日産野球部、ゼロから再出発 来年から活動再開
伊藤新監督 「まず都市対抗出る」
名門が社会人野球界に戻ってくる。過去に都市対抗野球を2度制した日産自動車硬式野球部は2025年から活動を再開する。新監督には同部で長く活躍した伊藤祐樹が就任し、復活に向けた体制づくりを進めている。社員の一体感を生み出すシンボル的な存在となるためゼロからの再出発が始まる。
同社野球部の休部は09年。リーマン・ショックによる社業の業績悪化が理由だった。復活を託された伊藤は「長く待ち望んでいた。(日産の)名に恥じないように精いっぱい頑張っていきたい」と意気込んでいる。
伊藤は福井工大から1995年に日産自動車に入社。主に遊撃手として活躍し2005年のアジア野球選手権では日本代表の主将も務めた。都市対抗野球には13回出場し、19年には日本野球連盟から遊撃手として「平成のベストナイン」にも選出された。
09年の休部が決まった際は37歳ながら一線でプレーを続けていたが、活動休止に伴い現役を退いた。その後は同社が開いていた少年野球教室運営に携わり、22年から2年間は出向先の三菱自動車岡崎で野球部のヘッドコーチも務めた。データの活用など近年の野球界事情に精通していることもあり、白羽の矢が立ったという。
復活に伴い選手集めもゼロからのスタートになる。チーム編成にあたっては元プロ選手の採用や他の社会人チームからの移籍なども選択肢にはあるが、伊藤は「学生を主体に考えている。復活して初期メンバーなので学生中心につくりたい」と話す。現在は選手獲得に向けて大学を中心に挨拶回りに忙しい。学生野球の指導者たちからも「日産が復活するなら中途半端な選手は送れない」と期待の声が多いという。
同じ神奈川県には都市対抗で最多の12度の優勝を誇るENEOSをはじめ、東芝、三菱重工Eastと強豪がひしめくが、伊藤は「(都市対抗は)初年度から出るつもりで戦う。まだ見ぬ選手たちだが力を合わせてやりたい」と力を込める。
社会人野球の企業チームは、親会社の経営状況に左右され、解散や休部に追い込まれる事態が相次ぎ、最盛期は200を超えていたチーム数も今では半分以下となっている。かつての名門がどのような姿でグラウンドに戻ってくるか。「企業スポーツ」の復権をかけ、新たな一歩を踏み出す。
=敬称略
シリーズ「日産復活のキセキ」 −1
毎日新聞 2024/2/8
2025年から活動を再開する日産自動車野球部
。異例とも言える復活の軌跡に迫るシリーズ「日産復活のキセキ」をお届けします。1回目 2/8
は「この人がいなければ復活はなかった」とされる「副部長さん」の話です。
「これでダメなら…」定年まで4年、人事畑の約束 日産復活のキセキ
2023年夏。横浜市のみなとみらい地区にある日産自動車グローバル本社の役員室は、どことなく張り詰めた空気があった。経営会議で人事部から提案された議題。タイトルは、英文で書かれていた。
「Revival of Nissan Baseball Club」
2008年のリーマン・ショックの影響を受けて業績が悪化し、リストラ策の一環で活動を休止した野球部の活動再開案だった。09年の休部から14年。あの日に誓った「約束」が果たされることを、祈るような気持ちで見守る男性がいた。定年まで4年。「これでダメならあきらめる」。復活を望む人々の汗と涙が、脳裏を駆け巡った。
新型コロナウイルス禍からの出口が見え始めていた22年12月。年末年始の休暇中だった日産自動車の人事本部副本部長、田川博之さん(56)は、野球部OB宛ての年賀状を書きながら、ふと思った。
「ここで勝負を仕掛けよう」
1990年に日産に入社した田川さんは、人事畑を歩んできた。メキシコ駐在から帰国して2年後の08年、人事部のグローバル人事制度企画担当と兼務という形で、野球部の副部長に就いた。野球は小学生の時にかじった程度。野球部との関係は薄く戸惑いもあったが、「サラリーマン」として業務命令に従った。
その年の秋、リーマン・ショックが世界経済に波及し、会社の業績は急激に悪化。数千億円レベルの赤字も予想された。時を同じくして社会人野球では神奈川のライバル・三菱ふそう川崎が休部となり、日産でも選手の間に不安が広がっていた。
09年2月9日、日産はリストラ策として、野球部と陸上競技部、卓球部の休部を発表。野球部寮の食堂に集められた選手やスタッフの前で、カルロス・ゴーン社長(当時)の英語を通訳したのは田川さんだった。
日産野球部は09年の都市対抗野球、日本選手権の社会人野球2大大会で4強入りし、休部前最後のシーズンを終えた。その冬、選手が一人、また一人と野球部寮を去った。田川さんはできる限り寮に足を運び、時には泊まり込んだ。移籍する選手を見送るために。
「自分は休部を決めた会社の人間。彼らが出ていく時に立ち会うのが筋だと思いました」
忘れられない夜がある。休部から1年ほどたった10年冬、野球部OBで集まって食事をした帰りの電車の中で、隣に座った伊藤祐樹さん(51)から「野球部、再開できませんかね。やっぱり日産には野球部がないといけません」と言われた。日産一筋で15年間プレーした伊藤さんの、真っすぐな言葉。だが、「今の情勢では当面は無理だろう」としか言えなかった。
横浜駅で伊藤さんと別れた後、一人で泣いた。「そんなことを言った自分が、ものすごく悔しかった。彼らは野球部を愛していて、まだそういう思いを持っている。なんとかしてやりたいと思いました」
無力感の中、自分にできることを必死に考えた。復活の時が来るまで、野球部の灯を消さないことしかないと思った。
迫るリミット
11年7月、自宅で「ホームページの作り方」のマニュアル本を片手に「終わらない今を 日産野球は続く」と題したホームページを立ち上げた。OBによる野球教室や、移籍先での選手の活躍などを写真も交えて記し続けた。
他チームに移籍した15人の選手が出る試合は、仕事を抜け出して駆けつけた。時は流れ、20年には現役最後の日産OBが引退。寂しさとともに、人々の記憶から「日産野球」が薄れていくことに危機感が募った。
日産社内でも野球部があった当時を知る社員は少しずつ定年を迎え、会社を去った。復活を検討した時期もあったが、旧経営陣の問題や業績が不安定で前に進むことはなかった。休部時は40代前半だった自身も22年4月に55歳を迎え、「定年まで残された時間は少ない」と感じた。
そのころ、会社の業績回復に加え、企業風土改革を掲げる内田誠社長が「何でも言える」雰囲気作りを目指していた。23年に創業90周年を迎えた日産。コロナ禍の半導体不足も徐々に好転し、業績は回復しつつあった。田川さんのもとへ「野球部復活を90周年イベントの目玉にしてはどうか」とのアイデアが寄せられ、23年3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で国内の野球への注目が高まっていた。
以前から作成してきた野球部復活に向けた提案資料を見返し、関係者とも議論しながら「これでダメならあきらめる」と思えるところまで内容を突き詰めた。日産の経営会議は外国人の役員も数人いて、説明も議論もすべて英語だ。これまでの会社生活で培った英語力を駆使し、資料の作成に没頭した。
23年夏のある日、経営会議が開かれた。野球部の活動再開は人事部から提案され、田川さんも出席。野球を通した会社の機運醸成を、かつて東京ドームで一喜一憂した多くの社員の写真を使って訴えた。多数の支持を受け、活動再開が決まった。出るかと思っていた涙は、出なかった。「さあ、次はどうしよう」。頭の中は、再開に向けてやるべきことでいっぱいだった。
今年1月、ホームページを久しぶりに更新し、再開に向けた思いをつづった。
「『休部』という運命を前にして感じたあの時の気持ちや想(おも)いは、私たち日産野球部だからこそ持ち続けるべき大切なものと思っています」
野球部の「絆」を大切に、いつまでもつなぎ、活動を続ける。復活は奇跡ではない。誓った「約束」は、多くの人々に支えられていた。【円谷美晶、磯貝映奈】
<2025年から16年ぶりに活動を再開する日産自動車野球部。その復活の軌跡に密着します。次回は2月15日の予定>
シリーズ「日産復活のキセキ」 −2
毎日新聞 2024/2/15
町中華と幸せの青い鳥 絵馬に込めた新監督の思い 日産復活のキセキ
1959年に誕生し、高度成長期のマイカーブームを支えた名車「ブルーバード」。「幸せを運ぶ青い鳥」というキャッチコピーとともに登場し、日産自動車の人気車種として一時代を築いた。
1月下旬、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮で、絵馬を書く2人の日産社員の姿があった。
「いい選手達待ってます」「いいご縁が繋(つな)がります様に」
そう願いを込めた絵馬に、「幸せの青い鳥」のシールを貼った。
好物は「食べるラー油」
「いらっしゃいませ!」。扉を開けると、笑顔の大将・鈴木泰三さん(57)が威勢のいい声で客を出迎える。横浜市旭区の相鉄線二俣川駅から徒歩10分。地元の人たちから50年以上も愛される中華料理「大龍飯店」だ。
