大学院進学 薦められイリノイヘ デート事件であわや放校

 マサチューセッツ大アマースト校では1年生の時は苦労したが、試験はがんばった。GPA(成績評価平均点。4.0が最高)が4年間通して平均3.7点を記録して、毎年、学部長の優秀者リストに載っていた。  
 2年生の時には成績優秀な学生でつくる友愛団体に申請して入会を認められ、キャンパス内の池の傍の友愛寮に移った。この友愛会は学内の数ある学生団体の中でもビールの消費量で1,2位を争い、どこよりも夜遅くまでポーカーゲームをやり、どこよりも優れた同志たちと徒党を組むことができた。
 
 愉快な仲間たちと一緒で、羽目をはずして謹慎を命じられた時も1,2度あったが、よく遊び、勉強もちゃんとした。とにかく素晴らしい寮生活だった。
 
 いい先生にも恵まれた。特に学部主任のリンゼー教授には息子のように可愛がられ、いろんな面白い化学実験プロジェクトに参加させてくれた。母がしてくれたように、彼に支えてもらったのが大きな自信になった。夏休みにはペンシルベニア州やオハイオ州の石油会社の研究部門でアルバイトをした。
 1957年春には化学工学科の最優秀卒業生2人のうちに選ばれた。もし私が名門のMIT(マサチューセッツ工科大)に行っていたとしたら、せいぜい、その他大勢の真ん中あたりにいたのではないだろうか。喜んだ両親は奮発して卒業記念にフォルクスワーゲンの新車を買って祝ってくれた。  
 大学4年の時には、いろんな会社から、ずいぶん条件のいい勧誘がたくさんあった。だが教授たちは大学院進学を薦め、イリノイ大学シャンペーン校が研究員として奨学金を支給してくれるので、そこに行くことに決めた。化学工学部門では常に全米トップ5に入る大学院であり、私としても最高にうれしい進路だった。
 
 大学院に入って2週間もしないうちに、可愛い女の子を見つけて声をかけた。土曜の夜のデートは実にうまく行き、終点はキャンパスそばの森の駐車場だ。フォルクスワーゲンの窓ガラスが曇るほど中で熱くなっていた時、突然、まぶしいライトを浴びた。巡回中の学内警察で、私たちは何ともきまずい格好のところを見つかってしまった。これからどうなるか、私は恐怖で縮みあがった。
 
 当時は今とは事情が全く違う。50年代は保守的な時代であり、所も特に保守的な中西部だ。われわれ2人はそのまま学内警察署に連行され、調書をとられ、解放されたのは午前4時か5時ごろだった。
 私は目の前が暗くなった。院生の資格も、学位も、洋々たる前途をすべてなくしてしまうのではないか。何より、母がこのことを知ったら、一体どんな反応をするかーー。私の運命は月曜に学内規律、学生処分を担当する大学事務局長との面談で決まってしまうだろう。  
 日曜の朝、意を決して学部委員長のドリッカマー博士に助けを乞うた。博士には面識がなく、ただ人当たりの良くない厳しい先生だという評判しか知らなかった。「実に何とも、大変なことになってしまって……」と詳しい状況を説明する時、私は本当にちびりそうだった。聞き終えた博士に、きつく一喝された。
 
 「何てことだ、長年、院生の面倒を見てきたが、こんな事件を起こしたのは君が初めてだ。今回は何とかするが、以後はしっかりズボンをはいていることだな!」
 
 翌日の事務局長との面談は厳しかったが、博士の尽力で、どうにか放校処分だけは免れた。
 
 

博士号  3年でスピード取得  せっかちな凡才、嗅覚磨く

 このいまわしい事件をきっかけに、ドリッカマー博士と親しくなった。博士は私を息子のように扱い、一緒にフットボールの試合にかけをしたり、社会のニュースについて議論した。廊下で出会うと、博士は容赦なく私のひいきの野球チーム、レッドソックスをくさすか、私の薄くなり始めた頭をからかった。
 博士は、私の精神的な支えになり、生涯にわたる重要な影響を与えてくれた。私は大学院でも一流大学から来た他の院生に比べて準備不足であり、学位を取るために大変な苦闘をした。どんなにひいき目に見ても、私はスターではなかった。
 
