヶ月以上も前の6月12日に、自民党経済産業部会において、「緊急経済対策と不良債権問題」と題して、マーケットの見方を紹介した資料の一部である。そこで用いられている一覧表は、マーケットが問題視している企業の中で、債務者区分(評価)が異なるケースがあることを示すために作成したものだ。このため、マーケットの意見として、当時入手可能であった、(1)メリルリンチレポート、(2)週刊ダイヤモンド、(3)週刊文春――を選んだ。6月当時、週刊文春(5月24日号)の記事が銀行ごとの資産査定の違いを指摘して、話題を呼んでいたことを覚えている読者も多いだろう。

 その表は、それらの中で重複しているものと「正常先」を含むものを選択し整理するよう、スタッフに指示して作成させたものだ。他の資料との重複があるものと、「正常先」と「要注意先」の差異があるもののうち重複感のないものということで選択した結果にすぎない。極めて単純な作業であり、その3つの資料を付き合わせれば、だれでも作成できるものである。この表は「大手30社リスト」を作るための資料ではなく、銀行ごとに債務者区分が異なり得るということを示した資料であり、その対象企業自身にさしたる意味はない。「異なっている」という事実が重要なのであり、そのため名前を伏して、アルファベットで表記してある。

 たまたま「30社」に近い数になっているが、今をときめく「大手30社リスト」ではないし、「順次破たんしていくリスト」などでもない。もし、そうであるとすれば、その事実について、メリルリンチ、週刊ダイヤモンド、週刊文春の方々にお聞きするしかない。

 ちなみに、いいかげんな一部のマスコミでは、「9月18日、小泉首相と樋口広太郎氏の内閣特別顧問の勉強会で披露された」などというねつ造記事も見受けられるが、小泉首相へのプレゼン資料は、3ヶ月以上も前の6月12日に用いた「緊急経済対策と不良債権問題」の資料とは違う。中身の詳細は現時点でディスクローズできないが、プレゼンの目的が違えば、資料が違うのは当たり前。したがって、もっともらしくマーケットで流れている「大手30社リスト」は小泉首相の前で披露されていないし、手渡されてもいない。

 私自身は、「大手30社リスト」を作っていないし、将来にわたって作るつもりもなかった。それは、各銀行と金融庁が果たすべき役割であると思ってきた。彼らが適切に不良債権問題に対処していれば、私が「大手30社問題」などと言い出す必要もなかったのだ。関係者による今後の果断かつ真摯な対応に期待したい。

 

第3回「『大手30社』は過小資本銀行のリトマス試験紙」  2001/10/23

 第1回、第2回で述べてきたように、私は、「破たん懸念先以下を2〜3年で直接償却する」という、これまでの金融庁の処方せんが誤っていることを象徴するため、そして、新しい処方せんの代名詞として、「大手30社問題」というキャッチフレーズを用いている。
 その意味で、「大手30社問題」という言葉は、実は、要注意先に対する引き当てだけを指しているわけではない。今回は、その点について敷延しておきたいと思う。

 「大手30社問題」はトータルな金融危機処理プロセスの端緒
 「大手30社問題」という私の問題提起に対して、「引き当てだけすれば、日本経済は良くなる」という批判があるが、それはご指摘どおりである。引き当てだけで、その後の政策手順がないのであれば、「大手30社」は、政策パッケージになり得ないだろう。

 実は、「大手30社」というのは、トータルな金融危機処理プロセスの端緒に過ぎない。「大手30社」とは、過小資本銀行をあぶり出す第一段階のリトマス試験紙に過ぎないのである。

 私が「大手30社問題」と言うとき、次のようなプロセスが想定されている。

(1)大口貸出先に対しては、個別管理をさせ、不良債権の程度に応じて、個別引当金を十分に積むことを強制する(特に「大手30社」)。

(2)その結果として、過小資本に陥った銀行に対しては、監督官を常駐させ、公的な監視下に置く。

(3)過小資本銀行には、日銀が貸し出しを行う。当初はロンバート貸し出しで賄い、必要な場合は政府保証を付した上で特融を実行する。自己資本比率がマイナスになろうとも特融は続行し、システミックリスクを防ぐ。

(4)過小資本銀行の頭取には退任していただく。退職金は支払わないが、在職時の刑事・民事の責任については将来にわたって免責する。

(5)後継者は、現頭取を除く取締役会が現取締役から選任する。新頭取は、すべての不良債権をディスクローズし、必要と思われる個別引当金を積む。この過程で生じる損失については、新頭取の責任を問わない。この部分の損失については、「旧勘定」として区分経理する。

(6)ただし、それ以降に発覚した不良債権や損失については、すべて新頭取が責任を負う。その範囲については、「新勘定」として区分経理する。新頭取は、「新勘定」に関する経営健全化計画を金融庁に提出。常駐している監督官は、達成状況を毎月チェックし、達成できない場合は退任させる。

(7)新頭取による経営が軌道にのり、「新勘定」の収益力が確実になった時点で、「旧勘定」における損失の国民負担分を決定する。

(8)国民負担分については、公的資金を投入する。

(9)経営陣は、負担として残された「旧勘定」の分を含めた上で、経営健全化計画を金融庁に改めて提出する。

(10)改めて提出された経営健全化計画が達成され、完全に健全化した時点で、常駐監督官による監視と日銀による流動性サポートを解除する。


 邦銀の再生、これに勝る解決法なし
 これが、私が提唱している「大手30社問題」を端緒とした基本プロセスである。残念ながら、過小資本となる銀行の頭取の方には退陣していただくことになる。しかし、その後に残された99%の銀行員は過去の不良債権の呪縛から逃れて、銀行業に対して再び前向きに取り組めるようになるはずだ。そして、公的資金によって、不良債権の重荷から解放されれば、少なからぬ銀行は、収益力の高い銀行として、よみがえることができるに違いない。

 これまでの延長線上で、ストックとして蓄積してしまった不良債権のロスを、フローの収益だけで返済していくことには、どう考えても無理がある。そして、ほとんどの銀行員を不幸な結末に追い込んでしまうかもしれない。このままでは、欧米の先進行と戦っていける邦銀は消え失せてしまうかもしれない。

 私は非常に残念だ。邦銀マンは優秀だと思う。邦銀には、もっと力があると思う。欧米の先進行と張り合っていけると思う。頭取がすべてを背負って退任することで、残された行員がフレッシュスタートできるのであれば、それに勝る解決法はないのではないか。本当に銀行と行員の将来を思う頭取であれば、私の案に賛同してくれるはずだ。私はそう信じている。