メニューにカレーライスもある「町中華」だが、入り口付近にはプロスポーツ選手や芸能人の色紙がずらり。その一角に「平成のベストナイン」と書かれた一人のサインがあった。
日産自動車野球部で現役時代、「ミスター日産」の愛称で親しまれた伊藤祐樹さん(51)のものだ。95年に入社して15年間、日産野球部一筋でプレーした。走攻守三拍子そろった内野手で、都市対抗野球大会は補強選手も含めて13回出場し、社会人ベストナインを3度受賞。日本代表の主将も経験した。
2009年の休部前、日産野球部の寮とグラウンドは大龍飯店から車で10分ほどの場所にあり、野球部員は足しげく通った。寮とグラウンドは11年に取り壊されたが、鈴木さんはこう述懐する。
「みんな本当によく食べる。通常の3倍くらい盛った大盛りチャーハンがあっという間になくなるほどでした。ギョーザや唐揚げも、特大サイズにしてもすぐに食べられちゃうから、ずっと厨房(ちゅうぼう)で何か作っていた気がします」
伊藤さんもその一人だった。休部した年は37歳。選手兼任コーチとしてチームを支えていた。移籍する選手が多くいた中、「ここで誰かが日産に残らないと、休部した野球部にこの先新人は入ってこない。野球部がほっとかれてしまう危機感と、自分まで出てしまうのはという罪悪感がありました」。日産野球部の存在を消さないように、現役を引退して会社に残った。
休部後は社業をこなす傍ら、明治大でコーチを務めたり、ネット交流サービス(SNS)で情報発信を続けたり、「何事も野球部存続、復活につながる」と懸命に取り組んだ。定期的にOBらと少年野球教室を開催し、その打ち上げに大龍飯店を利用した。
「グラウンドも寮もなくなって、野球部のみんなが帰れる場所はなくなりました。大龍飯店は唯一みんなが当時を思い出して、当時のように楽しく過ごせる場所。戻りたいと思える場所です」
そう話す伊藤さんの好物は、大龍飯店の「食べるラー油」。店の近くで仕事をしていた時期もあり、一人でも通っていた。店に顔を出すと、鈴木さんはきまって「野球部の復活はどう?」と冗談っぽく聞いてきた。伊藤さんは「どうなるんですかね」と返すことが多かったが、その後は必ず「復活させないとですよね」「復活させたいですね」と前向きな言葉を続けた。
「みんなで幸せつかみに」
23年9月12日に活動再開が発表された後、日産野球部復活を伝える地元テレビのニュース番組で大龍飯店が取り上げられた。喜びのコメントをした鈴木さんは、自らが映るテレビ画面を撮影した写真を添え、無料通信アプリ「LINE(ライン)」で「テレビに出演しました。おめでとうございます」と送信。伊藤さんは「ありがとうございます。やっとスタートです」と返信した。
新たな寮とグラウンドは、神奈川県横須賀市にある追浜工場内にできる。昔のように、野球部員が足しげく店に通うことは難しいが、鈴木さんは「野球部の寮ができたら伊藤さんの好きな食べるラー油を箱で送ってやらないと」。都市対抗の応援で東京ドームへ行き、「お宝」という伊藤さんの現役時代のユニホームを着ることが楽しみだ。
そのユニホームの胸にあるのが「幸せの青い鳥」。都市対抗優勝回数と同じ二つの赤い星とともにデザインされたシンボルマークは、新チームでも継承する。メーテルリンクの童話「青い鳥」にちなんでつけられた日産の名車「ブルーバード」がマークの由来だ。
14年間、「いつか来る」復活の日を信じて活動してきた伊藤さんは、新チームで監督に就任する。ヘッドコーチになる四之宮洋介さん(46)と鶴岡八幡宮を訪れ、2人で絵馬に「幸せの青い鳥」のシールを貼った。
「新しいチームでもみんなで幸せをつかみ取りたいので、しっかりと伝統をつなげていきます」。舞い戻った幸せの青い鳥。日産野球のプライドが、そこにある。【磯貝映奈、円谷美晶】
日産自動車野球部
1959年創部。神奈川県横須賀市を拠点に都市対抗野球大会に29回出場し、55回(84年)、69回(98年)と2回優勝した。日本選手権にも16回出場し、2003年に優勝した。元オリックスの川越英隆投手ら、プロ選手を多く輩出した。
09年2月、日産自動車は世界的な金融危機によるリストラ策の一環として、野球部、陸上競技部、卓球部の休部を発表。野球部は同年の都市対抗野球、日本選手権で4強入りし、休部前最後のシーズンを終えた。15人の選手が他チームに移籍した。10年からは、OBによる野球教室を開催している。
23年9月12日、日産は野球部の25年からの活動再開を発表。新チーム発足と同時に野球部OBの伊藤祐樹監督、四之宮洋介ヘッドコーチが就任する人事を内定。24年1月1日付で、2人を中心とする「復活プロジェクト」が発足した。選手のスカウトなど活動再開に向けた準備を本格化させている。
第1話、第2話が毎日新聞 2024/2/17夕刊に掲載された。(大阪版にも)
「月刊ベースボール」として、原則第3土曜日に掲載される。
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シリーズ「日産復活のキセキ」 −3
「このまま終わってたまるか」 涙のグラウンド売却
2009年12月に休部となった日産自動車野球部。かつて、そのグラウンドや室内練習場、独身寮が横浜市旭区市沢町にあった。今ではきれいな戸建て住宅が約120戸建ち並び、その面影はない。グラウンド跡に建てられた分譲住宅の名称は「ダイヤモンドパーク」。野球の内野部分を示す「ダイヤモンド」にちなんで名付けられた。
日産野球部のヘッドコーチに就任する四之宮洋介さん=横浜市内の日産自動車グローバル本社で2023年12月21日午前11時10分、磯貝映奈撮影
最後の別れは一人で
日産野球部が拠点としていた市沢グラウンドが売却先へ引き渡されるとの知らせが入ったのは、休部から1年以上が過ぎた11年3月中旬のことだった。その直前の3月11日には、東北地方で国内観測史上最大のマグニチュード9.0
の巨大地震が発生。日産いわき工場なども被災した。社内は震災対応で混乱が続く中だったが、グラウンドに立ち入れる最終日だった3月27日、野球部OB
約20人と家族、ファンらが朝から市沢グラウンドに集まった。雲一つ無い晴天の下、キャッチボールやノックで汗を流しながら、過ごした時間をかみしめた。
売却先への引き渡しを前に日産自動車の市沢グラウンドに集まった野球部OBや家族、ファンら=石川太一さん提供
グラウンドにはホームベースやマウンドのプレートが埋まっていた。「ゴミのように捨てられるのは忍びない」。そんな声が上がり、みんなで掘り起こした。得点掲示板にあった「日産」のプレートとあわせて、元野球部副部長の田川博之さん(56)が自宅に持ち帰ることになった。「いつか、その時まで預かるよ」
この日、日産野球部で主力として活躍した四之宮洋介さん(46)は都合がつかずに参加できなかった。「俺も無くなる前にちゃんとお礼を言っておこう」。グラウンドは既に立ち入り禁止となっていたが、数日後に一人で足を運んだ。久々に見るグラウンドは、雑草が生い茂っていた。「使われていないから、生気が失われていっている感じがしました」。悲しい気持ちで最後の別れを告げた。
グラウンドの解体が始まった後、会社の関係者から現場の写真が送られてきた。そこには、室内練習場の屋根にショベルカーの爪が突き刺さった光景が写っていた。人生をかけて、汗と涙を流した場所。胸が締め付けられるようだった。人けの無い場所で、ひっそり泣いた。
最後の打席はスクイズ失敗
野球部の休部とともに現役を引退した四之宮さんには「心残り」があった。
愛媛・今治西高、青山学院大を経て、00年に日産自動車に入社し、その年の都市対抗野球大会で若獅子賞(新人賞)を獲得。内野手として活躍し続け、休部が決まった09年の都市対抗では10年連続出場表彰を受けた。
休部前最後の公式戦となった秋の日本選手権で、日産自動車は準決勝のJR九州戦に延長十三回タイブレークの末、2―6で敗れた。ベンチから引き揚げるほとんどの選手が泣き崩れる中、四之宮さんに涙はなかった。
実は、1回戦を前にした練習中に左親指を骨折し2回戦と準々決勝は一度も打席に立っていなかった。それでも夜な夜な一人でバットを振り、指の状態を確認し、勝負の時に備えていた。
JR九州戦で日産は先制したが追いつかれ、延長戦にもつれ込んだ。タイブレークに入っていた十二回1死満塁、途中出場の四之宮さんに打席が回ってきた。打って還すつもりだったが、「え?」。ベンチからのサインはスクイズだった。
自分にバットは振れないと思われたのか……。ふに落ちないまま仕掛けたスクイズは失敗に終わった。試合も敗れ、「日産野球部 50年の歴史に幕」と毎日新聞は報じた。
四之宮さんは、自分の子供じみたわがまま、弱さを悔やんだ。納得がいかないなら首を振って、タイムをかけて、「僕は打てます」と言いに行けばよかった。
「必死に野球のことばかり考えてやってきた人生なのに、最後の最後の打席がこれか。みんなにも迷惑をかけて、チームを勝たせられなかった」