 1年後の1958年に修士号を取得したが、米国は不況期に入っていた。就職の誘いはオクラホマとルイジアナの石油化学会社から2件しかなかった。その面接を受けに行く飛行機の中で、スチュワーデスが私には「ミスター・ウェルチ、何か飲み物は」と言うのに、大学の先輩には「ドクター」の敬称をつけていた。「ミスター」より「ドクター」の方が、よほど立派に聞こえる。大学院にあと3、4年いれば博士号が取れる。そう思って、たいして深く考えもせず、博士課程に進むことを決めた。就職事情が悪かったからだが、指導教官たちと離れがたかったからでもある。
 
 博士課程では研究室が生活のすべてだった。朝8時に来て夜11時に出る。研究室の電灯が何時間ついているかで評価が決まるような感じだった。私の博士論文は蒸気供給システムの濃縮化がテーマだった。水蒸気を発生させ、それを銅板上で濃縮させる作業を長時間かけて観察する。毎日、濃縮された水蒸気の形状を高速度カメラで撮影していく。私はこの実験から熱転換方程式を自分でつくり出した。学位論文に取り組んでいる時には、まるで自分がノーベル賞級の研究をしているように思い込み、夢中になるものだ。
 
 指導教官の強力な支持で、私は3年で博士号を取得できた。普通は4、5年かかるので、だれよりも早かった。博士課程では外国語が2つ必修だったため、試験の夏にはフランス語とドイツ語を朝から晩まで毎日丸3カ月間、ひたすら丸暗記した。試験会場に行き、頭を傾けて、それまで詰めこんだものを全部ぶちまけた感じだった。それで何とか語学試験にパスしたが、せっかく詰め込んだ「知識」は答案を提出した瞬間に水蒸気となって消えてしまった。
 
 私は天才でも秀才でもなかったが、どう仕事をこなすかに焦点を合わせることができた。私より頭のいい研究者は何人もいたが、彼らは論文をまとめられなかった。実験結果から研究の結論を出すまでに至らなかったからだ。その点、私はせっかちだったので、結論に到達できた。
 化学工学を学ぶことは、ビジネスマンを育てる上で最高に有益な基礎になる、と私はずっと感じている。研究室での演習や論文作成を通して得られる教訓は、問題には正解が1つではなく、いくつもある、ということだ。決まった方程式に当てはめさえずれば正解が導き出されるというものではない。そこで重要なのは思考のプロセスだ。
 
 ビジネスでも同じだ。現実には黒か白か、はっきり答えの出る問題などほとんどない。いろんな可能性を考えていく中で、灰色の問題のより暗い影に近づいていける。ビジネスは、数字で判断するのと同じように、あるいはむしろそれ以上に、嗅覚(きゅうかく)で、感性で、あるいは触感で、判断し,進めていくものだ。もし完全な正解が出るまで待ったりしていたら、世の中はわれわれを置いてきぼりにして行ってしまうだろう。

 

就職と結婚 交際10ヵ月目に挙式 故郷へ戻り、GE技術者に  

 大学院時代に、自分が何が好きか、何をしたいか、そして何が不得手かがよくわかった。技術力はかなりあるが、決してずば抜けて優れた科学者ではない。研究者仲間に比べると、外向的であり、本よりも人が好きで、研究開発よりもスポーツが好きだった。こうした資質と関心から、自分に最もふさわしい仕事は研究室と実業の世界をつなぐようなことだと思い描いていた。それは自分はいい運動選手だが、決して超一流ではない、ということがわかるようなものだ。そこで他の博士号取得者たちとは違うことがしたかった。  
 イリノイでは学位だけでなく、素晴らしい妻も授かった。最初にキャロラインを見つけたのはキャンパス内の教会で、一緒にミサに参列した時だ。その後、共通の友人が町のバーで紹介してくれた。
 
 キャロラインは長身の美人で、洗練されていて、知的だった。単科大学を優等で卒業し、イリノイ大では年1500ドル支給される特待生となり、英文学で修士号を取得するところだった。1959年1月にバスケットボールの試合を見に行ったのが初デートで、それからずっと、いつも一緒にいた。5カ月後に婚約し、11月21日、私の24歳の誕生日の2日後に彼女の生まれ故郷、イリノイ州アーリントンハイツの町で挙式した。
 
