日産自動車 伊藤祐樹選手                 目次へ

 

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

伊藤祐樹

 伊藤 祐樹(いとう ゆうき、1972年7月7日〜 )は、平成期の社会人野球の選手(内野手、右投げ左打ち)である。日産自動車所属、170cm、67kg。背番号2。

人物・来歴

  • 兵庫県出身。津名高から福井工大に進学。福井工大時代に大学選手権に出場経験がある。
  • 1995年に日産自動車に入社。強打があるわけではないが、堅実な守備と俊足を武器にたちまちショートのポジションを手にした。その後チーム事情に応じてサードやセカンドを守ったが、スターティングオーダーから名前が消えることはほとんどなく、レギュラーを守り続けた。
  • 1998年には都市対抗野球大会の優勝に貢献したことが認められ、社会人ベストナインの遊撃手部門を受賞。その後2001年、2003年と同部門で同賞を受賞。史上初の「社会人ベストナイン遊撃手3回受賞選手」となった。
  • 2003年の第30回社会人野球日本選手権大会の決勝(対大阪ガス戦)では、延長戦にもつれこむ接戦ながら、11回裏に2死1,2塁のチャンスでライト線にツーベースヒットを放ち、チーム初優勝を導いた。伊藤はこの大会のMVPを獲得している。
  • 2004年シーズンから、主将としてチームを牽引する立場となった。

エピソード

2003年7月、日大から入社して2年目の小澤裕昭投手が練習中に突然倒れ、心筋炎で40日後逝去した(享年24)。その年、日産自動車は都市対抗野球大会の出場権を逃し、秋の日本選手権に向けて猛練習を積んでいる中での出来事であった。
日産自動車は日本選手権の出場権を獲得した。大阪ドームのベンチには小澤投手の遺影が置かれていた。伊藤は小澤投手の遺影を見つめてから打席に向かうようになった。
大阪ガスとの決勝戦は同点で延長戦に向かい、伊藤が能見篤史(現阪神タイガース)からサヨナラヒットを放って日産自動車が初優勝を果たした。そのとき伊藤は次のように言った。
「今日の試合中、ずっと小澤の写真が怒っているように見えたんです。でも、最後のヒットを打ってベンチに帰ってきたら、小澤の写真が笑っているように見えました」
 

球歴

   津名高(1988年〜1990年)→福井工業大(1991年〜1994年)→日産自動車(1995年〜 )

日本代表キャリア

  • 第34回IBAFワールドカップ(2003年)
  • 第23回アジア野球選手権(2005年)
  • 第35回IBAFワールドカップ(2005年)
日本代表の主将を務めた。

主な表彰、タイトル

  • 社会人ベストナイン遊撃手部門 3回(1998年、2001年、2003年)
  • 第30回社会人野球日本選手権大会最優秀選手賞(2003年)
  • 第69回都市対抗野球大会優秀選手賞(遊撃手)(1998年)
  • 第74回都市対抗野球大会優秀選手賞(遊撃手)(2003年)
  • 第52回JABAベーブルース杯争奪大会首位打者(1998年)
  • 都市対抗野球大会10年連続出場表彰(2006年)

 


THE MAN SPECIAL  伊藤祐樹 「そこに野球があるから」 

    Grand Slam  April 2004  Number 23

   取材・文=横尾弘一
   写真=藤岡雅樹

間違いなく“いい選手”である。ただ、ショートストップという華のあるポジションでありながら、路地裏にある老舗の蕎麦屋のような玄人好みのする存在だ。
豊かな体格の選手が金属バットを振り回す中で、コツコツとヒットを打ってきた。

ダイナミックなプレーてプロヘ巣立っていく選手を見ながら、地味でも堅実なプレーを心がけた。そんな姿にスポットライトが当たる機会は少なかった。
だが、多くの才能が花開くことなく消えていく世界で、しっかりと地に根を張って生きてきた。
気がつけば齢は三十を過ぎ、生存競争の激しい社会人野球において誰よりも高い場所に立っていた。
それでも探し続ける。もつと上手いヤツはいないか、もっと高い場所はないか、と。

強烈なプライドを穏やかな表情で包み、匠の道を歩き続ける男は、「どうして野球を続けているのか」という問いに、迷わずこう答えた。
「 そこに野球があるから」

もう20年以上も前のこともだが、一度だけ兵庫県の淡路島を訪ねたことがある。高校時代に在籍していた野球部が春休みの遠征を行なった際、「淡路島に凄い投手がいる」と聞いた監督が練習試合を申し込んだのだ。その投手は洲本高の川畑泰博といったが、のちに中日からドラフト2位指名を受け、オリックスヘ移るなど12年間プロ野球で活躍した。そして、この試合のあと、せっかく遠征してきたのだからということで、同じ淡路島にある津名高とも対戦した。その時のメンバー表を引っ張り出してみると、七番サードに『伊藤ヒ』、九番セカンドに『伊藤マ』という選手名が書かれていた。

「七番のヒが秀樹で次男、九番のマが雅樹で長男。二人の年子のあと、6年経って生まれたのが僕です」
伊藤祐樹は懐かしそうな表情で、そう教えてくれた。

好投手がいるという理由だけで、遠く見も知らぬ土地を訪れる。そこで行なわれた練習試合のメンバー表を、なぜかスクラップしてある。その中に書かれた選手名と、自分が知り合った選手の苗字が同じだったことから、「淡路島に伊藤姓は多いの?」と尋ねる。「もしかしたら、僕の兄かもしれませんよ」という答を聞き、しかもそれが現実であったことを知った時、伊藤に対して奇跡に近い縁を感じた。そして、知らず知らずのうちに情が湧き、いつも気になる存在になっていた。

二人の兄が甲子園を目指している頃、伊藤の野球人生はスタートした。実家がある津名郡一宮町江井の少年野球チーム『江井フレンズ』から一宮中軟式野球部を経て津名高野球部まで、伊藤は二人の兄の背中を追いかけた。江井フレンズの監督は、兄の時にはコーチをしていた父親の優さんだった。大きな目標を抱き、だからと言って決してスパルタになることなく、伊藤の野球はゆっくりのびのびと育まれていった。学生時代に輝かしい球歴を誇る選手がひしめく日産自動車にあって、伊藤がどこか異彩を放って見えるのも、そうした歩みと無関係ではあるまい。少年時代を振り返った時、伊藤の口からは「野球をすることが楽しかった」という言葉しか出てこない。

中学までは抜群の身体能カを生かしてエースに君臨した。しかし、高校で硬式球を握るようになると、小柄な伊藤家の血統をしっかりと受け継いだ三男も、兄たちと同じように内野手に専念する。
「二人の兄は右打ちでしたが、やっぱり体格に恵まれていませんからね……日本の野球にありがちのディフェンシブな内野手になっていきますよね。それで、せめて左打ちなら足を生かしたバッティングとか、自分の可能性を広げていくことができると考えていたんでしょう。僕が本格的に野球に取り組むことになったあたりから、しきりに左打ちを勧められましたね。そういう考え方は僕も理解できたので、兄たちのアドバイスを受け入れました」
こうして、左打ちのショートストップになった伊藤は甲子園を目指したが、残念ながら3年間でその夢を果たすことはできなかった。

次のステップは大学野球と決めていた。だが、地方の高校球児が憧れる東京や関西の大学ではなく、福井工大を進学先に決めた。
「福井工大は下の兄が通っていましたから情報もあったし、その兄がレギュラーを張っていたことで『あの伊藤の弟なら』という入りやすい感じもあったと思います。でも、駒澤や立命館のセレクションには参加したんですよ。ただ、練習会であるはずなのに、甲子園で活躍したような選手は、すでに先輩となる部員と気軽に話していましたし、何か「もう結果は決まっているんじゃないの」という雰囲気を感じたんですよ。やはり僕らのような高校には、そういう野球界の細かな情報はなかなか届きませんからね。最終的には、居心地のよさを求めて福井に行ったような部分もありますね」

神戸学院大に進んだ長兄の雅樹は、大学卒業と同時に野球と決別した。次兄の秀樹は、福井工大から川崎製鉄水島へ入社し、レギュラーを目指してプレーを続けていた。

その後を追いかける伊藤は、主将を務めた4年時に全日本大学選手権でベスト4に進出するなど、次兄を上回る実績を積み上げた。当然のように社会人からも声をかけられ、神宮で旋風を起こしていた頃には、あるチームから内定をもらう。

