日本経済新聞 2004/9/14
武田、事務・製造 賃下げ
職種別賃金 労組に提案 研究・営業に手厚く
武田薬品工業は2005年春にも一般社員の賃金制度を抜本的に見直す。現在の全社一律から職種別の賃金体系に改め、製造部門や一般事務職の賃金を下げる一方、営業、研究開発部門では成果主義を徹底し優秀な人材は厚遇する。賃下げの対象者は国内従業員の2割弱にあたる約1400人に達する見込み。医薬産業の国際競争は激化している。武田は国内の雇用を維持しつつ、総人件費を変えずに賃金配分を見直して新薬の開発や販売を強化し、競争力向上に結び付ける。
雇用維持し競争力強化
武田は職種別賃金制度の導入をすでに労働組合に提案、今後、交渉に入る。賃下げを伴う職種別賃金は国内では先駆的な例となる。ただ、賃金水準の激変を緩和するため、減額分を数年間補償することも検討する。
まず来春、製造部門と一般事務職の賃金を国内製造業の平均水準に合わせて引き下げる考え。武田の国内従業員は7500人で、うち製造部門は約800人、一般事務職は約600人。全従業員の平均年収は1033万円(42.9歳)で、製造・一般事務職の賃金は製造業平均に比べ約2割高いもよう。
派遣社員との格差が大きい一般事務職は他産業を含めた高卒、短大卒事務職の平均水準に近づける。これに伴い、約10年間凍結している採用を再開する見通し。
営業や研究開発部門、総合事務職は06年以降に新しい賃金体系に改める方針だ。営業の主力である医薬情報担当者(MR)は年功要素を完全になくし、研究開発は長期的な成果を測るなど職種別に異なる評価制度を徹底する。
医薬業界では欧米企業を含め研究開発要員やMRの獲得競争が激しい。新薬開発や販売を担当する社員に手厚く報いることで、優秀な人材を囲い込む。
医薬産業では欧米企業を中心に労務費の安い中国などに製造拠点を移す動きが活発化。また、来年の薬事法改正で医薬品の製造と販売の分離が可能になるため、他の国内大手は製造部門の別会社化による賃金引き下げを検討している。
武田は製販一体による経営効率の向上を重視し分社には否定的。武田は前期に12期連続で営業最高益と業績好調だが、製造部門などを本体に抱え、国内の雇用を維性したままコスト競争力を強化するには、職種別賃金制度の導入が不可欠と判断した。
日本の産業界では電機大手の一部で職種別賃金の導入機運が高まっている。
電機業界の労組でつくる電機連合も06年から織種別の賃上げ要求に転換する方針。医薬同様に国際競争が激しい業種では技術者などの人材確保も重要になってきており、職種別賃金を活用して賃金配分を見直す動きが広がる可能性がある。
私の履歴書 武田國男(武田薬品工業会長)
大きすぎた兄の存在 「落ちこぼれ」が一転社長に
1980年(昭和55年)春、武田薬品の副社長だった長兄、彰郎が46歳で急逝した。翌年の創業200周年を機に社長に昇格し、七代目長兵衛を襲名するという手はずになっていた。それを誰より願っていたのは会長であり、父であった六代目長兵衛だった。
夢が幻となった父は抜け殻のようになり、わずか半年余りで長男のもとに旅立つのである。私はその5日前に見舞ったが、その時の父の顔を忘れることができない。病室のベッドに弱々しく座り、じ−っと私を見つめていた。ひと言も口をきかない。しかし、その目が語っていた。「なんでくだらんお前が生きとんのや。彰郎の代わりにこのアホが死んどってくれたらよかったんや」と。私は父の生きる力まで奪った兄の存在の大きさを改めて思った。そして私の存在のあまりの小ささを思った。
大阪の古い商家では生まれながらにして長男が跡継ぎと決められていた。将来の家長とそれ以外の子どもは明確に区別し、長男には早くから帝王学を施す。三男の私から見たら長兄を育てるためにあるような家庭だった。私は小さいころからひがみ根性がしみつき、学校でもおよそ勉強しない劣等生できた。