引退後は追浜工場の生産課に勤務したが、半年を過ぎた頃には「やっぱり野球をしていないと駄目だ」と母校・青山学院大で週末だけコーチとして学生を教えるようになった。
公式戦をすべて終えた後も、市沢グラウンドで野球教室を開き小学生を指導した日産自動車野球部の選手たち。左は四之宮洋之選手=2009年12月6日、横浜市旭区の日産自動車グラウンドで藤倉聡子撮影
「何事も時間がかかるタイプ」で、熱く、不器用な性格という。社業もコーチ業も、うまくいくことばかりではなかった。苦しく、行き場がないように感じられる日もあった。そんな夜は、自然と市沢のグラウンド跡地に足が向いた。
もう野球部がいた頃の面影はない。それでも付近の公園にあるベンチに腰掛け、戻らない日々を思った。自分たちの野球がおもしろくない、必要ないと思われたのか――。何度考えても、悔しかった。「このまま終わってたまるか」
都市対抗は予選も本大会も、何度も見に行った。そこでは、野球部を持つ企業の従業員が楽しそうに声援を送っていた。「めちゃくちゃうらやましくて。人と人が熱くつながりあえる野球部を復活させなければいけないと思いました」
いつか必ず野球部を復活させる。その日のために、仕事も野球も、目の前のことを必死に、コツコツやり続けてきた。
昨年9月、日産野球部の25年からの活動再開が発表され、12月には伊藤祐樹さん(51)が監督に、四之宮さんはヘッドコーチに内定した。今の願いは「従業員の皆さんが野球を見に来てニヤニヤしている姿が見たい」。日産野球を通じてたくさんの人を喜ばせたい。もう悔いは残さない。【円谷美晶、磯貝映奈】
シリーズ「日産復活のキセキ」 −4
はじまりは焼き肉店 結実した社員の熱き情熱 日産復活のキセキ
2017年3月3日夜。横浜市内の焼き肉店で、4人のサラリーマンがうまそうに肉を頰張りながら、テーブルの上に広げた資料に目を通す。その表情は活気で満ちあふれていた。
広報部、人事部、購買部、工場の生産課。日産自動車で働く4人の部署は違うが、集まった目的は「野球部の復活」。企業スポーツのあり方を社内外で熱く議論し、希望を持ち続けた日々があった。
突然届いた1通のメール
新聞の1面トップに躍る見出しが、リーマン・ショックによる影響の深刻さを物語っていた。
「日産2万人削減へ 3月期営業赤字1800億円に」(2009年2月10日、毎日新聞東京本社朝刊1面)
日産は09年3月期の連結業績予想で、本業のもうけを示す営業損益を従来予想の2700億円の黒字から1800億円の赤字に下方修正。日産の営業赤字は、1999年にカルロス・ゴーン社長(当時)が経営トップに就任して以来、初めてのことだった。
日産は09年2月9日、この数字とともに2万人削減のリストラ案を発表。野球部などすべての企業スポーツ活動の休止も含まれた。結果的に営業損益は1379億円、最終(当期)損益は2337億円のそれぞれ赤字となった。
野球部が休部した09年以降、日産自動車の業績は順調に回復した。OBたちは復活の時を信じて、野球教室の開催を続けていた。
16年11月、元野球部副部長の田川博之さん(56)のもとへ1通のメールが届いた。
「お時間をいただけませんか?」
購買部門の社員、古川太さん(54)からだった。面識はあったが、個人的に会話をしたことはない。人事担当だった田川さんは「仕事の悩みか、退職の相談だろう」と面会に応じた。すると、向かい合った古川さんは力を込めて言った。
「野球部は復活しないんですか? どうしたら復活できるんでしょうか」
古川さんは、野球部復活は社員が団結するツールとなり、モチベーションの向上につながる▽「日産復活」の象徴にできる▽精神・肉体的な強さとリーダーシップを持った人材の確保につながる――などを挙げ、「野球部の復活がいかに会社や地域のプラスになるのか」を熱く語った。
02年に日産に中途入社した古川さんは横浜育ちで、幼いころから「サラリーマンで野球をしている人たち」に憧れていた。野球部の休部が決まった時は残念な気持ちとともに、「ブランドで仕事をしている会社にとって、コスト以上のダメージがある」と感じた。
日本人が好きなスポーツに関するデータや企業スポーツに関する文献を調べれば調べるほど、野球部復活は会社に多くの価値を生み出すと確信を深めていた。集めた資料を分類したファイルは100個近くに。休日を使い、復活に向けた道筋を分厚い書類にまとめ上げた。
田川さんに続き、当時の広報部長で野球部の活動にも理解があった浜口貞行常務執行役員(66)や、野球部OBで神奈川県横須賀市の追浜工場の生産課に勤務していた四之宮洋介さん(46)にもコンタクトを取った。書類を見せて、「野球部は会社にとって必要な存在なんです」と訴えた。
四之宮さんは「ついにこういう人が現れたか、と思いました。私の中ではあれが(復活に向けた動きの)始まりでした」と振り返る。野球部の中にいたからこそ、自ら「野球部復活を」と声高には言いにくい。外からの声を待っていた。
4人は時には焼き肉をつつきながら「作戦会議」を開き、会社を説得するための理論や資料を練った。それが最初に形になりかけたのは、19年のことだった。
届き始めた社員の声
17年4月、西川広人社長兼最高経営責任者(CEO)が就任し、日本人社長が17年ぶりに誕生した。複数の役員が野球部復活への意欲を示し始めた。19年には田川さんを中心に「野球部復活プロジェクト」ができ、21年からの野球部復活を目指した。
ところが19年9月、西川氏が自身の報酬問題などで辞任。経営陣の交代や売上台数の減少もあり、経営が揺らいだ。20年3月期連結決算の営業損益は404億円の赤字、最終損益が6712億円の赤字で、リーマン・ショック後の09年3月期以来となる最終赤字に。社内は再び経費削減の空気が流れ、野球部復活プランは「お蔵入り」となった。
20年初めには新型コロナウイルスの感染が拡大。野球部OBが毎年続けてきた野球教室は中止となり、関係者で集まる機会もなくなった。何もできず、時だけが流れていく。もう、復活は無理なのか――。そんな野球部関係者の気持ちを奮い立たせたのは、社員の声だった。
四之宮さんが勤務していた追浜工場は、野球部の応援団経験者が多く働いていた。「野球があったからコミュニケーションがとれた」「自分の会社を応援する機会はなかなかないから野球部が必要」といった言葉を耳にした。そのたびに四之宮さんは「やっぱり野球部を復活させなければいけない」と思いを強くした。
社員の声は、次第にトップのもとにも届くようになった。内田誠社長が社員との意見交換の場として設けた「タウンホールミーティング」で、「野球部は復活しないんでしょうか」と声が上がった。23年夏前には、内田社長が「大切な話なので検討します」と発言。野球部の活動再開に向けて事態は加速した。
なぜ日産野球部は復活できたのか。浜口さんは「大切なのは、従業員が望んでいるということ。特定の人間だけの思いでは復活はできない」。古川さんは「日産の中で、野球部に対する灯が消えていなかったということだと思います」と語る。
休部前の日産野球部は、プレーを通じて社員に感動や勇気を与え続けた。休部しても、「灯を絶やすまい」と活動を続けたOBがいた。ひたむきな人たちの思いは、社員の心に確かに届いていた。【円谷美晶、磯貝映奈】
毎日新聞 2024/3/28 夕刊に掲載 タイトル等一部修正
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The Answer
2024.03.28
すでに選手獲得へ動く伊藤監督が「ドラフト待ち」をしないと言うワケ
都市対抗野球で2度の優勝を誇る社会人の名門で、2009年を最後に休部していた日産自動車の野球部が、2025年から復活する。すでにチーム作りはスタートしており、休部前に主将や兼任コーチを務め、この1月から「日産野球部復活プロジェクト」の指揮をとる伊藤祐樹さんが中心となっている。野球部が消えてから14年経ち、文字通りイチからのスタート。伊藤さんに求める選手像を問うと「ドラフト待ちはしません」ときっぱり言ってのける。どのような考えによるものだろうか。(取材・文=THE
ANSWER編集部、羽鳥慶太)
昨年末、新監督の命を受けた伊藤さんは即断即決だった。「グラウンドも選手もないところからです。大変なことはわかっていますけど『全てやります』と。監督という立場でなくてもいいと考えていたんですが……」。プロ野球のフロントのような側面支援も頭にあったが、強烈な自負があった。「日産野球部愛的に『真ん中でやるのは自分しかいないだろう』とは思っていました」。
休部後はまず社業に専念した。選手も施設もなくなったチームが、世の中から忘れ去られないようにと奮闘してきた。「野球教室をやったり、いろいろ集まる機会はありました。でもやっぱり人は来なくなっていくんです」。チームがなくなって今年で15年目。失った時間の長さを感じる時だ。その間、ずっと細い糸を紡ぐ作業の中心にい続けたのは、愛のなせるワザだった。
