担当常務に  甘い人事評価まん延  会長直々に「本社で手腕を」

 4事業部門のグループ担当役員になると、もはやあらゆる細部にわたって自分で統制することなどできはしない。人事がますます重要だと痛感した。
 そこで私の右腕となる人事担当部長を連れて各事業部門を訪ねては、丸一日、まず事業部長と人事担当課長、さらに全課長級と人事問題について意見交換した。10時間から12時間かけて徹底的に議論すると、その事業部の管理職レベルにどんな人材がいるかがよく把握できた。  
 これは各事業部にとっては大変な衝撃だった。自分たちの部署の個々人について長所と短所、強さ、弱さが何かをこれほど突っ込んで議論したことなどなかったからだ。  
 私が現場の管理職と直接対話をすることで、矢面に立たされたのが私の直属の部下である4事業部門の副社長たちだ。彼らは部下の人事考課で、明らかに甘い評価点をつけていた。気づいた私が「この男はそんなに褒めるほどの能力などない役立たずだ」と言うと、驚いたことに「そうだ」とうなずく。「本当のことを書いたら、本社からすぐにクビにしろと指令がくるからね」  
 これが当時のGE主流派のやり方だった。だれも悪い知らせなど伝えたくないから、皆が部下をかばい、いい顔をして、無能な部下でも「十分、昇格・昇進の資格がある」と書くし、部下もそれに甘えている。それは事実を曲げる「親切ごかし」でしかない。そうした「偽りの親切」がのちに合理化に取り組む際の大きな衝撃だった。  
 欧州出身の医療機器部門担当副社長は大言壮語して実績の伴わないのが難点で、辞めてもらった。それに替えて、プラスチック仲間だったウォルト・ロップを「君は技術が好きで好奇心おう盛だからピッタリだ」と口説いた。ウォルトは年商5億ドルもある花形の化学・冶金担当副社長に昇進したばかりで張り切っていたから、年商2億ドルちょっとで赤字の医療部門に異動するのを渋った。それを「これから有望で、人生最高のチャンスだ」とか何とか言いくるめて引き受けさせた。  
 まもなく英国の電機メーカー、EMIが世界でも画期的なCTスキャナーを開発し、X線機器が中心だったGE医療部門への重大な脅威となった。  
 ウォルトは直ちに研究員を動員して対抗製品の開発に取り組んだ。私の役割は毎週、研究の進み具合をフォローし、時々、方向付けを与えたり、声援を送ったりすることくらい。約80人が研究所に寝泊まりして、ピザをかじりながら24時間体制で没頭し、ついにEMIよりも高速で鮮明な画像を出せるCTスキャナーを開発した。  
 1976年初めには1台65万ドルする製品の受注が始まった。ここでもまた、私は中小企業感覚で仕事する良さを実感した。明確なプロジェクトを掲げ、優れた人材を投入し、彼らに潤沢な資金を与えることこそが成功の最良の方式だ。CTの登場によって医療機器事業は決定的に変わった。昨2000年には70億ドルの売り上げで17億ドルの営業利益を生んで、今やGEの宝物となっている。
 77年の終わりごろ、レク・ジョーンズ会長から電話で呼び出された。翌朝、本社に行くと、「君のことは非常に高く評価しているが、君はまだGEの10%しか見ていない」と言われた。「そこで新しい仕事を与えたい。消費財分野担当常務だ。いつまでも“小池の大魚”ではいかん。もっと大きくなるには本社へ来たまえ」  
 これにはうれしさでゾクゾクした。子供も既に大きくなっていたので、妻も新天地で新しい生活を築くことを喜んだ。長女と長男は高校、二女が9年生、二男が5年生だった。

 