当時、私は一介の課長であり、一時、武田の研究所にいた二男、誠郎は早くに会社を出て学究の道を歩んでいた。できの悪い社長の三男などどこも押しつけられたくない。傍流の事業部に預けられ、部屋住みのように扱われてきた。家も学校も会社もすべて落ちこぼれ。その上、人見知りする内気な性格ときたらただの厄介者である。
兄の死から13年、その私に社長のお鉢が回ってきた。人材がいなかったわけではないだろうが、創業家の残党ということが決め手になったのかもしれない。こんな私にも一つ取りえがあった。長く窓際にいたので会社のだめなところが、手に取るようにわかっていた。
ぬるま湯の中で仲良しクラブや部門エゴにうつつを抜かし、茶坊主しか出世しない。万事ドンブリ勘定で、責任の所在などあってないようなもの。日本の製薬業界でトップと威張っていても、世界を見渡せばけし粒みたいなものだ。それでも「武田だけはつぶれない」と危機感のかけらもない。
社長就任と同時にゴマスリはいらん、無駄な人員を減らせ、儲からん工場を閉めろ、医薬のかせぎに寄りかかっている多角化を見直せ、ひたすら吠えまくった。社内からは「独裁者」といわれ、雑誌には「バカ殿ご乱心」と書かれた。
10年同じことをわめき続けた。人を代え、制度を変え、組織を変えた。意識も含め何から何まで変えようとした。ついでに私の体質も変わってガンの宣告ときた。単細胞の人間のはずが人並みにストレスがたまっていたらしい。運の上にツキが乗っかり、不自由な体にはなったが生き延びた。
企業再生を目指した改革も緒につき、どうにか世界の土俵に上がれるところに近づいてきた。ひとまず私の役割は終わった。後継者にも人を得た。といって、まだ父や長兄には会いたくない。しばらくは寄り道の多かった人生を振り返るなりしたいと思う。
(中略)
反骨魂
無気カ職場うんざり 新製品案はあえなく却下
1978年(昭和53年)、横浜出張所から再び本社の食品事業部に戻り、マーケティング室課長になった。主力の強化米ポリライスやプラッシーは米屋さんに売ってもらっていた。米屋さんが強かった時代で、そのルート専売で共存共栄をはかろうとしたものだ。成果をあげてきたものの、成熟期を迎えて伸び悩んできた。
そこで、プラッシー缶などで食品とか酒屋のルートで拡販しようとした。しかし、米屋さんにすれば浮気したと映り反発されてしまった。やはり、新ルートには新商品が必要と、スナックやゼリーなど次々と投入したが、皆失敗に終わった。私の来る前の話だ。
周りに「何でうまくいかなかったんや」と聞くと、「当時の担当者は誰もいません」。敗因を探らないで放ったらかしにしていては、また同じ過ちをおかす。
事業部長に提案して、失敗分析と新製品導入を目的とした横断組織をつくった。開発、生産、営業の各部門から20人集め、十数回、時には徹夜で議論した。なにしろ私にもクレープ敗退という体験がある。
いろいろ話していくうちに、感心できない実態が明らかになってきた。開発の人間は営業の声をあまり聞こうとせず、営業側も現場のニーズや他社の動きなどに意見を持っていても積極的に発言していない。まずは組織間の風通しをよくすることが必要だった。
これまで順調にきた食品事業部には、そこそこ利益も上がっていることだし、失敗に触れるのはお互いやめようという雰囲気があった。上司の批判はもちろんだめ。私は食品事業部にタブーなしということにしないか、偉くても威張らず、みんなフランクに自由に話し合おうと言い続けた。
私が格別、真面目社員に変身したわけではない。見回せば覇気のないたるんだ顔ばかり。ちょっと目立つとやっかみでいじめにあう。どうでもいいと思っていた私もうんざりしてきたのだ。だんだん過激になってきて、部長を中心とした会議で「皆さん、部長でっせ。もっと責任もっていい事業部をつくろうやないですか」とかみついた。
