IJPCプロジェクト史 ー日本・イラン石油化学合弁事業の記録ー            IJPC年表

  IJPCプロジェクト史編集委員会 1993年3月

序章 はじめに

 IJPCプロジェクトは、ペルシャ湾沿岸のバンダルシャプールに、近隣の油田から発生する石油随伴ガスを原料として、大規模な石油化学コンプレックスを建設することを目的とした、日本とイランの共同事業であった。
 IJPCはイラン法人Iran-Japan Petrochemical Co., Ltd.の略称であり、イランのNational Petrochemical Company(国営石油化学会社略称NPC)が株式の50%を保有し、日本法人の海外投資会社であるイラン化学開発株式会社(英文名Iran Chemical Development Co. ,Ltd.略称ICDC)が同じく50%を保有した。
 ICDCの中核となった株主は三井物産、三井東圧化学、東洋曹達工業(現東ソー)、三井石油化学工業、日本合成ゴムの5社であり、ICDCの清算時には5社合計でICDCの81%の株式を保有していた。
 IJPC設立の基礎となった合弁事業基本契約書(BasicAgreement略称B/A)は1971年10月に締結された。豊富な石油資源を持つイランは、当時パハラヴィ国王の治下にあり、中東で最も安定し発展性に富む国とみなされていた。そして、石油資源をただ原油として輸出するだけではなく、石油採掘に伴い発生する随伴ガスを有効活用して産地に石油化学工業を興し、石油から付加価値を生み出すとともに、近代的な化学工場操業の技術移転を受けたいという強い希望を持っていた。
 一方、わが国としては、経済発展を維持するためには、大量の石油の安定確保が必要であり、当時メジャー経由とはいえ、わが国の原油総輸入量の約40%を供給していたイランとの関係を緊密化することは重要な国策であった。従ってイランの要望に応え、現地に石油化学工場を建設・操業するという計画は時宜を得たものであり、事業主体となる関係者のみならず、政府も財界もこのプロジェクトの成功に大きな期待を抱いたのである。
 しかし、IJPCプロジェクトは遂に未完のまま終った。1971年10月のB/A締結後、1973年秋にオイル・クライシスが起り、建設予算の大幅な増額が必要となった。漸く本格的なプラント建設工事が始まったのは、B/A締結後5年を経た1976年秋からである。ところがその2年後、イラン革命のために工事が中断された。だが革命政府は、IJPCプロジェクトの完成を熱望した。これに応えて日本側がナショナル・プロジェクトの体制を組み、漸く工事再開準備が始まると、今度はイラン・イラク戦争が勃発した。1980年9月にイラク空軍機が建設現場を爆撃して以来、1988年8月に休戦協定が成立するまでに通算20回の爆撃を受け、重量べ一スで85%出来上がっていた石油化学工場の施設に致命的な損害を与えた。
 戦争中も工事再開を追るイラン側と、戦争という異状事態によりB/Aに基づくプロジェクトの事業性は完全に失われたとする日本側の主張が対立し、その後一時的な妥協によりB/Aの補完協定が結ばれて工事の再開が試みられたが、これも空爆の激化により再中断となった。
 これ以後、日・イ双方の関係者間で行われたIJPCプロジェクトの今後の取扱いをめぐる話し合いは、1988年8月にイラン・イラク戦争の休戦協定が成立した後も延々と続けられ、漸く1989年10月に至り話し合いが成立して合弁事業解消合意書(Deed of Separation)が締結され、日・イ共同によるIJPCプロジェクトは解消された。B/A締結後実に18年の歳月を要している。
 本プロジェクトの発端を求めると、第一次訪イ経済使節団がイランを訪問した1968年11月に遡ることになり、また、日本側の海外投資会社であるICDCの清算は1991年12月であるから、プロジェクトの実質期間は23年に及んでいる。これだけの歳月をかけ、膨大な資金とマンパワーを投じたIJPCプロジェクトであるが、実際に建設工事が行われたのは土地造成などの先行工事が2年半、プラント建設が2年半の合計5年間に過ぎず、あとはひたすら事業の再検討と交渉に時間が費やされて終結を迎えたのである。
 パハラヴィ国王の悲願に発し、ペルシャ湾沿岸に最新鋭の石油化学コンプレックスを作り上げるという壮大なプロジェクトは、イラン・イラク戦争によって完全に頓挫し、革命政権のラフサンジャニ大統領の政府によって日・イ合弁の解消が行われた。合弁の日本側当事者は日本への重要な原油供給国であるイランの希望に応えることが国益に沿うとの認識の下に、民間企業としてプロジェクトの事業性を絶えず念頭に置きながら本事業を進めてきた。しかし事業性を覆す要因が余りにも大きく、遂に合弁解消の止むなきに至ったのである。

