第31回「メガバンク行員には世間の声を真摯に聞いてもらいたい」 2003/01/16

 このコラムでは、人気者(?)になった感のある「○○○○銀行△△△△△部の中堅行員(36才)」―― 今後は、メガバンクのX氏と呼ぶことにする ―― から、第27回「銀行のリストラは本物なのか?」に対して、またまた反論のお手紙をいただいた。以下に公開する。

 「デフレ克服後回しの竹中氏をなぜ応援?」

 「『公的資金をもらった銀行員の方々に一つだけお願いがある。是非とも、国民の税金を投入していただき、危機の局面を凌がせていただいたという感謝の気持ちだけは忘れないでいただきたい。どのような正論を吐こうと、その感謝の気持ちが全くないのでは、国民の心を打つことは絶対に出来ないのではあるまいか』 。流石、フェアネス・トラスト・ジャスティスを標榜される貴殿の弁、耳が痛いですが承知致しました。小生は地域活動でもPTA活動でも、会社の名を名乗るのに肩身狭い思いをしておりますが、自分の会社の評判を上げるべく今後も公私とも微力ながら努力してまいる所存でございます」
 「しかしながら、銀行経営者に経営責任を問いながら、自らの職責であるデフレ克服を巧妙且つ狡猾に2年後倒しにしようとする竹中平蔵をまだ応援されているのでしょうか?」

 「フェアネス・トラスト・ジャスティスを標榜され、銀行の内部告発を奨励し、柳沢前大臣を「粉飾答弁」と罵る貴殿におかれましては、当然のことながら、経済財政諮問会議の議事要旨等を眼光紙背に徹して読まれ、竹中平蔵の巧妙且つ狡猾な弁を『粉飾答弁』と糾弾し、近しい人間として彼に辞任を進言されるものと信じております」

 「万が一、辞任進言なしということであれば、小生は貴殿を独善に陥り日本を破滅に導いた戦前の軍部と同様と見做し、あらゆる手段を用いて攻撃するつもりでおります。次回のコラムに期待しております」

 X氏に対して反論するとすれば、私が申し上げたいことは二つだけである ――「私を誹謗中傷するお暇があるのなら、なぜ、貴行の経営陣をそれ以上の勢いで問い詰めようとしないのですか?」「なぜ竹中大臣に対して直接批判するのではなく、私に対して、あらゆる手段を用いて攻撃するという発想になるのでしょう?」

 「あらゆる手段を用いて攻撃する」などと威嚇して文章を締めくくるあたり、「きっと貸し剥がしに長けた人たちなんだろうなあ」と妙に感心したりする。これはきっと組織的な病なのだろう。第17回のコラム「トップの保身とわが身の出世か、それとも銀行の将来か」において「51社リスト」について御紹介したが、私に濡れ衣を着せるために、「木村が51社リストを作成した」と嘘をついて永田町にばらまいたのは、X氏が所属しているメガバンクの幹部たちであった。さすがに、「あらゆる手段を用いて攻撃する」銀行員の集団だけのことはある。

 そういう弱い者虐めに手間暇と労力をかけている余裕があるのなら、もっと、まともな方向で知恵を働かせるべきなんじゃないか、と思うのはきっと私一人だけではないだろう。メガバンクのX氏に言いたいことは山ほどあるが、まずは、「世間の声というものに真摯に耳を傾けて「常識」を取り戻して欲しい」とだけ申し上げたい。

 「基本的なビジネスモデルの構築と更新を怠ったツケ」

 例えば、技術系会社員の46歳の方は、「第24回「『抵抗勢力』の銀行員からの批判に答える」を拝見いたしました。びっくりしてしまいました。本当に現役の、しかも中堅行員が書いたメールなのですか? 本当ですか? 少し、世の中と自分を考えて暮らしていれば高校生でも自分がおかしいと気づくような内容と思います。大のおとなが堂々と、恥じらいもなしにこうした考えで仕事をしているのですかねー」と反応してきた。

 どうも、「自分は改革のために一生懸命汗を流しているのに世間は冷たい。それは世間が悪い。特に、改革している自分を批判している木村は許せない」というメガバンクに棲息するエリート特有の歪んだ思考回路が垣間見える。世の中の常識を知っていただくために、X氏が私に寄越した最初のメールに対して反応された、ある技術者の方の指摘をご紹介する。

 「私は、一介の技術者であり、自らと属する集団の技術による製品の価値を市場に問い続けています。ひとえに生活の糧を得るためです。今回の『抵抗勢力』の銀行員殿の言い分には、正直言って、参りました。まず、政策の立案と遂行に必要なのは『正論よりも品性』と言うのは『論じる側』に求められる論理性を捨て去った帰結に思えてなりません。素晴らしい(と周囲が思っている)人の言うことが、正論を吐いた人の言うことよりも重んじられてしまうというのは、日常ではありがちですが、政策の様に影響の大きな事柄の一貫性を論じる際には、一線を画すべきと考えています」
 「何故なら、政策が一貫性を具備しているか否かは、政策そのものの優劣よりも『後日に修正可能か否か』を決定づける上で重要だと考えるからです。論理的な一貫性を備えていないが故に修正不可能な方針を奉ってしまった集団が、自己批判の基礎を見いだせずに悲惨な結末を迎えるのは『自らの不徳』と言うしかありません」

(中略)

 「『他者の意見』『外部からの批判』『自己評価(査定)』といった所謂『客観的な評価』は、実際は、評価を受ける側の『主観』によって変質するものです。そして、『主観』を完全に廃することは、人間には不可能ですから、『一貫性』を『論理』によって維持しようと試み続ける必要があるとするのが、個人や小さな集団の立場(銀行)を越え、社会全体を利するの道を模索するのに必須なのではないでしょうか?」

 「また、何故に日本の銀行と欧米のBANKに現在のような差が生じたのか、と問いかけたくなる向きもあるでしょう。不良債権に苦しむ銀行にとっては、過去の清算も難しいとは思いますが、結局の処、『社会における事業体(銀行)の役割と、その経済活動によって得られる利益の合法的な接点を模索しつづける』という『基本的なビジネスモデルの構築と更新』を怠ってきたからなのではないでしょうか」

 「これから、不良債権に苦しんでいる日本の銀行がどのように変わって行くのか(行かないのか)、予想するのは難しいと思いますが、渦中にある方々の行く末が『アカウンタビリティを伴った上での責任相応』であるように望みます」