会長レース 後ろ盾なく孤軍奮闘 花形家電部門、縮小を決断

 1977年12月から本社勤務になった。私を含めた分野担当常務5人と最高財務責任者(CFO)、それに経営企画担当の上級副社長の計7人が、次期会長レースの公認出走馬と見なされていた。  
 常務5人は本社西棟ビルに部屋を持ち、私の部屋は三階の角、広くて長い廊下を隔てて会長室からは一番遠かった。ビルの中は静かで冷たく、何事も形式ばっていた。本社で働く数百人のうち知り合いはごくわずかで、頼れる者もいなかった。「大池の小魚」どころか、「大海の雑魚」のような感じだった。  本社内には常に会長レースの緊張感が漂い、政治的な思惑に満ちていた。昼食時に役員専用食堂で会長候補同士や取り巻きが顔を合わせてはぎこちない思いをし、発言に気をつけながらサンドイッチをかじっていた。  
 私には大きな問題があった。直属の上司であるD・ダンス副会長が子飼いのS・ゴールト常務を露骨にひいきにしていたことだ。私を引き立てようとしない上司に会ったのは17年間のGE生活で初めてだった。部下の自分が成功することを望んでいない上司の下で働くことほど悪い事態はないだろう。もう1人の副会長も自分が監督する常務2人をかわいがっており、私には後ろ盾がいなかった。  
 幸いだったのは、この2人の副会長がお互いに疎遠で、また会長とも親密でなかったことだ。副会長はともにかつて会長レースを争った仲だった。  
 そこで私はただ、自分が正しいと思ったことをやれば会長が公平に判断してくれるはずだと信じるしがなかった。社内政治から逃れるため、私はできるだけ現場に行った。私が責任を持つ消費財事業グループは全体で年収42億ドル、全社売上高の20%を占めていた。各事業部を訪問しては朝7時半から審査を始め、夜8時に終われば早い方で、その後も外で食事しながらその日の反省と人材の品定めに没頭した。  
 事業の中では家電製品部門をどうするかが最大の難問だった。方針変更は私の前任者、つまりダンス副会長、ゴールト常務に対する反抗になるからだ。彼らは10年以上、家電部門を育て、戦後の中産階級の家電ブームに乗った高度成長がさらに続くと見て、大胆な設備増強計画を進めていた。本社はその楽観的な見通しだけを聞き、現場も拡張ムード一色だし、業界全体もそうだった。  
 だが、わがチームの調査によれば、市場の成長率が鈍り、売り上げも利益も伸びはするが、生産性が落ちていく心配があった。そうした詳細な分析結果を携えて、私は戦闘覚悟でダンス副会長に「事業の大幅縮小」を提案した。すると、副会長は意外にも反対しなかった。せっかち男のお手並み拝見、という程の気持ちだったのだろう。
 わがチームは直ちに主力工場の操業を縮小し、さらに各地の工場新設計画を中止した。主力工場ではまだレイオフ(解雇)になじみがなかったから抵抗が強かったが、現場責任者たちの努力で競争力が高まり、利益率も改善していった。  
 家電部門はその後20年間、同様な努力が続いた。77年に4万7千人だった従業員は現在半分以下、時給労働者を含めて1万9800人に減った。こうした人員削減はまじめに働いている従業員にとっては非常に厳しいものだが、競争の激しい業種ではやむを得ないことだ。  
 戦後ブームだった商品の多くは単なる日用雑貨品となり、利益のきわめて薄い低成長市場となった。そこで生き残るには生産工場を米国の外に移さざるを得ない。何しろ80年に1台1000−1200ドルの価格で売れた冷蔵庫が今や700−800ドルなのだから。  

 