第一章 プロジェクトの発端から合弁事業基本契約書の締結まで
(以下、同書の「各章の要約」)

 1968年11月、日本財界代表による経済使節団がイランを訪問し、パハラヴィ国王をはじめイラン要人と会見して、日本の対イラン貢献策を話し合った。
 当時のイランは、第二次大戦中に不安定な政権を継承したパハラヴィ国王が、20余年を経てこれを安定化し、豊富な石油資源をもとに野心的な経済開発計画をすすめていた。メジャー経由ではあったが、輸入原油の約40%をイランに依存していた日本としては、原油供給の確保のためにも、中東第一の安定国と考えられていたイランとの関係を深める必要を感じていた。
 イラン南部の油田地帯を視察した使節団一行は、空を赤々とこがす石油随伴ガスの炎を見た。このガスを活用して石油化学の一大コンプレックスを作りたいというのがイラン側の熱望であった。帰国した使節団各社のうち、三井物産が翌1969年2月に現地に調査団を送り、石油化学プラントの採算性調査を開始した。調査の結果、採算性はあまり芳しくないことが判明した。同年11月に三井物産は調査打切りを企図したが、イラン側当事者である国営石油化学会杜(National Petrochemical Company 略称NPC)の熱心な態度に動かされて、再調査を行うことになった。
 一方、イラン国営石油会社(National Iranian Oi1 Company 略称NIOC)は、1970年7月、イラン油田の開発に外国資本を呼込むため、1971年4月に陸上鉱区と海上鉱区の国際入札を行うことを発表した。この中の陸上鉱区であるロレスタン地区は、成功の可能性が大きいという情報に基づいて、日本の石油開発公団(現在の石油公団)が帝人に声を掛け、帝人が北スマトラ石油、三井物産等を呼込んで日本グループを結成し、鉱区落札を狙うことになった。
 鉱区落札のためには、利権料支払いのほかに、付帯条件としてイラン側と何らかの事業を行うことが必要であった。当初イランは、付帯条件として日本に共同の石油精製施設を作ることを目論んだが、これは日本政府の承認するところとならず、代りにイランにおける石油化学プロジェクトの推進が登場し、これを行うことが石油鉱区落札の切り札となった。
 1971年4月、第二次経済使節団がイランを訪問した。これは帝人や三井物産などの石油鉱区開発グループを激励するものとなった。それまで石油鉱区開発とは別個の独立プロジェクトとして慎重に検討中であった石油化学プロジェクトは、ここで急遽具体化が急がれることとなり、日本側は石油化学プロジェクトにつき種々の留保条件を付けながらも、これを石油鉱区入札の付帯条件とすることを決めた。この条件で応札することにより、1971年6月、日本側はロレスタン鉱区を落札した。イラン側は、NIOCとの鉱区開発契約書の調印と、NPCとの石油化学プロジェクトの協定書(Letter of Understanding 略称L/U)の調印とを同時に行うことを要求してきた。日本側はこれに従い、1971年7月27日に上記の契約書と協定書に調印した。こうして石油化学プロジェクトは、石油開発のための付帯条件として急遽取上げられたものが、協定書の調印とともに、石油採掘の成功不成功とは切離されて、一個の独立したプロジェクトとなった。
 石油化学プロジェクトについてはL/Uに基づいて合弁事業基本契約書(Basic Agreement 略称B/A)が作成され、1971年10月19日に調印された。イランヘの海外投資の窓口会社として、石油鉱区開発グループはイラン石油鰍、石油化学グループはイラン化学開発鰍設立した。