 この技術者の方が指摘するまでもなく、「自らを律する」ことが重要だということについては多言を要しまい。そして、「現状が良くないからと言って、自らの評価を外部から受けたくない」というのは、甘えにしか過ぎないであろう。そういう歪んだ甘えの構造を指摘している自営業30歳の方の主張にも耳を傾けてみよう。

 「今回の抵抗勢力銀行員の反論を読み、私は開いた口が塞がらず、情けなくなりました。こんな人たちが政治の保護(税金)を受けて高給をもらっているとは。まずストーカーとは、被害者は責められるべき落ち度が全くないにもかかわらず、加害者が一方的に反社会的な行動をするということでしょう。柳沢氏や金融行政は責められるべき落ち度が全くないのでしょうか。木村氏の指摘は反社会的でしょうか」
 「この抵抗勢力氏は事実を見ようとしていません。品性が必要だの、不良を立ち直らせるために裏切られても悩みながら成長の機会を与えるだの、その育った環境が問題だの、事実を訳のわからないたとえ話にして論点をすり替え、言い逃れをしているだけです。大体、不良少年に甘すぎたから少年犯罪が多発したのではないでしょうか。不良少年を立ち直らせるのは非常に難しく、簡単に成長の機会を与えるのだとか言うべきではない。また、育った環境が悪いから何をしても許されるならば、もっと不良の数は多くなっているはずだろう。育った環境が悪くても頑張っている人をどう考えるのか」

 「あまりにも常識のかけ離れた抵抗勢力氏には、立ち直るのを待って成長の機会を与えるのではなく、やはり徹底的に批判をして追い込むほかないでしょう。追い込まれて、もうどうにもならなくなって、その結果やっと自分の愚かさが分かり、立ち直る方向へ向うかもしれません」

 私も「開いた口が塞がらず、情けなくなりました」という気持ちでいっぱいだ。メガバンクのX氏におかれては、特に次のメールを熟読してもらいたい。中小の電機電子部品メーカーで人事を担当する34歳の方からのメールだ。これを読んだ後でも、自分が本当にやるべきことが分からないようなら、それは日本語の読解力か人間としての良心の問題に帰着していくのではあるまいか。

 「トップに『品性』を求めるのが先」

 「11/25付けのコラムにはさすがに驚きました。人の考えはそれぞれですし、ひとつの見解、意見については賛成もあれば反対もあるので、あえて銀行マンの意見に対する反論等はいたしませんが、このメール内容を読み、まず強烈に感じたのは『銀行の自分に甘すぎる体質』があるのではということです。確かに銀行は今、批判の急先鋒に立たされており、その中で一生懸命真面目に業務を遂行している銀行員の方々は肩身の狭い思いをされていると思います。多分、メールを送られた方も、業務に対し真摯に、銀行の信頼を回復するよう取り組んでいる方だと思います。だからこそ『銀行の今の現状を批判だけで終わらせたくない』という気持ちが働いたものだと察します。しかしながら彼にはまことに申し訳ないが、その思いがかえって『銀行の甘すぎる体質』を代弁してしまったように私には映りました」
 「『銀行は今不良生徒と同じ状況で、不良を立ち直らせるためには、不良の気持ちになって考えて欲しい』という内容のくだりがありましたが、更正するということは『自分達の誤りを素直に認めたとき』にはじめて更正するのであって、要は自分達がその誤りに気づくかどうかなのです。このくだりは『うるさいから耳をふさぐ、静かにしてくれ』という詭弁であると感じます」

 「先日発表された、メガバンク中間決算におけるトップの会見を聴いていると、とてもじゃないが『自分達の非』を素直に認めたようには思えません。特に○○○銀行の頭取は他人事のような会見でした。行員の給与カットについても『仕方がないからやる』という感じでした。銀行員の給与が世間水準より高額であるということは周知の事実であり、そのことは今に始まったことではなく数年前から盛んに言われていることでした。それまでずっと耳をふさぎ続けた結果、ようやく『外野からとやかくいわれ、このままでは世間体もあるので仕方がない』から給与カットをやるというのは『銀行の甘すぎる体質』を露呈したようなものです。お茶を濁す体質は結局は変わっていないような気がします。不良生徒であればかえって『正々堂々』と立ち向かうのではないでしょうか?」

 「それともうひとつ、彼のメールに『政策を語るには正論は必要条件の極一部であり、本当に必要なのはその政策を語る人のまさに品性なのではないでしょうか』ことが書かれていました。では先日の銀行トップの会見(特に○○○銀行)で『品性』を感じた方はいらっしゃるでしょうか? 少なくとも私は品性どころか熱意すら感じられませんでした。メールの彼は『品性』を持ち合わせた方かもしれないが、あのメールが公になった以上は銀行の代弁者であり、木村氏の『品性のなさ』を指摘する前に、彼自身勤めている銀行のトップに『品性』を求めるのが先ではないでしょうか?」

 「品性を持ち合わせた行員がたくさんいる中、銀行のトップに求められる『品性』は『間違えを認め、正す』ということにつきると思います。言葉遣いや仕草等の表面上の問題ではないはずです。そうすれば銀行に対しむやみやたらな批判はなくなるはずであり、真摯に業務に取り組む彼をはじめとした行員の方々が『安心できる日』も近くなると思います」


第32回「竹中新3原則『3つのS』の読み方」 2003/01/21

 新しい年が明けた。この2003年は日本経済が本格的に再生を遂げるかどうかを占う意味で非常に重要な年である。われわれはいま、2003年の日本経済が、引き続き出口の見えない暗雲のなかにあるという状況に終わるのか、それとも本格回復に向けての一筋の光を見出すのか、という非常に重要な岐路に立たされていると思う。

 そのポイントになるのは、何と言っても、我々の目の前に広がる、日本の金融システムに対する暗雲の行方だろう。そもそも本来であれば、2003年4月という期日は、わが国の銀行が健全性を完全に回復したことを祝して、待ちに待った「ペイオフ全面解禁」を迎えるはずであったが、結局、また2年先送りされることとなった。こうした煮えきらない政府の対応をみていると、いつまでたっても、日本の預金者は銀行の財務体質に懸念することなく、預金を預けることができないという悲惨な環境に置かれているようにもみえる。