第4回「『泥縄』の不作為から脱却せよ」  2001/11/26

 2001年9月11日、ボストンからハイジャックされた旅客機2機が、ニューヨーク・マンハッタンの名所ワールドトレードセンタービルに突っ込んだときから、はや2ヵ月が経過した。110階建てのビルが瞬時に瓦解し、金融街で著名なウォール街の取引が停止したことが、昨日のことのように思い出される。あの時、ブッシュ米大統領は、「米国と同盟国は、テロに対する戦争に勝ち抜く」と宣言し、首謀者と目されるウサマ・ビンラディン氏についてはその生死にかかわらず、法の裁きを受けさせるという強い決意を示した。そして、アフガニスタンは、空爆の嵐の中で支配者を再び替えようとしているようにみえる。

 戦略のない国・日本
 テレビをつけると、識者の方々による侃侃諤諤の議論が今も展開している。総じてみると、米ブッシュ政権の強硬戦略は、当初から評判があまりよろしくない。「ウサマ・ビンラディン氏がテロを指揮したという証拠はどこにある」、「ビンラディン氏個人が報復の相手では、攻撃目標がなかなか定まるまい」、「アフガンは山岳地帯で侵攻は困難。米国の作戦は長期化するのではないか」「十字軍というレトリックを持ち出すようではイスラム諸国の協力を取り付けるのは難しい」などなど。10月7日の空爆開始以降は、批判のボルテージが上がり、「報復のための報復は解決にならない」「このままでは泥沼化し、出口の見えない長い戦争になる」「難民に一層の苦難を強いるだけで、民衆の反米感情が高まる結果に終わる」「結局、新たなテロリスト予備軍を生み出すだけだ」などともっともらしい言説が電波を彩る。

 私は軍事専門家ではないので、米国の対テロ戦略に対する個々の批判の正当性や信ぴょう性を吟味する能力はないし、米国の現在の対テロ戦略を擁護するつもりもない。米軍による空爆の是非についても、外交上、軍事上の諸観点から精密に論証する該博な知識も持ち合わせていない。しかし、日本国内からわき起こるそうした批判を聞けば聞くほど、心の中にむなしさが広がる。というのは、わが日本に、米国を批判するだけの立派な対テロ戦略や外交戦略があるように思えないからだ。

 同時多発テロがぼっ発してから、ようやく重い腰を上げて、「自衛隊を国内施設の防護に使うにはどうすればいい」「官邸や国会はそれで大丈夫か」「後方支援はどこまでできるのか」「弾薬の運搬は良いが、装てんは駄目だ」などという隔靴掻痒の議論をしている国に、ご立派な対テロ戦略があるとは思われない。「戦略のない国=日本」が「戦略のある国=米国」を批判できるのだろうか、と思う。 

 もし、あのテロが日本で起きていたら−−と思うと、一国民としてゾッとする。その惨事自体が悲惨であることは言うまでもないが、それよりも、危機に直面して右往左往し混迷を深めるだけで、国民生活に惨状が広がる様を拱手傍観(きょうしゅぼうかん)している日本政府の無様な姿が容易に想像できるからだ。

 危機を直視しなければ適切な措置はとれない
 危機が到来してからでなければ、危機対策を議論できない−−日本が抱えるこの致命的な欠陥は何とかならないのか。この欠陥を克服できなければ、他国を批判する資格はないのではないか。

 自衛隊法改正案だろうが、後方支援法案だろうが、何だろうが構わない。国家として国民を守る意思があるのであれば、危機が発生する前に、あらゆる危機に対する備えをしておくべきだろう。それは国家として国民に対して履行すべき最低限の責務である。毎回毎回、危機が発生するたびに、一から議論を始める日本政府の体たらくをみていると、「日本には、国家としての意思はないのだろうか」という感じすら受けてしまう。「米国がこう言ってくるだろうから、日本もこうしなくては・・・」などという受け身の発想をする前に、日本国家として、「国家防衛はこうあるべきだ」「国家の秩序はこう維持する」という基本的なポリシーの下に、あらゆるケースを想定して、危機に備えておくことは、国民の平和と安全を守る国家の役割である。

 そういう観点からみると、いまの日本は、国家の体を成していない。国民の平和と安全を守るという国家の役割を果たしていない。日本人であれば、米国の対テロ戦略を批判する前に、わが国における危機に対する備えがないことをこそ、厳しく糾弾すべきなのだ。

 危機が起こるまでは、「問題ない」と言い張って、問題が発生してから泥縄的に危機対策を議論し始める。「泥棒(=危機)」が来るまで、「縄(=危機対策)」の議論をしない。こんなことは、もうおしまいにしなければならない。本物の重大危機が到来する前に、危機の実態や可能性を精査しなければならないのに、危機を直視しようとしないのだ。危機を直視することができなければ、その危機に対して適切な措置をとれるはずがない。 

 同根の狂牛病騒動
 昨今の狂牛病騒動も根は同じである。

 1990年代以降、欧州を中心に猛威を振るっていた狂牛病は、英国を中心に100例以上の発症が報告されるなど大きな被害を出してきた。牛や羊の骨や肉を材料にした動物性飼料が危険であることも広く知られていた。しかし、農水省の対処は、「危機を直視しない」という伝統的なやり方を踏襲した。今年、EU(欧州連合)が、日本における狂牛病発生の可能性について報告書をまとめようしたのに、「必要以上に危険性を強調している」と猛抗議したため、報告書の作成が見送られたということまであった。

 大した調査もせずに、農水省は、「国内の牛は安全」と言い放ってきた。万が一の場合に備えた危機対策も怠ってきた。狂牛病の疑いが出てきても、全国調査の必要性を否定して見せた。そして、狂牛病に感染した牛がいることが発覚してからも、「危機を直視しない」というスタンスを採り続ける。これはもう狂気の沙汰である。日本国は、狂「農水省」病にかかっていると診断せざるを得ない。彼らの脳味噌は、すでに病原性プリオンに侵されてスポンジ状になってしまっているのではないか。(編注・さらに全頭検査での厚生労働省の確認検査により、北海道で国内2頭目の感染が11月21日に確認された。)

 狂牛病を患った問題の乳牛は、農水省によって「すぐに焼却処分された」と発表されたのだが、じつは飼料製造工場に運ばれ、他の牛とともに肉骨粉として家畜飼料の原料に加工されていたのだという。しかも、お役人間の連絡不備で、もうあと一歩のところで、牛の餌として出荷されるところであった。危機にあるのに、危機を認識していないから、信じられないミスが頻発する。世間からの批判が強くなると、「畜産の所管は農水省だが、食肉の所管は厚生労働省なので・・・」という、国民を愚弄したお役人の論理を平気で展開してみせる。もうこれは亡国の輩である。国民は本当に怒っている。

