人間工場 人材求め年5000人研修 下位の1割は切り捨てる

 1981年から86年にかけて、本社から車で1時間のクロトンビル研修センターを大改造した。ハーバード大ビジネススクールの教授だった所長と組んで、講師陣も研修内容も全面的に改革した。ここを全社的に最優秀の人材の頭と心に接し、一体感を持って意識変革に取り組める場にしたがったからだ。  80年代前半には管理職の多くが困惑していたが、80年代半ばには私のビジョンと戦略が理解され、反応が良くなった。
 84年から上級コースには必ず出席した。講義や訓示などせず、常に質問を浴びせた。「GEの長所、短所は何か」「日常業務での不満は何か」「自分が会長になったら最初の1カ月で何をしたいか」など。ケーススタディーも工場閉鎖や配置転換、解雇問題、事業の売却や買収など自分の体験を出してもらい、管理職のジレンマをどう解決すべきかで議論した。
 88年には研修センターの受講者が年間5千人に達した。その多くがビジョンに納得したと言いながら「だが現場ではそうはいかない」と言い訳していた。  
 これではいかん。「センターの自由な議論を全社に広めよう」と、所長と一緒に打開策を練る中で
ワークアウト(WO)」プログラムが生まれた。現場の従業員を集めて、第三者的立場の人の司会で仕事の進め方、会議や業務評価の仕方などについてどんどん意見を出してもらう集会だ。その最大のねらいは文字通り、不要な仕事、職務(ワーク)を追い出す(アウト)ことにあった。WO集会は通常2、3日がかりで、課員の提案には課長がその場でイエスかノーかを即決する。即決できなければ管理職の資質が問われることになる。自分のアイデアが直ちに採用されるとわかれば、組織は活性化し、官僚主義を打破する決め手になる。  
 92年までには社員20万人がWOに参加した。これで社員の参加意識を育て、管理職は部下を統制したり説教したりするのではなく、部下を指導するコーチ役に変わった。管理職は優れた人材を育てるのが仕事だ。  
 優れた人材が優れた製品、サービスを生み出してくれる。多彩な人材開発プログラムのねらいは1人ひとりの個性化、差別化にある。人材は多様な個性こそが最も重要だ。
 そこでわれわれが考案したのが「バイタリティー・カーブ」(活性化曲線)で、毎年、全事業部門、全職場で、管理職が部下の総合評価を下す方式だ。部員の2割を指導力のあるトップA、7割を必須の中間層のB、残る1割を劣るCに位置付け、Cの人には辞めてもらうか、別の部署に配置転換する。この評価は必ず昇進、昇給、ストックオプションに見合わせる。AはBより昇給額が2、3倍多く、Cは昇給ゼロとする。  
 管理職も1年目はCを選ぶのも簡単だが、2年目には困難で、3年目には戦争となる。部下をランク付けできない管理職は本人が上司からCにランクされる。Aの人に会社を辞められるのは重大な損失であり、上司の管理職の評価に響く。  
 Cを追放することを冷酷無残だと考える人もいるが、実は全く逆だ。本人が成長もせず、豊かにもならないまま放置しておくことこそ「偽りの親切」で残酷だ。長い間、表面上を取り繕って平等に扱い、中高年になってから「君は要らない」と放り出す方がはるかに冷酷だ。
 経営が苦しくなると、すぐに賃金の一律カットと給料の一斉凍結という手がよく使われるが、われわれは決してそんな経費節減策をとらなかった。どちらも「痛みを分かち合う」という名の下に現実を直視せず、人の差別化をしたくないという逃げの姿勢の表れでしかないからだ。

 