 新婚旅行として全米各地からカナダまで、私の職探しも兼ねて、わがフォルクスワーゲンでたっぷり走り回った。入社の誘いは何件もあったが、気に入ったのは2件だった。1つはエクソン社で、テキサスの研究所での仕事だ。もう1つはGEで、マサチューセッツ州のピッツフィールドに新しくできた化学開発部門で働く話だった。
 
 GEは私を現地に招待し、研究開発の責任者、フォックス博士が詳しく説明してくれた。小人数のチームで、新種のプラスチックの開発に取り組んでいるのが気に入った。生まれ育った州に戻れることもよかった。博士は部下の長所を引き出すコーチ役の模範になる人だ、と信頼できた。博士はレクサン・プラスチックを発見し、GE社内でも英雄視されていた。レクサンはガラスや金属の代替物として電動コーヒーメーカーから超音速航空機の翼の軽量皮膜に至るまで用途が多岐にわたり、GEが57年から販売していた。
 
 フォックス博士は既に次のプロジェクトに取り組んでおり、新しい熱可塑性のプラスチック、PPO(ポリフェニレン・オキサイド)研究の第一人者だった。彼はPPOの優れた特性を解説して、PPOが耐熱鉛管やステンレス製医療機材に取って代わる可能性を示し、私がその研究段階から商品化段階に移る際の最初の担当者になるだろうと言ってくれた。私は1週間もせずに就職を決めた。
 
 60年10月17日が入社第1日。その時にはどんなに早く不満を持つようになるか、知るよしもなかった。夫婦で1500キロ以上の距離を運転して、ピッツフィールドに到着した時、私たちはほとんど小銭しか持っていなかった。採用時にはフカフカの赤じゅうたんを敷いてもてなしてくれたので、しはらく厚遇されるものと期待していて、町のホテルに泊まっていた。ところが、面接の時にあれほど親切そうだった担当課長が冷たく「会社はホテル代の面倒などみない」と言う。彼は何でも節約するのが自分の仕事だと考えていて、いつもまるでGEが破産寸前であるかのように振る舞っていた。
 
 会社側の求愛期間が済んだことを思い知らされ、GEとのロマンスが消えていった。
 

 

新人社員  「公平な昇給」には異議 実力主義が人材を育てる

 GEに入社した1960年の秋、私たち夫婦は木造二階建ての民家の一階に間借りした。大家のおばあさんはたいへんな締まり屋で暖房費をケチる。寒くてたまらず、安普請の薄い壁をノックして暖房を強くするよう頼むと、「セーターを着なさい!」と壁越しに怒鳴り返されたものだった。  
 会社の仕事自体は面白かった。新しいプラスチックの実験工場をつくるのを任されて、まるで小さな会社のチームの一員という感じだった。私が溶炉釜(がま)を設計し、近くの町工場で組み立て、事務所の裏に工場をつくった。いろんな実験装置をゼロから組み立て、毎日、その出来具合や製造工程の良しあしをあれこれと試した。大学出たての者にとっては、わくわくするような冒険だった。
 
 毎月2回は自分で車を運転して約90キロ離れた中央研究所まで行き、プラスチックを発明した研究者たちに会い、どんな面白い商品ができそうか話し合った。当時の研究所は会社丸抱えで資金が潤沢にあり、研究者たちは最先端の研究に没頭していられたから商品化や営業推進などということに関心がなかった。そんな彼らに「今や研究開発から事業化に移るべき時だ」と説くのが私の仕事だった。
 その一方、職場ではしみったれたやり方に毎日、不満を募らせていた。仲間4人が赤レンガの狭い部屋に押し込められ、電話は2台しかない。出張には2人1部屋で泊まるよう言われていた。  
 入社1年後の秋、年俸1万500ドルが1000ドル昇給すると課長に言われた。課の仲間4人全員が同額と知って、怒った。自分は「標準」よりも高いはずだ。すぐ課長にかけあったが、らちがあかない。大企業の最底辺でわなにはまったまま逃れられない感じがした。そこで部長に「会社を辞める」と告げて帰宅した。経済紙や業界誌の求人案内で好条件のところも見つけていた。
 