 不作為で国民を危機に陥れる官僚機構は不要
 不作為を続けて、国民を危機に陥れる官僚機構など不要である。9月28日、薬害エイズ事件で業務上過失致死罪に問われていた松村明仁・元厚生省生物製剤課長に対する有罪判決が出た。この裁判の妥当性については様々な評価はあるのだろうが、「不作為は罰せられない」という官僚機構の慣行に対する有罪判決として、その意義は高い。さらに続けて、11月14日、東京地裁は、薬害ヤコブ病に対する厚生省の責任を認めた。「症例報告について組織内の情報伝達がされなかったことは、まことに残念なものといわざるを得ない」と言い切り、「被告の国においては、法的責任の存否の争いを超えて、被害者の救済に加え、原告らを含む国民全体から期待される役割の大きさに対応し、本件のような被害の再発防止に向けて、より積極的な職責の遂行とそれに必要な組織体制の整備等を行うことが妥当と考える」と判示した内容には、一国民として深い共感を覚える。

 官僚が「公僕」なのであれば、国民のために働いてほしい。そうでなければ、官僚という前に、人として失格だろう。国民から税金をいただいて、それで生計を立てているのに、その国民を足げにするなんていう輩が「人」という名に値する生き物であるはずがない。不作為の事例がこれ以上増えないようにしてもらいたいものである。


第5回「『特別検査』がもたらすクライマックス」  2001/12/18


マイカル破たんで作動した”危機メカニズム”
 いま日本は危機に満ち溢れている。


 9月14日、連結売上高1兆7000億円、業界4位のスーパー、マイカルが自主再建を断念し、東京地裁に民事再生法の適用を申請したとき、日本経済の深部に内蔵された危機メカニズムは、本格的に作動し始めた。というのも、日本の銀行は持ち合い構造を持っている。株式の持ち合いではない。
不良債権の持ち合いだ。問題企業に対する貸し出しを維持し続けなければならないメーンバンクは、サブメーンの銀行やその他の銀行にプレッシャーを掛け続けてきた。

 「絶対に逃げるなよ。この企業から逃げたら、お前の銀行がメーンバンクをしている問題企業からウチは手を引くからな」

 裏切れば、裏切り返す−−こうした脅迫の均衡が問題企業への融資を存続させてきた。そして、不良債権の表面化を防いできたのである。メーンバンクの支援を信じて、不良債権を持ち合ってきたのだ。

 加速する「メーン寄せ」、近づくリスクの限界
 しかし、潮流は明らかに変わった。

 外国資本に助けを求めた新生銀行という異邦人に、恐怖の均衡は通じない。日本的なムラの論理はなおさら通じない。彼らは自らのルールに基づいた正当な判断の結果、問題企業への貸し出しを引き揚げていく。その動きに呼応して、十分な引き当てを積んだ優良地方銀行も手を引き始めた。お付き合いで貸し出していた信用金庫も次々と資金を引き揚げる。「この企業はウチがつぶさない」と言い切って、継続的な支援を求めるメーンバンクに対し、「だったら、おタクで面倒をみればいいんじゃないですか」と切り返す。かくして、問題企業の貸出債権は、メーンバンクへとしわ寄せされるようになってきた。業界で
「メーン寄せ」と呼ばれる現象だ。

 こうなると、メーンバンクも気が気でない。「メーン寄せ」が進展する結果、万が一の場合に被る損失が日に日に増えていく。背負えるリスクの限界に近づいていく。不況の長期化で、問題企業が痛むスピードも速い。そこで、メーンバンクが突然裏切るケースが増えてきた。メーンバンクが支えるのかと思ったら、「ウチは担保で十分保全されているので、もう追加融資は行えない」などと言い出す。これは、何でもありの戦国時代だ。 

 ”突然死”の増加は不可避
 その意味でマイカルの破たんは象徴的だった。本格的な戦国時代に突入する狼煙と言っていいだろう。「だまされた」と恨みを持つ金融機関は、「メーン寄せ」を加速する。「メーン寄せ」が加速されると、リスクの限界に近づくスピードも加速される。そうなると、本当の突然死が増えてくる。

 各銀行が疑心暗鬼に陥り、「メーン寄せ」が進む中で、「突然死」が増加していく。その疑心暗鬼はさらなる疑心暗鬼を生み、裏切りの連鎖反応が起こりかねない。脅迫の均衡が崩れると、逃避競争が始まる。誰が先に逃げるか、早い者勝ちだ。十年以上の長期間にわたって直視することなく放置されてきた不良債権危機は、その危機が膨張してはじけるという最悪の形で、これからクライマックスを迎える。

 「特別検査」採用、”賽は投げられた”
 本来、このように脆弱な環境の中で、不良債権処理を進める場合には、銀行サイドから攻めるのが常道である。資金の出し手を抑えることによって、「突然死」を出来る限りコントロールすべきだからだ。したがって、私がこの連載コラムなどで繰り返し主張してきたように、「要注意先」に「大口貸出先区分」を設けて個別引当金を積み、不足であれば公的監視下に置くというアプローチを採用すべきなのである。「大口貸出先区分」であれば、特定の企業名を出すことなく、粛々とコントロールしながら、不良債権処理を進められたからだ。

 しかし森昭治金融庁長官は、私が主張した「大口貸出先区分」を採用せず、企業サイドから攻め込む「特別検査」というアプローチを選択した。あえて、刺激の強い劇薬を選んだわけだ。このような脆弱な環境の中で、企業サイドから不良債権処理を進めるならば、「突然死」を加速させかねない。一つ間違うと、コントロール不能になるリスクもある。「特別検査」の採用は、森長官による大胆な決断だったと言ってよい。

 今ごろになって、「『特別検査』より『大口貸出先区分』の方がよかったのでは……」と、森長官が悔やんでいるという噂も聞こえてくるが、もはや賽は投げられた。後戻りはできまい。「特別検査」の進展とともに、金融庁が状況をコントロールできるかどうかが問われてくる。真のクライマックスはこれからだ。


第6回「”アルゼンチン化”の危険はらむ日本経済」  2002/01/22


 南米においてブラジルに次ぐ経済大国のアルゼンチンが悲惨なことになっている。国内の混乱は目を覆うばかり。昨年12月5日に、国際通貨基金(IMF)が財政危機にひんした同国への追加融資を当面見送る方針を固めたことで、くすぶり続けてきた先行き懸念に火がついた。

 何と言っても、懸念は財政危機。アルゼンチンの公的債務は1320億ドルと、国内総生産の約半分に達している。

 ハイパーインフレに苦しめられたアルゼンチンは、1991年に自国の通貨を1ドル=1ペソに固定する「ペッグ制」を採用し、通貨供給量を外貨準備高の範囲内に抑える政策を使用した。この結果、一時は年5000%に達したインフレの抑制に成功している。

 しかし、その後はペソが高止まりして輸出企業が衰退。そんな中、1999年からは通貨を切り下げたブラジルからの製品輸入が増大し、貿易赤字が拡大した。この赤字を、海外からの資金借入に頼ってファイナンスしてきた格好だ。

