6.自由こそ独創の源
青色発光ダイオード。世界的な発明を生みながらこの国を去った男。中村修二の独白
米国での生活? 快適ですよ。徳島からカリフォルニアに居を移して11カ月。日本と米国の研究環境の差を実感しています。
何より知名度
1999年12月、約20年間勤めた徳島県の蛍光体メーカー、日亜化学工業を退社。昨年2月にカリフォルニア大学サンタバーバラ校の材料物性工学部教授に就任しました。日亜で開発した世界初の青色発光ダイオード(LED)は大型表示装置や信号機に広く使われ、世界的発明と言ってくれる人もいます。退社理由を一言で言えば「日本システム」への失望です。
私は79年に徳島大大学院を修了して日亜に入社。89年に青色LEDの開発を始めました。LEDは通常の電球に比べ、発光効率が高く寿命も長い。当時、赤と緑はあったが青色はありませんでした。青があれば3色の組み合わせであらゆる色の光を作り出せるため、大手企業が実用化を競い合っていました。研究はほとんど自分1人。年に360日出社、実験に没頭したら開発に成功しました。93年に商品化を発表した時はなかなか信じてもらえませんでした。日本では知名度が大事なんです。
退社を考え出したのは90年代半ばです。ある米大学から教授就任の誘いを受けました。提示された年収は学長よりはるかに上でした。同じころ、米学会で年収を聞かれ、正直に答えて付いたあだ名が「スレイブ(奴隷)ナカムラ」。私の退社時の年収は約1000万円で同年齢の部長とほぼ同じでした。米国で同じ発明をしていたら億万長者になっていると言われました。
お金の問題だけではありません。90年代末には研究テーマも一段落。会社も大きくなり、従来のように好きなテーマを自由に研究できる雰囲気ではなくなってきました。知り合いに相談したら米国の15の大学・企業から誘いが来たのです。日本からはゼロでしたが退社を決意しました。
干渉受けず研究
ある米ベンチャーへの就職をほぼ決めていたのですが、日亜との競合を指摘する人がいたため、今の大学にしました。このベンチャーが提示したストックオプション(自社株購入権)を今の株価で換算すると約50億円。徳島の一技術者に随分高い評価をしてくれました。今の年収は約1500万円で以前とあまり変わりません。でも日本にいるよりは良かった。研究環境がまるで異なるからです。
象徴的な話をしましょう。昨年、白川英樹筑波大学名誉教授が導電性プラスチックの研究でノーベル賞を受賞しました。共同受賞者のアラン・ヒーゲル教授はカリフォルニア大で私の同僚です。2人は同年齢ですが、白川さんが定年退官しているのに対し、ヒーゲルさんは今も現役でプラスチックベンチャーの顧問も務めています。研究者にとって一番大事なのは自由と資金。ヒーゲルさんはいくつになってもだれからも干渉されず好きな研究ができる。おまけにベンチャーブームを背景に会社には潤沢な研究資金が入り、個人の懐も潤う。日本とは独創を生む土壌が違いすぎます。
自分の力を試す
米株式市場は調整局面ですが、起業ブームに変化はないようです。私の研究室にいる4人の学生はみな「起業したい」と言う。自分の力を存分に試せるからでしょう。米国経済がうまく回ってきたのは、独創的な発想をもたらすベンチャーのおかげです。私は日米で個人の潜在能力は変わらないと思う。にもかかわらず米国のベンチャーに多くの才能が流入、成果を上げているのは、自由な研究環境と成功報酬が約束されているからです。成果に見合った報酬を個人に提供できない社会は衰退していくのではないでしょうか。
米国の競争は厳しい。私も2−3倍は忙しくなりました。米国の大学教授は実際の研究を助手や学生に任せ、自らの研究を懸命に売り込み企業や政府から資金を集める。集められなければ退官に追い込まれる。会社の社長と同じです。でも集めた研究資金をどう使うかは自由。成果が出なければ次から資金が集まらなくなる。自由と責任のバランスが取れています。
若い日本人にはどんどん日本を飛び出してほしい。頭脳流出が続けば政府も真剣に考えるでしょう。私は日本が嫌いなわけではない。46歳になったから異国での生活はしんどい面もある。でも研究をするなら自由な米国です。5年ほどしたら米国で新材料の会社を興すつもりです。研究を続ける限り日本に帰るつもりはありません。