第二章 第一次事業計画の作成

 1971年10月19日、石油化学プロジェクトにつき、日・イ当事者間でBasic Agreement (B/A)が締結され、その2ヶ月後に日本側の海外投資会社であるイラン化学開発株式会社(ICDC)が、三井物産、東洋曹達工業、三井東圧化学、三井石油化学工業の4社によって設立された。ICDCは数多くの調査ミッションをイランに送り、イラン側パートナーであるNPCとともに事業計画の作成に取りかかった。
 1972年3月に石油開発のためのイラン法人Iran-Japan Petroleum Companyが設立された。同年8月には、日本財界が第一回イラン投資会議代表団をイランに送っている。この間にICDCとNPCは石油化学プロジェクトの事業計画・建設計画の作成に熱心な討議を続けていた。採算性を重視し、製品の選別生産と段階的な全品種への移行を主張する日本側と、全品種同時生産を主張するイラン側との調整作業である。
 1973年4月には石油化学プロジェクトのためのイラン法人Iran-Japan Petrochemical Co.,Ltd. (IJPC)が設立された。同月に日本合成ゴムがICDCに参加している。IJPCの第一期生産計画は同年12月に漸く決った。しかし、その直前の10月にオイル・クライシスが発生し、世界経済に暗雲を投げかけた。

第三章 オイノレ・クライシスによる計画の大幅見直し

 1973年10月に勃発した第四次中東戦争が引金となり、産油国の減産と原油価格引上げによってオイル・クライシスが発生した。この結果、世界中を巻込んだコスト・インフレが起こり、IJPCのプラント建設費用も際限もなく高騰するに至った。即ち、B/A締結時に見積った建設予算1,288億円は、1974年10月の見積りでは7,409億円に膨脹した。日・イの当事者間でこの打開策を協議した結果、井戸元からIJPC工場用地までのガス回収関係設備の建設はイラン側が自前で引受けることに変更し、その他種々の努力を行って、プラント建設費用を漸く約5,500億円に圧縮した。
 この新予算のもとに、停滞していた石油化学プロジェクトは再び動き出し、日本では輸銀による制度金融の審査が再開された。1975年5月、IJPCの取締役会は“ジャパニーズ・ウエイ”と呼ばれる建設方針を承認した。しかしオイル・クライシス後のインフレの続伸により建設費用が再膨脹し、予算5,500億円に対して再見積り額は8,450億円となった。これを、建設方式を大幅に修正することによって、漸く5,876億円に抑え込んだ。日本側パートナーの間では、東洋曹達工業のICDCへの出資比率が30%から15%に変更となった。1976年8月には制度金融実施のための諸協定が日・イ政府間で調印された。
 こうした紆余曲折の末、1973年末頃より始められた土地造成工事に続き、1976年夏頃から現場での試験杭打作業が始まり、やがてIJPCの本格的なプラント建設工事が始まった。12月には原料ガスの供給元であるNIOCを交え、NPC, ICDC, IJPCによる4者会談が開催されたが、原料価格問題の解決には至らなかった。

第四章 建設開始からイラン革命による中断まで

 1977年が明けて、IJPC建設本部の日本人スタッフが建設サイトに移動を始めた。2月には、イラン側の提案で、一時延期されていた塩ビモノマー・プラントを第一期建設工事に入れることがIJPC取締役会で承認され、建設予算は6,093億円に増えた。
 建設費の資金手当もつき、工場建設が進み出した。しかし採算性把握の重要なファクターである原料ガスの価格は依然確定せず、製品の販売価格の見通しも不透明であった。
 プラント機材の総重量は108万トンに上り、大半が日本から海上輸送された。1977年9月には塔槽類の建設が始まり、10月には第一号タワーの据付け記念式典が行われて建設工事は最盛期を迎え、暫くは極めて順調に進行した。同年12月にはICDC親会社の社長ミッションが訪イし、パハラヴィ国王はじめ要人と会談した後、バンダルシャプールの建設現場を視察した。
 一方、ロレスタン鉱区における石油試掘は9本目までの試掘が不成功に終り、日本側は10本目に望みをかけていたところ、1977年7月に合弁パートナーの一社であるモービル社が開発断念を申し入れてきた。日本側は種々折衝したが、モービル社の翻意は得られず、結局1977年12月にNIOCに鉱区を返上することになり、石油開発は実現に至らなかった。
 1978年に入ると、イランの国内情勢に不穏な兆しが現れはじめ、1月には古都コムでイスラム神学生による反国王デモが行われ、数十人の死傷者が出た。これを皮切りに主要都市で反体制運動が激化して行った。そのさ中の9月に福田首相がイランを訪問し、パハラヴィ国王と会見後IJPC建設サイトを空から視察した。
 1978年10月には全国一斉ゼネストが発生し、サイトでもイラン人労働者の6割がストに突入するという事態になった。NPCモストフィ社長は同年12月、痔の手術を理由にロンドンに出国した。翌1979年1月には遂にパハラヴィ国王と家族がエジプトヘ脱出した。2月には亡命中のホメイニ師が帰国して革命委員会が結成され、3月には国民投票によりイスラム共和制が承認されて革命が実現した。
 革命委員会によって首相に任命されたバザルガンは、和田駐イ大使と会談し、革命政府はIJPC事業を継続すると明言した。
 革命による混乱のため、建設作業の続行は最早不可能であった。日本人は2月から順次イランよりの引揚げを始め、3月に行われた八尋ICDC社長とNPCアベディ新社長との会談で、建設現場要員の総引揚げが合意された。しかし、日本航空の定期便ストップもあって引揚げはかなり混乱し、5つのルートに分かれる結果となった。3月末には日本人スタッフ全員の建設現場よりの引揚げが完了した。この時点でのプラント建設の進捗状況は、重量べ一スで原料ガス分留プラントの95%完成を最高として、全体では平均85%の完成度であった。