 このところ3年にわたって景気不振が続く中、失業率は18%に跳ね上がった。路上生活者が増え、観光客を狙った窃盗事件が頻発している。景気不振に加えて、徴税機構に問題があることもあって税収不足が恒常化し、財政赤字が急増している。公務員の給与や年金給付のカットも珍しくなくなった。

 守られなかった「スーパー・ミニスター」の約束
 「みなさんの銀行預金を凍結することはありません。安心して預けてください」

 昨年11月末、「スーパー・ミニスター(大臣)」と称されたカバロ経済財政相は、テレビに出演し、アルゼンチン国民に冷静な対応を求めた。資産凍結を恐れた国民が一斉に預金引き出しに走ったためだ。「ペッグ制」を敷いているために、ペソをおろして1対1で交換できるドルに替える動きが強まり、外貨準備は前年比半減というスピードでなくなっていく。

 しかし結局、カバロ経済財政相の約束は守られなかった。12月1日、アルゼンチン政府は、国債の償還が終わるまでの約90日間、銀行預金の引き出しに「1週間で250ペソ」という上限を設けた。1カ月で約十数万円だ。海外送金額も月1000ドルまでに制限される。ドルへの交換ニーズがあまりに強いと、外貨準備が枯渇し、ペソ相場をドルに固定した「ペッグ制」が崩壊してしまうからだ。

 アルゼンチン国民は怒った。なべやかまを叩いてデモ行進をし、過激な人々は国会に乱入して狼藉を働いた。都市の商店は打ち壊され、あらゆる商品を略奪された。政権は求心力を失い、危機に対応できなくなって自壊。信頼を失った「ペッグ制」は結局、新しい政権の下で見直しを余儀なくされている。現政権は、ペソの減価で対応しようとしているが、マーケットの評価は厳しい。いったん信用を失うと、回復するのは容易なことではない。 

 アルゼンチンより悪い日本の財政事情
 さて、アルゼンチンのことを長々と触れたのは、最近、日本のことをアルゼンチンとの比較で語る市場関係者が増えているからだ。「失礼な!」と思われるかもしれないが、それがマーケットの現実である。

 日本の抱える公的債務666兆円の前には、アルゼンチンの公的債務約17兆円など豆粒に過ぎない大きさである。アルゼンチンではその公的債務が「国内総生産の半分になっている」と言って大騒ぎしているのだが、日本などは国内総生産の130%を超えている。客観的に見れば、日本の財政事情はアルゼンチンよりも悪い。

 たまたま、日本は国内資金がたっぷりとあり、今のところそれが国債購入に向かっているから何とかしのげているだけであって、いったん事が生じれば、アルゼンチンよりも悪い財政赤字がその本性を現す可能性は否定できない。つまり、日本がいまのアルゼンチンのような経済環境下に陥る危険性は厳としてある。

 経済運営を担う者であれば、そのリスクを腹に据えた上で、慎重な政策適用を心掛けねばならないことは言うまでもない。政府が信用を失ったとき、その代価は高いものにつく。


第7回「"3月危機の原因は空売り"の非常識」  2002/02/25

 「総合デフレ対策」の目玉の一つは、株の空売り規制らしい。政府からの執拗な要請に応じて、東京証券取引所は空売りに対して厳しい措置を講じるべく動き出した。社内管理体制について報告を求めたり、重点調査を実施するという。

 「外資の空売りが諸悪の根源」と主張する当局者
 危機感漂う当局者たちに真意を聞くと、「風説を流布する外資の空売りが諸悪の根源だ」と言う。「外資が空売りさえしなければ、株価が下がることはなく、日本が3月危機になることもない」とも主張する。この説は永田町にも伝染していて、今や大変な勢力を誇っているようだ。

 当局者がそこまで言い張るのだから、きっと外資の中には根も葉もない噂を流して、空売りを仕掛ける不届きな輩も一部にいるのかもしれない。しかし、そうだとしても、「3月危機」の原因をすべて「外資の空売り」に帰してしまう神経は、あまりに非常識なのではないか。

 まず、こうした思想の背景にある「株価の下落を防ぐために空売りを規制することが有効」という考え方に問題がある。もし、株価が適正水準以下にまで不当に売り込まれているとするならば、それこそ絶好の買い場ではないか。

 「空売りが諸悪の根源だ」と確信できるほどに自信があるのなら、国家公務員の共済年金基金で買い向かうことをお勧めする。郵貯や簡保で介入するのはどうかと思うが、公務員自らのおカネで買い向かうのなら、世間も許すだろう。

 自民党や公明党や保守党も、党の資金を全面的に株に振り向けるがよい。アナウンスメント効果もばっちりだ。官僚や政治家が身銭を切ったとなれば、マーケットは、株価対策は本物だと思う。株価を上げる目的ならば、空売り規制よりも機動的で効果的であることだけは保証する。

 マーケット無視の暴政、繰り返される過ち
 今回の施策で怖いのは、空売り規制によってマーケットの流動性が失われることの方である。マーケットの命は流動性である。売れない高値よりも、売れる安値の方をマーケットは高く評価する。実現しない取引など、マーケット参加者にメリットはない。

 噂によれば、信用取引にまで同様の規制を設けようという動きがあるという。成り行きで売れなかったり、安い指値で発注できないようなことになれば、ただでさえ魅力の少ない日本株は人気を失うだろう。

 しかし、その程度は序の口。当局は貸し株を規制することすら考えているらしい。「空売りを助長する貸し株などケシカラン」というわけだ。これはすごい。ついに金融庁は大蔵省行政を超えてしまった。まさにマーケットを無視した暴政である。こんなマーケットでディール(取引)をしようという投資家は皆無になるだろう。

 もっと本質を見据えるべきではないか。売られるには、それなりの理由がある。買えないのにも、それなりの訳がある。問題の本質――不良債権問題――から目をそらし続けてきたために、日本は10年以上の歳月を失ってしまったのではなかったか。わが国は、スケープゴートごっこを繰り返しながら、同じ過ちを犯そうとしている。これは、大いなる悲劇であり、喜劇である。


第8回「不良債権処理問題、『お上』の危うい発想法」  2002/03/25

 非常に面白い資料を知り合いの記者から入手したので、皆様に内容をご紹介しておきたい。これを熟読すれば、不良債権問題に対する「お上」の考え方が、よく理解できると思う。

 金融庁、財務省の自讃に満ちたペーパー
 いま私の手許にあるのは、何の変哲もない5枚程度のペーパーなのだが、これは、例の「総合デフレ対策」を策定する際に、金融庁と財務省が永田町の主要な先生方に根回しするときに用いた説明資料なのだという。