RCAの買収 メディア企業へ布石 懸案のテレビ製造、仏社へ

 GEの社業が大きく変わる決定打になったのが1985年末のRCAの買収だ。63億ドルという買収価格は石油業界以外では史上最高だったが、RCAのトップと初めて会って話をしてから正式契約までわずか36日間で済んだ。  
 RCAが全米三大ネットワークのNBCテレビを抱えているのが魅力だった。ある日、友人からRCAのブラッド会長に会ってみないかと誘われ、友人のマンハッタンのマンションでひそかに会った。すぐにお互いに気に入り、翌日には社内に極秘のチームを作って検討を始めた。RCAもGEと似た多角的な事業をしており、テレビ放送部門は35億ドル、その他も25億ドルの価値があると踏んだ。二度目の会合で「会社を買いたい」と申し込み、当時のRCAの株価より13ドル高い1株61ドルでどうかと提案した。それから数日、価格交渉を続け、最終的に66ドル50セント、ブラッドの想定より50セント高い額で合意した。私は常に交渉に善意のあかしを示すことにしていた。  
 外からは「電灯メーカーがテレビ事業に出て何をするのか」と批判的な声が多かったが、この買収で優れた放送網と戦略的に使えるコマを大量に入手できた。全社的にリストラと規模の縮小を進めている時だったので、社内の険しい雰囲気を変える効果も大きかった。86年1月の幹部会議で登壇すると、会場の500人が一斉に起立し、盛大な拍手で祝福してくれた。  
 RCAの事業のうちレコード、カーペット、保険など非戦略部門を次々に売却し、1年以内に13億ドルの売却益を得た。RCAとGEで重なる部門については直ちに統合し、人員は1+1=1を原則に精査し、両社の優れた方を残していった。
 そのうちテレビ製造部門が大きな懸案だったが、87年夏、フランスを訪問した折に国営電機メーカー、トムソン社のゴメス会長と会い、お互いに助け合うことで一致した。私はトムソンの医療図画像事業部門がほしかったので、GEのテレビ製造部門と交換する案を出した。これでトムソンは日本勢に対抗して、世界最大のテレビ・メーカーになれる。GEも米国の医療機器部門をさらに強力にして、欧州市場でもシェアを3倍に伸ばして、最大の競争相手であるシーメンス社に対抗することができる。話は6週間でまとまり、事業交換と同時にトムソンがGEに現金で10億ドル払い、さらに向こう15年間、テレビ技術のパテント料をGEに年間1億ドル払うことが決まった。  
 これには米国のマスコミが「GEは日本との競争から撤退した」「反米的行為だ」「憶病者」などと反発した。みんなナンセンスだ。トムソンもGEも、ともにそれぞれの強い分野でさらに成功するのだから。  88年秋には、半導体事業もハリス社の会長の求めに応じて工場、従業員丸抱えで2億600万ドルで売却した。  
 さらに航空宇宙部門からも撤退した。89年に東西冷戦の時代が終わり、軍需ビジネスが縮小するのに設備投資が大きすぎるためで、92年に航空専門のマーティン・マリエッタ(MM)社に身売り話を持ち込んだ。同社のオーダステイン会長をGE本社に招いて食事してから27日目には、当時の航空宇宙産業界最大規模の30億ドルで売却した。MM社が20億ドルしか都合できなかったため、残りはGEがMM社の株を25%保有することで決着したが、94年にMM社がロツキード社と合併する際、GEの保有株を60億ドルで引き取ってもらった。  
 こうした一連の大規模な取引は、RCAを買収して各部門の資産を増やしたからこそ実現できたものだった。  

 