第五章 ナショナノレ・プロジェクトヘの移行と建設再開

 イラン革命による社会混乱のため、IJPCのプラント建設工事は中断され、1979年3月26日には日本人スタッフ全員が建設現場から引揚げた。3月30日の国民投票の結果、イランは4月1日にイスラム共和国を宣言した。イラン新政府を逸早く承認した日本政府は、イランとの友好関係維持強化のため、イランには出来得る限り協力したいという姿勢を示した。
 イランから工事再開の要求が来ることに備えて対策を協議したICDC親会社5社は、IJPCプロジェクトは最早民間企業のリスクの限界を超えているとの判断に立ち、プロジェクトをこれ以上推進するためには、政府の参加を得たナショナル・プロジェクトとする必要があるとの結論に達した。この方針に基づき日本政府への支援要請が始まった。
 イランに協力することを基本方針とする日本政府も、当初は各省によって見解に差があったが、徐々に実現化の方向に固まり始めた。ICDCから、IJPCプロジェクトに関係している日本の民間企業に対し、ICDCへの出資要請も行われた。
 5月1日に山下三井物産常務がICDC社長に就任し、訪イの上、イラン側に建設再開のための2案を提示した。しかしイラン側の回答が出ぬ内に、3ヶ月の工事中断期限の6月末となったため、ICDCはNPCに中断期間の延長を申し入れた。7月に入り山下ICDC社長が再訪イしてNPCとの間に工事再開のスケジュール・予算・資金調達の大綱につき覚書を締結した。
 IJPCのナショナル・プロジェクト化への動きが具体化して、1979年9月には天谷通商産業審議官を団長とする通産、外務、大蔵、経企庁、輸銀、協力基金のミッションが訪イし、天谷団長とアベディNPC社長との間で、所要資金総額上限 7,500億円・追加供与資金上限 2,000億円等を骨子とする覚書が締結された。そして帰国後の天谷団長の報告に基づき、政府出資の基本方針が決まった。10月の江崎通産相の訪イにより、11月11日に工事再開式典を行うことも内定した。
 ところが11月4日にテヘランで米国大使館の占拠・人質事件が発生し、米国は対イラン経済制裁を発動した。11月11日の工事再開式典は中止された。バザルガン内閣の総辞職に伴い、アベディNPC社長も辞任して日本側は交渉相手を失った。漸く12月になってモルシェド石油省次官がNPC社長代行となり、IJPCの株主総会・取締役会を12月19日に開き緊急案件を議決することになったが、この取締役会もイラン側の都合で突然延期された。
 1980年に入っても、イラン側は日本に工事の早期再開を追りながら、一方日本側の提案する予算は拒否するという態度を取り続けた。2月になって日本側は、取り敢えず費用を立替えて部分工事を始めることにしたが、2月20日にモインファル石油相がIJPCの支払いを一切停止する指令を出した。その直後クーヒャ代表が就任して日本側の折衝に当たった。事態打開のためICDC幹部が訪イしてクーヒャ代表と会談し、漸く共通設備の工事再開と工事全体の見直しにつき覚書を締結した。
 1980年3月31日に、海外経済協力基金から第1回目の出資金28億円が、ICDCに払い込まれた。