躍進と失敗   金融事業をテコ入れ 放送分野の大型買収断念

 常務として担当する事業の中で、GEクレジットほど有望なものはないと思った。GEの主流からは外れているが、成長の可能性はすこぶる高いと見た。  
 もともと1930年代の大恐慌の時代に家電販売店が冷蔵庫やストーブなどを売りやすいようにローンを組んだのが始まりだった。60年代以降、建設機材や設備類にも融資するリース業や土地融資、クレジットカードの発行など業務が多様化していたが、規模は小さかった。  
 まず専門用語を普通人の言葉に翻訳した「だれにでもわかる金融」冊子をスタッフにつくらせ、大学院時代に戻ったように勉強した。これで金融商品担当者と話ができるようになった。クレジット事業は製造部門と比べると、楽に金もうけができる、と直感できた。研究開発や設備投資にばく大な費用をかけなくていい。必要なのは「知的資本」ーー頭が良くて創造力に富んだ人材を見つけ、GEの強大な資金力を利用すればいい。  
 従業員1人当たりの利益を見ると、よくわかる。GEクレジットは77年に社員7千人足らずで純益が6700万ドル、それに対し家電事業部門は4万7千人以上いて純益が1億ドルだった。当時の私は「ものづくり」しか知らない技術者だったから、これは大変な発見だった。  
 クレジット部門は大きな可能性があるにしては成長のスピードが遅かった。78年春に幹部社員たちと会って、ガッカリさせられた。これは厳しく鍛えなければならん、と幹部を集めては「高校生だと思って基礎から教えてくれ」と質問攻めにした。ある保険担当者の説明が聞きなれない用語を交えてわかりにくいので、「任意保険と特約保険の違いは何だ」と聞くと、またも要領を得ない。たしなめると「私が25年かかって学んだことを5分で教えろと言うんですか」ときた。当然、彼は間もなく会社を去った。  この男は例外ではなかった。むしろ平均だった。それでもそこそこの業績をあげているのだから、この部門がもしA級選手でいっぱいになったら、どんなことになるかーー。何度も缶詰めで議論しては人事考課を見直し、2年間に管理職の半数以上を替えた。新参組の多くはGEの他の部門から、それも組織の下の方から抜てきした。彼らによって、部門が様変わりした。その後、GEキャピタルと名称も変わり、2000年には従業員8万9千人、収益52億ドルにまで成長した。  
 手がけたものがすべてうまくいったわけではない。放送事業で大きな買収案件に失敗した。78年春、ケーブル事業の将来性を見込んで自信をもって重役会を説得し、コックス・コミュニケーションズ社のケーブル事業部門の買収交渉を進めた。初めは順調だったが、連邦通信委員会(FCC)の認可を得るのに手間取っているうち、CATVブームが起き、コックス側が買収価格をどんどんつり上げてきた。交渉に失敗すれば社内での立場が非常に苦しくなることがわかっていたが、79年夏、手を引くべきだと判断した。  
 会長レースでは皆、他の候補を出し抜こうと躍起だった。だがそれは騎手も馬も目隠しされて、だれがどの順なのかわからないレースだった。ジョーンズ会長もまた自分の気持ちを決してだれにも明かさなかった。会長レースが74年に始まって、75年に候補が10人に絞られた時、私の名前などなかったことは後で知った。当時の人事担当重役は私を「目覚ましい業績だが、会長候補には不適。部下を威嚇。社内秩序を守るのに懸念あり」などと評した報告書を会長に提出していたという。  
 不安と疑いでイライラし、GEを辞めることまで考えた。GEの幹部ならいつもヘッドハンターから声がかかってくる。私も有力化学会社の最高経営責任者への転職話に耳を傾けたりもした。

 