 翌日、担当役員のグトフ氏が電話してきて、夫婦一緒で食事に誘ってくれた。同氏には何度か会っている。新人とはいえ、新しく開発する製品について競争各社の主要製品コストや品質などあらゆる面で比較して、同氏に詳細に報告していた。上司に聞かれたことに答えるだけでは評価されない。質問の範囲を超えて大きな文脈で考え、上司が予想していないような新しい展望を示すことで初めて注目され、同じ群れから抜きんでることができるものだ。
 
 食事しながら4時間話し込むと、グトフ氏は私の気持ちを理解して、引き留めにがかった。昇給額を3000ドルまで引き上げることを認め、さらに社内の官僚主義的性格を改めようと約束してくれた。私は幸運だった。GE内でも他のボスなら私を引き留めなどしなかったろう。
 
 グトフ氏が私を特別扱いしてくれたことは、強烈な印象を残してくれた。それ以来、
人を差別化することが、私の人事管理の基本となった。優れた人材には十分に報い、無能な人材は取り除いていく。思い切った差別化が本物のスターを育て、そうしたスターたちが素晴らしい仕事を生み出していくのだ。
 「差別化などとんでもない。チームの和を乱し、職場の志気をそぐ」と反対する人もいる。だが私はそうは思わない。個人個人で違う扱いをして、初めて強いチームをつくれるのだ。プロ野球の球団だって、20勝する投手や40本以上のホームラン打者は高給で遇する。それでも彼らがチームの一員であることに変わりはない。どんな選手も勝負に貢献しなければならないが、選手全員が同じ待遇を受けなければならないわけではない。勝つチームは常に優れた選手を優遇し、劣る選手をはずしてレベルを上げる努力をしているのだ。ビジネスも全く同じだ。
 

 

爆発事故 励まされて苦境克服 入社8年で事業本部長に

 1963年の春、入社2年で28歳の時、人生で最も怖い経験をした。事務所で執務中に、通りを隔てた実験工場で突然、大音響とともに爆発が起きたのだ。あわてて駆けつけると、工場の屋根は吹き飛び、窓ガラスはすべて壊れ、壁も崩れて建物全体が黒煙と灰儘(かいじん)で覆われていた。重傷者が出なかったのが奇跡だった。
 
 大きなタンクで揮発性の高い溶剤に酸素を通して化学反応を調べる実験中に、何かの原因で引火したのだ。責任者である私の過失だった。翌日、160キロ離れた地域本部まで自分で車を運転して、部門担当役員に報告に行った。事故原因の説明はできるが、工場爆発の責任を問われることを考えると、神経が参っていた。
 
 ところがMITで化学工学博士号を取得した役員は、揮発性物質を高熱処理すればどうなるかを熟知していて、私を一度も責めなかった。この事故から何を学んだか、再発防止にどうすればいいか、この研究開発プロジェクトを継続すべきかどうかを冷静に、知的にただしただけで、「大規模操業に移る前にこんな問題があることがわかってよかった」と言ってくれた。
 
 この役員の対応には感激した。だれでもミスを犯した時、叱責(しっせき)や懲罰など望みはしない。最も欲しいのは励ましであり、自信の回復だ。人が失敗し落ち込んでいる時に、カサにかかって責めるのは最悪だ。責められれば、リーダーが自信を失い、自己嫌悪の深い穴に落ち込んでしまうばかりだ。この役員の力で、64年には私たちの新しいプラスチック工場計画が承認された。商品化のメドが立ち、1千万ドルの投資が認められた。その折、事業部長のポストにいた上司が本部に栄転し、空席になった。私はすかさず直属の担当役員、グトフ氏と夕食のあと「後任にはぜひ私を」とかけあった。
 「冗談じゃない、君は営業を全く知らない。新製品を売り出す仕事は営業経験かなければだめた」とはねつけられたが、「できるはずだ。やりたい」と長時間、粘った。その後1週間くらい毎日電話して、私ならこうする、と説き続けた。そしてついに彼から呼ばれた。「負けたよ。立派に誓いを果たしてくれ」
 