29年目の離婚 仕事中毒、家庭顧みず 17歳年下の弁護士と再婚

 1980年代半ば、RCAの買収など仕事上で最大規模の交渉を進めている間に、わが私生活で最大の合併話が壊れつつあった。妻のキャロラインとの間がうまくいかなくなったのだ。  
 私は一貫して極め付けのワーカホリック(仕事中毒)であり、妻は4人の子供を育てる仕事を立派に果たしてきた。長女はハーバード大ビジネススクールで勉強している。長男は私の出たイリノイ大の化学工学の修士課程にいる。二女はハーバード大の建築学の修士課程だ。二男はバーモント大に入った。  
 私は妻には引き続き家庭にいてほしかったが、妻の方は子育てを終えて、外で新しい道を歩みたがった。あれほど私の出世を支えてくれた妻だったが、私がGEの頂点に立って以来、仲がギクシャクしていた。お互いに友情は感じ、尊敬はしていたが、共通するものがなかった。長い間つらく、苦しんだ末、87年4月に、28年間の結婚生活に幕を閉じた。友好的な離婚だった。子供たちに分別があり、理解してくれたのが幸いだった。もし子供がまだ幼かったら離婚は大変な痛手になり、傷ついたことだろう。  
 キャロラインはロースクールに通って法学修士号をとり、大学で知り合った恋人と再婚して一緒に弁護士をしている。金持ちの独身中年というのは、髪のふさふさした長身の美男子と同じようにもてるものだ。皆世話好きで、いろんな魅力的な女性たちとデートした。  
 その中で、シティコープ会長でGEの社外重役でもあったリストン夫妻が紹介してくれた女性に一目ぼれした。リストン夫人の弟の法律事務所で働いているジェーン・ビーズリーという企業の合併・買収(M&A)専門の弁護士だった。初めて引き合わされたのは87年10月、マンハッタンのイタリア料理店で、最初はぎごちなかったが、食後に2人でバーに行くと、話が弾んで看板までいた。二度目のデートは革ジャンにブルージーンズというおそろいの格好でハンバーガー屋に繰り出した。  
 ジェーンは頭が良くて、気が強くて、機知に富んでいる。私より17歳年下で当時34歳、何から何まで地に足がついている女性だ。アラバマの小さな町の出身で、子供のころには一家の農場で毎朝5時半には豆採りに行っていた。母は教員、兄弟は男ばかり3人でじゃじゃ馬娘に育ち、ケンタッキー大のロースクールを出ていた。  
 ジェーンは初め、私を結婚対象とは全く考えていなかった。88年夏、ボストン沖の保養地、ナンタケット島にある別荘に招待した時のことだ。金曜の夜、レストランで食事し、土曜の朝、私が着替えてゴルフに出かけようとすると、「私を置いてどこに行こうって言うの」ととがめられた。この別荘は島でも最高のゴルフ場のコースわきにあり、夏の間、ここに来るのはゴルフをするためなのだが。「冗談じゃないわ。私が大変な苦労をしてようやく週末の休暇を取ったというのに」と責められた。  
 お互いに結婚する気になったころには、私が「スキーやゴルフを覚えてくれなければ困る」と言い、彼女は「一緒にオペラに行かないのはダメ」と主張した。これでゴルフとオペラが交換条件になった。私が望むのは常に私と一緒に行動してくれる伴りょであり、ジェーンには仕事を辞めてもらわなければならない。その実験もやってみて、彼女は最終的に私の方にフルタイムで就職することを決めてくれた。  結婚したのは89年の4月。ナンタケツト島で、4人の子供たちも出席して祝ってくれた。ジェーンは最近、島のゴルフ・コンペで4年連続優勝を果たしている。私はまだ2回だ。彼女はパーフェクトなパートナーになっている。
 

 