 この事態を打開するため、昨秋、金融担当大臣を兼務することになった竹中平蔵大臣は、わが国における銀行の不良債権問題に本格的なメスを入れることを目的に、就任後わずか1ヶ月で「金融再生プログラム」を発表した。これは、わが国の行政史上、最速で打ち出された政策方針だったといってよい。

 今後の日本経済の行方は、日本の金融、特に銀行の不良債権問題がどう解決されるかにかかってくるだろう。昨年11月末、金融庁は「金融再生プログラム」に関する「作業工程表」を発表したが、基本的に「資産査定の厳格化」等については、2003年3月期の決算に反映されることとなった。少なからぬ主要行は、この決算対策のために大幅な組織見直しを含めた経営計画を打ち出して動き出している。このため、この経営計画の中身が日本経済の大きな方向を決めると言っても過言ではない。

 経営計画を改定せざるを得ない銀行も

 こうした主要行の経営計画に対して、新年明け早々、竹中大臣は「3つのS」という新しい視点を示した。すなわち、主要行が公表している
新しい経営計画が、戦略的か否か(Strategic)、健全か否か(Sound)、誠実か否か(Sincere)、を厳しくチェックするというのだ。いわゆる「竹中新3原則」である。

 「戦略的か否か」というのは、経営計画に明確な意味付けを求めるということ。金融行政を司る者として、単なる数字合わせのための組織変革や合併を前向きに評価することは難しいということだろう。当たり前のことである。単に配当原資の確保や自己資本比率の嵩上げ、不良債権の切り離しだけを目的とした経営計画は戦略性に欠けているといわざるを得まい。

 「健全か否か」というのは、経営計画においては、健全な財務基盤の維持が必要ということ。貴重な原資をなし崩し的に費消するような経営計画は百害あって一利なしであり、いわゆる蛸足配当的な行為が健全性に反することは明白だろう。会計面についても、預金者や投資家を保護するために現行会計基準が厳格に適用されることは当然であり、二期連続で厳しい決算になる場合には、監査法人の責任において、繰延税金資産の正当性について厳しく審査されるべきという考えのようだ。これも言わずもがなのことではある。

 「誠実か否か」というのは、経営計画は、法令を遵守し、フェアに行動することが前提だということ。貸し手としての優越的地位を濫用して増資の引き受けを迫ったり、互いに増資を引き受けあって自己資本比率の嵩上げを図ることがフェアな行動でないことは明らかだろう。お年寄りや債務者に増資を強要してから破綻したため被害者を増やした石川銀行の悲劇を二度と繰り返すべきではない。また、公的資金を受け入れた際に提出した各種の計画は、国民との約束なので、厳粛に遵守することは当然である。これも至極ごもっとも。

 これら三つの視点から、主要行の経営計画の内容を吟味するというのだから、吟味の結果によっては、経営計画を改定せざるを得ない銀行も出てくるかもしれない。要するに、「新しい経営計画」と言うのなら、一時凌ぎでその場しのぎのいい加減なものではなく、本格的な改革案を出してくれということなのだろう。実際、銀行法第26条には、「銀行の業務若しくは財産又は銀行及びその子会社等の財産の状況に照らして、当該銀行の業務の健全かつ適切な運営を確保するため必要があると認めるときは、……監督上必要な措置を命ずることができる」とされており、同第30条においては、合併や営業譲渡などについては認可が必要と明記されている。すなわち、経営計画の内容に対して、竹中大臣が強い疑義を示した場合には見直しを迫られかねないのだ。

 一般常識の範囲を超えない当たり前のこと

 実際、現在各行から公表されている経営計画を見渡すと、持株会社という屋上屋の上にさらに屋を架して配当原資を捻り出すようなアクロバチィックなものであったり、存続会社を子会社にする「逆さ合併」という奇策で財務上のマジックを断行するために根抵当権の名義変更登記が生じて数百億円もの登録免許税を支払うコスト高のプランになっていたり、銀行の預金者には何らメリットがないのに新設子会社に第三者増資をすることを以って自己資本の増強だと強弁するものになっていて、一見して首を傾げざるを得ないような奇妙奇天烈な計画が大手を振って闊歩している。

 素直に考えれば、このような経営計画が高く評価されるわけがない。株価をみれば、マーケットが冷ややかな評価を下していることは一目瞭然である。先述したとおり、「竹中新3原則」などというものは、一般常識の範囲を超えない当たり前のことであって、その当たり前のことを指摘されただけで立ち行かなくなるかもしれない経営計画を打ち出して平然としていることこそ、わが国銀行経営者の問題点を公に示している。

 銀行の経営計画の話だけでなく、日本経済全体に対する処方箋についても同じ事が言えるのだが、短期的な痛みを避けてモルヒネやゴマカシに頼るようなら、われわれの目の前に広がる暗雲はその広がりを増すだけであろうし、本格的な復活など期待できないに違いない。

 一方、短期的な痛みは伴おうが、不良債権問題が解決される道筋が確保され、日本の金融システムが安全なものに戻るという確信が多くの人々の心に宿ったとき、日本経済の行く手にはようやく一筋の光が射し込むであろう。そういった意味では、2003年3月期の銀行決算を吟味することによって、その光の射し込み具合は判明することになるのではないだろうか。

 

第33回「若手メガバンク行員Y氏から寄せられた公的資金注入論」 2003/01/27

 第31回「メガバンク行員には世間の声を真摯に聞いてもらいたい」において、人気者X氏からのメールを再び掲載したが、「メガバンクにはああいう思考回路の人しかいないんだ」と読者に思われてしまうのは、私の本旨ではない。メガバンクに勤めている方々の中にも様々なタイプの人間がいるからだ。

 そこで今回は、あるメガバンクに勤めて7年目になる若手Y氏からのメールをご紹介したい。Y氏は、メガバンクの現状や公的資金注入の是非に関して、自分なりの率直な意見を開陳している。メガバンクの内部者である彼の指摘は手厳しい。