ところが、ここに高校の大先輩が登場する。昨年のワールドカップで監督を務めた村上忠則である。この時点で、村上と伊藤に面識はない。伊藤は「確か僕が高校1年の時、村上さんが津名町の町民栄誉賞を受賞されて、津名高で講演をされたんです。その講演を聴き、『津名にも立派な先輩がおるんやなあ』と思って名前を覚えていた。それくらいなんですよ」と振り返る。一方の村上も、伊藤のプレーはまったく見たことがなかった。「伊藤を知ったのは、交流のあった社会人チームの監督さんから『村上さんの高校の後輩で、いいショートがいますよ』という情報をもらってから。それで調べたら、すでに他社から内定をもらっているという。ならば、社会人の空気を味わってみるだけでいいから、日産の練習に参加してみたらどうだ、と声をかけたのがきっかけです」

都市対抗本大会前の日産の練習に参加した伊藤は、「いい緊張感があって、こんなチームでプレーできたらいいなって素直に感じました」と好印象を持ち、伊藤のプレーを見た村上も、「本人が日産でやってみたいという気持ちを持ってくるのなら、ぜひとも迎えたい選手だった」と関心を深める。そして、村上がアクションを起こした。

「私の高校の後輩に、砂原均持という川鉄水島で監督も務めた男がいるんです。伊藤のお兄さんが在籍していたのも知っていましたから、砂原に連絡して、『君とお兄さんからも私の気持ちを伝えてほしい』とお願いしたんです」

村上の気持ちを伝え聞いた伊藤は、「いくら高校の後輩とはいえ、関東の強豪チームの監督が、僕を評価してくれたことが嬉しかった。内定をいただいていた会社には礼を失してしまうことになりますが、それでも自分の意志を押し通したかった」と、日産へ入社する決意を固め、村上も「内定している会社と福井工大に対して、私が精一杯の謝意を示して」横ヤリを入れた。

こんな経緯があって、伊藤は日産の一員となる。多くの人間を動かし、一部の人間を傷つけてまで選んだ自分の道である。少年時代が「野球は楽しい」という伊藤の野球観を形成した時期なら、大学卒業時の進路選択は「自分からユニフォームを脱ぐことはあり得ない」という考え方の土台になったと言えるだろう。

1995年3月9日、川崎球場。第50回の節目を迎えた東京スポニチ大会に出場した日産は、ヤオハンジャパンとの一回戦に臨む。

伊藤も九番ショートで社会人デビューを果たし、ヒットを1本放った。二回戦で松下電器にサヨナラ負けを喫するが、伊藤は「自分にカがあるという意味ではなく、社会人でもどうにかなるだろう、やっていけるだろうという実感はありました。自分の努力次第だという感じ」と、まずは順調なスタートを切った。しかし、次第に社会人のレベルの高さ、その中で存在感を示していくことの厳しさもたっぷりと味わわされた。

都市対抗予選が始まる頃になると、5歳上の天瀬和男がショートの定位置を任されるようになり、本大会への出場権を確保すると、補強選手がスターティング・ラインアップに並ぶようになる。伊藤の都市対抗は、グラウンドに立つことなく終わった。

この年は、都市対抗を日本石油(現・新日本石油)が制し、予選で敗れた三菱自動車川崎(現・三菱ふそう川崎)が巻き返して日本選手権で頂点を極めた。日産も、前年まで2年続けて日本選手権で準優勝していたが、今日の王者が明日は地べたを這わされるという神奈川の厳しさは、伊藤の向上心を大いに刺激した。

「神奈川で勝てば全国で勝てるという雰囲気がありましたからね。ならば、普段からそういう厳しい戦いのできる環境でプレーした方が、自分のためになると感じました。何しろ、各チームに全日本の候補選手がいる。試合前の練習などを見ていると、「はっぱり凄いな」と思うことはありましたよ。でも、そういう選手に憧れたり、反対に『自分はあんな選手にはなれないだろう』と卑屈になることはなかったんですよ。実際に戦う中で、いい選手がミスしたり、不調で苦しむ姿を見てきましたし、思わぬ選手の活躍で番狂わせが起きるシーンにも出くわした。自分は自分にできることを精一杯やって、チームとしていい思いができればと思っていました」

ひたむきな努力を重ねる伊藤が自信をつかんだのは、入社3年目となった97年である。3月の東京スポニチ大会一回戦で松下にコールド負けするという不安の中でスタートしたシーズンは、夏に向かってチームが一体感を強め、都市対抗ではベスト4に進出。日本選手権にも3年ぶりの出場を果たす中で、伊藤はショートのレギュラーとして攻守に安定感を高めた。

そして翌98年、日産は14年ぶりに黒獅子旗を獲得する。伊藤はニ回戦まで7打数無安打と乗り遅れたが、東芝との準々決勝に3安打すると、川崎製鉄千葉との決勝では東京ドーム初本塁打も放つなど、優勝メンバーとして文句なしの成績を残した。日本選手権は一回戦で敗れたものの、東京スポニチ大会で4強入りしていたことも評価され、シーズンが終わると社会人ベストナインの栄誉も手にした。

伊藤とゆっくり話をするようになったのは、この頃からだ。「ベストナインは一生の思い出になりました」という軽い言葉を口にしながらも、野球の話を始めると止まらない。野球に対する思いの深さは、小一時間も言葉を交わせばわかるタイプだ。「プロは?」と聞けば、「年齢的には厳しいですが、やってみたいですね」と言い、「日本代表は?」と問えば、「チャンスがあったら入ってみたいですね」と答える。試合の前日に「明日は勝ってよ」と声をかければ、「精一杯頑張ります」と唇を結ぶ。そんな伊藤の言葉から感じるのは、謙虚さよりも真っ直ぐな気持ちである。謙虚に見える態度というのは、相手に対する皮肉や哀れみを伴うことがある。だが、真っ直ぐな気持ちというのは、どこまで行っても真っ直ぐだ。試合後の伊藤は、取材に訪れた記者から声をかけられる場面が多い。伊藤祐樹という選手が、それだけ注目されるようになったことはもちろんだが、同時に誰もが話をしたくなる男なのだということに気づかされた。

その後も選手生命を左右するような大きな故障やケガもな<、日々の戦いでの勝ち負けを繰り返しながら、伊藤は自分の野球人生を思い通りに描いていた。99年に知り合った真樹夫人は、翌2000年の東京スポニチ大会で伊藤のユニフォーム姿を初めて見た。

「母と二人で球場へ足を運びましたが、そこで主人はホームランを打ったんです。カッコイイというよりも、本当に野球が好きなんだということが伝わってくる人だと思い、それからは時間のある限り球場で応援していましたね。野球のストレスも野球で発散してしまうような人で、誰といても常に自然体。お互いに結婚を意識したのも、自然な流れだったと思います」

公私ともに充実した伊藤は、01年に2度目の社会人ベストナインに輝く。実はこの年は、遊撃手に絶対的な候補がいなかった。何人かの選手が最終選考に残る中で、最もネームバリューのあった伊藤に落ち着いたという印象があった。「今年はラッキーだったね」と茶化すと、「イトウユウキという選手が社会人で頑張っているよ、ということはわかってもらえたかな」と、屈託のない笑顔を見せた。そして二年後の昨年、31歳のシーズンに見せた伊藤の活躍ぶりは、あらためて詳述する必要がないほどのインパクトがあった。

都市対抗では7年ぶりに予選敗退の屈辱を味わったが、三菱川崎に補強されると不動の一番打者として優勝に貢献。初めて選出された日本代表では、恩師である村上監督の下でキャプテンも務め、9年ぶりのワールドカップ3位という偉業を成し遂げた。キューバで戦っている間にチームメイトが代表権を勝ち取ってくれた日本選手権では、爆発的というよりも、確実性の高さを見せつける働きで初優勝の原動力となり、見事に最高殊勲選手賞に選ばれた。「いいこと続きで怖いくらい。本当に野球を続けてきてよかったと思います。でもね、振り返れば都市対抗予選では負けている。一度失ったものを取り返すのは、とても大変な作業なんですよね。そういう意味で、今年は厳しいシーズンになると思います」

昨シーズンが始まる頃、「今度ベストナインに選ばれたら、ショートでは史上最多の3度目になる。何とか手にして、表彰式では『3度目は嫁さんのおかげで獲れました』とかキザなことを言ってよ」と向けた。伊藤の返事は「精一杯頑張ります」だけだったが、そんな勝手な要求にもしっかりと応えてくれた。

社会人9年目、最高の一年を終えた伊藤に聞いてみた。「これから先は何を目指すのか」と。
「将来のビジョンは大切だと思いますが、僕は先のことを考えると何事も上手くできないタイプだと思うんです。どんな大会の前でも、絶対に優勝しようと思って臨むのではなく、今日の試合を精一杯戦おうと構えていた方がいい。あえて目標を言葉にするとしたら、『自分の守備範囲に飛んできた打球を、いつでも確実にアウトにしたい』ということかな」

思えば、「どうして野球を続けているのか」と問いかけた時も、「そこに野球があるから、という感じですかね。はっきりした理由はないんですよ」と笑っていた。いつでも伊藤の答は真っ直ぐだ。