飛行機問答  会長が配慮、激戦制す  「後継には私こそ最適」強調

 1979年1月、レグ・ジョーンズ会長に呼ばれて部屋に行くと、ドアを閉めて、2人だけの話が始まった。「ジャック、君と私が社用機に乗っていて墜落事故が起きたとしたら、だれが次のGE会長になるべきかな」。これが後に有名になる「飛行機インタビュー」で、会長候補全員が個別に受ける口頭試問だった。  
 私はすぐさま直感的に「私が何とか助かって、あとを引き受ける」と応じた。「いや、ダメだ。君も私も死ぬんだ」。これには困った。  
 やむなく技術製品・サービス部門担当のエド・フッド常務の名を挙げた。「彼なら頭がよくて思慮深い」。第2候補が電力分野担当のトム・バンダースライス常務。「トムは決断力に富み、タフだ。この2人ならお互い補い合ってうまくやっていけるだろう」  
 会長はさらに他の候補たちについての私の評価を尋ねた。長所や短所、知性、指導力、人格的な信頼性、それに外部でのイメージなどだ。会長はだれがだれとウマが合うかを知りたがっていた。このインタビューは数カ月がかりで何度か繰り返され、候補だけでなく、他の役員からも聴取していた。  
 その年の6月、また会長に呼ばれた。「また飛行機が墜落した。だが今度は私だけが死んで、君は無事だ。どうするか」。ためらうことなく「私がGE会長を引き受けます」と答えた。では、どういう首脳陣を編成するか。私は右腕にフッド常務の名を挙げ、次にジョン・バーリンゲーム国際担当常務を挙げた。ジョンの知性と分析力、それに常にゆったりと構えている精神的余裕に心底から敬意を払っていたからだ。会社の課題については持論を展開した。
 会長はこうしたインタビュー報告をまとめて社外重役中心の経営開発委員会にかけ、委員全員から「新経営陣にふさわしい3人」の名を挙げてもらった。その結果はスタン・ゴールト常務が7票でトップ、フツド常務と私が6票で続いたという。  
 この間、会長のレグはいつものポーカーフェースを崩さず、だれがどんな状況かは毛ほども気取らせなかった。彼が私を選んでくれるかどうか、全く見当がつかなかった。レグと私はあまりにもタイプが違いすぎていた。彼は英国紳士であり、私はアイルランド移民の下町っ子だ。彼は米実業界でも最も信頼されている著名な経営者であり、歴代大統領の顧問役を務めるほど政界にも通じている。私はマスコミにも無名で、政治とは無縁だった。だが私たちはともに貧しい家庭の出で、実力だけで出世した仕事人間であり、数字と分析が大好きで、常に勉強している点で共通していた。  
 8月初め、大きな突破口ができた。ゴルフリゾートでの役員会前夜、レグが副会長2人に「候補を3人に絞り、3人とも副会長にする」と告げたのだ。その3人とは、私とフッドとバーリンゲームだった。はずれた候補は今のポストにしばらく留まるか、退職することになる。副会長2人もその年の暮れまでには退職しなければならない。この決定は翌朝の役員会で満場一致で了承された。秋にはゴールト、バンダースライス両常務、両副会長らが会社を去った。
 新副会長はバーリンゲームが58歳、フッドが50歳、私が44歳。会長は3人に自分の経歴と目標、会社の展望についてメモを提出するよう求めた。私は未熟というイメージを克服すべく8ぺージにわたって自分の思いをつづり「私には知力も度量もあり、修練も積んで、何より指導力がある」と強調した。そして1年後の80年12月レグが私の部屋にやってきて「新会長、おめでとう」と抱擁してくれた。役員会も満場一致で認めたという。
 

 

会長就任  巨艦より高速ボート 会議では意欲・情熱を重視

 1981年4月1日、最高経営責任者(CEO)である会長に就任した。はた目にはさぞ自信たっぷりのタフな男に見えただろうが、本人は内心、不安だらけだった。人前で話すたびに、どもらないように緊張したし、髪の生え際が後退してきたのを隠すのに丹念にくしを入れた。身長を聞かれれば、実際(170センチメートル)より5センチは高く答えた。  
 それまでCEOに必要な対外的な手腕を磨く機会もなかった。政府とはほとんど無縁だったし、マスコミ体験もなかった。ウォール街のアナリストにも、50万人を超す株主にも「ジャックってだれだ」「米国で最も尊敬されてきた実業家の後継者にふさわしい人物か」と、いぶかしがられていた。  
 だが、私には会社の「感触」、今で言う「企業文化」をどう変えるべきか、わかっていた。当時のGEは年商250億ドル、利益15億ドル、従業員40万4千人。業績評価がトリプルAの最優良企業であり、商品はトースターから原子炉まで、国民総生産(GNP)のあらゆる分野に行き渡っていた。社員たちは誇らしげに「スーパータンカー」と表現していたが、私はこの会社をもっと機敏に旋回できる「スピードボート」にしたかった。自立心おう盛な起業家集団で素早く行動し、官僚主義など吹き飛ばす組織づくりだ。  
 現実には当時、どの部門でも工場現場から私のところまで12の階層があり、管理職が全社で2万5千人いて1人平均7人の部下を管轄していた。副社長以上の幹部職は130人を超えた(それが今日では、会社の規模は6倍になり、副社長の数も25%増えたが、管理職は減り、1人が平均15人の部下を監督し、現場からCEOまではどの部門でも6階層以下にまで減っている)。  
 毎年7月には各事業部門の5カ年計画の検討会議がある。各部が分厚い事業計画書を用意して討議するわけだが、事前に細かな想定質問カードを渡されたのには驚いた。見ると、さも計画書を丹念に読んで担当者を喜ばせるような「訳知り質問」ばかりだ。聞けば「これで首脳陣がちゃんと各事業部の問題を勉強している、という印象を与えられますから」だという。そんなバカな。自分で質問できなければCEOなどやっていられるか。私だけではない、重役以下本社の幹部職たちには皆、部下が会議のたびに同様の「安チョコ」を用意して、ボスに恥をかかせまいと腐心している。計画書は官僚制の生命線であり、その見てくれと、技術的な細かな点が本社に厳しくチェックされている。まったく下らん。  私は計画書に事前に目を通そうとはしなかった。会議で重要なのは計画書ではない。担当責任者の頭と心が最も重要なのだ。計画に命を吹き込むのが現場のリーダーたちだ。彼らの意欲、意図をただし、彼らがどれだけ情熱を込めているかを見るのが会議だ。  
 それまではあまりに受け身の検討会が多すぎた。やりとりまで事前におぜん立てできているような茶番劇などいらない。重役が受け身で聞くだけの「審査と承認」などなくすべきだ。  
 幹部会議を開くたびに私はそんな思いをぶちまけ、改善を促した。  
 私は長い間現場にいて、本社スタッフに対して強い偏見を抱いていた。連中は「見せかけの愛想良さ」にばかり心を砕いている。面と向かえば、にこやかに笑みを浮かべているが、背中を見せたとたん、何かこちらの弱みを見つけよう、本音を探ろうというせんさくの目を向けるのだ。  
 そこに革命を起こさなければならない。私はそう考えていた。