 「怖くてただ闇雲にひたすら逃げ惑う熊」

 「正直に申し上げて、今の日本のメガバンクには、『10年後こうありたい』という将来像が見えません。'too big to fail'(大き過ぎて潰せない)という状態に近づくために合併したものの、日本の雇用慣習の問題もあって人員削減が不徹底なままです。また、なりふりかまわずに生き抜くために、組織の再編や持株会社の編成などを実行していますが、本当に戦略上必要なのか疑問です。本来、日本の銀行は(銀行に限らないかもしれませんが)、若い間、我慢すれば、将来うんと給料が上がって良い思いができるという慣習になっていたと思います。おそらく昔は、それが我々のような若い世代にとっての大きなインセンティブだったのでしょう。しかし、自分の所属する銀行の将来が不安な今、もはやそういう慣習はインセンティブとはなりえないとおもいます」

 「戦略上必要なのか疑問」になる組織再編は、竹中新3原則のうちの「戦略性(strategic)」に明らかに反している。組織再編の是非については、竹中大臣の真摯な判断を待つことにしたいが、「銀行の将来が不安だ」とY氏が述べている背景を聞けば、竹中大臣もメガバンクの「戦略性」の無さについて得心がいくのではないか。Y氏は、具体的に人事問題とビジョンの欠如を指摘しているのだが、まずは、人事問題について、彼の言い分を聞いてもらいたい。

 「現在の銀行本部には、今までに無かったような役職が数多く増えているような気がします。これは、明らかに人員のだぶつきを反映しており、合併後、無理に平等な形で役職を割り振ろうとしているために起こっているものだと思います。たとえば、部長になるはずだが、上が詰まっているために部長になるのを待つためのようなよくわからない名前の役職が増えているという現状は果たして正しいことなのでしょうか。役員の数が合併によって、増えることは正しいことなのでしょうか。銀行の人事部の人ならきっと『そんなこと言ったって平等にしないと・・・・・・』と言い出すと思いますが、公的資金の注入を受けているのに、組織の論理を盾にとって上述のような反論をするのは明らかに非合理だと思います。お客様には組織合理化を迫っておきながら、そんなことが銀行だけにまかりとおるのはおかしいのではないでしょうか。そのせいで、組織がピラミッド型から逆ピラミッド型に移行しつつあります。頭でっかちの組織では、うまく組織がまわらないですし、我々若い世代はいつまでたっても実質的な仕事ができません。そういった点でも、組織の若返りどころか組織の老化がすすんでいると思います」
 「余談にはなりますが、組織の老化という点は今の銀行にとって非常にクリティカルだと思います。なぜなら、特に今の銀行の経営陣は年をとりすぎているからです。全員が年をとると保守的になるとは言いませんが、あと2〜3年したら退任するかもしれない人たちが現在の荒波にある銀行を率いていくのは難しいと思います。10年後の銀行像を見据えて、今のような後手後手の対策ではなく、先手先手の経営戦略を練れるような若い経営陣が銀行には必要とされていると思います。たとえば50歳で銀行の頭取になれば、10年先を考えてもっと大胆な戦略がとれるのではないでしょうか。以前、銀行の取締役に近い内部の人から話を聞いたことがありますが、某都銀の経営会議は養老院みたいだといってました(退職するときに退職金をもらうのを待つばかりだからという点で)」

 確かに、日本の銀行においては、「上が詰まっているために部長になるのを待つためのようなよくわからない名前の役職」が増えている。そういうことに対してY氏が憤り、「お客様には組織合理化を迫っておきながら、そんなことが銀行だけにまかりとおるのはおかしい」と主張しているのも正論だと思う。また、「あと2〜3年したら退任するかもしれない人たちが現在の荒波にある銀行を率いていくのは難しい」という指摘もごもっともだと感じる。Y氏の主張はかなり説得的なのではないだろうか。

 メガバンクにおける人事問題を指摘したY氏は、経営陣における明確なビジョンの欠如についても言及している。現在のメガバンクの様相を「穴に入ってしまい、怖くてただ闇雲にひたすら逃げ惑う熊」に例えているところが出色だ。

 「先日カルロス・ゴーン氏が著した『ルネッサンス』という本を読みました。その中に書いてあった中でなるほどと思ったことがあります。それは、『みんなでわかりやすいことを共有し、それに向かっていくということが大事で、かつ一人一人の責任が明確であることが必要だ』という指摘です。現在の銀行は、猟師に追われて、穴に入ってしまい、怖くてただ闇雲にひたすら逃げ惑う熊のようにしか見えません。将来の、恐らく2〜3年後という短い期間ですらも、どのような方向に進んでいくのか、またどのようなことにコミットするのか、コミットして達成できなかったときは誰が責任を取るのかという点について非常に不明確なままです」

 10年という長期なのであればともかくとして、「2〜3年後という短い期間ですらも、どのような方向に進んでいくのか、またどのようなことにコミットするのか、コミットして達成できなかったときは誰が責任を取るのかという点について非常に不明確なままです」という指摘が正しいとすれば、日本の銀行の復活は覚束ない。こうした厳しい現状認識を示した上で、Y氏は、公的資金注入の議論に絡めながら、銀行の経営責任について語り始める。

 「誰も銀行の経営陣の経営責任を問おうとしていない」

 「市場からあるメガバンクが1000億円単位で資金を調達すると日経新聞に書いてありました。ということは、前提として不良債権処理等に向けてかなり莫大な資金が必要だということです。『まあ、市場から資金調達できるなら、それでいいのではないか』という議論もあるかと思いますが。実は、ここに大きな問題があります。日本は、1997年に銀行に対して公的資金を注入しましたが、いまだに返済が終わっていません。かつ、業績が回復したようにも思えません。ところが、誰も銀行の経営陣の経営責任を問おうとしていないのです(実際に銀行経営陣がこれを理由に更迭されたという話は聞きません)」
 「今回市場から調達する場合には、銀行の取引先もしくは機関投資家が出資することになると思いますが、こういった投資家は2〜3年後に銀行が業績を回復できないからと言って、その経営責任を問うことはあまり無さそうです。『銀行を上手に経営できない経営陣をどうやって退陣させるか』と自分なりに考えたのですが、我々銀行員自身の手では無理です。また、商法の株主総会に基づいて退陣要求をすることも、コーポレートガバナンスが機能していない日本においてはかなり困難です」

 「私は個人的には、銀行の経営陣を刷新し、外部から新しいマネージメントを迎え、明確な将来のビジョンを持ってすすむほうが、銀行で働く人間にとっても、お客様にとっても良いのではないかと考えています。今のように、ただ『窮鼠』のようにひたすら動いているというだけでは、現状を何とか取り繕うということはできるかもしれませんが、将来的にみて、銀行という組織自体が立ち行かなくなると思いますし、従業員が高いモチベーションを持って働くこともできません。また、お客様にとっても迷惑です」