活動再開まであまり時間がない。すでに、選手集めに着手している。東京六大学や東都、首都大学リーグのチームから、挨拶回りを始めた。その上で、欲しい選手像も頭にある。「すごくいい球を投げる投手、すごく打てて守れる選手に来て欲しいのはもちろんですが……。日産自動車の野球をつくっていく上で、それだけではないと思います」。いわゆるうまい選手とは、少し違うところに基準を置いている。
「日産自動車で野球をやりたい、という思いが強い選手を取りたいと考えています。ドラフト待ちはしません。『プロに行けないから日産』という選手は求めていませんから。特に初年度の選手は一期生となるので、新生日産野球部の礎を築いていくのにふさわしいメンバーに来て欲しいと考えています」
社会人野球チームが優秀な選手を確保しようとする時に、プロ野球の指名がかかりそうな選手に内定を出すことはままある。ドラフト会議で指名がなければ、プレーのレベルが高い選手を獲得できる。○位までに指名がなければ入社することという「順位縛り」も、よく使われる手だ。ただ伊藤さんは、プロ野球と一線を引きたいわけではまったくない。
「ここで叩き上げられて、プロに呼ばれる選手は全然いいんです。うちからプロに行った選手はみんなそうでした」
社会人で叩き上げられ、力を伸ばすのが日産野球
例えば、広島で活躍した梵英心内野手がそうだった。駒大から入社当初はなかなか出番がなかったという。それが3年目を迎える2005年、伊藤さんは当時の監督に呼ばれ「今年は梵を遊撃で使いたいから、三塁に回ってくれ」と言われた。日本代表でも遊撃を守った身だ。簡単には引き下がれなかった。
「え? となりますよね。『もし何かやらかしたら、いつでも戻りますから』と言って三塁に回りました」。ただ梵は何もやらかさず、その秋広島の3位指名を受けるまでになった。鍛え上げられた守備と走塁、さらにグラウンドの流れを感じる力は、プロ入り後もすぐに発揮された。日産野球部の確かな育成力を感じたできごとだった。
選手を契約社員で採用する企業チームもある中で、日産野球部の採用条件は正社員。そうなると野球の技術以上に、見なければいけない部分がある。休部後は企業人として歩んできた伊藤さんは、自らの経験も踏まえ「人を大事にする選手、素直な選手ですね。野球はいくらでも教えますから。できないことをできるようにしながら、前に進みたいと思っています」。その過程は、企業人としても大切なことだ。
特に1期生は、形のないところからチームを作っていくことになる。伊藤さんは「人を育てながら、次のメンバーにバトンを渡したい」と願う。そう考えると復活のタイミングは、本当にギリギリだった。休部時に37歳だった伊藤さんは今年52歳になる。野球部という企業文化を社内から絶やさないためには、もう待ったなしだった。
休部前のチームから引き継ぐ、日産魂とでも言える部分は変わらない。伊藤さんが「今度はあんなにひどくはないですよ」と笑いまじりに振り返るのは「何やってんだ」と怒られ、泣きながらノックのボールを追った思い出だ。それも「日産の野球は完璧でないといけないんです。ダメなことは絶対ダメ」という信念あってこそだ。
ただ、指導は時代に合わせたアレンジが必要不可欠。「そうするためにいろいろ言いすぎるんじゃなく、選手自身の気づきが大切になるんです。だから少し時間はかかるかもしれませんね」。性急に全国大会への復活を目指す前に、野球を良く知り、粘り強く戦う「日産らしい」野球の継承を願う。
メーカーの技術も活かして「みんなでつくる野球部に」
日産自動車だけでなく、日本経済が低迷を続けたこの30年間、会社が野球部を丸抱えする企業チームは減り続けた。それだけに、新たな野球部が会社や社会にどう受け入れられていくのかについては「不安はありますよ」と正直な思いを吐露する。
「野球部復活を喜んでくれる人は多いですが、皆が皆そうじゃないと思っています。ニュースについたコメントも見ました。『野球やってる場合じゃないだろ』という声も、そりゃそうだよなと思います。会社で予算を取って、それを使うことがどれほど大変かはやってきたのでよく分かります」
もう、チームを失うのはこりごりだ。今度は永続するチームをつくるために、何ができるのだろうか。
「一緒に野球部をつくっていく! これしかないと思っています。従業員や地域の皆さんと一緒につくりあげる野球部にしていきたい」
チームの本拠は休部前と同じく工場がある神奈川県横須賀市に置くが、グラウンドやクラブハウスは新たに作る必要があり、その実務的な部分で社員とのつながりを作っていきたいと考えている。メーカーらしく、野球部が使う様々なモノを会社で作れないかという発想だ。
「選手のロッカーを社内で作れないかと話をしています。試作車を作る部署があって、現在プロジェクトを進行中です。会社の中でやっている仕事で少しでも野球に関わってもらえたら、見え方も変わると思うんです。我々の知恵にはない部分で、たくさん協力していただきたいことも出てくると思います」
「言葉にするのが下手なんですよ」という伊藤さんに社会人野球の魅力を問うと、しばらく考えた末に「おっさんが、とにかく一所懸命やる野球です」と答えた。「甲子園に行った選手や大学時代に華々しく活躍してきた選手にとっても、会社を背負ってやる野球というのはまた違った魅力があると思うんです」。現役時代、伊藤さんのユニホームはいつも真っ黒だった。休部で散った魂が、またひとつになる。しぶとく、泥臭く戦う集団が、もうすぐグラウンドに戻ってくる。
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毎日新聞
2024/4/28
もっと社会人野球
日産「最後のエース」誇り胸に JPアセット証券ヘッドコーチ 石田祐介さん
あの年、日産自動車の“最後のエース”は右腕を振り続けた。クビを覚悟していた立場から、野球部に恩返しできる喜びを胸に……。そして今、15年前と変わらぬ思いを抱き、新興チームを東京ドームに導こうと汗を流している。
石田さん=円谷美晶撮影
心構え学び開花、経験伝える
白地のユニホームに赤色の背番号「11」の選手が、右の拳を力強く握る後ろ姿。東京都の社会人チーム、JPアセット証券野球部のヘッドコーチ、石田祐介さん(41)は、そんな自身の画像を通信アプリLINE(ライン)のアイコンに設定している。2009年8月、横須賀市・日産自動車のエースとして、都市対抗初戦の2回戦で仙台市・JR東日本東北から完投勝利を飾った時のものだ。
当時は社会人5年目の27歳。全て先発で4連投となった準決勝、豊田市・トヨタ自動車戦は、七回に相手の9番打者に初球を左翼席へ運ばれた。この回でマウンドを降り、0―1で敗退した。「負けたのは自分の責任。それでも『楽しかった』という気持ちが大きかった」。4試合で31イニング、計426球を投げて4失点。晴れやかな気持ちになれたのは、濃密な1年を過ごせたからだ。
東京国際大から05年に日産自動車に入社した。層の厚い投手陣の中で3年間、ほとんど出番はなく、「自分でもどうしていいのか分からなかった」。次第に萎縮し、練習以外は誰とも話さず、休日は地元・埼玉に帰るなど殻にこもった。
補強投手から発破
4年目の夏、転機が訪れる。08年の都市対抗神奈川2次予選の後、三菱重工横浜(当時)から投手の補強選手として加わった門西(もんざい)明彦さん(47)にこう言われた。「お前、もったいないな。俺はお前より球も遅いし、変化球も少ないけど、マウンドでの気持ちはお前には負けない」
日産自動車の投手コーチから「石田を成長させたい。アドバイスしてくれないか」と頼まれていた門西さんは「持っているものは素晴らしかったけど、取り組む姿勢や考え方が学生のままというか、自分と戦っていた印象。腐っているところがあった」と感じていた。
見透かされたと思った石田さんの胸に、言葉が刺さった。つらいことから逃げ続けていた自分を省み、それまで嫌で避けてきた打撃投手を買って出た。最初はストライクが入らず、先輩野手から飛んだ怒号は、くじけず毎日取り組む中で「おお、ええやないか!」と激励に変わった。「自分が変われば、周りも変わるのだと気づいた」
その年は都市対抗、日本選手権とも予選を含めて登板機会はなく、戦力外も覚悟したが、5年目もプレーできることが決まり、「来年こそ、やらなきゃ」と期するものが芽生えた。
強い決意で迎えた09年の2月に休部を告げられた。頭が真っ白になったが、前を向いた。「今まで日産のために何もできなかった。やるしかない。頑張れば、休部が撤回される奇跡が起こせるかもしれない」
その年、都市対抗神奈川2次予選の第1代表決定戦で「運命を感じた」。三菱重工横浜の門西さんと先発同士で投げ合った。試合は2人がマウンドを降りた後も互いに譲らず延長十六回、0―0で引き分けた。直後に門西さんから「やっとチームから信頼を得たんだな」とメールが届いた。