日本との関係 35年の信頼、今も強く 現地採用・女性重視が成果

 GEは1870年代に発明王、エジソンが創業した会社が前身で、それ以来、常にグローバルに活動してきた。20世紀の初頭に日本で最大の発電所を造ったのはGEだ。第二次大戦後もGEと日本との関係は着実に発展し、私が初めて来日したのは1966年、GEの中でも小さなプラスチック部門の幹部として市場開拓するためだった。そこで幸いにも長瀬産業のトップと出会い、合弁事業を始めることができた。GEが技術と製品を持ち込み、長瀬が日本の複雑な営業、販売のノウハウを提供してくれた。
 70年代後半には日本の医療機器市場に参入するのに同じ方式で横河電機と組んだ。提携相手には比較的小さな会社の方が成功する。合弁事業がその会社の社運にかかわるため、何か問題が発生した時に直ちにトップに連絡でき、大企業のような官僚的な手順抜きで素早く対応してくれるからだ。私も日本人の決断が遅いことによくイライラさせられたが、彼らが決めたことには全幅の信頼が  置けた。この35年間、日本でのビジネスの関係は常に個人的な友情として長く固く結びつく関係になってきた。  
 会長になって以降、毎年1回はアジア、ヨーロッパの事業を見て回った。工場の完全自動化を目指す「未来の工場」構想を練る中で、工作機械の数値制御で業界をリードしていたファナックに注目した。85年秋にニューヨークで稲葉清右衛門社長に会い、たちまち意気投合し、翌年には50%ずつ共同出資する合弁企業を設立した。2億ドルという出資額はGEが80年代を通して行った最大規模の海外投資だった。  
 その後も、交渉で日本人と握手するのは、他の国でがんじがらめの契約文書を交わす以上に重い価値があることを私は身をもって体験してきた。日本人のビジネス・パートナーとしての信頼性、常に最高のものに挑戦する姿勢、より優れた品質のものを目指す献身的な努力は決して衰えることがない。そうした日本の友人たちに対する私の深い尊敬の念も決して変わることはなかった。  
 日本経済が低迷していた90年代半ば、日本の資本市場の規制緩和でGEキャピタルも機敏に動き出した。まず94年、ミネベアの持つ資産10億ドルのクレジット事業を買収し、98年2月には東邦生命保険と5億7500万ドルの合弁事業を始めた。  
 98年7月には日本の消費者金融5位のレイクを60億ドルで買収した。交渉は複雑きわまり、まとまるのに3年かかった。たまたま交渉成立直後に、世界的に著名な個人投資家、ウォーレン・バフェットとゴルフをしたら、「レイクを買ったのは最高の取引だ」と言う。詳しい内情まで知っているのに驚いていると「もし、あんたがいなかったら、私が買っていたよ」と言われてしまった。  
 90年代から事業のグローバル化に拍車がかかる中で、米国人の海外駐在を減らし、現地採用の人材の登用に力を入れてきた。例えば、日本に年収15万ドルの駐在員を1人派遣すると諸経費含めて50万ドルかかってしまう。だから事業幹部たちには「君の友人を1人派遣するのと、頭の良い東大卒を3,4人雇うののと、どっちがいいか」よく尋ねた。  
 ただ日本では、外資が優秀な男子を雇うのは難しい。そこで私は女性に注目し、GEジャパンに「女性を求め、女性から求められる会社」のPRキャンペーンを展開してもらった。  
 今年5月の日本出張では幹部候補の女性14人と一緒に食事し、女性に夢を実現する機会を与えることがどんなに素晴らしい結果を生んできたかを実感できた。  

 

CEOとは 自信と聞く耳を持て 人材なくして戦略はない

 最高経営責任者(CEO)というのは、とんでもない仕事だ。1年先まで予定が埋まり、それでいて毎日予期せぬ危機が起きて日程が狂い、1日が非常に長く、しかももう少し時間がほしいと焦るほど時が速く過ぎ去っていく。重大な決断をする重圧が常にある。何をしていても仕事が頭から離れない。  勝つ喜びも、負ける苦しみもある。だが良い方が悪い方より圧倒的に多く、面白さは何物にも換えがたい。義理で出席しなければならない外部の退屈なイベントやパーティーは多いし、出たくもない業界の会合も多い。中には大統領招待の公式ディナーなど、亡くなった両親に見せたかったと思うような特別に名誉なものもある。  
 典型的な1日というのはまずないが、例えば今年5月のある日を紹介するとーー。午前8時半からGEキャピタル役員会。月に1度の「決裁日」で、日本の生命保険会社を買収する案件、ミシシッピ州の発電所に5億ドル融資する案件など11件が議題だ。GEキャピタル社長が提案理由を概説し、GE本社の財務担当役員が審査結果と問題点などを示しながら個人的な評価を下す。それを基に議論し、9件が了承された。40億ドルの買収案件が再検討に回され、ニューヨークのオフィスビルヘの1億1100万ドルの融資案件が却下された。これで4時間以上かかった。  
 サンドイッチをつかんで次の会議室に移り、大詰めを迎えたハネウエル買収問題の協議。ハ社から幹部社員も来て、買収後の事業統合の折衝と欧州委員会の動向を分析する。これでたっぷり2時間かかった。  
 午後3時からの会議は、私がいつも楽しみにしているもので、それまで6週間に実施した現場視察の総まとめだ。事業現場を訪ねれば、どこでも常に3、4人の新しいスターを発見する。彼らにどんな機会を与えるべきか、それぞれに3−5つの新しい職務を想定して議論する。それで必然的に各事業本部幹部のだれを配置転換させるべきかも検討することになる。特に各事業会社役員のうちの下位10%にランクされた人たちをどこへ動かすか。ある子会社の下位10%の人でも、他の子会社の中核70%の人より有能だということがよくある。そこで人事異動案をめぐって、議論が白熱する。この日の会議が終わったのは午後8時過ぎだった。それからようやく、締め切りの過ぎた自伝の執筆に取りかからなくては、と気を取り直すのだ。やれやれ。  ここでCEOが重視すべきポイントを列挙してみよう。  ▽常に首尾一貫していること。別に私がいつも正しいとは限らないが、私が何を求めているかを常に率直に周囲に伝えて、組織に統一性を与えることだ。  
 ▽形式張らずに自由で気楽な雰囲気をつくること。序列や段取りを重視する官僚主義は人と人との間に壁をつくるだけだ。地位、肩書に関係なく、だれもが自分の意見を尊重してもらえると思える組織を目指す。  
 ▽傲(ごう)慢と自信の違いを知ること。傲慢な人は他人の言葉に耳を傾けない。自信のある人は異論、異見を歓迎し、素直に耳を傾けるだけの勇気を持っている。  
 ▽人が第一、戦略は二の次と心得ること。仕事で最も重要なのは、適材適所の人事であって、優れた人を得なければ、どんなにいい戦略も実現できない。  
 ▽実力主義で明確に差別待遇すること。差別化は実に辛く厳しい。部下を気楽に差別化できる者は組織人間ではないし、差別化できない者は管理職失格だ。  
 ▽最高のアイデアは常に現場から生まれる。本社は何も生まないし、何も売らないことを肝に銘じよう。