 冒頭に「ポイント」とのみ、さりげなく書かれたこのペーパーは、まず、「銀行破綻」を2類型に峻別し、@資本不足A資金繰りに類型化する。当局によれば、資本不足の銀行など日本には存在しないとのことなので、銀行破綻の可能性はA資金繰りに限られることになる。

 実際、ペーパーには、「12月末の3地銀に対する措置――これで第2地銀以上は今年4月のペイオフ実施以降資本不足に陥るところはない」と明記してあり、「特別検査への対応分についても11月末の中間決算発表時の3月末処理見込みで既に対応済み」とある。なあんだ、皆が手に汗握って待ち焦がれている、特別検査の結果は、先刻打ち合わせ済みのようなのである。

 また、A資金繰りによる銀行破綻については、「通常は発生しない」とした上で、「12月末に対応済みの3地銀に関する不安に基づいたα銀行の説明が不安を助長した可能性大」とか、「11月のβ銀行に対する外資の攻撃」と記すなど、要するに、問題ないのに下手な説明や外資の流言飛語が不要な不安を惹起したというスタンスが貫かれている。いずれにしても、「現状第2地銀以上については問題なし」と言い切っているから、相当の自信家のようにお見受けした。

 しかも、第2ページの「何が必要か」というパラグラフでは、「1997年、98年当時と比べてセイフティーネットの整備は完全」「15兆円のようなセイフティーネットを持っている国は世界中日本だけ」「冷静に考えれば日本の金融機関は投資対象として世界でもっとも安全」などという素晴らしい自画自賛の叙述が並ぶ。ぜひ、金融庁と財務省の職員が加入する共済組合年金に、銀行株をしこたま買ってほしいものだ。

 その下に書かれている、基本方針がまた素敵だ。「4月1日以降、資本不足のために破綻することが懸念される銀行は存在しない、ということを金融庁が公表する」「金融庁による公表が難しい場合は政治家の認識としてこの旨を明らかにしていく」「万一のことがあれば資本注入を行って破綻させないことを明らかにする」など勇ましい決意のオンパレード。

 その一方、公的資金については、「15兆円はいつでも注入の用意があることは絶えず明確にしつつ、できれば注入しない」というスタンスを推薦しており、「切り札をいつ使うかを勝負で明らかにするのは愚の骨頂」と、マーケットに渦巻いている早期注入論に釘を差す。

 また、不良債権処理については、「いわゆる有名銘柄に関する不良債権処理は終結したことを明確にする」「有名銘柄に関する最終的な整理計画をできる限り早く発表する」などとされているから、最近、日本経済新聞の一面に、再建計画の記事が多いことも妙に頷ける。それが、「終結」なのか「最終的な整理計画」であるかについては、疑問の残るところであるのだが・・・。

 空売りを当面禁止!?
 もっとも、このペーパーの山場は、第3ページの「市場対策」にある。この項目には何ともいえない絶品の味わいがある。特に基本認識が素晴らしい。「市場は勝負の世界であり、弱気になるとつけこまれる」という覚悟が出発点だと言うのだから。

 そこで、満を持して、主役の外資が登場してくる。「手仕舞いモードに入った外資は、日本株の推奨による中長期的な利益の確保を考えるよりも、空売りによる短期的な利益の確保に興味」と現状を説明した後、「徹底的な空売り対策が必要」と説く。どれくらい「徹底的」かと言えば、「政治的メッセージとしては、当分の間空売りを禁止することを検討するくらいのものが必要」と説明しているのだから卒倒して恐れ入るしかない。

 しかもご丁寧に、「東京市場から撤退を考えている外資が大多数であり、食い逃げに走る可能性が大だ。場合によっては、証券会社でなく儲けた社員本人を標的にした処分を考える必要」とレクチャー。個人に狙いを定めるなど、なかなかしたたかなところもみせている。

 遠からず売り再燃も
 とはいえ、このペーパーが出色な出来に仕上がっているのは、最後の「不良債権が問題となった理由」というパラグラフが華を添えているからということを指摘したい。あまりにも素晴らしいので、そのままご紹介する。

1, 2000年の秋には第3分類以下の不良債権の処理はほぼ終了。外資にとってそれまでのようなおいしいビジネスの材料はなくなってしまった。
2, 一方、外資の東京支店は年棒1億円に上る金融の専門家を各行あたり100人から150人採用してしまっており、新しい不良債権の材料がないと、人員を抱えきれなくなっていた。
3, そこで彼らが目をつけたのが「要注意債権」とゼネコンなどの「ゾンビ(幽霊)企業」である。
4, 彼らは、韓国とタイの不良債権処理で莫大な利益をあげており、この例を基にして、2000年の秋に「金融再生委員会」を設けて不良債権をセイフが強制的に買い上げ、外資に処理をさせるという案を各方面に根回しした。
5, 2001年春の長崎屋の処理で彼らは、巨大企業の不良債権処理は彼らの手に余ることに気づき、大きく路線変換。その後は、「投資ファンド」に銀行が主として中小企業の不良債権を売却するスキームを作り、そこに彼らがマネージメントとして関与して利益をあげる方策に関心。
6, このような彼らの関心に沿って、昨年秋の「工程表」で政策投資銀行の関与した「投資ファンド」の設立案が公表され、彼らも積極的に参加。

 どうだろう、「お上」の発想がご理解いただけただろうか。あまりの素晴らしいお考え方に感銘を受け、夢見心地の方々も多いに違いない。

 しかし、これは現実なのである。このような惨状の中、私が申し上げることが出来ることは、このような発想を続けている限り、不良債権問題は解決しないだろうということである。だから、いずれまた、遠くない将来に売られる日がやってくるに違いあるまい。本当に愚かしいことだ。


第9回「柳沢大臣は約束を守ったか」   2002/04/22

 ペイオフ凍結が解禁になって、はや3週間が過ぎ去ろうとしている。特別検査の結果、大手銀行の自己資本比率は軒並み8%を超えることが決定し、金融庁による「健全性に問題はない」というお墨付きもいただいた。とりあえず、不安になりながらも行くあてのない人々のおカネは、定期預金の定宿を逃れて、普通預金という名の一時の隠れ家に移り住んだかのようにみえる。
 いずれにしても、この「ペイオフ」は専門用語であるにもかかわらず、今年の流行語大賞に選ばれてしまうかもしれない。それほど、巷間口にされている。せっかくの機会なので、「ペイオフ」とは一体なんだったのか、柳沢大臣が金融再生委員会の委員長であった頃の国会答弁を通じて、振り返っておきたい。

1999年2月4日 衆議院本会議
――ペイオフ延期につきましては、政府として、延期しないという考えに変わりはございません。金融再生委員会といたしましては、先般公表いたしました、金融再生委員会の運営の基本方針に沿いまして、不良債権処理の早期完了を図りますとともに、2001年3月末を区切りとして制定されております早期健全化法や金融再生法等を的確に運用いたしまして、2001年3月末までに、預金者やマーケット等関係者から信頼される金融機関、金融システムを実現すべく万全を期してまいりたい、このように考えております。