 もしも、本当に現在の経営陣に経営能力がないのであれば、「銀行の経営陣を刷新し、外部から新しいマネージメントを迎え、明確な将来のビジョンを持ってすすむほうが、銀行で働く人間にとっても、お客様にとっても良い」というY氏の指摘は正しい。人間の身体もそうだが、適切な新陳代謝こそが経済社会や企業経営を健全に保ってくれる。ちなみにY氏は、公的資金注入の是非に関して次のように述べている。

 「公的資金注入で多くの職員はメリットを受けるはず」

 「公的資金注入の是非については、今後も議論されていくかと思いますが、私は注入方法について、もう少し明確にするべきだと思います。本来は自分たちで考えるものだと思いますが、公的資金が注入された後、経営陣のみならずその他の職員についてどういった経過措置が行員に対してもたらされるかということを明確に説明したほうが良いのではないでしょうか」
 「私は銀行の人間ですが、銀行への公的資金注入には賛成です。一時的には処遇や給与面で厳しい措置を受けることはあるかもしれませんが、もし先ほど私が申し上げたように、外部から経営陣を入れ徹底的に銀行の組織の論理(銀行の常識や本来なら捨てるべき慣行。たとえば、合併後、ポストが増えるような人事。強すぎる人事部や企画部の権限。一度作るとなくならない組織や仕事)を排除して、ビジネスと言う観点からの常識で物事を決定していけば、人材的には問題のない組織ですから、必ずや収益のあげられる組織になると思います。また、今さかんに公的資金導入に抵抗している人々もいざ公的資金が導入され、新しい経営陣のもとミッションが決定されれば、最初は抵抗を続けていることができても、そのうち抵抗できなくなるでしょう」

 「このように、公的資金注入によって、実際は多くの行員がメリットを受けるのではないでしょうか。困るのはもしかしたら、今『窮鼠』になっている一部の銀行本部の官僚たちだけなのではないでしょうか。こういった、公的資金注入のポジティブな側面も合わせて説明できれば、経営陣はなんと言おうと、多くの職員はメリットを受けるはずですから、きっと、もう少し前向きのかたちで銀行員自身が公的資金注入を評価すると私は考えております」

 ここでY氏から提起された 「公的資金が注入された後、経営陣のみならずその他の職員についてどういった経過措置が行員に対してもたらされるかということを明確に説明したほうが良い」というアドバイスに対してお答えしたい。もっとも、その答えについては、Y氏が上述したとおり、「一時的には処遇や給与面で厳しい措置を受けることはあるかもしれませんが、・・・・・・銀行の組織の論理(銀行の常識や本来なら捨てるべき慣行。たとえば、合併後、ポストが増えるような人事。強すぎる人事部や企画部の権限。一度作るとなくならない組織や仕事)を排除して、ビジネスと言う観点からの常識で物事を決定」していくということに尽きている。

 私はY氏と同じように、「公的資金注入によって、実際は多くの行員がメリットを受ける」と確信しているし、読者の皆様からは甘いとお叱りを受けるかもしれないが、Y氏の言うように厳格な措置を伴うのであれば、国民の理解もギリギリのところで得られるのではないかと考えている。というのは総合的に考えるのであれば、それが取引先にとっても、日本経済にとっても、メリットの大きい解決策になるからだ。

 戦い方は必ずあるはずだ

 「最後に、『自分自身で組織すら変えられないのか』と木村さんに笑われそうですが、年次の力がモノをいう日本の銀行では、我々の世代はまだまだひよっこで相手にされません。しかも、もしこんなことを行内で言おうものなら、以前のコラムにありましたように『飛ばされる』のがオチはないでしょうか。ただ、中間管理職のかたがたのみならず、我々の世代には銀行を変えていきたいと思っている人間が多いのも事実です。我々の世代は銀行がすでに公的資金を注入されてから入っている者も多いのですから」

 「笑われそうです」なんてとんでもない。若手が組織を変えることの難しさは、私も「日本銀行」という名の「日本の銀行」において十二分に体験している。また、「飛ばされる」リスクも実感として分かる。Y氏のような若手に対して、「玉砕覚悟で頭取に直言して来い」などと強要するつもりはない。

 ただし、戦い方は必ずあるはずだ。Y氏のような問題意識がさらに多くの同僚に共感され、行内世論で力を持つようになっていけば、変革のチャンスは自ずと生まれてくる。今回、私にメールを送ってきたのも、Y氏なりの「戦い」の一環だろう。私は、このコラムにY氏のメールをアップすることで、Y氏を含むメガバンクの中の「改革派」に対するエールを送りたいと思う。

 


第34回「『デフレ』に動じない中小企業経営者に学べ」 2003/01/31

 近頃マスコミでは、「デフレ」に関する議論がかしましい。エコノミストと呼ばれる方々は、口を開けば、「デフレは諸悪の根源だ」とか「デフレが克服されない限り、問題は解決されない」などと言いたい放題。しかし冷静に見ると、彼らの主張は、個々の主体における努力や工夫の有無を完全に無視しており、その心の奥底には、「個々に努力したところでタカが知れている」「誰かが何とかしてくれるだろう」「誰かが何とかしてくれるはずだ」という他力本願的な甘えが充満している。企業を経営した経験がないから仕方ないのかもしれないが、「白馬の王子さまがどこからともなく現われて、私を迎えに来てくれるに違いない」という少女のような憧れに似たものを感じてしまう。

 自己責任原則に貫かれたスカッとした主張

 私は、マクロ経済政策の意義や効果を否定する論者ではないが、ミクロ――個々の経済主体――における努力や工夫の重要性を無視して、何かあるとすぐにマクロ経済政策の効果に頼りかかる昨今の風潮には、正直言って心底辟易している。経済学者ケインズが例示した「合成の誤謬」という一言を極端に解釈し、すべての現象に当て嵌めて、「個々の主体が努力しても、マクロ環境がこうである以上は徒労に終わる」という思い込みを蔓延させているエコノミストたちの罪は本当に重い。