こちらもわめいた手前、柱になるような新製品をと知恵を絞った。日ごろ、お得意さんや消費者の声を聞いている全国の営業所にも出向いた。続々候補が寄せられ、その中に減塩のソフトしょうゆ、スポーツドリンク、クリーン洗剤など後のヒット商品もしっかり入っていた。
今ある強化米をさらに栄養豊かにできないかといった要望もあった。当時、そのアイデアを胸にすでに開発に取り組んでいた男たちがいた。クレープの同志だった安藤寛君らだ。
ポリライスはビタミンB1を含む強化米。彼らの案は、玄米を精白する時に落ちてしまうビタミンB2、B6などのビタミンやミネラルで玄米と同じレベルにし、しかもおいしく食べられるというもの。
苦労の末、商品化のメドがついた。ポリライスに比べ数倍の利幅もある。いいことずくめだ。ところが、事業部長にあえなく却下されてしまったのである。「ポリライスがまだ売れてるのに、切り替えがうまくいかずに両方ともパーになったらどうするんだ」。持ち前の反骨魂がうずいてきた。
ビタミン強化米 「新玄」全国で大ヒット 社長表彰の開発者は左遷
玄米と同じレベルの栄養がある画期的なビタミン強化米を開発した。だが、もし今あるポリライスとの置き換えに失敗したら、との思いから事業部長は取り合わない。ここに来るまでの担当者の努力を知っていた私は何としても世に出したかった。
何人か仲間が集まった席で「商品名に父の名前をつけたらどうやろ。長兵衛だから長寿米。親父は字も上手だから書いてもらおう」と援護策を持ち出した。そうやって揺さぶりをかける一方、ますます強まる健康志向から将来性は十分と説得を続けた。
それでも却下されたので、最後は父に頼んでみた。数日後、取締役会があった。「『それええもんか』と聞いたら『いいです』いいよるから『何でやらへんねん』と担当役員に言うた」。これが父の返答だった。
明くる日、会社に行くとゴーサインが出ていた。最終ネーミングをどうするか。担当者は長寿米もいいが、やはり玄米を強調したいという。社内外からいろいろ案を持ち寄った中で、「新しい時代の玄米」、縮めて「新玄」に支持が集まった。決め手は武田シンゲンの語呂の良さだ。
価格はポリライスと同じぐらいでいいという意見が大勢だった。しかし、「ある程度の利幅がなければ米屋さんも本気になってくれない」と主張し、ポリライスの4倍を提案して押し切った。
まずどこから攻めるか。武田の強力な地盤となっていた福岡に白羽の矢を立て、有力な卸に集まってもらった。私は会場の前の石畳に土下座して皆さんにお願いした。その中の一人が意気に感じてくれたのか、「よっしゃわかった。やったる」と協力を約束してくれた。その卸が「新玄」で社員のボーナス原資を全部まかなったという話が全国に流れた。
いったん火がつくともう止まらない。噂を聞きつけた各地の卸から「一回扱わせろ」と注文が殺到した。ポリライスをはるかに上回る普及率を示し、予想以上の成果を上げることができた。その利益はクレープの損失を返してなお余りあるものだった。
だが、これは成功物語には終わらなかった。中心になって開発した安藤寛君が社長表彰を受けたところまではよかった。ねたみもあったのだろう、左遷されてしまうのだ。私はその時はよそに移っていて、彼からの手紙で知った。その仕打ちを聞き、腐りきった組織だと思った。 食品事業部に在籍すること7年。去るに当たって「疫病神の私が出ますから、この事業部は天に昇る竜のごとく発展するでしょう」とあいさつした。疫病神といわれた私から見ても無責任が横行した組織だった。そこに風穴をあけ、いくぶんか活性化してきた時期だっただけに、名残惜しい気持ちだった。
2月3日の日曜日。自宅で朝食を食べていると秘書から長兄の副社長、彰郎が倒れたと電話がかかってきた。「今、救急車で運ばれている。病院がわかり次第、再度連絡する」という。大げさだな、と思って待っていたら、「急いで来てくれ」と電話がきた。病院に着くと、医者をしている小西新兵衛社長の息子さんまでいる。奥の部屋でほかの医者と人工呼吸していたが、心臓マヒですでに手遅れだった。46歳だった。