こうして勇躍、事業部長に就任した。新工場の起工式をやって間もなく、われわれの開発したPPOの新製品には重大な欠陥があることがわかった。耐久テストで、高熱下で長い間使っていると弾性がなくなり壊れやすく、亀裂か入ってくるのだ。これでは最も市場価値の高い耐熱鉛管の代替物として使えない。  
 この問題を解決するのに半年かかった。その間、私は研究室に寝泊まりして、耐久性を高めるために、化学者たちと考えつくあらゆる実験を重ねた。そしてPPOにポリスチレンとゴムを合成することで解決できた。製造装置の配置を換え、合成方法を変更することでうまくいった。それも、絶対に実現できると信じた研究者たちの結束のたまものだった。
 
 新製品の注文が500ドル入るたびに、皆でビールで乾杯した。新製品は「ノリル」と呼ばれ、今でも世界中で年10億ドル以上売れている。
 
 64年に、2千ドルのボーナスをも分った時には、買ってまもない新居に工場の全従業員を招いて盛大なパーティーを催した。工場では昇進、昇給のたびに祝賀パ−ティーを開いた。
 
 65年からわが工場は急成長し、私はさらに次へと飛躍する機会を得た。68年6月、入社8年で年商2600万ドルのプラスチック事業本部長に昇進した。時に32歳、社内でも最年少の事業本部長だった。
 

 

両親の死 喪失感に家族の支え 技術者から事業家志望へ  

 人生は順風満帆に見えた。だがひとつだけ、痛ましいことが起きた。  
 母が1965年1月25日に亡くなったのだ。66歳で、何年も前から心臓病を患っていた。私は29歳だったが、人生で最も悲しい日となった。
 
 母が最初に倒れたのは、私が大学生の時だった。叔母から電話で知らせを受けた時、余りに気が動転して、あわてて学寮を飛び出すと、170キロ離れたわが家まで走って帰ろうとした。ヒッチハイクで車を止めるのももどかしく道路を走り続けた。
 
 その時は3週間入院して回復した。その3年後にも同じことが起こり、さらにその3年後、3度目の発作が命取りになってしまった。
 
 それはちょうど両親が休暇でフロリダに旅行した最中のことだった。ニューイングランドの寒い冬を逃れて暖かい所で過ごすよう、私が冬のボーナスから千ドル奮発したのだ。感謝の念をこめてお金を渡した時、母は「孝行息子を持って幸せだ」とたいへんな喜びようだった。その後も母が生きていたら、どんなにもっとしてあげられたことか。
 
 父から入院先を聞くと、私は直ちに会社からフロリダへ飛び、病室へ直行した。母はひどくやつれて、弱々しく、壊れてしまいそうだった。何日目かの夜、ずっとそばに座っていると「背中をふいてほしい」と言う。スポンジにせっけんをつけてお湯で背中をふくと、「息子にしてもらって、とても幸せだわ」と喜んでくれた。その後、父と宿泊先のモーテルに引き揚げたが、それが母の最期だった。父と叔母が遺体とともに列車でセーラムに戻り、私が父の車を運転して夜を徹して走った。ずっと泣きながらアクセルを踏み通しで、私から母を奪っていった神をのろった。
 
 実家に戻った時には涙も枯れはてていた。翌朝の葬儀では、親せき、隣近所の人たちに、私の知らない友達が何百人と参列し、みんながそれぞれ、母がどんなに私のことを誇りに思っていたか、詳しく話してくれた。
 
 母の死は父にもひどい痛手だった。母なしで生きていく意欲を失ってしまったようで、戦場にひとり取り残された兵士と同じだった。父は浮腫(ふしゅ)を患っており、母が塩分のない食事療法を厳格にしていて体調を保っていた。だが母が亡くなってから、父は食事にむとんちゃくになり、水分も大量に取るようになって顔が膨れ、体重も増えた。入院の知らせを聞いて、欧州出張から急いで戻って病院に駆けつけたが、病床に見舞うほんの数分前に息を引き取っていた。母の死からわずか15カ月、66年4月22日のこと。享年71歳だった。
 