数々の活躍で社会人球史に名を残したが、伊藤にとって本当に大切な時間は、これから始まるといっていい。栄光の歴史に名削を刻んだ者には、それを塗り替える者が現れるまで、頂上の輝きを聖域として守り通す使命があるからだ。

しかし、伊藤にとってそれは、さほど難しいことではないだろう。苦しい時はじっと耐え、悔し涙を決して忘れず、大きな喜びはかけがえのない仲間ーー志半ばでグラウンドを去った仲間も加えて分かち合う。そうやって、これまでのように、ただひたすら白球と向かい合っていけばいいのだから。朝、目覚めた時、「今日も昨日のように、精一杯グラウンドを駆けよう。そして、今日は昨日よりも絶対に上手くなってやろう」と、心に誓って。

いとうゆうき
1972年7月7日生まれ、兵庫県出身。
169.5cm・67kg、右投左打。
津名高から福井工大へ進み、4年時には大学選手権でベスト4へ進出。95年に日産自動車へ入社すると、堅実な守りと粘り強い打撃でショートの定位置を獲得した。98年の都市対抗で優勝に貢献し、初めて社会人ベストナインを受賞。その後も攻守に実績を残し、2001年には2度目の受賞を果たした。
昨年は三菱ふそう川崎の補強で都市対抗に優勝し、日本選手権でも頂点に輝いてMVPに。さらに、第35回IBAFワールドカップ日本代表の主将も務めた働きが評価され、史上初めて遊撃手として3度目の受賞となった。既婚。写真左が真樹夫人。


毎日新聞 2004/1/1 

頑張った人にだけドラマが待っている
 真夏の球宴の魅力 前日産自動車監督・村上忠則さんに聞く
 

 社会人野球の最大イベント、都市対抗野球大会は今年、75回目を迎える。後楽園球場や東京ドームなどで数々の名勝負が生まれ、華やかな応援合戦が大会を彩る「真夏の球宴」。現役で活躍するプロ野球選手の多くが大会から育ち、球史に残る記録も刻まれてきた。選手、監督として出場27回を誇り、5回の優勝を経験している前日産自動車監督の村上忠則さん(54)に思い出を語ってもらった。村上さんの言葉の一つ一つからは、長年にわたって都市対抗野球大会を見続けてきた熱い気持ちが伝わってくる。


ー 都市対抗に多く出場した村上さんにとって、都市対抗とはどんなものですか。

 夢の舞台ですね。社会人野球に携わるすべての人が目指している最高の場所です。かつての後楽園球場でのしゃく熱のゲ−ム、地域の人や会社の人が後押ししてくれる大応援団……。他のどんな野球にもないような魅力がありました。

ー 一番印象に残っている場面は。

 75年の第46回大会準々決勝の日本石油戦です。2−1でリードしていた九回表の守りで、2死から同点本塁打を打たれてしまったんです。でも、その裏、先頭打者でサヨナラホームランを打って勝利しました。無我夢中だったけど、うれしかったですね。前年の予選の代表決定戦でも全く同じことが起きていたので、びっくりしました。
 

ー 3チームを渡り歩き、すべてのチームで優勝を経験されました。

 
行く先々、その時代の日本一の激戦区でした。大昭和製紙北海道が優勝した74年以降は、北海道拓殖銀行(札幌市)、札幌トヨペット(同)が準優勝するなど、北海道勢はいつも上位に進出していました。日産自動車に移籍してからも神奈川勢は毎年のように決勝に進んでいましたからね。常に切瑳琢磨できる場所に身を置くことができたから、好きな野球を長く続けられたんだと思う。優勝できたのは、いい方向に導いてくれる人との出会いや縁があったからです。僕のカではないですよ。

ー 移籍するということは不安も伴うと思いますが。

 北海道に行った時は不安だらけでした。でも、ひとつの場所にとどまらなかったからこそチャレンジ精神が持続した。ずっと気を張っていたから年を取ってもいられなかったし(笑)。

ー 都市対抗ならではの補強選手としても頂点に立たれました。

 補強制度はいいですね。他チームに必要とされ、(補強選手として)違う釜の飯を食べることができる。日本石油の補強で優勝した86年、僕は36歳。予選では試合に出ていなかったのに当時の監督の磯部(史雄)さんが呼んでくれて、本大会ではずっと試合に出してもらってうれしかった。都市対抗という夢舞台には必ずドラマがある。でも、頑張った人にしかドラマの場面はやってこないと思っています。みんなが主役になって、あの大きな舞台で輝いてもらいたいですね。
 

むらかみ・ただのり
1949年8月4日生まれ。兵庫県出身。現役時代は捕手。兵庫・津名高から68年、大昭和製紙(静岡県富土市)に入社。大昭和製紙北海道(白老町)や日産自動車(神奈川県横須賀市)への移籍を経て、86年に現役を引退。日産自動車の監督に就任し、選手、監督を通じ計4チームで5回の都市対抗優勝を成し遂げた。97年には計25回(選手で17回、監督で8回)の都市対抗出場で都市対抗特別賞を受けた。選手時代は強肩強打の好捕手として日本代表メンバーにも選ばれ、数々の国際大会で活躍。昨年、キューパで行われたワールドカップでは社会人選手だけで編成した日本代表チームの監督を務め、3大会ぶりに銅メダルを獲得した。
現在は神奈川日産自動車法人事業部長。


 

 

 

ーーー

毎日新聞 2009/5/2

都市対抗野球 80回目の夏 原点の記憶

 村上忠則さん(59)横浜球団取締役(日産自動車)

アマの精神、不変

 今はプロ球団の運営に携わりながら、ファンに野球の素晴らしさを伝えることに尽力している。選手に願うのは「野球がうまければいいのではなく、思いやりを持った人間になれ」。その思いは社会人野球で培われた。
 選手、監督として31年間、社会人野球の世界に身を置いた。その間に2度、自分の人生を左右する経験を味わっている。
 大昭和製紙に入社し、大昭和製紙北海道に転勤。74年、社会人7年目で正捕手の座をつかみ、都市対抗北海道予選に挑んだ。北海道拓殖銀行、新日鉄室蘭との三つどもえの激戦は、新日鉄室蘭からあと1死取れば代表に決まるところまできた。ところが、その場面で同点本塁打を浴びる。一球の怖さを身にしみて痛感した。
 しかし、その裏には自らのバットで劇的なサヨナラ本塁打。「あれで人生が変わった」。都市対抗本大会に進むと北海道勢として初優勝。翌年も準優勝を果たし、全国きつての強豪となった。
 81年にも日本選手権で準優勝し、実績は残したはずだった。ところがその直後、会社から突然の休部を告げられた。「来年に備えていた時期でした。あのショックは一生忘れられない」。図らずも人生の転機が訪れた。
 いったんは仕事に専念することを決めたものの、野球の虫が騒ぎ、日産自動車に転籍。チームは変わったが、84年には再び都市対抗制覇を成し遂げ、98年には監督として黒獅子旗を手にした。
 その日産自動車も今季限りで休部となる。「今の選手は休部の不安を背負って痛々しいほど必死にやっている。彼らの苦しさが分かるし、胸を打つ」。縁あって2年前からプロ野球・横浜のフロントに入ったが、純粋に打ち込むアマチュアの精神は今も忘れない。
 「都市対抗に出ると従業員が喜んでくれて、応援してくれて。重圧もあったけど、男冥利に尽きる」と振り返る思いは、プロの世界でも、選手へのこんな言葉となっている。「見に来てくれた人のためにベストを尽くすプレーをしろ。ファンと家族に感謝しろ」。立場上、契約更改などわずかな場所でしか選手に声を掛けることはない。それでも、少しずつ、野球に懸ける気持ちが伝わっているを感じている。

兵庫・津名高から68年に大昭和製紙に入り、大昭和製紙北海道、日産自動車で活躍。87年に日産の監督に就任し、98年の都市対抗で優勝。日産出身の佐々木邦昭・横浜球団社長に請われて07年3月から球団取締役に。現在、チーム運営部門統括を務めている。

ーーー

2009/09/19

プロ野球・横浜ベイスターズの佐々木邦昭球団社長(62)が来年3月の任期満了を待たずに退任する。
球団は2006年、日産自動車から佐々木氏を招聘したが、3年目の今季も2年連続の最下位が濃厚な状況で、不振の責任をとる。

同じく日産自動車から球団入りした村上忠則チーム運営部門統括(60)も退団する。

 

 


2003年都市対抗  三菱ふそう川崎の補強選手として優勝 

決勝戦で川崎市・三菱ふそう川崎と野村克也・前阪神監督率いる東京都調布市・シダックスが対戦。3点リードされた三菱ふそう川崎は七回表、西郷泰之選手の適時打や石塚信寿選手の決勝スクイズなどで一挙5点を奪い、粘るシダックスを5―4で降し3年ぶり2回目の優勝を飾った。