米合弁TAP 副社長でシカゴ赴任 抗生物質投入に疑問抱く
1980年(昭和55年)5月、食品事業部から企画本部に異動した。その年の2月に長兄の副社長、彰郎が急逝した。9月、今度は父、六代目長兵衛が後を追うように亡くなった。戦前戦後を通じて今日の武田薬品を築いた75歳の生涯であった。
一子相伝の父と長男の相次ぐ死。「これで武田の家と会社の縁は切れ、後は株主という立場だけになるのだろう」と思った。私もすでに40だ。企画部門そのものが、社内では隠居場とみなされていたところがある。「まあここで飼い殺しか。それならそれでええやんか」
ほどなく外国事業部に移った。私の右隣の席は約3カ月周期で次々と人が入れ替わる。何をしているのかと聞くと、「TAPに出向する用意をしている」という。初めて耳にする言葉で意味がわからない。「そのTAPって何のことですか」と尋ねると、お前はバカかという顔で取り合ってくれなかった。
そうこうするうちに小西会長から「TAPに行ってくれ」という思いがけない話があった。TAPは武田と米国の製薬会社アボット・ラボラトリーズ社との合弁会社だった。「武田の名前を貸してくれ。何もしないでいいから」。主導権争いでゴタゴタしているようで、おさめるには重しが必要だったらしい。
私は気が乗らず、お断りした。すると小西さんは母を口説きにかかり、母から「小西さんがああまでおっしゃっておられるんだから行きなさい」と言われた。こうなると最後は承諾するしかない。
TAPの副社長としてシカゴに赴任したのは83年の夏だった。最初は汚いホテルの狭い部屋で1カ月程度過ごし、その後、郊外に家を見つけて家族を呼び寄せた。会社の中は2人の実力者が米国まできていがみ合っている。こっちがああ言えば、片方は違うことを言う。そこに米国人スタッフもからんでにぎやかなことだ。こんな状態では困ると、一方のボス格を帰国させ、それからはうまくいくようになった。
TAPでは感染症に使われる抗生物質を3品目投入することになっていて、すでに工場の建設も進んでいた。この工場が将来にわたって私を苦しめることになる。抗生物質は確かに武田の十八番で、日本でかなりのシェアを持っていた。
しかし当時、米国市場では他社から次世代タイプの抗生物質が翌年にも売り出される予定だった。TAP内のマーケティング担当者たちは、このような状況下での武田の抗生物質の投入には疑問を抱いていた。不安を感じていても、武田、アボットの親会社に対してはっきりNOとはいえなかったのである。
私は念のために感染症の大家に、これでいいのか聞いてみた。やはりこんな答えが返ってきた。「あなたは武田長兵衛の息子か。それなら会社の株を持っているだろう。それを売ってから始めることだ」。それほどリスキーというなら抗生物質はやめるべきだと思った。
それではTAPは何を手掛けたらいいのか。いくつかあった候補の中から、まだ競合品がなく、ニッチ(すき間)市場をねらえて、しかも将来性あるものに絞った。それが前立腺がんの治療薬「リュープリン」であった。
路線転換 がん治療薬で譲らず 結果は成功、米国で運拾う
米アボット社との合弁会社TAPは抗生物質を製造、販売することになっていた。副社長として赴任した私はその先行きに疑問を抱き、前立腺がんの治療薬「リュープリン」への変更を本社に申し出た。
経営幹部は全員反対だった。「我が社が独自開発したこの新しい抗生物質は、米国で初めて認可を受けることになるものだ。それをやめるとはどういうことだ」「リュープリンは毎日注射しなければならないし、競合品としてかなり価格の安い女性ホルモンがあるではないか。そんなハンディがあったら売れるわけがない」「もう抗生物質の工場を建設中だ。今になって変更というのはリスクが大きすぎる」