門西さんは「気迫も何もかも成長していて全然違った。1年前は自分とばかり戦っていたけど、バッターと一球一球、真剣勝負を楽しめていた」と変化を感じ取った。翌日の再試合で日産自動車は敗れたが、第3代表決定戦で石田さんは東芝から完投勝利を挙げ、チームを都市対抗に導いた。
その秋の日本選手権も準決勝で敗退した。翌日の決勝に先発予定でブルペンにいた石田さんは「これだけのメンバーで、これだけやってきても日本一になれないのか……」と放心状態になったという。その冬、住友金属鹿島(現日本製鉄鹿島)に移籍した。エースとして移籍1年目に都市対抗4強に導くなど活躍し、15年に現役を引退した。
半年ほど社業に就いた後、退社して再び野球の世界へ戻った。母校の東京国際大コーチなどを経て、現在は、19年創部のJPアセット証券でコーチを務める。
選手時代から変わらず大切にしている言葉がある。「信頼、感謝」
日産自動車に入り、野球を続けられた喜びから、社会人1年目にグラブと帽子に記した言葉だ。
指導者となった今、「選手を信頼しなければ、信頼してもらえない」とコミュニケーションを大切にし、選手には「給料をもらいながら野球ができることは当たり前じゃない」と、感謝の気持ちを説く。さらに、自身は5年目に“開花”した遅咲き選手だったことから、「後から『もっとやっておけば良かった』では遅い。後悔しないように、今やっておくのが大事」とも伝えている。
昨年9月、日産自動車野球部の活動再開が発表された。「日産のユニホームが見たい。楽しみだし、戦いたいという気持ちもあります」と石田さん。真剣に物事に向き合ったことで道が開けた経験は、復活する日産自動車野球部にも、都市対抗初出場を目指して活動しているJPアセット証券にも生きると信じている。
「東京ドームのマウンドから見るスタンドの景色を、選手に見せてあげたい。最高だぜ、ってね」。胸の中にある“最後のエース”の誇りとともに、新生日産自動車も目指す東京ドームの舞台を見据える。【円谷美晶、磯貝映奈】
もっと社会人野球
毎日新聞
2024/5/9
野球部最年少OBが後輩に託す赤と白のオーラ 西川勇人さん
2009年2月に突然、告げられた日産自動車野球部の休部から15年。今も社員として働く野球部OBで最年少の西川勇人さん(38)は「日産で野球ができて良かった」という感謝と誇りを胸に抱いている。その思いを、復活する野球部に入る、まだ見ぬ後輩たちに伝えたいと考えている。
忘れられない記憶
「何百試合とやってきましたけど、あの1試合は今でも鮮明に覚えていますし、これからも忘れることはないですね」
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休部前最後の公式大会となった日本選手権の初戦、トヨタ自動車戦だ。その夏の都市対抗の準決勝で敗れた時の相手で、試合前のベンチは恐ろしいほど静まり返っていた。試合は九回裏2死から相手守備の乱れなどで1点差を追いつき、代打の適時打でサヨナラ勝ち。入社2年目だった西川さんの出場はなかったが、執念の攻撃をベンチで見守り、涙が止まらなかった。
もう一つ、特別な思いで大会に臨んでいた。休部とともに現役引退を決めていたからだ。「腹をくくったはずなのに、試合に入り込めているような、いないような複雑な心境でしたね」
赤と白の誇り
物心ついた頃から社会人野球は身近にあった。父公紹(まさつぐ)さん(65)はヤマハが1987年の都市対抗を制覇した時の主将で、監督も務めた。「父が選手時代の記憶はありませんが、指導者になってからも母と妹と何度も試合の応援に行きました。当時は金属バットだったので、いい音がして打球がものすごく飛んでいくんですよ」と懐かしむ。
静岡・浜名高から中央大を経て入った日産では内野、外野、捕手と守備を器用にこなし、代打や守備固めに加え、ブルペン捕手も務めた。主力にはなれなかったが「初めて本当の野球を知ることができた」時間だったという。「外から見れば、打った抑えたで勝ち負けは決まるように見えるかもしれない。でも日産ではアウトも含めてプレー一つ一つに内容を求める。これが強さの秘訣(ひけつ)であり、粘り強さ、いい意味で嫌らしい野球につながっていると納得しました」
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1年目が終わるころに休部を伝えられ、移籍先も探したが、長い人生を考えて社業に専念することにした。「仕事の内容が(選手から)変わっても、社員の方々が温かく迎え入れてくれたおかげで頑張ってこられた」
その後は仕事の傍ら、元野球部の有志が続けた野球教室にほぼ皆勤で参加してきた。そうした折に野球部の活動再開の報が舞い込んできた。新生チームの監督を伊藤祐樹さん(51)が務めることに縁を感じている。というのも、高校生だった03年の日本選手権決勝で日産と伊藤さんの雄姿を見ていたからだ。大阪ガスとの延長十一回、伊藤さんが優勝を決めるサヨナラ適時二塁打を放った。日産が強豪だと認識した試合だ。
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それまでは青色を取り入れていたユニホームは、自身が入社する頃には赤色を基調とすることが定着していた。「赤と白のユニホームの選手たちが本当に格好良かった」と感じると同時に、高いレベルで野球ができるかどうか不安を持ったユニホームでもある。
当時対戦した友人たちからは「赤と白のユニホームを見るとドキッとするんだよね。日産の力強い独特のオーラを思い出す」と言われることがある。「誇らしいですよ。たった2年だったかもしれないけど、日産でプレーできて良かったと心から思います。これから入社する選手たちが同じように思えるチームになったらうれしいです」
現在は横浜市内の事業所で、部品輸出の仕事に携わる。自身が働く部署に野球部員が入ってくるかもしれない。「もし野球部員が配属されたら、歓迎ムードを作ったり、野球に集中できる環境づくりに配慮したりしたい。当時のチームのことを話せる経験者として、後輩たちが相談しやすい人でありたい」
東京ドームでの都市対抗、京セラドーム大阪での日本選手権で「NISSAN」のユニホームが復活する日が待ち遠しい。自身が現役だった時の写真を見ながら、西川さんは静かにつぶやいた。「やっぱりユニホームかっこいいな。2大ドームでこのユニホームを見たら泣いてしまうかもしれないですね」【磯貝映奈、円谷美晶】
休部が決まった2009年、シーズン前のキャンプで集合写真を撮影する日産自動車野球部の選手ら=西川勇人さん提供 |
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もっと社会人野球 毎日新聞 2024/5/16 毎日新聞
2024/7/10
15年の思いつながったタイムカプセル 日産復活のキセキ
日産復活、つながった願い 14年半前詰めた「宝物」日の目 休部時マネジャー・川上さん
( 同文で掲載 )
ほこりをかぶって古びた段ボール箱から、トロフィーやスコアブックが出てきた。2025年に活動を再開する日産自動車野球部の関係者が12日、神奈川県横須賀市の同社追浜工場の倉庫に集まり、長年保管されていた「宝物」を取り出しては、再び日の当たる場所へと飾る準備を進めた。
この間、復活を願い続けた人物の思いがつながった瞬間だった。
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日産自動車追浜工場の倉庫で保管されていた横断幕 2024年5月12日、円谷美晶撮影 |
日産市沢グラウンドの売却を前に集まった野球部関係者。右端は川上貴光さん。奥に見えているのは室内練習場=川上さん提供 |
段ボールに詰めた希望
野球部が休部した09年。チームは都市対抗、日本選手権の社会人野球「2大大会」でともに4強入りし、“最後”のシーズンを終えた。当時のマネジャーの一人、川上貴光さん(54)は、横浜市旭区の選手寮から一人、また一人と選手が出ていくのを見つめた。
最後の選手が出ていったのは、12月下旬のよく晴れた日だった。川上さんは後輩マネジャーの鈴木憲さん(41)とともに、寮の応接室に飾られていたトロフィーや写真などを段ボール箱に詰めた。「いつか野球部が復活する時のために」。かすかな希望とともに、保管先となる追浜工場に宅配便で送った。
がらんとした寮を見渡すと、終わりを痛感した。「こんなにシーンとするのか」。選手やスタッフ、練習生に来客も多く、活気にあふれていた寮の日常が頭によみがえった。鍵を閉め、寮を後にした。
約1年3カ月後の11年3月、川上さんは野球部の拠点だった旭区に足を運んだ。日産市沢グラウンドが売却先へ引き渡されることが決まり、野球部OBらとともに別れを告げに集まった。川上さんは甲子園の球児さながらに内野の砂を集めてバケツに入れ、自宅に持ち帰った。100円ショップで買った50個ほどの小さな容器に詰め、その場に来られなかったOBに配った。「絶対に忘れちゃいけない」。選手、マネジャーとしての17年間の思いを砂に込めていた。