 

原発部門の改革  過去の栄光、挑戦阻む サービス特化で業績改善

 1981年の大半を各事業部門の現地調査に費やした。そしてわかったことは、事業が大きくなればなるほど、そこで働く人たちが官僚的になり、決まった手順に従うだけで仕事へのかかわり具合が浅く、熱意が薄くなっていることだった。特に発電装置部門には不満だった。  
 GEの中核部門で、年商20億ドル、その技術とガスタービンは世界のせん望の的だ。重要な部門だけに従業員2万6千人が「偉そう」にしているばかりで、純益は6100万ドルしかなかった。技術や製品ではなく、従業員の態度を変えなければならない部署だった。管理職たちは自分のポストが会社に仕えてきたことへの報酬であり、新しく挑戦する機会ではないと安住していた。製品の寿命も長く、受注から納品まで何年もかかるだけに、仕事のペースを速めたり、興奮したり、意欲的に改善に取り組む雰囲気に欠けていた。  
 カリフォルニア州サンノゼの原子炉部門を訪れた時のことだ。79年にペンシルベニア州のスリーマイル島発電所で起きた事故で、国民の原子力発電に対する支持がほとんどなくなり、事業の根本的な見直しが必要になっていた。サンノゼの幹部たちは50、60年代に原子力の明るい未来を信じて入社した「最高・最良の人材」ぞろいだが、経営会議では、原子炉の受注が今後も年3件あると想定する甘い見通しを出してきた。事故から2年間1件の受注もなく、80年には1300万ドルの赤字を計上していたのに、だ。  
 話を途中でさえぎって、爆弾を落とした。「米国内ではもう1件も取れないことを想定したらどうだ」。連中は衝撃を受け、「お言葉ですが…」とか何とか取り繕いながら「会長にはこの事業がわかっていない」と反論に努めた。だが連中の議論には感情だけで事実がなかった。当時、全米でGE製の原子炉が72基操業していた。「新規受注を期待しないで、既設炉への保全サービス事業に重点を置いたらどうか」とバケツ1杯の冷水を浴びせると、「もし受注体制を崩してしまったら士気にも影響するし、新規受注があった場合に対応できない」と食い下がってきた。  
 大胆なコストカットに抵抗する管理職がよく使う口実だ。「そんなに一挙にぜい肉を取ったら、骨まで響いて組織が壊れてしまう」という理屈だ。たいていの経営者はできるだけショックを和らげようと、コスト節減を一律にチビチビとやっていこうとする。それで市況が悪ければズルズルと際限もなく後退していくから、従業員の不安を募らせるだけに終わるのだ。  
 実際には、戦略を見直して思い切ったコストダウンを断行することで事業がダメになった例などない。市況が回復すれば、担当事業部はたちまち息を吹き返し、活性化するものだ。サンノゼの経営陣は81年春からかけて何度も事業計画を練り直した末、秋には原子炉事業の社員2410人を85年までに160人に減らし、新型炉の研究開発と維持管理・安全対策に重点を置き換える計画をまとめた。その結果、発電部門のサービス事業が充実し、原子炉事業は81年に1400万ドルの黒字となり、それが82年に7800万ドル、93年に1億1600万ドルと増益を記録していった。  
 この成功物語で特にうれしいのは、陣頭指揮した管理職たちが若くもなく、官僚主義を敵とも考えていないGE主流派だったことだ。おかげで社内に明確なメッセージが伝わった。つまり、新GEでは現実を直視し、思い切って実行すればだれでもヒーローになれる、と。それはわが母の教え、「ごまかしてはダメ」とまったく同じなのだ。