医薬の国内営業が幅をきかす日本の本社には海の向こうのことはわかっていなかった。もはや米国の市場、世界の市場抜きには語れないのに、旧態依然だった。四面楚歌の中、本社に召還され、説明を求められた。「既定路線だからといって、このまま突っ走ったら会社はつぶれますよ」。私は一歩も譲らなかった。何といわれようと主張を変えなかった。
最後は小西新兵衛会長が私の意見をいれ、みんなを説得してくれた。当時、このがんの治療薬が売れると本気で思っていた人はいなかっただろう。実際、出足はさっぱりだった。しばらくして毎月の注射が、1カ月1回で済むように改良されてから順調に売れ出した。
現在、TAPは全米で14位の企業に育っている。そして武田の売り上げのざっと6割が米国だ。結果として成功したが、ただ運がよかっただけだ。私はTAPの時代に大きな運を拾ったと思う。その場を与えてくれた小西会長はまさに大恩人である。
この米国の駐在経験はさまざまな面で勉強になった。特に米国流ビジネス、経営者のマネジメント・スタイルには刺激を受けた。彼らの目標達成にかける情熱とエネルギー、仕事に対する集中力、合理的な判断力、タフなネゴシエーションにはお世辞抜きで敬服する。
とかく日本では「あまりお金のことを口に出すのは上品ではない」という風潮がある。しかし、米国のパートナーたちは食事中だろうが抵抗なく話に乗ってくる。こういったあくなき利益追求やチャレンジ精神は私の価値観、感性にぴったりフィットした。ただ、「経営者は教養あふれる紳士たるべし」といわれると弱い。無教養という言葉は私のためにある。
ゴマすりは日本の専売特許ではない。あちらにも立派なゴマすりはいる。違うのは向こうは自分で責任をとる。日本はうまいこと親分に取り入るだけの寄生虫だ。
彼我の差を最も感じたのは交渉のうまさだ。あれは絶対といってもいい。こちらはついええ格好をしたがるが、彼らはあくまで実利にこだわる。例えばTAPの社長だったリングラー氏。仕事を離れたプライベートなことについてはまことに親切なのに、経済的な課題になると実にシビアーになる。交渉の仕方は一つ一つの局面ですべて勝とうとする完全主義で、時には威圧してくる。
好むと好まざるとにかかわらず、こうしたビジネス・カルチャーの中で成長を続ける世界の巨大な製薬企業と対峙しなければならない。危機感を持つと同時に、島国、日本の意識の遅れを改めて思った。
“天国の3年、豊かな米国にため息 帰国後は国際戦略の要に
米国の合弁会社TAPには3年駐在した。合弁でもありそれなりの苦労はあった。私はオーバーに“地獄の3年”などと言っていたが、こと生活面では“天国の3年”といっていいほど快適だった。
シカゴの郊外、ミシガン湖に近いレイクフォレストという美しい住宅地。自然がいっぱいで、動物好きの私にはこれ以上恵まれた環境はなかった。鳥の常連はキツツキにカケスみたいなブルージェイ。家の周りはリスだらけ。シカやアナグマも時々顔を出す。
ただ、北の方なので冬の寒さは相当厳しい。零下2、30度になる。五大湖の方から流氷が押し寄せ、しぶきまで凍る。そのかわり長い冬が去ると、一斉に花が咲き、一気に春が来る。そのうれしさは北国ならではだ。秋の紅葉、一面の落ち葉も鮮やかである。
長女、尚子が小学校、長男、英男が幼稚園で、二人とも地元の学校に入った。帰国するころは日本語がおぼつかなくなったぐらい英語になじんでいた。この地で二女が生まれた。湖のレイクからとって麗子と名づけた。
日本では考えられないような家庭的な生活をおくることができた。いつも子どもに囲まれていた。雪が積もれば「それ、ソリ滑りだ」とみんなで飛び出した。休暇には家族そろって旅に出た。ヨセミテ国立公園とか、カナディアンロッキーまで遠征したこともある。