 
 

2003年 国際野球連盟(IBAF)W杯(キューバ)で 3位  

【監督】 村上忠則
【コーチ】 萩野友康、杉本泰彦、坂口裕之
   
【投手】  佐藤充(日本生命) 坂本保(ホンダ熊本) 川岸強(トヨタ自動車) 松井光介(JR東日本) 谷村逸郎(三菱ふそう川崎) 後藤隆之(三菱重工長崎) 
野間口貴彦(シダックス) 塩崎貴史(新日本石油) 土井善和(日本生命)
【捕手】 高根沢力(三菱ふそう川崎) 安田真範(東芝) 松下和行(日本新薬)
【内野手】 西郷泰之(三菱ふそう川崎) 岩本裕治(新日本石油) 四之宮洋介(日産自動車) 草野大輔(ホンダ熊本) 清水昭秀(日本通運) 伊藤祐樹(日産自動車) 高橋史明(西濃運輸)
【外野手】 高松竜馬(新日本石油) 吉浦貴志(日産自動車) 吉田浩(住友金属鹿島) 今村直樹(日産自動車九州) 竹原直隆(三菱自動車岡崎)

結果:

    予選成績

Group A G W L .Pct   Group B G W L .Pct
Cuba 6 6 0 .1000   JapanJa 7 7 0 .1000
Nicaragua 6 4 2 .666   USA 6 5 1 .833
Chinese Taipeia 6 3 3 .500   Panama 7 5 2 .714
Koreaa 6 3 3 .500   Brazil 7 4 3 .571
Canada 6 3 3 .500   Netherlands 6 3 3 .500
Italy 6 1 5 .167   Mexico 7 2 5 .286
Russia 6 1 5 .167   China 7 1 6 .143
China           France 7 0 7 .000

決勝リーグ

一次 Nicaragua 0ー5 Panama
Japan  2
ー0 Korea
USA 1ー2 Taipei
Cuba 4
ー3 Brazil
準決勝 Panama 4−1 Japan Taipei 3−6 Cuba
決勝

Panama 2−4 Cuba

3位決定戦

Japan  7-3 Taipei

   伊藤  打数25、安打 10、打点 8、打率 .400 うち本塁打2、三塁打1、二塁打1

予選パナマ戦で ソロ本塁打を放った伊藤祐樹=AP    

ーーー

2003年10月2日 一宮町オンラインサービス

伊藤祐樹さんが日本代表のキャプテンに!〈IBAFワールドカップ大会〉

第35回IBAFワールドカップ大会に出場する日本代表チームのキャプテンに、江井出身の伊藤祐樹さん(31歳)が選ばれました。

 

国際野球連盟が主催する同大会は10月12日から25日までキューバで行われる予定。世界16カ国が参加し、日本代表チーム(村上忠則監督・津名高校出身)は社会人24名で構成されています。

祐樹さんは3人兄弟の末っ子。江井フレンズの元監督であるお父さんの優さんに話を聞くと、小さい頃から長男の雅樹さんや次男の秀樹さんとキャッチボールなどをして野球に親しんでいたそうです。

津名高校から福井工業大学に進学した後、平成7年に日産自動車へ入社。ショートで活躍し、社会人野球ベストナインを2度にわたって受賞するなど輝かしい成績を収めています。今年の都市対抗野球大会では補強選手として三菱ふそう川崎の優勝に大きく貢献し、日本代表選手に選ばれました。


「せいいっぱい自分の力をだしきること。結果は後からついてきます」と静かな闘志をみせる伊藤キャプテン。世界舞台での活躍ぶりから目が離せません。



《大学・社会人野球での主な経歴》

☆福井工業大学
【1993年】 5月 北陸6大学野球春季リーグ戦 首位打者賞
       10月 北陸6大学野球秋季リーグ戦 最高殊勲選手賞

【1994年】 6月 第43回全日本大学野球選手権大会 主将 Best4
       10月 北陸6大学野球秋季リーグ戦 最高殊勲選手賞

☆日産自動車
【1998年】 3月 第53回スポニチ大会 優秀選手賞
        5月 第52回ベーブルース杯争奪全国社会人野球 優勝 首位打者賞
        7月 第69回都市対抗野球大会 優勝 優秀選手賞
       12月 1998年度社会人野球ベストナイン受賞

【2000年】 3月 第55回スポニチ大会 優勝 優秀選手賞
       11月 社会人野球関東選抜リーグ戦 優勝 最高殊勲選手賞、首位打者賞

【2001年】10月 第28回社会人野球日本選手権大会 優秀選手賞
       11月 社会人野球関東選抜リーグ戦 優秀選手賞
       12月 2001年度社会人野球ベストナイン受賞

【2002年】 3月 第57回スポニチ大会 優勝 優秀選手賞

【2003年】 3月 第58回スポニチ大会 優秀選手賞
        8月 第74回都市対抗野球大会 優勝(三菱ふそう川ア:補強選手) 優秀選手賞


※資料提供:伊藤優さん


2003年 第30回社会人野球日本選手権大会  優勝 

   

日産 延長サヨナラV       伊藤、大阪ガス・能見投手からサヨナラ打         

  十一回2死から粘りの連打          
  「強い気持ち」結実

 

   1  2  3  4  5  6  7  8  9 10 11  R
大阪ガス  0  2  0  1  2  0  0  0  0  0  0  5
日産自動車  0  0  0  4  0  0  0  1  0  0 1x  6

 伊藤 打数4、安打3、打点3

 日産 4回の攻撃
   小山:三振、渡辺:ホームラン
   村上:四球、大庭:四球、青柳:ヒット、須田:三振、
伊藤:ヒット
 日産 7回の攻撃
   
伊藤:二塁打、四之宮:犠打、吉浦:三振、小山:三振
 日産 8回の攻撃
   岩越:ホームラン
 日産 11回の攻撃
   村上:アウト、岩越:三振、青柳:ヒット、中原:ヒット、
伊藤:サヨナラ二塁打

 

 日産自動車の伊藤が鋭く振り抜いた打球は右翼線いっぱいに入り、転々とフェンスまで達した。劇的なフイナーレだ。5ー5の同点で迎えた延長十一回。日産の攻撃は2死から8番・青柳、中原が連続安打で一、二塁とした。中原の打席で「オレまで回せ」と心の中で念じたという1番・伊藤は、カウント1−2から4球目の直球をジャ一ストミートして青柳がサヨナラ勝利の生還。今大会4試合で、伊藤が放った安打は5本だが、うち4本は打点付き。最後の最後まで、無類の勝負強さを見せつけた。

  大阪ガス投手は能見

 日産は今夏、6年連続出場していた都市対抗を逃した直後、約1週間は朝から夜までミーティングの日々を送った。バッテリーと野手に分かれて神奈川予選のビデオを繰り返し見て、それぞれの立場で一球一球について分析しながら負けた理由を洗い出した。互いに厳しいことも言い合い、夜10時にまで及ぶこともあったという。
 そして今大会。「自分は何をすればいいのかを考えて行動で示すという、強い気持ちがチームに芽生えた」と、主将の渡辺は言う。
 象徴的なのは、夏まで正捕手だった中原。今大会控えに回り、新人の須田がマスクをかぶり続けた。だが、1点を追う六回から途中出場し、冷静なリードで3番手左腕・中村の持ち味を引き出して、大阪ガスを無得点に封じた。六回に代打出場した岩越は、八回2死無走者から起死回生の同点ソロをバックスクリーンにたたき込んだ。
 「みんなが持てるカを出し切ってくれた結果」と久保監督。夏の雪辱の思いは、優勝戦で見事に結晶した。

最高殊勲選手賞
  伊藤祐樹内野手(日産自動車)=初 

1番・遊撃手として4試台フル出場し、16打数5安打6打点。優勝戦では、決勝の二塁打など3安打3打点の活躍で打線をけん引した。福井工大卒。31歳。

【優秀選手】
▽投手   押本健彦、中村将明(以上日産自動車)、山田幸二郎、能見篤史(以上大阪ガス)、
内山博昭(ミキハウス)
▽捕手   中野滋樹(ミキハウス)、柴田秀仁(一光)
▽一塁手   栗栖敏(大阪ガス)、柏野浩二(ミキハウス)
▽二塁手   坂上真世(一光)
▽三塁手   青柳大輔(日産自動車)、山井晃男(トヨタ自動車)、西田朋生(NTT西日本)
▽遊撃手   伊藤祐樹(日産自動車)、岩本達也(大阪ガス)
▽外野手   飯塚智広(NTT東日本)、嶋田功一、丸山義人(以上日立製作所)
▽指名打者   沢多弘也(大阪ガス)、広瀬栄作(トヨタ自動車)