7.物質創造 魔法のつえ
10億分の1メートルの世界を駆けるナノテクパワー。分子に意思を吹き込む
見た目は何の変哲もないプラスチック。だがこの透明な樹脂は生きている――。
生きている樹脂
東京・港区の芝浦工業大学。フラスコの並ぶ研究室で武田邦彦教授はスプーンの形をしたプラスチックを取り出した。長さ6センチメートル、厚さ1ミリメートルのこのプラスチックはまるで生き物。わずかな傷ができると、それを感じ取り、ひとりでに治していく。通常のプラスチックは太陽光などで劣化しやすく平均寿命は約5年と言われるが、「これは20-30年は劣化しない」(武田教授)。
魔法の秘密は目に見えない極小の世界にある。直径10ナノ(1ナノは10億分の1)メートルのプラスチック分子の間を、同約0.8ナノメートルの特殊な触媒が自由に動き回り、分子の切れ目を見つけると化学反応でつなぎ合わせる。常識はずれの長寿命プラスチックが普及すれば、年産1億4000万トンにのぼるプラスチック需要を抑え、原料の無駄づかいを防げる。武田教授はバンパーへの利用をもくろむ自動車メーカーとの共同研究に着手した。
物質を構成する原子や分子。人類はこの小さな粒子を自在に操るナノテクノロジーを手にし始めた。原子・分子の単位で制御すれば、物質はこれまでにない特性を持つようになる。「人間は自然界にない物質の創造に足を踏み入れた」(理化学研究所の丸山瑛一フロンティア研究システム長)。大気中や地中にいくらでも存在する粒子から有用な物資を生み出せれば天然資源の価値が薄れる。石油輸出国機構(OPEC)など国際的な政治経済の枠組みにも影響が及びかねない。
DNAで半導体
生物の遺伝情報が記されたデオキシリボ核酸(DNA)。大阪大学の川合知二教授はこの直径2ナノメートルの分子で半導体の常識を突き崩そうとしている。
DNAは「塩基」と呼ばれる物質が並んでできている。塩基が互いに引きつけ合う性質を生かすと、DNAがひとりでに整列していき、電気の流れる回路として使えるようになる。試作した回路は回線の幅が2ナノメートル。髪の毛の数百分の1と言われる最先端半導体の線幅よりさらに2ケタ細い。「2010年ごろにはDNAを使った半導体が実用化される」(川合教授)
半導体は回路の幅が細いほど集積度が向上、計算速度も高まる。小さなDNA分子で回路を作ると集積度は一気に数十ー数百倍になる。そうなれば手のひらサイズのスーパーコンピューターも夢ではなくなる。
ナノテクは1959年に米物理学者のリチャード・ファインマン氏が基本原理を提唱した。しばらくは夢物語だったが、80年代から特殊な顕微鏡などが開発され、原子や分子の振る舞いが明らかになると一気に実現性が高まった。
果実を手にしようと企業も走り出した。熱い視線を集めているのが、カーボンナノチューブとフラーレンという名の2つのナノテク素材だ。いずれも炭と同じように炭素の原子だけでできており、肉眼だと炭の粉に見える。だが原子の並び方が異なるため、強度は鉄より高く、水素を効率よく吸収するといった不思議な性質を持つ。こうした自然界にない特性を生かせば20世紀には実現できなかった製品が開発できる。
「無限の可能性」
〈消費電力が5分の1の壁掛けテレビ〉〈数倍長持ちする携帯電話用の電池〉〈燃料電池自動車用の水素タンク〉――NECや本田技研工業などは2つのナノテク素材を利用した商品の開発に動き出した。三菱商事は4億円を投じ、フラーレンの特許を持つ米社とナノテク事業の会社を設立した。「無限の可能性を秘めた夢の素材。社会に果たす役割は計り知れない」(佐々木幹夫・三菱商事社長)
米政府は2000年1月に発表した「国家ナノテクノロジー戦略」で、ナノテクの研究開発に2001年度に約5億ドルを投じる方針を示した。日本政府も2001年度予算案でナノテク推進に前年度比3.5倍の106億円を盛り込んだ。