 だからわが国では、少なからぬ経営者が、「デフレだから売上げが伸びない」などと平気でのたまう。「デフレでもウチだけは大丈夫だ」と胸を張るのが「経営者」というものであるはずなのに、そういう気概と気迫が感じられない。是非、日産自動車を再建したカルロス・ゴーン氏に聞いてみて欲しい。彼が著した「ルネッサンス」(ダイヤモンド社)を読めば、マクロ経済の環境を言い訳にするような人は経営者に向いていないということがたちどころに理解できるだろう。

 世の中では、「有効需要さえ増やせば何とかなる」という論者も多いのだが、これだけ裕福な暮らしをしている国民の消費を活性化するものは、財政出動でも金融緩和でもない。個々の企業の商品開発であり、販売努力である。それが現実だ。暮らしの水準がまだ低いために、同じような品揃えのデパートが林立しながらも、商品が毎日飛ぶように売れている中国であればいざしらず、「買いたいものがあまりない」と思っている日本の消費者を突き動かすものは、遊び心であり、驚きであり、癒しや非日常性だったりする。これらは、マクロ経済政策でどうにかなるものではない。

 そういうこともあって、私は、日本経済の運営目標をGDPで捉えることはもはや適切ではないと考えている。そういう合計量のような指標ではなくて、人々の生活のクオリティという側面に目を向けるべきではないかと強く思っている。もっと快適な暮らし、もっと自由な選択、もっとフェアな社会という観点から、「ジャパニーズ・ウェイ・オブ・ライフ」を模索すべきなのだというのが私の基本スタンスだ。かつて、「ブリティッシュ・ウェイ・オブ・ライフ」や「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」が各国の羨望を集めたように、日本人が「日本人で良かった」と思えるような、そして海外の人々が「日本人にように生活してみたい」「日本で住みたい」と感じるような生活のクオリティを追求すべき時期が来ているのではないか。

 ところが、「有効需要さえ増やせばよいのだ」という短絡的な議論にのせられて、わが国は125兆円を超える財政支出を垂れ流し、結果的に財政赤字を致命的なほどに悪化させた。さらに、「量的緩和さえすればよいのだ」という根拠のない主張にのせられて、日本銀行のバランスシートは125兆円を超える規模にまで膨張し、結果的に金利機能を麻痺させてしまった。しかし、奇跡的なモルヒネ治療法を求める人々はそれでも飽き足らず、今度はインフレターゲットなる魔術に日本経済の命運を託そうとしている。過去の教訓を学ぼうとしないこのスタンスは何とかならないものだろうか。

 そういう暗澹とした気持ちに沈んでいたとき、一通のEメールが届いた。ある中小企業の経営者からだ。製造業の下請企業を経営しているこの方は、自己責任原則に貫かれたスカッとした主張を展開しているので、その内容をご紹介したい。私が特に唸らされたのは、冒頭の一節だ。

 「中小企業にとってデフレは日常茶飯事だった」

 「日本中で大問題とされ経済上の悪の象徴として『デフレ』がとり立たされている今日この頃ですが、中小企業経営者として一言申し上げたいことがあります。我々中小企業にとって、特に製造業における下請け業者にとって『デフレ』、つまり商品やサービス価格の低下は、ずっと日常茶判事の出来事でした」

 そのとおり。下請業者たちにとって、商品やサービス価格の下落は、日常茶飯事の出来事である。特に円高不況以来、彼らは厳しい「デフレ」の中にいた。強烈な「デフレ」とともに生きてきた。大企業からの度重なるコストカット要請は、ある意味で「人工的に作られたデフレ」である。しかし、その中を彼らはしたたかに逞しく生きてきた。

 「問題だ、問題だといっている大手企業出身の経済学者や、いまだにそこに居る人たちはよく思い出してもらいたい。毎年毎年コストダウンの名目で5%なり3%なり、それこそ時には10%もの値引きを下請業者に要求していませんでしたか。上の命令だとか、予算が削減されたとか、いろいろ理由がありましたが、とにかくいつもいつもコストダウンの要求をし、且つ飲ませてきたはずです。一方要求された下請業者の方は、素直にそれにこたえていたはずです。みんな何とかこなしているのに、自分の会社だけができないなんてことになると、切られてしまうかもしれませんから。こんな状況がずうっと続いていたんです。そういう意味で、中小企業にとっての経営環境は、今までと何にも変わらないのです」

「必死の努力をするのが当たり前」

 確かにその通りと言うしかない。「デフレ」が常態化している中小企業においては、努力不足や工夫不足は致命傷になりかねない。なんとかサバイバルするために、コストダウンという名の「デフレ」に必死で対応しようとしてきた。そうだからこそ、「デフレ」ごときに悲鳴を上げている大企業に対する、彼の分析と指摘は厳しい。

 「経営環境が変わったのは、大企業といわれるステージに居る企業とお国です。グローバライゼーションという流れの中で、各企業が世界の市場から資材を調達するようになれば、商品の差がなくなり、ブランド価値を高めないと商品は売れなくなります。そんなの当たり前のことではありませんか。本来コストなり、納期なり、品質なりの価値を高めるためには、必死の努力をするのが当たり前で、その努力の結果、企業としての価値、もしくは利益が獲得できる。それも当たり前ではありませんか。努力して安いものを作るのではなく、安い商品を探し、顧客のそばに行って一生懸命売る工夫をせずに『マーケティング』という技術論に安住して、大きな市場で一発当てようという、山師のような人ばかりになってしまった大企業の製品を消費者が買うわけがありません。だから、売るためには、さらに安くするしかないわけです。これがデフレです」

 ズバリと核心を突くような文章だ。努力と工夫のない企業であれば、大企業であろうと厳しい経営環境に追い込まれる。当たり前のことである。その当たり前のことに対して、何を怯えているのだ――あなたたちは、私たち下請業者に「デフレ」を押し付けてきたではないか。なぜ、自分が「デフレ」に直面したからといって、その程度でうろたえるのだ。それなら、われわれ下請業者に対しても、コストダウンという名の「デフレ」を押し付けるな――彼の主張は胸に響いてくる。  