1999年2月12日 衆議院予算委員会
――ペイオフの問題に対する覚悟いかん、こういうことでございますが、私どもは、ペイオフになるような事態が起こらないようにするということで、今全力を挙げているわけでございます。特に、大きな銀行についてそのようなことが起こるということのないように、資本注入その他をして、健全な銀行をつくろうということに夢中になっているわけでございます。

1999年3月30日 参議院財政金融委員会
――私の使命というか心構えといたしましては、たとえペイオフというような事態が起きても預金者に預金の引き揚げをされないような健全な金融機関をつくることに邁進する、こういうことでなければならないというように考えている次第です。

1999年7月9日 参議院金融問題及び経済活性化に関する委員会
――私どもとしては、2001年の3月いっぱいまでに何とかこの日本の金融機関を本当に健全なものにし、またでき得べくんば競争力の強いものにして、来るべきペイオフの時代になっても、預金者であるとかあるいは株主であるとかというような方々から不信の念を持って眺められる、そしてこのような方々に迷惑をかけるというようなことのないような、そういう金融システムを1日も早く構築いたしたい、こういう考え方で今取り組んでいるところでございます。

1999年7月9日 参議院金融問題及び経済活性化に関する委員会
――日本の金融システムが信認を動揺させて国民の皆さんが金融不安というものを現実にお持ちになる中で、暫定的な措置としてペイオフを5年間凍結するということが行われて、今日その時期の中に我々はおるわけでございますけれども、その間に、ペイオフがまた解禁になる2001年3月末までに金融機関を健全にするように、また破綻した金融機関は市場から退出してもらって、そして残った金融機関については預金者と申しますか国民みんなが信頼して自分の大切なお金を預金できるような、そういう金融システムにしようということで私どもに今金融2法というものの運用をゆだねられている、このように考えております。

1999年8月2日 参議院本会議
――臨時、異例とも言うべき措置の有効期限はいずれも2001年3月まで、すなわちペイオフの解禁予定時期と軌を一にいたしております。私どもといたしましては、この期限までに我が国の金融機関のすべてを通じて不良債権を処理し、十分な資本を持ち、さらに効率的で競争力の強いものとし、これによってある程度のリスクに耐えるとともに、他方、信用リスク、市場リスクなどのリスクを的確に管理できる能力を持つ体制を築いてまいりたいと考えております。このようにして、現行の2法が失効しても金融機関が自立してその役割を果たし得るという、いわゆる金融の正常化を実現してまいりたい、このように考えております。

 要するに、ペイオフを解禁することが主目的ではなく、ペイオフを解禁するときまでに、不良債権処理を終了し、銀行を健全化し、わが国金融システムに対する懸念を除去することに、「ペイオフ」の意義があったことが確認できる。格調高い答弁で、柳沢氏の決意のほどがビンビンと伝わってきそうだ。

 これらの格調高い答弁のトーンと比べると、特別検査に関する柳沢大臣の記者会見は、どことなく歯切れが悪いようにみえた。なぜ、金融再生委員長のときのように、胸を張って言い切ってくれないのだろう。心配になるではないか。私たちは、柳沢大臣の口から、「預金者やマーケット等関係者から信頼される金融機関、金融システムを実現した」とか、「ペイオフになるような事態が起こらないようにした」とか、「預金者に預金の引き揚げをされないような健全な金融機関をつくった」とか、「日本の金融機関を本当に健全で、競争力の強いものにした」とか、「預金者や株主の方々から不信の念を持って眺められることはなくなった」とか、「国民の皆様に迷惑をかけるというようなことのないような、金融システムを構築した」とか、「残った金融機関については国民みんなが信頼して自分の大切なお金を預金できるような金融システムにした」とか、「我が国の金融機関のすべてを通じて不良債権を処理し、十分な資本を持ち、さらに効率的で競争力の強いものとした」というような、力強い言葉が聞きたいのだ。不安をぶちのめしてくれる強烈な宣言が聞きたいのだ。

 是非、次の記者会見では、柳沢大臣の格調高い「安全宣言」を聞きたいものである。


第10回「『内部統制システム』なき企業統治論の陥穽」   2002/05/27

 4月5日、神戸製鋼所の株主が、当時の経営陣らに会社への賠償を求めた株主代表訴訟は、亀高素吉元会長ら七人が責任を認めて計3億1000万円を支払うなどの条件で和解が成立した。これに対し神戸地裁は、異例の所見を出し、「取締役は違法行為などがなされないよう、内部統制システムを構築すべき法律上の義務がある。企業トップは、社内の違法行為について知らなかったという弁明だけでその責任を免れない」と言明した。
 要するに、内部管理に対する経営者の不作為を断罪したのである。この衝撃は、大和銀行ニューヨーク支店で発生した損失事件に関連して、現・元取締役ら11人に総額7億7500万ドル(約830億円)もの賠償命令が出された、平成12年9月20日の大阪地裁判決を思い起こさせる。じつは、このときの判決文にも「健全な会社経営を行うためには、……リスク管理が欠かせず、会社が営む事業の規模、特性等に応じたリスク管理体制(いわゆる内部統制システム)を整備することを要する」として、「内部統制システム」という熟語が記されていた。

 組織をコントロールできない経営者
 「内部統制システム」というのは、企業の資産を保全し、会計記録の正確性と信頼性を確保し、かつ、経営活動を総合的に計画し、調整し、評定するために、経営者が設定した制度や組織、そして方法や手続きを総称したもの。一言で言えば、「経営者が組織を自分の思い通りに動かすためのメカニズム」のことである。近年、コーポレート・ガバナンスに関する議論が盛んになっているが、そこには一つの大きな陥穽があった。それは、「経営陣は企業を完全にコントロールしている」という大前提を置きながら議論しているということだ。確かに、その前提自体は当然のこと。組織をコントロールできていない経営者を前にして、コーポレート・ガバナンスを語っても意味はない。コーポレート自体がガバナンスされていないのだから、その場合、コーポレート・ガバナンスという言葉自体が矛盾を含んだものになってしまう。

 ところが、現実問題として捉えると、不祥事件などで、経営者が自らの組織をコントロールしていないことが発覚するケースは決して少なくない。経営者がコーポレートをガバナンスしていないのだ。だから、実際に事が露見すると、経営者がいとも簡単に「私は知らなかった」と白状してしまう。それで世の中が通ると思ってしまう。これでは、真のコーポレート・ガバナンスの話にならないのである。