 私は完全に打ちのめされてしまった。惨めだった。それを救ったのは妻のキャロラインだった。両親を失っても、自分にはまだ素晴らしい家族がいること---長女のキャシー、長男のジョン、二女のアンという3人の元気な子供たちがいることを思い出させてくれた。(4人目の二男、マークがその後、68年4月に加わる)。妻はそれ以後も常に私を支える大きな岩となってくれた。
 
 仕事で決断した結果がどうなるか不安になった時も、妻は、社内のほかの人がどう考えるか気にしなくていい、私が正しいと思ったことをやり通せばいいのだ、と励ましてくれた。そして昇進のたびに、子供たちと一緒に我が家の車庫から家の中まで色鮮やかなテープを張り巡らせて、祝ってくれた。
 
 プラスチック本部長に就任した69年に社内誌のインタビューで「ウェルチ博士」と呼ばれた時、「ジャックと呼んでくれ」と言ったのがそのまま記事に残っている。このころから、単なる技術者ではなく、事業家として生きていきたいという気概を持ち始めていた。
 

 

プラスチック事業  高成長の公約果たす  異色の営業、CMも話題に  

 「今後1年間で、過去10年間に記録したよりも高成長を達成してみせる」。プラスチック事業本部長となって1年、私は1969年にそう公言した。  
 それまでのプラスチック事業部は「ノリル」を主力製品にして、OA機器からヘアドライヤー、ひげそり用替え刃、カラーテレビとあらゆるものに使ってもらおうと売り込みに躍起だった。500ポンド単位の注文を取るのに激しい値引き競争をしていた。それで収支はやっとトントン、会社もあまり期待していない部署だった。
 
 そこへ新製品「レクサン」が登場した。ガラスのように透明で鋼鉄のように丈夫、しかも耐熱性が高く、軽量だ。従来品に比べれば、文句なくプラスチック業界のサラブレッドであり、私は金鉱を受け継いだと信じた。これで世界を制覇できる。ちょうど今後10年間に最も成長が期待できる産業としてプラスチックがコンピューターや電子機器よりも注目され始めたころだ。67年に公開された映画『卒業』で、ダスティン・ホフマン演じる大卒エリートが「就職するならプラスチック」と勧められたくらいだ。
 
 われわれは営業部隊を増強し、まるで洗剤を売るように宣伝し始めた。プロ野球選手を広告に起用し、牛が陶磁器店に暴れこんでもレクサン製の製品だけは無事だというテレビCMをつくった。デトロイトでは毎朝、通勤で渋滞する時間帯にラジオのスポソトCMを流した。工場近くの道路沿いに立て看板も並べた。自動車の金属部分にレクサンを採用してもらうのがねらいだった。デトロイト・タイガースの30勝投手を招いて、私が持つレクサン製の板にぶつける「ニュース」も演出した。どれも工業用プラスチックの営業戦略としては従来と全く違ったので相当、話題になった。
 デュポンなど強力なライバル会社に対抗して、少ない人数で効果的に小回りの利く営業活動を展開した。大会社の力をバックに、中小企業のスピードで機動的に仕事し、競争相手を出し抜くことができた。
 
 私は大組織に適応する「企業人間」ではなかったし、儀礼的な手続きなどほとんど無視した。ちゃんと仕事しない者にはがまんできず、無遠慮に文句を言った。「建設的対立」を好んで、率直な議論こそが最適の決断をもたらすと信じていた。当時はよく「うちの6歳の息子だってもっとうまくできる」「評論家など要らん。対案を出せ」と絞り上げ、それができない者には辞めてもらった。偉そうにしている者、口先だけの者も長続きはしない。業績の悪い者をどんどん解雇し、成績のいい者には大幅に給料を上げ、ボーナスも弾んだ。けり飛ばす一方、抱いてなでる。それが今日まで続く私のやり方だ。
 
 その結果、翌70年には事業部の売り上げを倍以上伸ばし、予言以上の成果を上げた。
 
 そして71年、年商4億ドルの化学・冶金部門のトップである担当副社長に昇進した。新たな挑戦だ。
11年間プラスチック事業部だけにいたので、これから工業用ダイヤモンドや絶縁物質、電気化合物など素材ビジネス全般を見なければならない。それも全く違う人たちと一緒に、だ。
 