第六章 イラン・イラク戦争勃発から基本契約補完協定の締結まで

 イランはホメイニ師のもと、イスラム共和国としての国粋主義的行動をとり、国際的に孤立した。1980年4月にアメリカがイランと断交し、ECはイランよりの大使引揚げを決定した。そうした中で、イラン側は、IJPCプロジェクト工事の即時再開を日本側に強く迫った。日本側は工事再開のための諸条件不備を理由にイラン側と激論を交わしたが、6月に至り漸く工事再開に踏み切ることになった。
 工事再開が軌道に乗り始めた1980年9月、イランは隣国イラクとの全面戦争に突入した。両軍の激戦地からほど遠からぬ建設サイトは日毎危険が増大した。9月24日には遂にイラク機がサイトを爆撃し、この後もサイトはしばしば被爆した。
 10月5日に和田駐イ大使とトンドグヤン石油相の会談が行われ、日本人をサイトからテヘランに避難させることが合意された。避難は周到な準備の下に行われた。テヘランより日本への帰国は、10月末から11月にかけて行われた。
 こうして建設工事は2度目の中断となった。戦争終結の見通しも立たぬまま、当面は経費を極力削減しながら事態の展開を見守るより他に手段がなかった。
 経費削減策として、イラン側は日本よりの借入金の金利の切り下げを要求したが、ICDC親会社5社は、金利の棚上げですら輸銀や市銀の了解を取付けるのは困難であり、まして利下げは無理であると回答している。IJPC東京事務所も203名から24名にまで減員された。
 IJPCからの増資要求(日本側分担分50億リアル)に対し、払い込み財源の調達方法として当初計画されたICDCの増資は、海外経済協カ基金よりの第3回目以降の出資が行われないため、結局親会社5社がICDCへ融資を行い、ICDCは1981年2月までに30億リアルをイランヘ送金した。
 1981年3月、輸銀はICDC親会社5杜に対し、対イラン貸付金の金利棚上げは実行困難と回答した。ここに至り、親会社5社は、これ以上のイランヘの資金投入は負担能力の限界を越えるとの判断から、1981年4月以降イランに対する一切の送金を停止し、更にはB/Aの改訂交渉を行うこと、今後の資金はすべてイラン側負担、という方針決定を行った。
 この決定はイラン側を硬化させたが、戦争中といえども国家事業としてのIJPCを完成しなければならないイラン側としては、建設再開のためには日本側の提案に歩み寄らざるを得ず、1981年7月より1983年7月までに8回の会談を積み重ね、その間に日・イの専門家チームがテヘランで1982年11月以降6ヶ月にわたる再開準備作業を行い、これをべースにして、1983年7月の最終会談で両者の問にB/Aの補完協定(Supplementary Agreement 略称S/A)が締結された。これはイラン側が今後の費用のイラン側負担を承諾するのと引きかえに、日本側は戦時下にも拘らず建設再開を行うことを約束した協定である。
 これによって建設工事は再び開始されることになったが、1984年2月からイラクが再びサイト爆撃を始めたため、工事続行は困難となった。

第七章 基本契約補完協定のイラン国会による否決

 1983年7月にS/Aが締結され、これに伴い工事再開へ向けての詳細被害調査が本格化しようとした矢先、1984年2月に、イラク空軍による第7次、第8次サイト爆撃が行われた。このため、サイト周辺の一部作業を除き、サイト内作業は再び中断してしまった。日本人関係者はマシャール・キャンプで待機した。
 日本政府の外交レベルによる折衝にも拘らず、イラクはイランの都市攻撃を緩めようとはせず、サイトヘの立入りは依然不可能なまま時が経過して行った。
 1984年6月初め、イラン・イラク両国は夫々の民間都市を攻撃すると予告し、その都市にマシャールが含まれていたため、マシャール・キャンプに待機していた日本人は一時テヘランヘ退避した。しかし6月10日、両国は国連事務総長の都市攻撃中止勧告を受諾したため、同月下旬に、日本人工事関係者は再びサイト入りし、作業を再開した。
 輸銀をはじめとする金融機関がICDCローンの返済期限の延長を認めたことで、IJPCの資金面の改善も進んだ。
 だが9月に入ると、イラクは予告なしに9月22日、9月29日とサイトをミサイルで攻撃し、これによって設備の破損のみならず、イラン人労働者には死者も出たと伝えられた。日本人全員は10月4日マシャール・キャンプからテヘランに避難する事態となった。
 日本側は、こうした状況下でも依然として工事続行を主張するイラン側と数次の交渉を重ねた結果、10月には当面の対応策を盛り込んだ暫定協定と、90日間の工事停止を取決めた協定が締結され、IJPC発足以来通算3回目の作業中断となった。このため、テヘランに避難していたコントラクター各社と親会社5社からIJPCへ出向していた日本人工事関係者は、10月下旬に日本へ帰国した。そして、この工事停止期間が延長された状態の翌1985年4月に、イラン国会はS/Aを否決した。