 コーポレート・ガバナンス論の前に必要なこと
 したがって、株主によるコーポレート・ガバナンスを云々する前に、経営者による内部統制システムを定着させなければならない。厳しい言い方をすれば、内部統制システムが確立していない現状を無視して、コーポレート・ガバナンス論を議論してきたわが国の論壇は、物事のプライオリティが分かっていなかった。内部統制システムなしに、コーポレート・ガバナンスなし。この点をはっきりさせる必要がある。

 遅ればせながら、この内部統制システムの重要性に、わが国でも気付き始めたようだ。経済産業省は、タイミングよく「企業経営と財務報告に関する研究会報告書」を発表。日本企業の経営基盤を安定させ、競争力を向上させるには、株主や市場からの信頼を高めることが欠かせないとの判断を示した。企業の財務報告の信頼性を高めるため、内部統制システム構築の必要性を指摘し、その状況を開示することをも示唆している。また、気付いた企業は、既に個別対応を始めた。三菱商事は、フラット化させた組織変更に対応するため、経営陣のコミットメントの下で組織をモニタリングする内部監査機能を強化。その試みが評価されて、一部格付機関から高い格付が付与されている。

 内部統制システムは、日本企業にとっても不可欠のものなのだ。経営陣にとって、自分の組織を思い通りに動かすことが必要なのは自明の理であり、そうできなければ、コーポレート・ガバナンスなど夢の夢。我が身を護るためにも、内部統制システムの構築を急がなければならない。日本企業の経営陣にとって、これは重要な課題である。

 

第11回「誰のために金融庁はあるのか?」   2002/06/24

 昨年12月28日に破綻した石川銀行に関する記事を、主要紙が積極的に取り上げようとしないことに義憤を禁じる。これが、お役所に取り込まれた記者クラブというものの性質なのだろうか。私は、この事件の重要性に気付かないメディアは、ジャーナリズムを名乗る資格がないとすら思う。

 石川銀行破綻の暗部
 事件自体は確かに半年も前のことである。しかし、破綻間際の石川銀行による第三者割当増資に応じた社会的弱者が大被害に遭い、裁判を通じて救済を求めているという意味で、この事件は未だ進行中の事件であるし、今後の金融監督における重要なインプリケーションに鑑みると、風化させてしまってよい事件では決してない。特にペイオフの本格解禁を控えて、コア資本が枯渇しつつある銀行が最後の最後に手を出す“麻薬”が、弱者に狙いをつけた第三者割当増資だからだ。

 もし、読者が痛みの感度を失っていない心の持ち主なら、「石川銀行の第三者割り当て増資を引受けた株主の救済を求める会」の代表である吉住幸則氏が3月20日に金融庁に届け出た嘆願書を是非一字一句読んでみてほしい(
http://www.alfatoti.com/)。原口恒和・金融庁総務企画局長に3度手紙をしたためた末に提出されたものだ。

 まずは、「株など、生まれてこのかた買ったことも見たこともない預金者や、融資を膨らませての増資から、定期担保の融資の定期剥がしまで、断るに断れない弱者が、結局被害に遭っております。老人を狙って引ったくる強盗と同じ手口と言ってもいいのではないでしょうか」という嘆きのくだりに耳を澄ましてほしい。そして、被害は預金者だけにとどまらない。「詐欺的方法による銀行ぐるみの株の販売は、本部を信じ再生を信じた真面目な行員ほど、多くの人々を不幸にし、自分自身さえ、家庭崩壊の危機にさらされています。住宅ローンや教育ローンの上に、更にこの増資のローンを抱えるハメになった行員たちもいるのです」というのだから、まるで地獄絵図をみるようだ。

 中小企業はさらに悲惨である。嘆願書は、「融資がらみの無理やりな増資引受は余分な借入を増やし、また、すでに実行されている定期担保融資から、定期を剥がして増資に切り替えた手口はあちこちで見られます」と記しているが、こうした手口は東京相和銀行の破綻の際に禁じ手として既に結論が出た取引ではなかったか。「本件は、破綻逃れを遮二無二画策した、地方の小さな銀行に限定した問題ではありません。北陸の小さな案件と見捨てないで下さい」と懇願する吉住氏の指摘は、悲しいほど正しい。

 木を見て森を見ないから過ちを犯す
 嗚呼……それなのに、金融庁の担当官は取巻き記者たちに、こうのたまわって開き直っているという。「石川銀行の件は何の問題もない」と言うのだ。

 (1)石川銀行は増資の際、債務超過であるという事実を間接的であれ、適法に開示している
 (2)第三者割当増資は届出制であり、金融庁に止める権限はない
 (3)資本強化を考える銀行なら、どこの銀行でもやっていることだ
と。

 この程度の理屈に説得された記者たちが多いというから嘆かわしい。ジャーナリズムは、権力に対する健全な批判的精神から生まれるものではなかったのか。

 厳密に言うと、金融庁の担当官が主張していることはテクニカルには誤っていない。しかし、大幹が誤っている。木を見て森を見ていないから、大きな過ちを犯す典型例だ。物事の本質を見極めよう。テクニカルな議論はそれからだ。重要なポイントは一つである――それは、「誰のために金融庁はあるのか?」という問いに答えることだ。この問いは、金融の専門家でなくとも答えられる基本中の基本の事柄である。ジャーナリストならなおさらだ。

 答:預金者や投資家のために金融庁はある――これが正解だ。罷り間違っても、銀行頭取や証券会社のためにあるのではない。さらに付け加えれば、金融庁のお役人が保身を図るためにあるのでもない。これは、市民の目線をもつジャーナリストであれば、忘れてはならない視点であるはずだ。

 その視点からみると、先ほどの担当官の主張はこの基本から大きく逸れていることに気付く。彼は「石川銀行の件は何の問題もない」という視点から語る立場ではない。少なくとも、「石川銀行の件は非常に残念だった。しかし……なので今回は致し方ない。だから、同様の問題を起こさないようにするために、今後は……すべきと考える」という立場からコメントすべき役割を担っているはずだ。

 金融庁は預金者や投資家のためにある
 結局のところ、金融庁は、預金者や投資家のことなどどうでもよく、自分たちのミスさえ表沙汰にならなければいいと考えているようにみえる。顧客である預金者や投資家をみていない。これがすべての過ちの元である。薬害エイズも、狂牛病も、外務省の各種のスキャンダルも、防衛庁の漏洩事件も、すべて顧客が誰かを忘れ、自己の保身だけを考える官僚によってもたらされたものだ。

 その意味で、「決して私達は貴庁の責任追及をしているのではありません」と書いている吉住代表は甘い。「現に起こった問題の解決を、解決能力のある国家機関にお願いしております」と嘆願して、聞き入れるような相手なら、ここまで被害は広がっているまい。