1、2位理論  長期展望で事業選別  反対抑え弱い部門を売却

 1981年末、ウォール街のアナリストたちを前に、私は練りに練った「新生GE」論をぶち上げた。未来に勝つ会社とは、どの事業分野でも1位か2位を誇れるだけの引き締まった組織で、しかも最低限のコストで最高級の製品とサービスを全世界規模で提供できる企業でなければならない、伝統にしがみつき、感情に流され、経営の弱点を放置している会社は90年代に生き残れないだろう、と説いた。  情熱を込めた宣言だったが、聴衆は退屈そうで、後で「何を言っているんだか、わからん」とブツブツこぼす者もいた。  
 だが私は、自分の考えが正しいことを確信していた。その後の20年、このビジョンの実現に向けてひたすら「一歩後退、二歩前進」を続けてきたのだ。  
 この「業界1、2位」のビジョンは私自身の経験と、ピーター・ドラッカー氏の考えが基になっている。氏こそ真の経営の神様であり、氏には非常に厳しい質問を突きつけられた。「この事業をこれまでやっていないとしたら、今日これから新しく参入したいと思うか」。答えがノーなら「では、この事業をどうする」だ。単純な質問だが、それだけ底の深い質問だ。私の答えは「直すか、売るか、閉じるか」の選択しかない。  
 当時、GEの将来に危機感を持つ者など一人もいなかった。アメリカの繁栄の象徴たる企業であり、規模も資産も全米トップ10に入っている。だが、アジアからの脅威がヒタヒタと押し寄せ、ラジオ、カメラ、テレビ、鉄鋼、造船そして自動車と次々に侵し始めていた。GEにはトースターやアイロンなどの家電製品をはじめ価格競争に弱い部門がいくつもあった。よく「今もうかっているから、いいじゃないか」と言う人が多いが、それは大間違いだ。長期的に競争に勝てる見込みがない事業は早晩つぶれるだけだ。  
 私はこの「1,2位」理論を説き続け、最初の2年間に71事業の生産ラインを売り、5億ドルの売却益を得た。どれも規模は小さいが、社内の意識を変える効果は大きかった。  
 中でも82年半ばに従業員2300人を抱えるエアコン事業を業界トップの家電メーカーに売却した時には、社内で大騒ぎになった。家電部門の主力工場で製造していたが、市場シェアが10%しかなく、利益率も低かった。特にエアコンは取り付け業者の工事がいい加減だったり、委託業者のアフターサービスが不十分だったりで、苦情が直接GEに来ることが多かった。だがGEには業者をきちんと指導するだけの余裕がない。自分が責任を持てない部分で責任を問われ、会社の評価を落とされる事業は続けられない。  
 売却後、そのままライバル会社に移籍した本部長に電話したら「いい気分だ。あんたはエアコンが嫌いだったし、GE社内では孤児扱いだったが、ここでは皆がエアコンを第一に考えている。皆が勝ち組になったよ」との感想が返ってきた。それこそ私が期待したことだ。弱い部門を強い会社に引き取ってもらい、勝者の一員になってもらう。そうすれば皆が「共存共栄」できるのだ。
 83年暮れには消費者向け家電製品部門を、競争相手に打診されてから3週間で3億ドルで売却した。社内の守旧派は「一般家庭にGE製品が浸透しているからこそ、ブランドイメージが高くなっているのに」と激怒し、社員から抗議の手紙が殺到した。だが、われわれが世論調査した結果は逆だ。アイロン、トースターなどはイメージアップには関係なく、もっと大型のハイテク製品への信頼がGEの評価を高めていた。  
 抗議も承知の上だ。そして、もっともっと激しい変化が来るのだ。  