 まず自分のチームの陣容をしっかりと調べることから始めた。意にかなうのはほんの2,3人で、あとは力量不足だった。それを性急に、軒並み換えていった。
 
 辞めさせたい管理職には必ず事前に2,3回、個別面談し、私が何に不満かを伝え、ばん回のチャンスも与えた。業務報告のたびに私の意見をメモに書いて渡した。だから最後通告の時にショックを受けて取り乱す例はただの1件もなかった。
 

 

役員昇進  専用機で全米を行脚  名門校偏重の採用は失敗

 1973年6月、次の大きな飛躍があった。私の部門を含めたグループ担当役員のルーベン・グトフが戦略企画本部長に昇進したのに伴い、後任に37歳の私が選ばれたのだ。これまでの化学・冶金部門に加えて、医療機器、工作機械、電子部品まで管轄することになった。多様な商品群で年商20億ドル、グループ全体の従業員は4万6千人。全米に44工場あり、外国でもベルギー、アイルランド、イタリア、日本、オランダ、シンガポール、トルコで操業していた。  
 役員は本社勤務であり、本社は74年8月にニューヨーク郊外のフェアフィールドに移転することが決まっていた。それが実に難題だった。引っ越したくなかったのだ。
 
 60年に入社して以来、ずっとピッツフィールドの町にいる。窮屈な借家に始まって、転々と住まいを替えたが、今や町でも最高級の家の持ち主だ。4人の子供たちはまだ小さくて、地元の公立学校に通っている。子育てには素晴らしい所で、山も湖もすぐそばにある。ゴルフクラブの会員仲間たちとはテニスも楽しんでいる。町のだれとも顔なじみだった。
 
 自分は「小さな池の大きな魚」だと感じていた。それを失いたくなかった。それにもう一つ、ここにいれば本社の激しい出世競争に巻き込まれずに済んだ。
 
 そこで上司となる副会長に「現場にい続けたい」と頼み込んだ。毎月の役員会には決して遅刻しないことを条件に、認めてもらった。早速、地元のホテルに新しい事務所を構え、5人のスタッフによる新しいチームをつくった。いずれも頭がよくて抜け目のない、やり手ばかり。それぞれが財務、人事、戦略、法律のプロで、お互いに助け合える専門家チームだ。財務と人事の2人は社内の候補から選び、戦略担当はコンサルタント会社からスカウトした。法務担当は前の職場で法律顧問だった男を登用した。皆個性豊かで気取らず、形式ばったことが嫌いだったから、いつもセーターにジーンズ姿で仕事した。お互いの部屋のドアを開けたまま、呼べば答えられる形で、大学の寮のような雰囲気だった。
 わがチームは視察用のジェット機をチャーターし、全米を飛び回って、各部門の戦略と人事を精細に審査した。私が飛行機を自由に使えることに興奮していると、妻は「あなたってバカね。過労死するまで働けってことじゃないの」と言う。そうかも知れないが、気にしなかった。それでよく月曜の朝に飛び立ち、金曜の夜に戻ってきた。
 
 全米各地のさまざまな事業を現場で調べて、自分が成功するもしないも、自分の雇った人材にかかっていることを痛感した。適材適所が重要なことはわかっていたが、優れた人材を充てれば、まるでその世界が違ってくることがよく実感できた。それをいろんな失敗を通じて学んだ。よくやった過ちは、人を外見で判断したことだ。営業部門では見てくれがよく、弁舌さわやかな人材を採用したが、優れた者もいれば、中身の空っぽな者もいた。
 
 日本では言葉も文化もわからなかったので、英語が達者な日本人を採用した。だが実際には言葉が使えるかどうかを採用基準にしてもたいして意味がないということに気づくのにしばらくかかった。
 
 自分が一流大卒でなかったため、名門校出身者に弱かった。技術者ならMIT、プリンストンやカリフォルニア工科大などの卒業生を採ろうとした。だが優れた人材は出身校に関係ないことが後にわかってきた。私が本当に求めているのは、何事かを達成しようとする情熱と意欲を持っている人間だ。履歴書からは、そうした内面的な渇望がわからない。それは実際に会って話して、感じ取るしかないのだ。

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