地球上の限りある天然資源を巡って、これまで多くの紛争・戦争が引き起こされてきた。今、世界の国や企業がナノテクに殺到するのは、まるで無から有を生み出すかのような先端技術の誕生により、歴史が書き換えられる予感があるためだ。いまだ見ぬ物質を人の手で創造する。人類は神の領域に一歩近付いた。
8.見えない敵の脅威
ネット、バイオ…進歩を逆手にとって新たな武器が現れた。揺さぶられる国
パレスチナ過激派の爆弾テロやイスラエル軍による報復など中東の緊張が高まった2000年10月。見えない世界で、もう一つの"中東戦争"が勃発(ぼっぱつ)していた。両陣営のコンピューターハッカーたちがインターネット上で"相手陣地"に大規模な破壊工作をしかけたのだ。
ハッカーの攻防
戦端を開いたのはイスラエルのハッカー。イスラム教シーア派の民兵組織ヒズボラのホームページに細工をしてイスラエル国旗を張り付けたという。激怒したアラブ側ハッカーは「Eジハード(電子聖戦)」と銘打ち、イスラエルの首相官邸や国会のホームページを次々に攻撃。大量の電子メールを自動的に送りつけるプログラムなどを駆使、延べ60カ所以上のサイトを一時停止に追い込んだ。
イスラエル側も負けじとばかり、イランやヨルダンなどのホームページを攻撃、応酬が続いた。「第一次サイバー世界大戦の始まりか」。エルサレム・リポート誌は昨年末、ハッカー戦士による「代理戦争」の拡大に懸念を表明した。
情報技術(IT)の進展が、戦争の姿を変えようとしている。金融や電力、航空管制、防衛施設など社会・経済基盤の中枢部はことごとくコンピューターで制御されるようになった。インターネットなどのネットワークを通じてこれらに侵入、破壊すれば、国の機能や経済活動をマヒさせることが可能になった。破壊力は軍事攻撃並み。しかも安上がりですむ。
侵入は数万件
1997年6月、米国防総省はシミュレーション上の仮想敵「レッドチーム」によるサイバー攻撃の威力に驚愕した。
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第一局面 米国の送電系統の大部分を停止させることに成功。
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第二局面 ホノルルの太平洋司令部の指揮・統制システムの停止に成功。
レッドチームはコンピューターに精通したスタッフ35人で編成。3カ月でこれだけの戦果を挙げた。
チームが使ったのは市販のパソコン。通常のプロバイダー(接続業者)のサービスを利用し、インターネット経由でコンピューターシステムに侵入した。必要なソフトもインターネット経由で調達した。
肝を冷やした同省はシステムへの侵入を24時間監視するなど急きょ防衛策を取った。しかし、米戦略国際問題研究所のジョン・ハムレ所長(元国防副長官)は「国防総省のシステムへの侵入の試みは毎日数万件に及ぶ」と明かす。米軍事当局と見えない敵との戦いは日常化しつつある。
コンピューター犯罪の実態を描いた著書がある橋本典明氏は「インターネットに接続しているだれもが敵になり得る」と話す。コンピューターウイルスの開発などは、個人が自宅で簡単にできるからだ。
抑止策は無力に
技術革新の果実を手にした犯罪組織や個人が国家にとって強力な敵となる。その原動力になっているのは情報技術だけではない。
東京都内にある陸上自衛隊三宿駐屯地。防衛庁が医学・特殊武器衛生研究科の設置を計画している。自衛隊員が病原体や毒ガスなど生物化学兵器の攻撃を受けた際に備え、応急治療の手段を研究するのが目的だ。
原爆と比べ開発費が安いため「貧者の核兵器」とも呼ばれる生物化学兵器。懸念されているのは、オウム真理教が起こした地下鉄サリン事件のように、民間組織が秘密裏に毒ガス兵器を作ったり、バイオ技術で作った病原体を散布したりする可能性だ。いずれも小規模施設での製造が可能だ。
国と国との戦争では、核兵器など破壊力の大きい兵器の使用にはある程度の歯止めがかかる。攻めたら報復されるという抑止力が働くからだ。だが、少人数のグループや個人がある日突然始める「戦争」には、国家間の戦争を前提とした抑止策は無力だ。