 

中性子ジャック 失職8万人の大改革 残った精鋭には豪華施設


 GEの42事業部門のうち、どれを残しどこを廃止するかーー。私はそれを3つの円で表現した。中核製造業と技術とサービスの3つの円だ。円内は業界一、二位を誇り、今後とも重要部門として競争力を高めていく。円に入らない事業は容赦なく「直すか売るか、閉鎖するか」の対象とする。製造業の円の中には照明・電気、大型電気製品、発電機、タービン、輸送、受注設備を入れた。エアコン、テレビ、アイロンなど消費者向けのローテク家電製品は円の外だ。  
 円内部門の社員は安どし、事業に誇りも持てただろうが、円外部門の社員は急いで大改革しなければ切り捨てられるという大変な重圧を受けることになった。事業の縮小、人員整理が社内の至るところで進行し、不安と混乱と動揺が続いた。  
 GEの従業員は1980年末に41万1千人いたが、85年末には29万9千人に減った。その間、新規採用が6千人いたので退職者は11万8千人、このうち3万7千人は事業の売却に伴って新会社に移ったが、残る8万1千人は失職した。  
 私はさらに火に油をそそいだ。本社にフィットネスセンターやゲストハウス、会議棟などを新設し、研修センターを大改修した。どんどん人減らしする一方、総額7500万ドルもかけて「非生産的」な豪華な施設をつくることに社員の多くが「矛盾している」と反発した。  
 82年初めから隔週で、社員25人くらいずつ集めてコーヒーを飲みながら自由に議論する円卓会議を主宰したが、いつも質問がその点に集中した。私は経営のルールを「より少ない人たちから、より多くのものを期待する」少数精鋭主義に変えていきたい、最高の人材だけがいればいいし、最良の人間を求める以上、会社の施設、環境も最良のものにしなくてはならないのだ、と説得に努めた。フィツトネスセンターは本社の官僚的な冷たい雰囲気を変え、いろんな部署の人間が地位に関係なく気軽に声をかけあい、家族的な一体感が持てるような場をつくる上で必要なのだ。  
 82年半は、ニューズウイーク誌が私を「ニュートロン・ジャック」と名づけた。建物を破壊せずに人間だけを殺傷する中性子(ニュートロン)爆弾の開発が話題になっていたのをもじったものだ。これには私も傷ついたが、何と呼ばれようと、官僚主義と放漫経営だけは追放したかった。  
 テレビの人気報道番組が「GEは人よりも利益を優先」とする特集を放映したり、終身雇用制度を誇っていたIBMが85年に「職は変わっても、人は変えない」という広告キャンペーンを展開したりするたびに、GE社内では「会長はどう思うか」と突き上げられた。気の毒に、IBMもその後、競争力を失ったら終身雇用制を改めたが。  
 どんな会社も「職の確保」を保証できると考えていたら行き詰まってしまう。「職の確保」は顧客が満足してこそ、つまり市場で勝ってこそ、初めて保証できるものなのだ。だからこそ、GEでは競争できる人に最高の職と待遇を与えるよう意識表革を図った。「終身雇用に値する能力をもっと人材」を育てることに全力をあげた。私は社内で千回以上、「人を解雇するのではない。不要なポストを廃止した結果、その職に就いている人もいらなくなったのだ」と演説した。
 84年夏、フォーチュン誌が私を「米国で最もタフなボス」のトップに置いたのもきつい一撃だった。雑誌のインタビューに元社員たちが匿名で「彼の下で働くのは戦場に行くようなものだ。大勢が撃たれて死に、生き残った者はさらに次の戦場に行かされる」などと語っていた。

 

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