 「国についても同じです。努力と工夫の中から苦労して捻出した税金という利益を、ゆとりを持った素敵な生活を国民に与えるためと証して、要らない公務員、要らない公共施設、要らない政治家、要らない銀行を増やしてきました」
 「昔、顧客とこういう話をしたことがあります。『一番いい協力会社は、技術力があって、安くて、いつも暇で仕事が頼みやすい会社です』『そんな会社はすぐつぶれてしまいますね』という笑い話だったのですが、日本の公共サービスはほとんどそういう状況になっています。忙しいから人を増やす。景気が悪いから公共事業を増やす。お金がないから貸してもらう。そういうことが何ら問題なく未来永劫行うことができるのなら、こんなにいい国はありません。でもそうは行かないのは、やっぱり当たり前じゃないですか」

 物事には自ずと限界がある――当たり前のことだ。世の中の酸いも甘いも味わい尽くした中小企業経営者からこう言われると、なかなか返す言葉がない。経験に裏打ちされた正論だからだ。

 「我々は自分たちで生き抜いて見せます」

 彼は、貸し渋りや貸しはがしに関しても、自己責任原則を強調してこう言い切る。

 「当社も昨年貸しはがしに合い大変苦労いたしました。今年も大変でしょうが、それも当たり前のことです。市場で生き残れる約束なんてもともと存在していないのですから。こんな時代、個別の企業が生きていけるかどうかは本来誰にもわかりはしません。だから一生懸命説明し、且つ努力し、少しずつでも結果を出し、何とか次の融資を交渉しているのです。銀行側だってそれを見て、聞いて、だめなところを指摘しながら担当者は必死に上司を説得し、何とか融資を実行する。これも当たり前じゃないですか」
 「バブルの頃から比べると、中小企業においても、受けられる融資の種類と規模は随分充実しているはずです(見事なセーフティネットです)。確かに、ボケナス銀行マンはたくさん居ます(そのせいでつぶれる会社もあるはずです。当社も一度そんな目にあいそうになりました)。ボケナス頭取も居ます(○○○銀行の頭取は、わが社で主任もできません)。ですが、中小企業、零細企業にとってはずっと昔からそんな状態だったのです(いきなり銀行マンがボケナスになったわけではない)」

 実際に貸しはがしに遭遇し、苦労してきた中小企業の経営者自身からズバリこう言われると、説得力が違う。確かに、銀行の対応の拙さや貸出能力の問題は今に始まったことではあるまい。そういう割り切りを持った上で、銀行との交渉に立ち向かえば、自ずと違う解決策もみえてくるかもしれない。

 ところで、自己責任原則を信奉する彼が理想とするマクロ政策は一体全体どういうものなのだろうか。彼はメールの最後に熱心に説いている。

 「そんな我々としてお願いがあります。政治家や官僚に余計な事をさせないでください。政治は10年いろいろ考え、たくさんのお金を使って数々の政策を打ちました。評論家たちもたくさんの意見を述べました。成果は何もなく、未来の借金ばかりが増え、今どんどん税金が増えていこうとしています」
 「立ち行かない銀行はつぶれてけっこうです。仕方がありません。我々にとってはそれほどの違いはありません。当たり前のことを当たり前に行うために最低限のコストをかけるだけにして下さい」

 「我々は自分たちで生き抜いて見せます」

 「政治家や官僚に余計な事をさせないでください」という叫びが心に響く。「成果は何もなく、未来の借金ばかりが増え、今どんどん税金が増えていこうとしています」という訴えにも、思わず頷いてしまう。要するに、「マクロ経済政策など何もしないでくれ」と彼は叫んでいるのだ。「当たり前のことを当たり前に行うために最低限のコスト」だけにしてくれと主張している。

 正直言って、私は、彼の主張に親近感を覚える。

 ただし同時に――そして、皮肉なことなのだが――、彼が最後に示した「我々は自分たちで生き抜いて見せます」という凛々しい覚悟が個々の経済主体に宿ったとき、これまで効果が希薄だったマクロ経済政策が初めて有効性を発揮しはじめるのではないか、というパラドキシカルな予感も感じている。

 いずれにしても、2003年は日本経済の正念場だ。「我々は自分たちで生き抜いて見せます」という覚悟のない企業を保護するのではなく、「我々は自分たちで生き抜いて見せます」と心に誓う企業をサポートする政策こそが重要なのだ。そういう企業の努力や工夫を阻んでいる問題企業や問題規制や問題慣行を是正し打破することこそが政府に求められていることなのである。

 

第35回「大手行特別検査、竹中大臣のターゲットは外部監査人?」  2003/02/07

 最近、竹中金融担当大臣の一言一句を分析していると、一般論を展開しているようにみえて、なかなか味わい深い示唆を与えているケースが多くなっている。その好例が、年初に公表されたいわゆる「竹中新3原則」であるが、じつは、つい先頃の1月31日の記者会見においても、興味深い発言がさりげなく挿入されていた。

その部分を抜粋して、以下に紹介しよう(
青字強調は筆者)。

 一般論に見えてなかなか味わい深い示唆

記者: 「特別検査が始まりますが、銀行のバランスシートにはどのような影響があるでしょうか。また、日本企業のバランスシート自体の信頼性がないという考え方については、どのようなご意見でしょうか」

竹中大臣: 「日本の金融の部門、銀行部門と金融行政の信頼を回復させて、しっかりとした金融システムを作っていくという、「金融再生プログラム」でも書かれている我々の目指すところでありますけれども、そのためには、
本当にバランスシートがきちっと信頼されるものでなければいけないし、その中身が本当にしっかりとしたものでなければいけないというふうに思います。これはやはり金融再生のための重要な出発点、原点であると思っています」
「『金融再生プログラム』にも書かれていますけれども、今回、
繰り延べ税金資産等に関連しますけれども、ゴーイング・コンサーンとしてきちっとやっていけるかどうかということを監査するのも大変重要な1つの項目に掲げているわけで、その意味では、しっかりとしたバランスシートを作るという責務を金融機関は負っているし、同時に、それを監査する監査法人も非常に大きな責任を負っているというふうに私は思っております」

「その意味では、特別検査、我々としてしっかりやると。銀行は銀行でしっかりと自主性を発揮していただく。
監査法人にもそこは正に社会的責任を背負っているわけですから、しっかりと見ていっていただく、そういう積み重ねによってやはり信頼を回復していくということが大変重要であると思っています」