ーーー

ゴーン社長にナインV報告 日産自動車 

 社会人野球日本選手権で初優勝した日産自動車の久保恭久監督や渡辺敦主将らが3日午前、東京都中央区の本社ビルを訪れ、カルロス・ゴーン社長に優勝を報告した。久保監督は「社長の『野球部を誇りに思う』という言葉を胸に、チーム一丸となって戦った。会社の70周年に花を添えられて良かった」と述べた。

 ゴーン社長は「これまでの努カと強い精神カが実った素晴らしい優勝だった」と、チームの健闘を称賛。支援しているJリーグ・横浜Fマリノスも劇的な前後期優勝を決めたこともあって、「マリノスと野球部の優勝は日産再生の集大成」とご機嫌だった。 

 ゴーン社長は、メダルを首から下げて優勝旗やトロフィーなどを抱えた監督や選手一人ひとりと握手した後、「献身的な努力に加えて才能を発揮し、素晴らしい成績を残してくれた。良い思い出にするとともに、さらにレベルを高めてほしい」と選手らをたたえた。

 また、記者から「選手には車1台?」と聞かれると、「その質問にはびっくりだが、高い成果には見返りがあることを示したい」と苦笑していた。

伊藤祐樹内野手は「すごいことをやったのかなという実感がわいてきました」と、喜びをかみしめていた。

 

ーーー

2003年社会人野球ベストナイン 

2003年社会人野球ベストナインの10選手が12月16日、発表された。初受賞は7人で、関東の選手が9人を占めた。DHで都市対抗久慈賞のキンデラン(シダックス)が過去最年長の39歳で外国人枠選手として初めて選ばれた。



ワールドカップでも活躍した都市対抗若獅子賞の野間口(同)が、都市対抗橋戸賞の谷村(三菱ふそう川崎)を抑えて受賞。都市対抗優勝の三菱ふそう川崎からは、決勝で同点打を放った西郷一塁手が歴代2位の5度目の栄誉、高根沢捕手は巧みなリードが評価された。日本選手権を初制覇した日産自動車は、最高殊勲選手賞の伊藤遊撃手と、ワールドカップMVPの吉浦外野手が入った。

◇ベストナイン◇

位置   氏名   チーム   受賞回数
投手   野間口貴彦   (シダックス)  
捕手   高根沢力   (三菱ふそラ川崎)  
一塁手   西郷泰之   (三菱ふそう川崎)   2年連続D
ニ塁手   高橋賢司   (NTT東日本)  
三塁手   玉城一   (NTT東日本)  
遊撃手   伊藤祐樹   (日産自動車)   2年ぶりB
外野手   吉浦貴志   (日産自動車)   2年連続A
 〃   山内弘一   (三菱自動車岡崎)  
 〃   鈴木貴光   (日立製作所)  
DH   キンデラン   (シダックス)  

 

      (後列左から)鈴木、吉浦、山内、キンデランの代理シダックス土田マネジャー、伊藤
      (前列左から)野間口、高根沢、西郷、高橋、玉城

2004年 都市対抗  初戦でホンダに敗退  

 

伊藤、キャプテン就任

 

 


2004年社会人野球 関東代表決定戦 野村監督のシダックスに敗退 

日産の連覇消える

○…昨年優勝の日産自動車が、野村監督率いるシダックスとの初戦でサヨナラ負けを喫し、連覇の望みを断たれた。1点を追う9回、シダックスのエ−ス野間口を攻めて同点に追いついく粘りを見せたが、その裏、6回途中から好投していた2番手左腕・青木が2死から連続四球を出し、最後はパチェコに左前に運ばれた。久保監督は「選手はよくやった。投手に負担をかけてしまった」と投手交代の遅れを悔やんだ。

 
     
   

 


2005年 

 

都市対抗 決勝で三菱ふそう川崎に敗退

◇消耗戦に耐えられなかった横須賀市
 

 横須賀市に勝利の女神がほほえみかけたのは6回のことだ。2死後。岩本の飛球は中堅手のひざ元を抜ける二塁打。続く四之宮のゴロは三塁手のグラブ脇をすり抜け、遊撃手から一塁への送球は間一髪セーフ。一、三塁で打席は日本代表に名を連ねる11年目の主将、伊藤。またとない勝ち越し機だった。
 3球見送り、カウント2−1。沈みながら外へ逃げる球にバットが空を切り三振。万事休した。見送れば、ボール。「普段なら振りはしない。思わず追いかけてしまった」。伊藤は嘆いた。「あの時、勝ち越せていたら…」。終始、川崎市に先行を許す展開では、その裏に死球と失策がらみで勝ち越されたバッテリーを責めようもない。

 会社の危機と向き合ってきた川崎市。伊藤は「一人一人のちょっとしたプレーに勢いを感じた」と言う。歓喜する川崎市を見つめ、ふとつぶやいた。「僕らもそうだった」
 横須賀市が前回優勝した98年は、日産自動車がカルロス・ゴーン氏を最高執行責任者に迎える前年。「本当に景気が悪くて、会社は、野球部は、どうなるんだという危機感があった。その中で勝ちたい気持ちがあふれていた」。「あのころの僕らの野球を相手にやられた。忘れちゃいけないことを思い起こさせてくれた」。あと一歩で逃した黒獅子旗。あと一歩を乗り越える術(すべ)は、少し見えた。

32年ぶりの白獅子旗を手に。来年こそは『黒獅子旗』を。
(左 内野手 伊藤 祐樹、右 内野手 四之宮 洋介)


2005/9   第36回IBAFワールドカップ   オランダ

日本代表メンバー

    日産自動車 投手   高崎 健太郎
            遊撃手 伊藤  祐樹
            遊撃手 梵    英心

    9月1日夜の都市対抗決勝戦の後、2日朝出発       

予選グループ

Aグループ: キューバ、カナダ、韓国、中国、パナマ、オランダ、ブラジル、スウェーデン、南アフリカ
Bグループ:
日本、アメリカ、オーストラリア、チャイニーズ・タイペイ、プエルトリコ、ニカラグア、チェコ 、コロンビア、スペイン

予選     

Bグループ        

  日本 米国 豪州 台湾 プエルトリコ ニカラグア チェコ コロンビア スペイン 勝敗 勝率 順位
日本  --- 〇7-6 ○4-2 ○7-1 X 4-5 〇11-3 ○19-0 ○12-0 ○9-2 7−1 0.875  @
米国 X 6-7  --- ○6-4 ○5-4 ○12-6 X 2-14 〇7-3 ○12-1 ○11-1 6−2 0.750  C
プエルトリコ ○5-4 X 6-12 X 2-4 ○6-4  --- 〇6-5 ○11-1 ○10-0 〇7-4 6−2 0.750  B
ニカラグア X 3-11 ○14-2 ○2-0 〇11-4 X 5-6  --- ○1-0 ○12-2 ○5-2 6−2 0.750  A

Aグループ

  キューバ カナダ 韓国 中国 パナマ オランダ ブラジル スウェーデン 南ア 勝敗 勝率 順位
キューバ  --- 〇7-0 ○4-1 ○12-8 ○6-2 〇3-1 ○11-1 ○15-0 ○12-2 8−0 1.000  @
韓国 X 1-4 ○7-6  --- 〇3-1 X 3-5 X 2-6 ○4-0 〇12-2 〇4-3 5−3 0.625  C
パナマ X 2-6 ○13-6 ○5-3 ○5-4  --- X 5-9 ○8-5 ○11-1 〇5-1 6−2 0.750  B
オランダ X 1-3 ○7-3 ○6-2 ○13-3 〇9-5  --- ○7-0 ○18-0 ○20-2 7−1 0.875  A

 

順位決定戦   日本、韓国に敗れ、5位  優勝はキューバ、2位は韓国

  試合 打席 打数 安打 塁打 四球 犠打 三振 得点 打点 打率

伊藤 

28

24

 0.333

32 27 0.333
  試合 勝敗 投球回 被安打 失点 自責点 四球 死球 三振 防御率

高崎 

1-0

13 2/3

12

0.66

 


2006年  

都市対抗 決勝でTDKに敗退

初戦では安打1本に終わった日産だが、2回戦以降は持ち前のつなぐ打線が爆発。しかし、決勝では、三回と七回の好機に攻め切れなかった。「あきらめの悪い野球」。久保恭久監督が大会前、チームカラーをこう形容したのが心に残っている。あきらめの悪さをもっと見たかった。

◇「みんな精いっぱいやった」−−日産自動車・伊藤祐樹内野手(34)

 九回2死。最後の打席。5球目を大きく打ち上げた。懸命にベースを回るがボールは右翼手のグラブに収まった。相手側スタンドからうなりのような歓声が沸き上がる。二塁を回ったところでゆっくりと足を止め、うつむいた。