 

後継者選び 23人を6年かけ選考 最終3人「会長か退社か」

 後継者にだれを選ぶか、というのは最高経営責任者(CEO)の最大の課題だ。私が会長を20年務めている間にトップが5人も6人も交代した企業がいくつもある。会社の「顔」がひんぱんに変わるのは決して好ましくはない。GEではそんな不安定なことはしない。そう思って1994年春から次のCEO選びに取り組んだ。私が20世紀を締めくくり、新会長が新世紀の門出を担うことを想定した。  
 後継者はだれが見ても疑問の余地のない優れた指導者でなければならない。選出の過程で政治的な動きがあってはならない。決定には社外重役を中心とする役員会が深く関与し、役員が一致して支持する必要がある。後継者には最低10年間は務めてもらうーーそう考えた。  
 われわれは常に、交通事故などの緊急事態が発生した場合にだれが後継者にふさわしいかというリストをつくっている。それを広げて、人事担当役員と私とで最初に挙げたのが23人。全事業部門の優秀な人材を網羅し、最年少が36歳、最年長が58歳だった。その全員について、2000年までにどんな仕事をしてもらうべきかを考え、特に若い人には国際的に活躍する場を設定した。  
 94年6月には社外重役を中心とする経営開発委員会に「理想のCEO」の条件と候補名を示し、以後、23人の人事異動はすべてCEOに足る人物かどうかをテストする形で行った。毎年6月、12月の開発委員会にはその結果を報告した。社外重役たちが候補者たちと接する機会として4月、7月にはゴルフ・コンペやテニス大会を開き、夫婦同伴のクリスマス・パーティーも催した。98年6月に候補を8人に絞り、同年末には最後の3人にまで絞った。航空機エンジンのCEO、ジム・マクナー二−、電カシステムCEOのボブ・ナーデリ、それに医療システムCEOのジェフ・イメルトだ。事実上の公開レースであり、マスコミの取材攻勢も一段と激しくなってきた。  
 私自身の苦い体験から、最終候補3人を本社に置くことはしなかった。ジムはシンシナティ、ボブはニューヨーク、ジェフはミルウォーキーと皆、本社から離れた現場にいる。その方が3人とも業務に専念でき、派閥争いなど社内政治に巻き込まれずに済む。私にしてもそれまで現場を丹念に見てきたので、3人をよく知っている。3人とも業績は抜きん出ていて、指導力はあるし、性格もいい。まったく優劣をつけがたく、GEの誇れる最高の財産だ。だが私の後継者になるのは1人であり、選ばれない2人をどう処遇すべきか−−。私も悩み続けた。  
 その解決策は2000年末の最終決定を控えて、半年前の6月にシャワーを浴びていてひらめいた。私はよくシャワーで妙案を思いつく。はずれる2人には私の責任で引導を渡すべきだ。そこで3人に「直ちに自分の後任を選んでほしい。年末までに引き継ぎをして、年末に私の後任になれなかった者は社外に新天地を求めてほしい」と伝えた。3人とも「上がるか、出るかの岐路か」と驚いたが、それが会社のために最も良い方法であると理解してくれた。  
 そして私はジェフを選んだ。11月の感謝祭の休暇の時、役員会も全員一致で賛同した。ジェフ夫妻をフロリダの私の別荘に呼び、「新会長おめでとう」と祝福した。その後、直ちに1人で専用機に乗り、休暇中のジムとボプの所を巡って結果を直接、私の口から伝えた。2人とも落胆はしたが、うなずいた。10日後にはジムは3M社のCEOに、ボブはホーム・デポ社のCEOにスカウトされ、転職していった。  
 