 この部分は、事情通が読むとなかなか示唆に富んだ発言である。というのも、いわゆるレジェンド問題――「日本の会計基準に準拠している財務諸表は信用できない」ということで、日本企業のアニュアル・レポートに特別な注記を明記させられているという屈辱的な問題――に象徴されるように、わが国の財務諸表や公認会計士、そして外部監査人に対する目は厳しいものがある。実際、不良債権問題の本質は、「財務諸表が信じられていない」という問題に帰着する面が極めて大きい。

 そういう意味では、繰延税金資産についても議論は同根であって、本当に資産性があるのか否かについて、外部監査人が胸を張って立証できるようなものなのかということを、原点に立ち返って考え直してみる必要がある。無理な収益計画になっていないか。無理に長い期間を計上していないか。そもそも、いわゆる「第4項但書き」といわれる例外条項で5年間計上して本当によいのか。さらに言えば、繰延税金資産の本質論から言って、「第4項但書き」が2年連続で適用されるなんてことが本当に可能なのか。などということについて、特にこの3月期については真摯な議論が必要になるはずだ。

 会計基準の詳細な部分にまで精通していない読者のために、ご参考まで「第4項但書き」のことを簡単に説明しておこう。繰延税金資産という資産は、将来のキャッシュフローをあてにしたものなので、資産としては極めて脆弱な性質を持っている。したがって、その認定に関しては、極めて慎重な対応が求められることになる。特に「重要な税務上の繰越欠損金が存在する」場合には、原則として計上できない扱いとなっており、特別にキャッシュフローが確実に見込める場合のみ1年分だけ認めることになっている。

 ところが、少なからぬわが国の銀行は、重要な税務上の繰越欠損金を抱えながらも、5年間あるいは5年間を超えるかもしれない繰延税金資産を計上している。その根拠というのが、公認会計士協会の監査委員会報告に盛り込まれている「繰延税金資産の回収可能性の判断に関する監査上の取扱い」(平成11年11月9日)における「第4項但書き」なのだ。

 そして、この「第4項但書き」によれば、「事業のリストラクチャリングや法令等の改正などによる非経常的な特別の原因により発生したもの」である場合には、「将来の合理的な見積り可能期間(おおむね5年)内の課税所得の見積額を限度として」計上することが許されている。要するに、「通常時には発生しない一過性の原因」によって、繰越欠損金等が生じている場合には、あくまでも一時的な影響であり、翌年からはそうした悪影響から脱したキャッシュフローが期待できると考えられるので、特例として5年間まで認めていいという方針が出されているわけである。

 したがって、原理原則論から言えば、2年連続で厳しい決算に直面するような企業においては、「非経常的な特別の原因」ということは難しく、繰延税金資産を計上することは困難になる。それが現行の会計ルールである。このところの大幅な組織変更を含んだ経営計画は、この「事業のリストラクチャリング」と解釈してなんとか5年間にならないものか、と外部監査人に捻じ込む狙いもあるといわれているが、そんな軽率な理由だけで、2年連続の「第4項但書き」を認める外部監査人がいるとすれば、日本はレジェンド問題に対して何ら反論する権利を持たなくなるだろう。

 「監査法人は社会的責任を背負っている」

 以上の事実を踏まえて、竹中大臣の言い振りを熟読すると、「味わい深い示唆」という私の意味するところがわかるはずだ。今回の会見で竹中大臣は、「繰り延べ税金資産等に関連しますけれども、ゴーイング・コンサーンとしてきちっとやっていけるかどうかということを監査するのも大変重要な1つの項目に掲げている」と明言している。この「ゴーイング・コンサーン」という部分が重要なキーワードである。

 じつは、本年3月期から、わが国の監査法人は、「継続企業の前提に関する評価」を実施する。分かりやすく噛み砕いて言えば、「この企業が潰れないかどうかをみます」ということ。すなわち、銀行に関して言えば、「継続企業=ゴーイング・コンサーン」をみるためには、自己資本のクオリティをみる必要が絶対に出てくる。とすれば、自己資本のクオリティに関して、外部監査人としてもプロフェッショナルとしての見解が求められるわけだ。そのときに、繰延税金資産の資産性についても、厳しい目で監査しなければならなくなる。竹中大臣はその事実を示唆しているのである。

 そこで、竹中大臣は畳み掛けるようにこう言っている――「監査法人にもそこは正に社会的責任を背負っているわけですから、しっかりと見ていっていただく」のだと。「社会的責任」とわざわざ念を押すあたり、したたかな老練さを感じさせる。要するに、「この3月期決算の監査でいい加減な判断をしたならば、それは監査法人の責任ですよ。損害賠償のリスクも背負っているんですよ」と通告しているのだ。

 実際、そういう観点に立って、「金融再生プログラム」を読み返してみると、なかなかに意味深なフレーズがさりげなく書き込まれている。例えば、繰延税金資産に関しては、「資本性が脆弱である」と明記されているし、さらに、「主要行の経営を取り巻く不確実性が大きい」と指摘して、「翌年度を超える将来時点の課税所得を見積もることが非常に難しい」という点までわざわざ釘を差している。これは、きっと「第4項但書き」を意識して、竹中大臣が自ら筆を入れたところなのだろう。「翌年度を超える将来時点の課税所得を見積もることが非常に難しい」とすれば、現行の会計ルールに則って、せいぜい1年分の繰延税金資産しか計上できないはずだ。

 すでに竹中大臣は、昨年11月12日、公認会計士協会に対して、正式に繰延税金資産に対する厳正な監査を要望しているから、これはかなり本気である。もしも、外部監査人が甘い監査をしたならば、万が一の場合のリスクは銀行経営者ではなく、外部監査人に向かうかもしれない。そして、外部監査人へと向かうリスクは、無限責任という監査法人の特性を通じて、監査法人に属するパートナー全員に及ぶかもしれない。

 そう言われてみると、「金融再生プログラム」には、外部監査人にとって気になる文章がさりげなく挿入されていることに気付く――「資産査定や引当・償却の正確性、さらに継続企業の前提に関する評価については、外部監査人が重大な責任をもって、厳正に監査を行う(太字強調は筆者による)」のだと。

 ひょっとすると、竹中大臣が狙っている本当のターゲットは、メガバンクではなく、外部監査人なのかもしれない。銀行の健全化というアプローチではなく、財務諸表の信頼性回復という点に主眼が置かれているのかもしれない。いずれにしても、大臣の今後の一言一句には目が離せない。

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