 主将を務め3年目。入部4年目で経験した98年の優勝時には全試合スタメン出場。決勝で本塁打を放つなどの活躍で大会優秀選手に選ばれたが、当時は先輩たちについていくのが精いっぱいだった。

 しかし、04年に主将に指名され意識は変わった。「このチームで優勝までやっていくんだ」。自分のプレーだけでなく、常にチーム全体に気を配るようになった。

 昨年敗れた決勝戦。「最後の最後で弱いところがあった」と振り返る。その雪辱に燃えた1年間。準決勝後には「やっと昨年と同じスタートラインに立てた」と意気込んだ。しかし、接戦の末、悲願へは今年もあと一歩及ばなかった。

 「攻めなければいけないところで、攻め切れなかった。だが思い切りやった結果。みんな精いっぱいやったと思う」。目を少し赤くして話し終えると、選手の待つベンチ裏へと歩いていった。

   ---

10年連続出場表彰

10年連続出場表彰は8選手

 ▽横須賀市・日産自動車の伊藤祐樹内野手▽同・村上恭一外野手 ほか

 

矢島彩のENJOY!都市対抗
 

 27日の第1試合の前に、都市対抗に10年連続出場(補強選手での出場も含む)を達成した選手の表彰式が行われた。場内アナウンスで紹介され、賞状とトロフイーが贈られた。今年は8人の選手が受賞した(昨年は9人)。

 その中の1人が日産自動車の伊藤祐樹主将(34=福井工大)だ。入社2年目から遊撃手のスタメンに定着し、3年目で初めて都市対抗の舞台を踏んだ。それ以来、10年連続出場を果たした。

 「なってみればあっという間だったかもしれないです。表彰されたとき、なかなかすごいことかなあと思いました」。

 伊藤のもっとすごいところは、10年間、チームの全試合にフルイニング出場たことだ。1度も途中交代なく、試合開始から終了までグラウンドに立ってきた。「都市対抗の鉄人」と呼んでもいい。

 「その時々の自分の役割を一生懸命果たしてきただけなんですけどね」。

 秘訣を聞くと「う〜ん」と悩んで、笑ってこう答えた。

 兵庫県立津名高出身。ほとんど無名だが、高校時代は2年のときに県大会のベスト4まで勝ち進んだ。福井工大では4年時に大学野球選手権でベスト4に進出。どちらも「1番・遊撃」だった。とはいえ、福井工大から企業チームで野球を続ける選手はそう多くはない。それでも、当時の監督だった村上忠則氏が津名高出身だったこともあり、名門・日産自動車に入社した。

 「こんな福井の地方大学から強豪チームに入ることなんてめったにない。ついていこうと必死でした」。

 2年目で遊撃手のレギュラーの座をつかむと、98年に都市対抗優勝。03年には三菱自動車川崎(現・三菱ふそう川崎)の補強選手として優勝の味をかみ締めた。

 一昨年からは主将も務めている。自分のことだけでなく、チームを見渡す年齢にもなってきた。

 「自分が出場したいという気持ちと、もっと若手に台頭してほしいという気持ち半分ずつくらいですね」。

 去年のことだ。今年1年目から広島で活躍する梵英心に、慣れ親しんだ遊撃のポジションを奪われた。「チームが勝つため。切り替えて、自分の生きていく道を探すだけです」。

 探し出した新しい道は三塁手。この日も「7番・三塁」でフル出場している。

 「自分ができることをやれるうちは、それにしがみついていきたい」。

 そんな伊藤がひそかに狙っているものがある。それは主将として優勝すること。小学校時代からずっと主将を任されてきたそのキャプテンシーで、今大会もう1つ表彰を受けるつもりでいる。 

 ◆伊藤祐樹(いとう・ゆうき)1972年(昭47)7月7日生まれ、兵庫県出身。津名高−福井工大を経て日産自動車入社。2年目からレギュラーに定着。背番号2。好きな言葉は「成せばなる」。170センチ、65キロ、右投げ左打ち。

 オマケ 大荷物を抱えながら通路に現れた伊藤選手。笑うと目が無くなってしまう優しげな雰囲気が印象的でした。同時に表彰を受けた同期の村上選手とは「170センチコンビですから!」としっかり握手を交わしていました。

 ◆矢島彩(やじま・あや)1984年(昭59)、神奈川県生まれ。5歳くらい(西武黄金期)から野球に夢中になる。現在は、都内の大学に通いながらアマ野球中心に観戦。北海道から沖縄まで年間150試合を見る。もちろん今夏の甲子園も皆勤。「アマチュア野球」(日刊スポーツ出版社)「ホームラン」(日本スポーツ出版社)などで執筆中。


2007年

社会人野球日本選手権 2回戦で王子製紙に敗退 

一回戦は三菱重工広島に勝利

王子製紙戦

6回表・日産自動車 1番・伊藤は右中間を抜けるスリーベースヒットを打つが後続なし。

2点を追う苦しい展開で迎えた8回。1死から代打で入った市丸祐樹選手の一打が、三塁線ぎりぎりに飛ぶと、スタンドの雰囲気は一変した。二塁へ頭から滑り込み、間一髪セーフ。次は不動の1番、伊藤祐樹選手だ。前の打席で三塁打を放っているだけに、母隆子さん(65)は祈るように「打って」。だが遊飛に打ち取られる。

次はベテラン村上恭一選手の登場だ。打球は深々と右中間を破る。「行ったぞ!」の歓声のなかで、市丸選手が余裕の生還を果たす。村上選手は俊足を生かし、猛然と三塁へ滑り込みセーフ。さあ1点差。気迫のプレーと同点のチャンスに、スタンドの興奮は最高潮に達した。

その裏にエラーがらみで1点を奪われ、再び2点差を追う最終回。逆転を信じ、応援席は総立ちで声援を送るが、好機が作れなかった。

 

 


2008年都市対抗 一回戦で三菱重工・神戸に敗退

試合は9イニングを通して日産伝統の緻密な野球が影を潜めた。一回、先頭の吉浦選手が四球と犠打で進塁するも盗塁に失敗。三回には伊藤祐樹三塁手のライト線を破る二塁打からつないで同点としたが、四、五回は走者を出しても後が続かない。

日産自動車   二塁打 伊藤  

その後は打線が沈黙。六回に勝ち越され、4投手をつぎ込んだが流れを変えられず1−5で敗退した。


2008年 

社会人野球日本選手権  2回戦でヤマハに敗退

西武からドラフト2位指名を受けた日産自動車の右腕・野上。この日はヤマハ打線を4安打に抑えたが、2本塁打に泣いた。

伊藤  9回表、5番・沢田に代わり、代打でライト前ヒット

1回戦でも8回表 代打でライト前ヒット


2009年 

都市対抗 準決勝でトヨタに敗北

初戦 JR東日本東北に、第二戦大阪ガスに、準々決勝でヤマハに勝利

準決勝 トヨタ自動車

 たった1球が日産自動車に夏の終わりをもたらした。0−0の七回、日産自動車の先発マウンドに立ち続けてきた石田が豊田市の二葉に投じた初球。「外角を狙った」直球が真ん中に入った。打球は左翼席前列に。都市対抗最後のマウンドで「1球の怖さ」を味わった。

 石田が失ったのはこの1点だけ。六回の攻撃では1死三塁で中軸の吉浦、小山が凡退するなど打線が援護できなかった。「5試合やりたかったが」と淡 々と振り返った小山。出場29回、優勝2回の名門が都市対抗の舞台から去る。久保監督は「応援団の喜びを爆発させるような試合をしたかった」と1安打零封負けに少し名残惜しそうだった。


2009年社会人野球 準決勝でJR 九州に敗退 

トヨタ、パナソニック、日本通運に勝利

準決勝 JR 九州

優勝候補のトヨタ自動車、パナソニックを連破し、この日は延長十三回にもつれ込む熱戦。2回戦では3回ともたなかった龍大出の新人右腕・古野も好投し、チームの持つ成長力を見せつけた。

「この1年で野球の素晴らしさを存分に表現してほしい」と話してきた久保監督も「あまりあるくらいやってくれた」と、都市対抗に続いて、4試合を戦った選手をねぎらう。

他社で野球を続ける秋葉は「日産の代表として、このユニホームを着たことを誇りにプレーし続けたい」。一方で、ここで現役を終え社業に就く選手も 多い。その一人、主将の吉浦は「精いっぱいやれたから、今はすがすがしい。この経験を生かして、頑張っていきたい」。50年の歳月が培った日産野球は、休部の後もグラウンドの内外で息づいていく。

11回よりタイブレーク(一死満塁から) 

  

10

11

12

13

 :