技術で武装した見えない無数の敵とどう戦うのか。技術革新がもたらす戦争の変容は、すべての国に安全保障の枠組みの再構築を迫っている。
9.電子の五体 思いのまま
目の中のチップが光を伝える。「代理人」がネットを走る。機械が人に優しくなる
手術台に横たわるハロルド・チャーチーさん(73)の目から導線が延びている。線は5ミリ四方の半導体チップに、さらにその先はデジタルカメラにつながっている。カメラの前に、太く大きな文字で「H」と書かれた紙がかざされる。
「私の頭文字が見える」――。チャーチーさんは声を震わせた。
神経と機器直結
米ボルチモア市にあるジョンズホプキンズ大学病院。ここで進められている実験に、チャーチーさんは自ら名乗り出て参加した。色素性網膜炎で1985年ごろに失明、バーテンダーの職を引退した。「再び光を見られるとは夢にも思わなかった。感激した」
ジョンズホプキンズ大とノースカロライナ州立大が進めてきた「電子義眼」の開発が今年、佳境に入る。眼鏡に据え付けたカメラがとらえた映像のデータを無線で目の中のチップに送り、チップが電極の先で「電気の点描画」を描いて視神経に伝える仕組みだ。
チャーチーさんらに対する電極の挿入実験を通じて、視神経が電気の点描画を映像として「見る」ことが確かめられた。今年はいよいよチップと電極を目の中に埋め込み、カメラから無線で映像データを送る最終的な試験に移る計画だ。
生きた神経と電子機器をつなぐ研究は世界各地で進んでいる。米デューク大では昨秋、サルの脳神経に極細の電極を直結。そこで得られた電気信号をロボットの腕に送り、サルの腕の動きを同時にロボットにまねさせる実験に成功した。研究を指揮するミゲル・ニコレリス博士は、「自分の手足と同じ感覚で、『思い通り』に機械を動かす技術の第一歩」と位置付ける。
「人機一体」の技術は、念ずるだけで動く義足・義手、見える義眼などを通じて身体が不自由な人に福音をもたらすだけでない。機械の操作法を覚える必要がなくなり、メカに強くない一般の人が先端技術の恩恵を受ける可能性を広げる。
ビデオ、パソコン、携帯電話。操作が複雑な新しい機械が登場してくるたびに、使い方が覚えられない「脱落者」を生んできた。21世紀にはこの流れが逆転。機械はどんどんやさしく、身近になりそうだ。
だれでもIT
「やさしい機械」への流れが最も早く顕著になりそうなのが、パソコン、携帯電話、インターネットなどを使う情報通信の世界だ。
「ジャズが聴きたい」
「どんな種類の?」
「90年以降のフランス人女性ボーカル」
「分かりました」
携帯電話やパソコンの中に自分専属の仮想DJを育てるサービスが春にも実現しそうだ。DJは瞬く間に世界中のコンピューターから利用者が好きそうな曲を集め、端末に取り込む。さらに利用者がどんな曲をよく聴くかを学習、折に触れて新曲を紹介してくれる。
仮想DJを考案したシステム設計家、美ノ谷和孝・リンクキューブ(東京)社長は、「エージェント(代理人)技術によって携帯電話やパソコンが、召使の住む『アラジンのランプ』のようになる」と真顔で語る。
パソコンの中などに仕掛けた仮想の人物に、利用者本人に代わってネット上での情報検索や買い物などをやらせるのがエージェント技術だ。普及すれば、だれもが情報技術(IT)を活用できる道が開ける。
「脳力」あらわに
高速通信、しゃべり言葉の認識技術など、実用化へ向けた基盤も整ってきた。IT産業に詳しい横井正紀・野村総合研究所上級研究員は「今年は声を掛けるだけで働くエージェントの実用化元年になりそう」と言う。多くの企業が、介護や英語の個人教授など様々な分野で、この技術を使ったサービスを準備している。
「デジタルデバイド(情報化が生む格差)を解消する必要がある」。昨年1月、米大統領の一般教書演説はこう訴えた。21世紀初頭に、新たな技術がその格差を縮め始める。
ただ、いくら機械がやさしく気の利いたものになってもその生かし方を考えるのはあくまで人間の脳。脳科学者の養老孟司さんは「技術も脳の産物。脳を決して超えられない」と言う。
個々人の「脳力」が容赦なくあらわになる。「使い方が分からない」という言い訳が通用しなくなる日が近づいている。