第八章 イラン定期訪問から合弁事業基本契約の解消まで

 イラン・イラク戦争が長期化する中、「S/Aが国会で否決されたのだから、日本側はB/Aの定めるところに従って工事を完成させるべきである」と主張するイラン側と、「革命、戦争による長期にわたる工事中断で、最早事業の採算性は失われた」とする日本側との間で、IJPCの今後の取扱いについて長期にわたる交渉が始まった。和多田ICDC社長によるイラン定期訪問の開始である。
 1985年8月の訪イを第1回目とすると、1989年5月までに17回を数えた約4年間の定期訪問が、やがて1989年10月の合弁事業解消合意書(Deed of Separation)の調印に結実するのであるが、この4年間にイラン側の当事者は頻繁に変わり、時には事業の続行は事実上困難との日本側の考え方に同調する気配を見せたかと思うと、一転してB/A尊重の原則論に戻るなど、対イ折衝は困難を極めた。
 イラン側は日本側の送金停止措置に対抗して、日本よりの借入金の元利送金をストップした。この中にはICDCローンも含まれており、IJPCよりの元利償還が途絶えても、日本金融機関への返済を行わなければならないICDCは、親会社5社よりの資金援助を受ける事態となった。
 1987年8月26日、ICDCは海外投資保険約款に基づき「危険発生通知書」を通産省に提出した。
 定期訪問会談におけるイラン側の態度は、硬軟両極の間を揺れながらも、徐々に日本側との友好的清算(Friendly Separation)の方向に動き出した。このための実務家グループによる検討も開始されるに至った。
 1989年6月、イランの宗教的指導者であるホメイニ師が死去し、翌7月の大統領選挙では改革派のラフサンジャニ国会議長が当選して、イランの政治に大きな変化が生まれた。こうした状勢をバックに、長らく平行線を辿っていたプロジェクトの終結に関る日・イ交渉も急速な進展を見せ、同年10月8日、日本よりイランヘの精算金1,300億円の支払いを含む「合弁事業解消合意書」が締結された。1971年10月のB/A締結より18年の年月が経っている。
 合弁事業解消合意書に規定された清算のための諸手続きは、1990年2月8日、日本興業銀行におけるエスクロー勘定口座の決済により、すべて履行された。

第九章 保険求償とICDCの清算

 合弁事業解消合意書の締結とこれに基づく清算手続の実行によって、IJPCプロジェクトは事実上終結し、イランとの関係は解消された。しかし、プロジェクトヘの巨額の投融資に対して付保した海外投資保険の保険金請求と、ナショナル・プロジェクト化の結果多数の株主を擁するICDCの清算手続が未だ残されていた。
 保険金の請求には手続上多くの問題があった。中でも保険事故の原因である設備の被害程度の判定が困難な作業であった。1989年10月に合弁事業解消契約が締結された直後から、ICDCはサイト被害調査団を現地に派遣するとともに、損害鑑定会社である東京損保鑑定鰍起用して調査にあたらせた。保険者である通産省も、専門家を起用して損害調査を行った。
 ICDCは調査結果をもとに損害額を算出し、貿易保険法と約款に基づき、1991年3月19日に付保金額1,662億円に対し930億円の保険金請求を行った。通産省はこれに基づき査定作業を行い、保険金を777億円と決定し、1991年7月31日ICDCに支払った。ICDCと親会社5社は通産省の査定金額に不満であり、不服申し立てを行うべきか、それとも受入れるべきかを慎重に協議した末、8月16日にこれを受け入れることを、ICDCから通産省へ回答した。
 残るICDCの清算については、1991年9月24日に臨時株主総会が開催され同社の解散が承認された。更に1991年12月20日に清算第2回株主総会を開き清算結了が承認され、同日清算結了登記が完了している。これで全ての手続が終了し、20年余に及ぷIJPCプロジェクトは消滅した。