 

新たな始まり  社員と家族、人生彩る  第二の人生は経営指南役

 GEでは1994年から毎年、匿名で社員の意識調査をしている。「GEで働くのは自分にも家族にもいい影響がある」などの満足度で「イエス」が90%以上あるのがうれしい。会長としての20年間、仕事の75%近くは人事だった。世界で最も頭が良くて、最も創造的で、最も競争心に富んだ人たちと一緒に仕事をしてきた。その多くは私よりも優れている。一緒に素晴らしい会社づくりができたことが私の誇りだ。
 会長職を去る時、社員に「GEは今後10年で過去20年間よりもっと激しく変化するだろう。昨日は忘れて、明日に立ち向かってほしい」と言い残した。彼らならそれができるはずだ。  
 65年間のわが半生を振り返って痛感するのは、いつもそばに私を支え、励まし、深い愛情で包んでくれる人がいたことだ。おかげで世界が随分明るく、楽しく、教えられることが多かった。私が実物よりもよく見えるようにしてもらえた。  
 連載中、読者から非常にたくさんの好意的な感想や意見、質問が寄せられた。特にわが母の話に「感激した」「子育ての参考になった」という声が多かったのは、私としても実に誇らしく、うれしい。  
 この連載の基になっている自伝は英文で500ページ近くあり、今月末、日本経済新聞社から出版された日本語訳は上下2巻で計700ページに達する。連載は原著の1割程度しかない。自伝では特に私の経営哲学とその具体的な実践例を詳しく書いているので、「履歴書」の読者にはぜひ読んでいただきたいと思う。  
 読者からの質問で多いのは、今後の日本をどう思うかだ。  
 私は日本の将来は明るいと確信している。日本企業は常に産業界の質の向上、より少ないコストでより高い価値を生み出すことに貢献してきた。そうした改革精神の持ち主として象徴的なのがソニーであり、その姿勢は故盛田昭夫氏から出井伸之氏まで一貫している。東京電力の歴代トップは、日本の市場開放に努力し、日米間の摩擦の緩和に真剣に取り組んできた。  
 経済再建には痛みが伴い、時間もかかるだろうが、日本にはそれを実行できる優れた経営者がたくさんいる。例えば私の仕事上のパートナーでは、キヤノンの御手洗冨士夫、日本航空の兼子勲、全日本空輸の野村吉三郎、東芝の西室泰三、日立製作所の庄山悦彦、信越化学工業の金川千尋の各氏らで、彼らには変革に取り組む勇気がある。日本は今後とも世界の発展に貢献してくれると信じている。  
 もう一つ、集中した質問が私の今後の予定についてだ。  
 これまで政府高官のポストや政界に出てはどうかという話がいくつか持ちかけられたが、どちらにも全く関心がない。政治的な交渉は嫌いだし、官僚主義は私が一貫して反対してきた世界だ。自分の思うことも率直に言えずに、自由な行動を縛られるのは願い下げだ。  
 大学教授のポストにも興味がない。教えるのは好きだが、世間知らずの学生よりも実社会で奮闘しているビジネスマン、特に経営幹部を相手にしたい。多くの企業から誘いがあり、顧問役はいくつか引き受けるつもりだ。  
 来週、東京で日本経済新聞社主催の特別セミナーに登壇する。尊敬する日本の友人たちと再会できるのがの何より楽しみだ。  
 GEを引退したが、人生から引退したわけではない。終わりでなく新しい人生の始まりだ。95年に心臓のバイパス手術をして、体調はすこぶるいい。もっと妻と一緒にゆっくりできる時間が増えるのを期待している。