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日産自動車野球部の拠点だった日産市沢グラウンドで集めた砂の入った容器を手にする、元マネジャーの川上貴光さん
=神奈川県横須賀市で2024年5月12日、円谷美晶撮影 |
膨らんだカバンは誇り
長崎県出身の川上さんは長崎東高、国学院大を経て1992年に日産自動車に入社した。プロからも注目された本格派右腕で、自チームが出場を逃した都市対抗で補強選手に選ばれたこともある。だが思うような結果を残せず、中継ぎとして支える中で97年からマネジャー兼任となった。
慣れない業務や練習に集中できないことなどに葛藤もあったが、徐々に視野が広がるのを感じた。印象深い記憶は98年の都市対抗の準々決勝、東芝戦だ。5点のリードを1点差に詰められ、なおも2死満塁のピンチに5番手で登板し、低めの直球で内野ゴロに打ち取って悪い流れを断ち切った。チームはこの大会で2度目の優勝を果たした。
00年に現役を引退し、就任したばかりの久保恭久監督(63)に頼まれてマネジャー専任となった。できるだけ寮で選手と一緒に過ごし、コミュニケーションを取り、気になることがあればスタッフと話をした。チームが日本一になるために選手をどうサポートするかを考え、夜遅くまで寮にこもって仕事をすることも多かった。川上さんのビジネス用カバンは書類でパンパンに膨らみ、あまりの重さに「鉄アレイが入っているんじゃないか」と冷やかされたこともあったという。
当時コーチだった茨城日産野球部の渡辺等監督(59)は、合宿のたびに川上さんが部屋に来ては、チームや選手について語り合ったことを思い出す。「川上の性格は真面目そのもの。同時に、年下の選手からも気軽に話しかけられる存在だった。グラウンドだけでは分からない選手の様子をよく教えてもらえました」
川上さんは休部後は社業に専念し、関連会社の河西工業(神奈川県寒川町)に移った後もOBによる野球教室に欠かさず参加した。昨年9月に野球部の活動再開が発表された時は、喜びとともにたくさんの人に連絡をし、同時に祝福の連絡ももらった。「日産野球部はいろいろな人から支えられていた。皆さんが気にしてくれているのだと感じました」。これからはOBとして、新たな船出を全力で応援するつもりだ。
野球部復活を願い、川上さんたちが詰め込んだ段ボール箱は、14年半の時を超えて再び開けられた。ブルーシートを広げた体育館で、野球部関係者ら約20人は、タイムカプセルを開けるように大事に取り出しては、感慨深そうな表情を浮かべていた。川上さんの姿もあった。
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2009年12月に日産自動車野球部寮で写真やトロフィーを詰めた段ボール箱を、自ら開ける元マネジャーの川上貴光さん
=神奈川県横須賀市で2024年5月12日午前、円谷美晶撮影 |
新生野球部でヘッドコーチを務める四之宮洋介さん(46)はトロフィーを取り出し、「よくこれだけのものを残してくれていた。歴史の重みを感じた。新しいチームにどうつなげていけるのか考えたい」とかみしめた。【円谷美晶、磯貝映奈】
もっと社会人野球 毎日新聞
2024/5/18
日産元寮監の心継ぐ 次期監督「厳しさも愛情もくれた」
2025年に活動を再開する日産自動車野球部で監督に就任する伊藤祐樹さん(51)は、一人の男性の存在を思い出すことがある。横浜市旭区市沢町にあったグラウンドや室内練習場、独身寮(市沢寮)。そこで寝食をともにし、「野球選手としての心構えや人生の厳しさを教えてもらった」という寮の“監督”だ。新チームの寮も、場所や運営体制こそ違うが、学びの場になると考えている。
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日産野球部の監督に就任する伊藤祐樹氏
=横浜市内の日産自動車グローバル本社で
2023年12月21日午前11時8分、磯貝映奈撮影 |
日産自動車野球部の寮監だった安平紘さん
=神奈川県横浜市で、磯貝映奈撮影 |
市沢寮で16年間、寮監を務めた安平紘(やすひらひろし)さん(80)は、市沢寮のあった場所から10年以上も足が遠のいている。09年12月に野球部が休部になり、数年後、解体工事が進められていた頃、妻洋子(ようこ)さん(74)と訪れたのが最後だ。選手たちとの大切な思い出が詰まった場所は面影もなく更地になっていた。
「ショックで、悲しくて、楽しいこともうれしいこともたくさんあった場所なのに。もういつ行ったかも思い出せないくらい……」
ただ、鮮明に覚えていることもある。「もう二度とこの場所には来たくない」と妻に伝えたこと。そして「必ず野球部は復活する。私だけでも復活を願っていよう」と決意したことだ。
日産自動車の社員寮の管理をしていた安平さんが野球部の寮監になったのは1987年。
悩みも多かった。「野球のことは監督やコーチが指導してくれる。私が一緒に過ごすのはグラウンドを離れた選手たち。叱られたのか、落ち込んで帰ってきたり、けがをして悔しそうな顔を見せたり……。ありのままをさらけ出す彼らとどう接するかは難しかったです」と安平さん。
褒めたり慰めたり、時には心を鬼にして厳しい言葉を掛けたこともあった。そんな時ほど、対応が正しかったのかどうか不安になった。自問自答を繰り返していた頃、ある選手の一言に衝撃を受けた。打撃不振に苦しむ姿に優しい言葉を掛けようとした時のことだ。
「寮監、叱ってください。寮監に叱られたら頑張るしかないので。打てる気がします」
返ってきた想定外の言葉に、「とてもうれしかったですね。上手な人でも一生野球だけで生きていけるわけじゃない。その後の人生でも頑張れるように、人としての成長を後押しするのが寮監の仕事だと思いました。だから今でも『寮監』と呼んでもらえるのがうれしいんです。任された仕事を全うできたんだなと思えるから」。
伊藤さんは「活躍してプロへ行く選手もいれば、やめざるを得ない選手もいる。それぞれのことをよく見て、心構えや人生の厳しさを教えてくれていた。安平さんの何気ない一言が心に残ってエネルギーにつながっていた選手は、私を含めてたくさんいました。粘り強い、当時の日産野球部を作り上げる上で必要不可欠な存在でした」と話す。
野球部で長年マネジャーを務め、現在は日産自動車の関連会社で働く川上貴光さん(54)は今も安平さんと親交がある。「身の回りの世話を含めて一日中、野球部のために動いてくれていました。規則、食事には厳しい人でしたが、頼りになる寮監でした。野球部が好きな、お父さんのような存在でした」と感謝する。
どこへでも応援に駆けつけ、誰よりも大きな声で応援していた安平さんは休部後も、他チームへ移籍した選手らの応援を続けてきた。だが休部から長い年月が経過し、当時の選手は全員引退、他チームで野球に携わる人も減った。「復活してほしいと口では言っていても、心のどこかではもう無理かなとあきらめていた」という昨年9月、「日産野球部、活動再開発表」と報じる新聞記事に驚き、胸が熱くなった。記事は切り取り、大事に保管している。
同じ時間を共有した伊藤さんらには「ひたむきに一生懸命プレーして、応援している人の心を動かすような野球をするチームにしてほしいね。必ずできる」とエールを送る。
活動を再開する日産自動車野球部は、神奈川県横須賀市を練習拠点とする。選手は、同市にある追浜工場の独身寮に一般社員と同様に入る。寮の管理は外部委託で、安平さんのような寮監は配置しない予定だ。伊藤さんは「寮監はいないが、安平さんのように選手の野球だけではない部分を見てくれる人の存在は重要。社員や地域の人たちに応援される、愛されるチームを作っていきたい」と語る。
「難しいかもしれないけど、新しいグラウンドと東京ドームには行きたいな」。昨春に首の手術をし、長時間の外出が難しい安平さんだが、かつての仲間が東京ドームで都市対抗を戦う日を待ち望んでいる。
日産自動車 2024/8/1
日産自動車は1日、2025年より活動再開予定の日産自動車本社硬式野球部のユニフォームを発表しました。
日産自動車野球部の新ユニホームを発表した四之宮ヘッドコーチと伊藤監督 |
Nikkan Sports News
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本社野球部のユニフォームは、日産のコーポレートカラーであり、活動拠点となる横須賀市の市章にも使われているブルーを基調としました。また、過去に都市対抗野球と日本選手権を制した際のデザインを採用し、再び日本一を目指す意思を表現しています。
胸にデザインされたバットをつかみ飛翔する青い鳥は「ブルーバード」と呼ばれ、本社野球部が創部された1959年に発売し、横須賀市の追浜工場で長期間量産された乗用車と同名であり、野球を通じて人々に幸せを届けたいという思いと横須賀市がホームタウンであることを表しています。「ブルーバード」は、代々のユニフォームに描かれ、本社野球部の象徴となっています。また、鳥の下の二つの赤い星は日産野球部による2度の都市対抗制覇を意味します。
