(住友化学 社史より)                  MPCC史

マウント プレザント ケミカル社の設立 

 スミチオンは、アメリカで行なった非食用作物の分野での試験にも好成績をあげ、1975年3月、EPA(米国環境保護局)から登録認可を得、メイン州の森林害虫防除用に140トンを輸出した。アメリカへの輸出はこれが最初であった。これにカを得て、さらに果樹・棉など新分野での認可取得のため開発を始めた。
 こうして、スミチオンはカナダ・アメリカヘ森林用として輸出され、1975年度以降も増加を続けた。両国の潜在的需要は膨大なものがあって、大分製造所の6000トン能力では増大しつつある全世界の需要を賄うことは不可能であった。工場の増強は需要地に近い海外が得策であると判断されたが、さらにまた、原料・中間物が現地で容易に入手でき、一貫生産体制をとれればなお好都合なので、カナダ・アメリカにおいて提携相手を物色することになった。
 おりから、かつて当社が塩化ビニル樹脂製造技術を輸出したことのあるアメリカのストウファーケミカル社がこれらの条件に適合することから、同社と交渉した結果、合弁でスミチオンを製造するために1975年6月5日、マウント プレザント ケミカル社(Mount Pleasant Chemical Co.)を設立した。同社は資本金8万ドル、ストウファーケミカル社50%、当社45%、住友商事5%の比率で出資し、会長には当社長谷川社長、副会長にはストウファーケミカル社モーレイ(H.B. Morley)社長、社長には同社ストローべ(H.L. Straube)副社長が就任した。同社はアメリカのテネシー州マウントプレザントに、1977年初めまでに年6000トンのスミチオン製造工場を建設し、所要中間物DMCTはストウファーケミカル社から供給を受け、製品は当社が全量を買い取って販売することとなった。当社が先進国で自社開発品の製造販売を行なうのはこれが最初であった。

 

マウント・プレザント社の解散

 当初の計画では、マウント・プレザント社は1977年初めから「スミチオン」の生産を開始する予定であったが、技術的問題により本格生産は79年4月からとなった。
 マウント・プレザント社設立の計画段階における「スミチオン」の全世界での販売予想量は約1万2000t、これを同社と大分製造所各6000tの生産により供給する予定であった。しかし、その世界市場は需要各国における石油危機後の資金不足、国産化政策、気候不順および新規ピレスロイド系殺虫剤の発売などにより、様相は一変し、年間販売量は当初の計画に比し、約半量の6000t強に止まる事態となった。
 このため、当社はストウファー・ケミカル社との間でトップ会談を持ち、79年6月、マウント・プレザント社関連の諸契約を見直し、改めて再建契約を締結した。これはストウファー・ケミカル社の出資分を除くマウント・プレザント社の所要資金をすべて住友サイドが負担し、その代償に、ストウファー・ケミカル社への配当金は出資分対応のみに変更することを中心としたもので、マウント・プレザント社において生産される「スミチオン」のコストを低減することを目的としたものであった。しかしながら、その後、防疫用など一部の市場では順調に販売は拡大したものの、全体としては数量、価格とも苦戦が続いた。大分製造所を含め年産1万2000tの設備能力に対し、販売量は輸出を含めても年間7000t強に止まった。このため、マウント・プレザント社の生産量も80年には2600t台にまで低下し、低操業によるコスト高のため、同社製品の販売により年間20〜30億円の損失が恒常化するという深刻な事態となった。
 そこで81年の春以降、少なくとも短期での需要回復は見込めないとの判断から、暫定策として、81年7月以降マウント・プレザント社における生産を一時休止して大分製造所へ生産を集中した。その結果、81年の同社の生産量は2000t強に止まった。
 そして、82年9月にはストウファー・ケミカル社の持株分の減資償還および土地設備の同社への貸与を内容とする契約を締結するなど種々の対策を講じるとともにマウント・プレザント社の存続可否についての検討も行った。この結果、同社の「スミチオン」は生産費用をカバーできる価格水準での拡販が見込めないこと、設備の他用途への転用についても実行可能な案がないことから、同社をこれ以上存続させる意味はないとの結論になった。こうして同社は83年末をもって解散した。
 しかし、長期的に見ると、「スミチオン」の世界的な需要は着実に増加しつつありその主原料である黄リンも日本で安定的に入手できるようになってきた。そこでコスト的にも有利な大分製造所の設備を増強して集中生産を図ることとし、需要動向を見ながら同製造所の設備を順次増強し、82年9月には年産能力を7500t、続いて85年10月には1万600tにした。
 この「スミチオン」による農薬事業初の本格的海外進出での苦い経験は、後のべ一ラント社(Valent U.S.A Corporation)の設立によるアメリカ市場への進出などに生かされることになった。


その後

 その後Stauffer社はチーズボローポンズ社に買収されたが、同社はStaufferをユニリバーに売却、ユニリバーはこれを分離してスペシャルティ部門はアクゾに、その他部門はICIに売却し、名門Staufferはアッと言う間になくなった。

 1989年11月 ICIと三井東圧のJVのImage Polymers設立の発表があった。
 マウント プレザント ケミカルの解散後、プラントはStaufferが買い取り、塩漬けにしていたが、ICIはこのプラントを Image Polymersのトナー製造工場として使用することとした。

 ICI はその後、Image Polymersの持分を Avecia に売却した。現在は同社は Aveciaと三井化学のJVとなっている。