H

E

B

JR 九州

+

日産自動車

+


日産自動車野球部廃部決定

2009年2月9日

日産自動車、グローバル危機に対応する新たな改善策を発表
−環境悪化に耐え抜く組織に変更−

日産自動車株式会社(本社:東京都中央区銀座 社長:カルロス ゴーン)は9日、グローバル経済・金融危機を受けた新たな業績改善策を発表した。経営課題に対応し、将来の方向性を見据えた組織変更も併せて行う。

業績改善策
2008年度、日産は世界同時不況を受けて既に複数の対策を実施したものの、一段の状況悪化でキャッシュ・マネジメント戦略、経営体制、投資計画のさらなる見直しの必要性が生じている。具体的な対策は次の通り。

                        * 公式野球部は2009年12月末に休部

ーーー

休部のお知らせ

この度、弊社硬式野球部は、2009年12月末日をもちまして休部させていただくことになりました。
永きに亘って、多くの方々にご支援・ご声援を賜りましたが、経営状況を鑑みて、残念ながら当分の間休部せざるを得ないとの決定がなされました。

永年に亘り、ご支援・ご声援いただいた皆様に心より感謝を申し上げます。ありがとうございました。

                                                      日産自動車硬式野球部

 

 

毎日新聞 2009/2/10

日産スポーツ部休部:再度の野球部維持も実らず…不況直撃

 リストラ策の一環として日産自動車が打ち出した企業スポーツ活動の休止だが、休部となる3競技のうち、最も驚きを与えたのは野球部だろう。

 日産自動車野球部は1990年代末にも休部の危機に直面している。バブル景気後の長期不況で業績が悪化。99年3月、企業本体は仏ルノーと資本提携し、トップにカルロス・ゴーン氏が就任した。「コスト・カッター」の異名を取るらつ腕経営者を迎え、野球部関係者の間でも部の存続に悲観的な見方が広がっていた。

 しかし、ゴーン氏は野球部をつぶさなかった。就任直後の99年夏、第70回都市対抗を社員とともにスタンドから観戦し、選手とスタンドの社員が一体となる光景を見た。「社員の帰属意識を向上させる」として野球部を存続させた。その後、毎日新聞のインタビューにも「スポーツチームを持つ意味は、社員が支援することを誇りに思い、その成績によってやる気を出す成果を上げること」と答えている。スポーツ部には「コスト」だけでは測れない価値があるとし、 また、その活動にも最高の成績を求めた。

 それからほぼ10年、その日産自動車が野球部に休止符を打つ。企業スポーツ活動の持つさまざまな利点を考慮しても、それを維持したままでは克服できないほど今回の不況は厳しい。ゴーン社長以下経営陣が、そう表明したことになる。

 「あの日産でさえ」。こんな認識が社会人球界を中心にスポーツ界に広がり、今後、休廃部が続くかもしれない。未曽有といわれる不況下でアマチュア・スポーツを支えるには、企業、競技団体の枠を超え、行政、地域を交えてスポーツの意義を考えていく必要があるだろう。

 ◆横浜・村上統括も無念
  日産自動車野球部の休部に、OBの横浜・村上忠則チーム運営部門統括も ショックを隠せなかった。村上統括は同部の監督として、93、94年に日本選手権準優勝、98年には都市対抗優勝に導いた。「自分を育てていただいたとこ ろですから、寂しい。お世話になった人の訃報を聞いたような心境です」と無念の思いを語った。

ーーー

ありがとう日産…50年の歴史に幕

 ありがとう−−。社会人野球日本選手権で21日、今季限りで休部する日産自動車(神奈川)は延長十三回まで粘った末にJR九州(福岡)に敗れ、事実上、最後の公式戦を終えた。選手たちがスタンドに一礼すると、紅白の紙テープが投げ込まれ、ファンや社員らは涙を浮かべ拍手。惜しまれながら、50年の歴史に幕を閉じた。

 「フレー、フレー、日産」。静まり返った球場で声を響かせた仁田原竜也応援団長(24)は「(チームは)応援団とともにまた帰ってきます」と総立ちの観客にあいさつした。

 「ここまで来たのを誇りに思う。硬式野球部は娯楽が少ない時代、社員を魅了し結束を固めた」。硬式野球部OB会長の坪井賢司さん(77)は神奈川県鎌倉市の自宅で振り返った。横浜・新子安のグラウンドが連合国軍総司令部(GHQ)から返還されたのを機に「社員の気持ちを盛り上げよう」と野球部設立が計画され、創部前年の58年、坪井さんが学生らを集めた。65年、都市対抗初出場を果たした。

 「記憶に残る素晴らしい戦い。本当にありがとう」。21日の試合をテレビで観戦した社員の福村輝雄さん(48)は選手と同じ職場になった05年から試合などを約10万枚撮影。08年9月に筋萎縮性側索硬化症と診断された後も見守ってきた。

 伊藤祐樹内野手(37)の同僚たちは、休部決定後に更新が止まった野球部ホームページに代わり「勝手に応援するサイト」(YouTube版)を制作。小笠原理栄子さん(35)は「サイトは最後まで楽しくプレーしてほしくて始めた。もう1試合見たかった」と目を赤くした。休部の危機を乗り越えた90年代後半、カルロス・ゴーン最高執行責任者(当時)に「都市対抗は日本企業の文化」と言わせた当時の監督、村上忠則さん(60)は「最後まで伝統の粘りを見せてくれた」とたたえた。

 こうした思いに久保恭久監督(49)は「(ユニホームの)胸の青い鳥は(優勝旗の)ダイヤモンド旗に止まることはなかったが、見捨てなかった人にありがとうと言いたい」。

★日産自動車硬式野球部の歩み★

 1959年   創部
 1965年   都市対抗野球大会に初出場
 1967年   日本産業別対抗大会で初優勝
 1973年   都市対抗で準優勝
 1978年   日本選手権に初出場、ベスト8
 1984年   都市対抗、10回目の出場で初優勝
 1993年   日本選手権で準優勝
 1994年   日本選手権で2年連続準優勝
 1998年   都市対抗、20回目の出場で2回目の優勝
 1999年   カルロス・ゴーン氏が最高執行責任者に就任
 2000年   東京スポニチ大会で初優勝
 2003年   日本選手権で初優勝
 2005年   都市対抗で準優勝
 2006年   都市対抗で2年連続準優勝
 2009年   2月、経済危機を理由に今季いっぱいでの休部が決まる
         8月、都市対抗に29回目の出場。ベスト4

(毎日新聞 2009/11/22)

ーーー

最後のユニホーム姿 休部の日産、全員で応援歌合唱も

 ◇日本選手権報告会

 年内で休部する社会人野球・日産自動車は12月22日、横浜市西区の同社本社で「日本選手権ベスト4報告会」を開いた。チームの公式行事は最後で、赤と白のユニホームも着納め。同僚ら約200人が野球部の活躍を祝い、休部を惜しんだ。

 久保恭久監督が「夏に社員の皆さんからいただいた頑張る力が原動力になり、秋にもっと強くなることができました。本当にありがとうございました」とあいさつすると、大きな拍手がわき、目を赤くする人もいた。