 石川銀行が破綻の危険性があることなど、金融アナリストなら遅くとも3年前に知っていたことだ。当局が知らなかったはずがない。もし、知らなかったと言うのなら、そんな無能力な当局は解散した方がいい。この当局責任は深く厳しく追及されねばならない。もし、それを怠ったなら、この石川銀行と同様の惨劇がさらに一回り大きくなって我々の前に姿をあらわすだろう。

 石川銀行事件の意義については、ペイオフが本格的に解禁される前夜だからこそ真剣に考えられるべきである。なぜなら、次の被害者は、あなたなのかもしれないのだから……。


第12回「新生銀行バッシングは何だったの?」   2002/07/24

 2001年10月、新生銀行は金融庁から業務改善命令を受けた。
 同銀行の2001年3月末における中小企業向け融資は、健全化計画で政府と約束した2兆7000億円より13.5%少ない2兆3350億円にとどまったため、その未達成を問題視されたのだ。

 国内に存在する618万事業所のうち、中小事業所は99.3%の614万事業所を占めている。就業者数では80.6%(事業所・企業統計調査1999年)。中小企業は、日本経済そのものと言ってもいい。永田町の先生たちの関心も高い。

 効率重視経営への転換
 プライベート・エクィティ・ファンドのリップルウッドが多額の公的資金をもらった上で、破綻した長期信用銀行――いわゆる「長銀」――を買収してから、同行のビジネスのやり方は、180度変わったと言ってもよいだろう。効率を考えない経営から、効率重視の経営へと、矢継ぎ早に施策が実行されていく。

 そうした中で、重要なターゲットとなったのが貸出政策だった。

 新しい経営陣が米国的に計算すると、貸倒コストに見合わない金利で貸し出している案件が次々とでてくる。そこで、貸出金利の引上げを借入先に要請するのだが、景気が不調な中サッサと払える先は少ない。そこで、結果的に貸出資金を続々と引き揚げることになる。破綻する企業も出てくる。少なからぬ企業が政治家の下に駆け込む中、新生銀行が業績不振の企業から短期融資を回収していることについて、他の銀行から批判が高まる。「新生銀行がわが国の美しい金融秩序を乱している」というタレコミが相次いだ。ナショナリズムに燃える政治家の先生方の頭に血が上ったのは、予測するに難くない。

 野中広務元自民党幹事長は「国民の血税でできた生い立ちを忘れ、貸し渋りや貸しはがしをしている」と厳しく批判。柳澤伯夫金融担当大臣も、融資計画を達成するための体制を敷いたとは認められない」と断罪した。

 あおぞら銀行と東洋信託銀行も中小企業に対する融資計画の数字を達成できなかったが、新生銀行の落ち込み幅が突出していたため、それが致命傷になった。「今年度は増やす」という新生銀行の説明に、金融庁は「真剣に増やそうとしていない」と一蹴した。

 「いいとこ取り」だったのか
 こうした新生銀行バッシングの裏側には、旧長銀から承継した資産の価値が2割以上下がった場合に、国に買い取り請求できる瑕疵担保契約の存在があっただろう。「いいとこ取りを許すな」という大合唱が起こった。

 ということで、金融庁は新生銀行に対して、業務改善命令を下したのだが、米国資本主義に対する正義の鉄槌として、永田町は沸き立った。新生銀行の八城政基会長は、「国の命令であり、今年度は損失覚悟で必ず目標を達成する」と声明。貸し倒れの危険をカバーできない低金利でも融資を拡大する方針を明らかにする。

 こういう経緯の中で、新生銀行の株主であるリップルウッドは、「ハゲタカファンド」の代名詞となり、企業の切り売りで短期的な利益を狙うイメージが定着する。閉塞感の中で高まるナショナリズムが、仮想敵を「外資」に狙いを定めて、総攻撃を仕掛けていく。新生銀行やリップルウッドは第一の標的になった。こうなると、理屈もへったくれもない。

 理屈なき「ハゲタカ」への感情的反発
 自動車用金型で世界的に知られるオギハラが、リップルウッドに身売りするかも知れないという報道が流れた際にも、ものすごい動揺が走る。群馬県太田市にある本社工場で、世界30カ国、約200社の自動車メーカーから金型の設計図を受け、コンピュータ画面でユーザーとやりとりしているオギハラは、業界では知られた存在。独自の技術があっても、単独での生き残りは難しいというグローバル競争の厳しさがそこにある。しかし、感情が激した世論はビジネスの論理を超越していく。元ホンダ副社長の入交昭一郎氏が社長に就任するという話に対しても、「日本車に関するデザインの秘密は本当に保てるのか」「入交さんは心を売り渡したのか」「よりにもよってヘッジファンドと組むとは」という批判が渦巻く。排他的なナショナリズムがそこには息衝いている。

 まあ、「郷に入らば郷に従え」という諺は、英語にもある(In Rome, do as Romans do)から、新生銀行も考えたのだろう。2002年5月23日、3月末の中小企業向け融資が政府との約束の金額を達成したことを明らかにした。目標の2兆3532億円をわずかに上回る2兆5000億円に達する見込みという。業務改善命令を受けていたので、貸し倒れの危険をカバーできないような低い金利でも融資したという。立派なものだ。

 ところが今度は、大手邦銀のほとんどは中小企業向け融資の計画金額を達成できなかった。公的資金の注入を受けた銀行は、貸し渋り是正のために中小企業向け融資を増やすことを厳しく義務付けられていたはずなのに、無視した格好となった。

 メガバンクリスク
 しかも、中小企業に対する貸出金利は物凄い引上げだ。0.1〜0.2%どころではない。1.0〜2.0%の引上げ要請が来る。払えないところからは貸出を引き揚げるだけだ。一部ではあるが、詐欺紛いの手で騙して貸金を引き揚げていく輩もいると聞く。ある信金の理事長が「メガバンクリスク」と呟いてボヤいていた。「一昔前なら、都銀とお付き合いのある中小企業なら審査もしないで安心して貸せました。でも最近は、いつ貸金を引き揚げられるか分かりませんから、メガバンクとお付き合いのあるところは、かえって怖くて貸し出せません」

 こういう実態があるなら、昨年秋の新生銀行と同じ立場のはずだ。否、新生銀行よりもヒドイかもしれない。ならば今度は、邦銀に対して、業務改善命令が下されることになるはずだ。

 偏狭なナショナリズム
 ところが金融庁は、邦銀に優しい。「行内の体制整備など計画達成に向けた努力が認められれば、未達成もやむを得ない面がある」として、新生銀行のときとは180度違うスタンスを打ち出し、業務改善命令を出すことには慎重だという。この態度の違いは何なのだろう。

 要するに、「外資は嫌いだ」ということか。米国資本は駄目だが、日本資本なら貸しはがしをしてもお咎めなしということなのだろう。こういう偏狭なナショナリズムが「正義」を振り回し始めると、世の中がおかしくなる。気を付けよう。


続く