10 何でも売買 時価生活
ネット取引。万物の値段が刻々と変わる「定価なき世界」
100ドル、150ドル、300ドル……。インターネット上の競売で繰り広げられた子供向けカードの争奪戦。価格はぐんぐん競り上がり、最高で1枚350ドルが付いた。
「ポケモン」で車
米国でも人気の高い日本のアニメ「ポケットモンスター」。その漫画が印刷されたカードを、米国に住む日本人女性(38)がネット競売にかけた。軽い気持ちで参加したが、ふたを開けると予想以上の人気。100枚単位のカードを4カ月かけてさばき、5万ドルを手にした。カードは日本へ一時帰国した際にただで入手したもの。転がり込んだボーナスで車を買い替えた。
ネット革命の追い風を受け急成長するネット競売は、だれでも好きな物を出品でき、期限内に1番高い買値を付けた人が競り落とす。米調査会社によると、米ネット競売の市場規模は昨年、85億ドルに達した。大きな戦果を上げた女性は使い古した子供服なども出品し、成果も上々という。
奈良市に住む大学生(21)。部屋は携帯電話ショップの店頭で見かける販売促進用品であふれかえる。ほとんどがネット競売で競り落とした非売品。10万円を投じ、30点近く集めた。「お店で買えないものもネットなら手に入る」。購入費はネット競売でねん出しており、いらなくなったおもちゃが買値の7割増しで売れたこともある。
日本のネット普及率は約3割に達した。日本だけで2000万人以上が利用する地球規模の通信手段は、顔も知らない売り手と買い手を瞬時に引き合わせる。技術革新が生んだ「見えない巨大市場」。そこでは、これまで市場取引になじみにくかったモノまで売買の爼上(そじょう)に乗せられ、埋もれていた「価値」があぶり出される。
知恵も商品に
「ウイルスと思われるメールが届きました」「メールを開かずに削除すれば大丈夫です」――。
日本オラクルが昨年、ネットで始めた「知恵の公開市場」。ここでは、個人が長年蓄積してきた知恵やノウハウが売買されている。情報技術や起業に関する質問をネット上に書き込むと、専門家を自認する会員が回答し、質問者は最高1000円相当の謝礼を回答者に支払う。ソフト会社勤務のある技術者(27)は十数件の知恵を「売却」し、食事代程度の対価を得た。
米ベンチャーのパテント・アンド・ライセンス・エクスチェンジは、企業が保有する特許の「市場価格」を独自に算出、ネット上で公開している。自社の特許がどれだけ利益を生み出す可能性があるか。その現在価値が把握でき、他社の特許の内容も一目で分かる。
特許は目安となる価格がないうえ公開情報も少なく、売買が成立しにくかった。同社は金融技術の応用で市場価格をはじき出し、ネットで売り手と買い手を結び付けて、新たな市場を作り出そうとしている。
ネット取引が爆発的に広がるのに伴い、身の回りのあらゆるものに値段がつく「時価経済」が姿を現してきた。タンスの奥に眠っていた品を売って新品を買い、形のない知恵の販売で新しい設備を購入する。売り手と買い手の効用は共に高まり、経済全体が底上げされる可能性がある。だが刻一刻と価格が変動する「時価」に囲まれた生活は、新たな不安も呼び起こす。
強迫観念が襲う
盛岡市の医大生(26)はある商品を7万円で売却した後で、似た商品が別のネット競売に30万円で出品されているのに気付き、じだんだを踏んだ。大阪府の主婦(32)はネット競売に出すため、安売り品なら不要でも買ってしまう。
慶応大の国領二郎教授の調査では、ネット競売での売買価格は同一商品でも平均24%の差が出るという。売り時を逃していないか。もっと安く買えたのでは――。「すべてのものに価格が付いた時、人は常にその価格を知らねばならないという強迫観念に襲われ、自由を失いかねない」(岩井克人・東京大教授)
技術革新が生み出した時価経済の波は、ネット取引の枠を超える。ある流通大手は商品陳列棚に電光掲示板を据え付け、その日の天候や店内の混雑度によって売価を瞬時に変更できる仕組みを研究している。万物に値段がつき、それが市況商品のように激しく上下する。究極の市場経済が招く「定価なき世界」が、個人と企業をのみこもうとしている。
続く