日産は、社員のエンゲージメント向上と地域社会への貢献のために本社野球部を復活させ、2025年の活動再開に向けて、選手の採用などの準備を進めています。
日産自動車本社硬式野球部サイト新設:https://www.nissan-global.com/JP/NISSAN_BASEBALL/
監督・コーチインタビュー 新ユニフォーム公開
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日刊スポーツ 2024/8/1
2025年から活動再開を予定している日産自動車本社硬式野球部が8月1日、ユニホームを発表した。
日産のコーポレートカラーで、活動拠点となる神奈川・横須賀市の市章にも使われるブルーが基調となった。過去に都市対抗野球や日本選手権を制した際のデザインを採用し、再び日本一を目指す意思が表現されている。
胸の青い鳥は「ブルーバード」と呼ばれ、創部された59年に発売された乗用車と同名。鳥の下の2つの赤い星は、日産野球部の2度の都市対抗優勝を表現している。
監督には同社OBの伊藤祐樹氏が内定しており、活動再開への準備が進行中。伊藤監督が3日のDeNAー阪神(横浜)で新ユニホームを着用して始球式を務めることも内定。新ユニホームが広くお披露目される。
毎日新聞 2024/8/2
日産自動車 青ユニで再出発 来春16年ぶりに活動再開
来春16年ぶりに活動再開する日産自動車野球部が1日、横浜市内で新ユニホームを発表した。
コーポレートカラーで、活動拠点の横須賀市の市章にも使われるブルーが基調。過去に都市対抗などを制した際のデザインで再び日本一を目指す。
伊藤祐樹監督は「休部当時の赤を基調に、との声も多い中で、青を基調としたユニホームで再出発します」と説明した。同監督は3日のDeNA―阪神戦(横浜)で新ユニホーム姿で始球式を行う。
スポニチ Annex 8/1
日産自動車野球部が新ユニホーム発表 伊藤監督は3日のDeNA―阪神戦で始球式「ストライク入るか」
来春から16年ぶりに活動を再開する日産自動車硬式野球部が1日、横浜市内でユニホームを発表した。
日産のコーポレートカラーで、活動拠点となる横須賀市の市章にも使われるブルーが基調。過去に都市対抗や日本選手権を制した際のデザインを採用し、再び日本一を目指す意思を表現した。
胸の青い鳥は「ブルーバード」と呼ばれ、創部された1959年に発売された乗用車と同名。鳥の下の2つの赤い星は同社野球部の2度の都市対抗制覇を表現している。
伊藤祐樹新監督(52)は「休部当時の赤を基調に。という声が多かったなかで、青を基調としたユニホームで再出発しました」と経緯を説明した。
同監督は3日のDeNA―阪神戦(横浜スタジアム)に新ユニホーム姿で始球式に臨む。救援投手がマウンドに向かう際、同社の100%電気自動車「リーフ」で登場予定。「ストライク入るかどうかは分かりませんが」と会場を笑わせた。
来春の新入部員は計22人を予定しているが、現在約20人が内定済み。先月30日に終了した都市対抗期間中に東京ドームに招待し、新ユニホームも披露。「カッコいいです」と好評の声が圧倒的だったという。
復活初年度のチームの目標は当然、都市対抗出場だ。「できれば(西関東予選)第1代表で」と伊藤監督は宣言した。来春には横須賀市内に予定している新グラウンド、室内練習場なども完成予定。“新生”日産自動車野球部が本格始動する。
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日産自動車野球部の Twitter (X) 再開
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中野拓夢、富田蓮: いずれも三菱自動車岡崎出身、阪神タイガース
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2024/8/3
日産自動車野球部・伊藤祐樹監督がセレモニアルピッチ 「やっちゃえ
NISSANナイター」開催
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やっちゃえスポチャレ(スポーツチャレンジ)
地元横浜から頂点に挑み、戦い続けている、横浜F・マリノス、横浜DeNAベイスターズ。
日産は両チームの「挑戦」、そして地元横浜のあらゆる方の日々の「挑戦」を
この取り組みを通じて応援していきます。
『NISSAN YOKOHAMA
SPORTS CHALLENGE』
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DeNA―阪神 15回戦(横浜)が3日、「やっちゃえ NISSAN
ナイター」として開催され、来年15年ぶりに社会人野球に復帰する日産自動車野球部の伊藤祐樹監督(52)が試合前にセレモニアルピッチを務めた。
始球式を行った日産自動車本社硬式野球部・伊藤祐樹監督=横浜スタジアム(撮影・荒木孝雄)
伊藤監督は「日産リーフ」のリリーフカーに乗って登場。同野球部の新ユニホーム姿でマウンドに上がり、見事なストライク投球を見せた。「リーフの乗り心地そのままに、スムーズな良い球が投げられた。6万人近い日産関係者の思いを背中に投げ、いいスタートを切れた」と語った。
DeNA・三浦大輔監督(50)は「同じ神奈川のチームとして、プロアマ問わず、神奈川の野球がもっともっと盛り上がっていけるよう、お互い頑張っていきましょう」とエールを送った。
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日刊スポーツ
来年15年ぶりに社会人野球に復帰する日産自動車野球部の伊藤祐樹監督(52)がDeNA―阪神
15回戦で始球式を行った。同監督は大役を前に、DeNA三浦大輔監督(50)と面会し、がっちり握手。横浜を拠点とするチームとしてお互いの健闘を誓った。
記念撮影に臨む日産自動車野球部の伊藤監督(左)とDeNA三浦監督(撮影・足立雅史)(Nikkan
Sports News.)
都市対抗で2度の日本一を誇る日産野球部は、2009年を最後に休部していたが、昨年9月、活動再開を発表、25年に復活を遂げる。三浦監督から「神奈川のチーム同士、プロアマを問わず野球界を盛り上げて行きましょう。始球式頑張ってください」とエールを送られた伊藤監督は「頑張ります」と笑顔で答えた。
背番号23、日産野球部の新ユニホームで始球式に臨んだ伊藤監督は「日産リーフ」のリリーフカーで入場。右上から力強い直球を披露し、「リリーフカーの加速も滑らかで、投球もスムーズないいボールが行った。少し緊張したが、最後までやりきれてよかった」。
日刊スポーツ https://www.nikkansports.com/baseball/photonews/photonews_nsInc_202408030001409-12.html
2024/8/4 デイリースポーツ
日産自動車硬式野球部伊藤監督「最高のスタート切れました」
ストライク始球式で16年ぶり復活へ弾み
「やっちゃえNISSANナイター」の冠名がついた3日のDeNA対阪神戦(横浜スタジアム)で、来年16年ぶりに復活する日産自動車硬式野球部の伊藤祐樹監督(52)が、始球式を務めた。
伊藤監督は、休部前の日産自動車野球部で堅実な守備と俊足の遊撃手として活躍。野球ワールドカップやアジア大会の日本代表で主将を務めるなど豊富な経験を持つ。現在は、来年の野球部復活に向け、自ら中心となり「日産野球部復活プロジェクト」を進めている。
球場全体から大きな拍手で迎えられ、同野球部の新ユニホームを着用し、電気自動車「日産リーフ」のリリーフカーに乗って登場した伊藤監督は、打席のDeNAのキャラクター・スターマンを相手に、ど真ん中のストライクボールを投げ込んだ。
大役を終え「緊張した」と語っていたが、リリーフカーに乗っての登場に「お子さんでも乗り物酔いしないほど加速がスムーズで、おかげでスムーズな、いいストライクが投げられました。日産自動車野球部の新ユニホームを着て、日産リーフに乗って登場するのは私の強い思いがあり、実現できて良かったです」と感激しきり。
来年からのチーム復活にかける思いにも「社会人野球が休部から復活するモデルケースとして頑張っていきます」と決意を明かし、この日の始球式を振り返りつつ「ど真ん中のストライクが投げられ、最高のスタートを切れました」と、チームの復活へいい弾みとなったようだ。
また試合前には、DeNA・三浦大輔監督と対面。「同じ神奈川のチームとして、プロアマ問わず野球界をもっともっと盛り上がっていくように頑張っていきましょう」と激励を受け「頑張ります」と誓っていた。
Youtubeより