 会場には都市対抗や日本選手権の優勝旗が展示され、今季の活躍を記録した映像が流れた。選手たちは写真撮影やサインに応じ、最後は全員で応援歌を合唱した。


日産自動車 2009年 最後のメンバー 

      背番号 所属 出身 生年月日 移籍先
部長 安田 克明     渉外部部長      
副部長 田川 博之     人事部主担      
児山 哲哉     人事部主担      
監督 久保 恭久    55 Global Marketing & Sales
Resource Management部
人事グループ主担
中京大学   パナソニック
(副部長)
コーチ 木寺 徹    34 人事部 中京大学    
渡辺 敦    36 人事部 亜細亜大学    
渡辺 等    37 車両生産技術本部
車両生産技術センター
今治西高校    
投手 石田 祐介    11 横浜工場総務部 東京国際大学 1982/6/29 住友金属鹿島
古野 正人    12 Global Marketing & Sales
Resource Management部
人事グループ
龍谷大学 1986/9/27 三菱重工神戸
田面 巧二郎    14 追浜工場総務部 桐生市立商業高校 1990/12/9 JFE東日本
川口 尊    15 横浜工場工務部 中京高校 1989/9/18 三菱自動車岡崎
久古 健太郎    16 SCM本部部品物流部 青山学院大学 1986/5/16 日本製紙石巻
林 幸弘    17 R&D Engineering
Management本部
R&D人事部人財育成グループ
奈良産業大学 1985/9/7 大阪ガス
秋葉 知一    18 総合研究所実験試作部 国士舘大学 1982/9/16 JR東海
太田 裕哉    19 産業機械事業部事業企画部 一関学院高校 1988/8/16 日本製紙石巻
捕手 須田 光     3 TCSX 国内サービスグループ 日本大学 1980/5/2  
中野 大地    21 SCM本部物品物流部 明治大学 1986/12/14 JFE東日本
西川 勇人    23 追浜工場工務部 中央大学 1986/2/8  
南 貴之    26 R&D Engineering
Management本部 
R&D人事部
関西学院大学 1981/10/4  
内野手 熊代 聖人     1 生産事業本部生産人事部 今治西高校 1989/4/18 王子製紙
伊藤 祐樹 兼コーチ   2 マーケティング本部販売促進部 福井工業大学 1972/7/7  
四之宮 洋介     5 横浜工場第二製造部 青山学院大学 1977/7/26  
北山 恵丞     6 R&D Engineering
Management本部 
R&D総務部
奈良産業大学 1986/12/25 大阪ガス
青柳 大輔 副主将   7 SCM本部物品物流部 横浜商科大学 1975/6/20  
船引 俊秀     9 車両生産技術本部
車両生産技術センター
関西高校 1988/2/3 富士重工
小山 豪    10 人事部 東洋大学 1974/10/27  
吉田 承太    28 HQ Facility Management部 関東学院大学 1986/8/29 三菱重工名古屋
外野手 沢田 大志     4 生産事業本部生産人事部 山梨学院大学 1985/8/4  
松井 崇純     8 SCM本部サービス部品物流部 別府大学 1985/8/25 三菱重工横浜
村上 恭一 兼コーチ  24 追浜工場総務部 日本体育大学 1972/5/28  
野村 慶太    25 HQ Facility Management部 創価大学 1984/3/20 JR東海
市丸 祐樹    27 追浜工場総務部 佐賀商業高校 1983/10/20  
吉浦 貴志 主将  29 追浜工場品質保証部 熊本工業高校 1979/9/12  


久保監督、パナソニックへ 2010年11月 監督就任                                   

日産自動車 15選手移籍先  

【投 手】            
    石田 祐介   住友金属鹿島 --- 2010年都市対抗出場  
    古野 正人   三菱重工神戸 --- 2010年都市対抗出場  
    田面巧二郎   JFE東日本 --- 2010年都市対抗出場  
    川口  尊   三菱自動車岡崎    
    久古健太郎   日本製紙石巻 --- 2010年都市対抗出場  
    林  幸弘   大阪ガス    
    秋葉 知一   JR東海 --- 2010年都市対抗出場  東邦ガス
    太田 裕哉   日本製紙石巻 --- 2010年都市対抗出場  
【捕 手】            
    中野 大地   JFE東日本 --- 2010年都市対抗出場  
【内野手】            
    熊代 聖人   王子製紙 --- 2010年都市対抗出場  
    北山 恵丞   大阪ガス    
    船引 俊秀   富士重工    
    吉田 承太   三菱重工名古屋 --- 2010年都市対抗出場  
【外野手】            
    松井 崇純   三菱重工横浜 --- 2010年都市対抗出場  
    野村 慶太   JR東海  

The Page 

不動の4番、休部決定「ついに来たか」

 「日産自動車不動の4番バッター」と呼ばれ、日本代表としても活躍した小山豪さん(41)は、休部を伝えられた当日の様子をこう話します。

「グラウンドに出てウォーミングアップをしていたら全員寮に戻され、休部が伝えられました。その後、練習がなくなり野球部員はしばらく誰も寮の部屋から出てきませんでした」

 ベテラン選手の中には、会社の状況から休部を察していた人もいたといいます。

「『ついに来たか』という感じでした。他社チームへの移籍も考えましたが、野球を続けられても年齢的にあと1、2年でした。野球を辞めた後、知らない会社で仕事をするより、長年お世話になった日産で仕事をした方が環境は良いと思い、監督に移籍はしないと伝えました」

 野球中心の生活だったため、仕事が思うように出来ずにつらい思いもしたという小山さん。それでも日産に残ってよかったと話します。

「みんな忙しそうで、仕事のやり方も聞きづらかった。でも、仕事を続けていくうちに、社内には自分のことを知っている人がたくさんいることを知りました。『あの小山だ。応援していました』と言ってくれると嬉しいですね。そこから話が広がり、相手とうまくコミュニケーションが取れ、仕事に役立つ時もあります。野球をやっていてよかった。そして今は日産のグループ会社に出向中ですが、日産自動車で働かせてもらってよかったと思います」

ほとんどの選手が会社を辞めずに仕事

 休部当時、副部長を務めていた児山哲哉さん(46)は、選手の次の移籍先や配属先を決めるのに奔走しました。

「1日の仕事が終わった後、寮に向かい一人ひとり面接をしました。それを何日も続けました。移籍をする選手たちは、移籍先が正社員なのか、退職金は出るのか。まず労働条件を確認しました。そして日産に残る選手たちには、それぞれのキャリアを考え、配属先を考慮しました」

 児山さんは、今後どんな仕事がしたいのか、転勤があってもいいのかなど、選手たちから熱心に話を聞きました。その結果、今でも日産に残ったほとんどの元選手が会社を辞めずに仕事を続けているといいます。

「今でもはっきり言えますよ。部員32名中移籍が15名。会社に残った選手で辞めたのは、昨年高校野球指導者に転身した1名のみです。彼も初年度の昨年、県大会で準優勝と甲子園まであと一歩のところまで行き、頑張っています」

 児山さんは胸を張ってそう話します。

ミスター日産「野球部の存在で頑張れる」

 野球教室をはじめとしたOBの活動を、中心となって呼びかけているのは、社会人ベストナインを3回受賞し「ミスター日産」と呼ばれた伊藤祐樹さん(43)です。現在は本社に勤務しています。

 伊藤さんは休部を全く予想していなかったと当時を振り返ります。

「野球に夢中で、前触れにも疎かったです。まさかという感じでした。世の中の状況でこんなことになるのかと。でも、大きな組織を思いだけでは動かせない。本当に残念でした」

 その後の仕事では、伊藤さんも小山さんと同じく苦労したといいます。

「急に仕事に就くことになりましたが、何もできませんでした。年齢もある程度いっています。部下もいるわけですが、教えられるのは精神論だけ。業務的なことは何も教えられなかったです」

 それでも、野球部の存在があるから仕事も頑張れると伊藤さんは話します。「忙しい仕事の合間を縫って、野球教室には毎回20人ほどの元選手たちが参加しています。みんな今でも日産自動車野球部を愛しています」。

     ※     ※     ※

 日産自動車野球部は「廃部」ではなく「休部」。日産野球部の休部が発表されてから、7年が経ちましたが、野球教室をはじめ、日産野球部としての活動はいまも継続しています。

「それぞれのメンバーは、各ポジションで職務を全うしている状況ですが、離れていても心は一つ。いつの日か、日産野球部が復活する事を信じています」(伊藤さん)

 野球部が再び活動できる日を夢見る元部員たちの胸に、野球への情熱はいまも燃え続けているのです。

 


 

日刊スポーツ 2018/12/8 

都市対抗で活躍「ミスター日産」伊藤さんら熱血指導

日産自動車が8日、厚木市内の日産厚木総合グラウンドで野球教室を行った。都市対抗2度の優勝を誇る同社の元野球部員ら6人が、小学生115人とともに約3時間汗を流した。
 
少年野球教室でキャッチボールを教える元日産自動車野球部の伊藤祐樹さん

 

2009年に休部後、地域貢献を目的に、厚木市、伊勢原市の小学4〜6年を対象に行われてきた同教室は今年で10年目を迎えた。都市対抗に13度出場(補強選手含む)し主力選手として活躍した「ミスター日産」伊藤祐樹さん(46)はマイクを片手に、アップからキャッチボール、盗塁の仕方などを熱く指導した。「自分ができることで、この子たちが知らないことを伝えてあげるのが仕事かなと思います。大きくなった時に『あー、あの時、あんなおじさんがいたなあ』でもいいから、今日のことを覚えていてくれたら。野球の素晴らしさを伝えていきたいです」と笑った。

同じく、長きにわたって野球部を支えた四之宮洋介さん(41)も、10年間ほとんど野球教室に参加してきた1人だ。「1人で来てくれた子もいました。うれしいですね。野球や地域への恩返しと言ったらおこがましいですが、そのために何かできればと思います」と言った。

少し高度な話でも、参加した野球少年、少女は食い入るように聞き入っていたのが印象的だった。2度目の参加となった5年生男子は「説明がすごく分かりやすい。今まで知らなかったことを教えてくれるから楽しい」と探求心を満たされた様子だった。初参加の5年生男子は「日産自動車の野球部があったことは知っていました。ユニホームがかっこいい。また、見てみたい」と、白地に赤のユニホームを羨望(せんぼう)のまなざしで見ていた。

名門野球部は休部してなお、野球の魅力を伝え、野球を通じて人々と触れ合っていく。