参考 2015年7月28日 都市対抗 家族で参加する始球式 伊藤祐樹、伊藤凛之助
2024年3月14日 日産自動車・伊藤裕樹新監督 15年ぶり
昔の「NISSAN」ユニ姿でストライク投球 来年度から活動再開
毎日新聞
2024/9/21
社会人野球 日産、来年活動再開予定 伊藤監督「尻に火」
日産自動車が2009年末から休部していた野球部の活動再開を発表してから12日で1年となった。25年から再開予定のチームで監督を務める伊藤祐樹さん(52)はこの間、選手採用や環境整備に奔走してきた。
「再開が決まってから、もう1年もたったのかと。すごく早い。目に見える進捗(しんちょく)はユニホームができたことくらいなので、大丈夫なのかなと思いながらも、どうやって戦うのか楽しみな気持ちもあります」
休部当時のユニホームは赤色を基調としていたが、新ユニホームはコーポレートカラーでもある青色を基調としている。
「日産自動車が都市対抗や日本選手権で優勝していた時期のユニホームは青でした。今の西関東地区は赤いユニホームのチームが多い。絶対に青がいいと思っていました」
グラウンドや室内練習場、クラブハウスは神奈川県横須賀市の追浜工場敷地内に建設予定だが、土壌調査などが必要でグラウンドは再開初年度には間に合わず、2年目の途中に完成する見込みだ。室内練習場は来年1〜2月に完成予定で、選手たちは一般社員寮に入る。
「グラウンド完成までは横須賀スタジアムや近隣の大学などに協力をお願いするつもりです。室内練習場だけは先に作ってほしいとお願いしました。専用グラウンドがないと不便かもしれませんが、室内があれば雨など多少のイレギュラーなことにも対応できます」
初年度に想定する選手22人のうち、20人が決定している。
「全員、(来春時点で)大卒1年目の選手です。1人は社会人野球の経験者にも入ってもらいたいと思っていて、そのあたりが決まればすべてです」
監督就任が昨年12月に決まり、今年1月から採用活動をスタートさせた。有望な選手は早い段階から企業チームの練習に参加することが多く、かなり後れを取る形となった。
「大変でしたね。『こんないい選手がいるから採ってよ』という声は想像していたより少なくて、いわゆる飛び込み営業です。1、2試合しか見られない中で採らなければならない。人間性や、野球に対する情熱も必要です。リモートも含めて、必ず面談をさせてもらいました」
今の大学生は日産野球部が活動していた時代を知らないが、その栄光や休部後のOBたちの思いなどに関する情報に触れ、入社を希望する選手もいた。
「リモートで面談した選手の一人は、私たちが休部後も野球教室など活動を続けていたことを調べてきて、『そういうのってすごいなと、日産に行きたいと思った』と言ってくれました。合格です(笑い)」
採用にあたり、「ドラフト待ち」はしないと明言してきた。社会人チームの内定を受けた上でプロ野球・ドラフト会議の結果を待つ選手を選ぶよりも、大切にしたいことがあるためだ。
「『日産自動車でやりたい』という気持ちの強い選手を採りたい。野球だけをやりに来るのではなく、日産自動車の社員として野球をやる。『プロが駄目だから日産でいいか』という選手は違う。2年間、必死にやった結果、プロに行くことはいいんです。そういう選手は2年のうちに活躍してくれるはずなので」
二度と休部にならないため、野球部が会社や社員の中に根付く活動をしたいと考えている。
「試合に勝つことも負けることもありますが、(選手には)日産自動車という会社を代表してやっているんだという気持ちを持って取り組んでほしい。自分の会社や職場がどんな仕事をしているのか分からない、というのは違う。(部員には)4月にある新入社員研修には行ってもらおうかなと考えています」
来年1月に活動を開始し、3月の春季神奈川県企業大会で初の公式戦に臨む予定だ。
「野球部に必要な、細かいことが山ほど出てきていて。お尻に火が付いてきています。例えばTシャツはどんなものにするのか、スパイクはどうするのか。ボールは何個必要なのか……。会議、見直しのオンパレードです。ただ、せっかく日産でやりたいと来てくれた選手に『あれ、社会人ってこんな感じなの?』と思われるのは寂しいですよね。選手たちが困ることのないような環境を作りたいと思っています」
日刊スポーツ 2024/10/7
野球部復活まで半年の日産自動車でユニホーム展示開始 社業専念を決めたレジェンドたちの思いは
来年4月に復活する社会人野球・日産自動車のユニホーム展示が、7日までに横浜市内の同社横浜工場で始まった。
エンジン製造などで有名で「エンジンミュージアム」も併設する同工場には約3000人が在籍し、元野球部員では土井治紀さん(57)尾嶋英治さん(56)村上恭一さん(52)井上薫さん(51)宮崎誠さん(43)大庭圭太郎さん(43)南貴之さん(42)鈴木憲さん(41)の8人と、野球部副部長を務めた伊藤武志さん(56)らが勤務している。
都市対抗2度の優勝を誇る名門野球部は、リーマン・ショックの影響もあって09年に休部となった。入社時点で正社員雇用でもあり、選手の半数近くは「社業専念」を決断し、その大半が今でも日産グループ内で働いているという。
もともと「After Baseball」を理念とし、人材育成に主眼を置くチームだった。現在では各部門の管理職に就いている“元野球部”も少なくない。
ベテラン外野手だった村上さんは「引退して、まずは5年間は社業を頑張ろうと。5年後に決めようと思っていて、その5年後に仕事も人付き合いとかもどうにかなるなと感じて、このまま頑張っていこうとなって今に至ります」と笑う。
主軸を務めたこともある宮崎さんは、野球部復活が発表されて「やった!って、恥ずかしいけどガッツポーズしましたね」。自宅の近所でも「おめでとうございます」と祝福されるなど、盛り上がりの機運を感じているという。
復活の4月まで、あと半年になった。09年の休部メンバーの1人でもあり、今では人事部門に携わる南さんは言う。
「いま、従業員1人ひとりがモチベーションを高くもって働ける環境作りをやっているんですけど、自動車業界も決して楽ではなく、より一体感を持ってやっていかなければならないと。会社を1つにする取り組みは諸施策を打っても難しいところがあり、そこを担うのが企業スポーツだと思っています。会社を1つにする上でなくてはならない存在だと思います。OBとしてフォローしていきたいなと思います」
日産復活にとどまらず、強い日産の復活へ。各部門では早くも、来春の神奈川県予選への“動員”の呼びかけが盛り上がっているという。
2024年12月18日 神奈川新聞
「いよいよ始まる」日産野球部、追浜にクラブハウス完成 入寮は年明けから
2025年1月からの活動再開に向け、日産自動車野球部の練習環境整備が進んでいる。今月初旬には同社追浜工場敷地内(横須賀市)にクラブハウスが完成した。休部した2009年に同部副部長を務め、現人事部の田川博之さんは「いよいよ始まる」と胸を躍らせている。
クラブハウスに隣接する室内練習場予定地の整地も完了した。「住宅街が近くにないため、ここまで大きい室内練習場は県内でもなかなかないはず」。田川さんは50メートルを余裕で走れるほどの広い敷地を見渡した
日産自動車野球部の2025年新入団選手一覧
深浦 幹也 |
投手 左投左打 |
福岡フェニックス 〜 福岡大大濠 〜 中央大 |
阿部 克哉 |
投手 右投右打 |
柳井商工 〜 城西大 |
領家 佑馬 |
投手 右投左打 |
君津リトルシニア 〜 関東一 〜 城西国際大 |
安藤 利玖 |
投手 右投右打 |
安城ライナーズ 〜 明祥クラブ 〜 安城南 〜 中京大 |
友野 聡太 |
投手 左投左打 |
横浜平沼 〜 横浜市立大 |
島 龍成 |
投手 左投左打 |
忠岡ボーイズ 〜 履正社 〜 和歌山大 |
川副 寿来 |
捕手 右投右打 |
佐賀フィールドナイン 〜 佐賀学園 〜 国士舘大 |
鍛治園 健人 |
内野手 |
愛知江南ボーイズ 〜 愛知啓成 〜 四日市大 |
梅澤 唯冬 |
内野手 右投右打 |
市立柏 〜 中央学院大 |
桂 飛勇己 |
内野手 右投左打 |
ヤング神戸須磨クラブ 〜 高野山 〜 中部学院大 |
角田 蓮 |
内野手 右投右打 |
埼玉杉戸ボーイズ 〜 昌平 〜 駒澤大 |
小柴 滉樹 |
内野手 右投右打 |
武蔵府中リトルシニア 〜 佼成学園 〜 専修大 |
石飛 智洋 |
外野手 右投左打 |
長浜野球スポーツ少年団 〜 出雲市立浜山中 〜 出雲西 〜 天理大
|
朝岡 慶 |
外野手 右投右打 |
みよし市立南中 〜 東邦 〜 名城大 |
宮川 怜 |
外野手 |
豊田リトルシニア 〜 星城 〜 愛知工業大 |
田中 雄大 |
外野手 右投左打 |
球道ベースボールクラブ 〜 創成館 〜 福岡工業大 |
玉置 健士郎 |
外野手 右投左打 |
札幌円山リトルシニア 〜 白樺学園 〜 青森大 |
山本 侑汰 |
外野手 |
星城
〜福井工業大 |