TAPの米国人幹部や、親会社のアボット社のトップたちともプライベートで付き合った。家に招かれてのパーティーなどで彼らの暮らしぶりを見るにつけ、豊かさということについて考えさせられた。広大な敷地に広壮な屋敷を構え、仕事を離れると悠々と趣味を楽しむ。
日米の経営者の収入は格段の差がある。その富の蓄積から生じる余裕はうらやましい限りだった。これ一つとっても日本は米国の競争相手になり得ないだろうとため息ばかりついていた。
1986年(昭和61年)夏、日本に戻った。国際事業部次長と新設の北米室長の兼務。1年ほど前に本社に米州室か北米室をつくるべきだと提案していたのである。その時は自分がなるとは思っていなかった。
そして87年に取締役、88年には国際事業部長に就任した。私は苛烈な戦場である米国市場を見てきたので、国際事業部の強化を急ぎたかった。ところが、極めて重要な戦略部門のはずが、何を目指し、どこに行くのかという長期的な経営方針がなかった。これは信じられないことだった。
私は勘とか直感とかは人より鋭いところはあるが、ちゃんとした仕事はできない。できる人を探し、その人に任せるのが私のスタイルだ。長期計画づくりで私の片腕になってくれる人はいないか。
それが長澤秀行(後の副社長)さんだった。少し前まで国際事業部長室長で、今はドイツに行っている。以前も同じ職揚にいたことがあって、ある程度は人となりはわかっていた。ただ、次々と直属の上司が替わっても長澤さんはずっとそのまま。これはよほど要領がいいのだろう。「ゴマのすりべえ」と思っているというと、回りは「全然違う」という。私の見込み違いか、それなら直接口説いてみよう、とドイツに向かった。
長澤さん 綴密で真正直な相棒 将来の「社長・副社長コンビ」
米国勤務から国際事業部に戻り、長期戦略づくりを思い立った。自分では何もしないから、優秀なテクノクラートを相棒に欠かせない。その人と目星をつけた長澤秀行さんを求めてドイツに来た。
国際事業部長室長だった長澤さんは小西新兵衛会長の指示で、欧州に研究開発センターを立ち上げるだめに派遣されていた。私はある人から「もう事業部も最後だからいい目を見させてやろうと行かせた」と聞いていた。つまりはお払い箱だ。本人の方は「重要な仕事だからしっかり頼むぞ」と送り出されたという。この際、どちらでもかまわない。
フランクフルトの街を散歩しながら、「いつか国際事業部に戻る気はあるか」とそれとなく打診すると、即座に「そりゃ元いたところですからね」。これで決まりだ。このコンビ、このまま社長、副社長へと発展していく。相棒は頭の回転が速くて緻密、それでいて真っ正直で私欲のかけらもなかった。
世界市場で欧米の巨大メーカーとまみえる日は遠い先のことではない。しかし、研究も開発部門もこれまで日本市場中心できた。今、ようやく欧州に新薬の本格的な臨床試験などを行う拠点を設けようと動き出したばかりだ。
この両部門だけでなく、我が社の目が世界に向けて真剣に動き始めたことを国内の医薬事業部門に知らせたかった。それには国際事業の将来の姿を明確に打ち出し、全社に提示することが必要だ。その具体案の作成を長澤さんに任せたのである。まず米国、欧州、アジアの三極の地域体制に組み替え、それぞれに達成すべき目標を設定した。
89年に常務、91年に医薬事業部長に就任した。いよいよ本丸に登城と武者震いが出たものだ。ところが、その内実は驚くことばかりだった。この大部隊がどこを目指して進んでいるのか、といった事業目標があいまいなのだ。誰に聞いても同じ答えが返ってくる。「今までこうやってきたから」
医薬事業部長になってすぐ全国の支店を回った。支店長に「ここの利益は」と尋ねると、「売り上げはつかんでますが、利益についてはざっとこんなものだろうという数字しかありません」と平然としている。金銭感覚のないことおびただしい。
利益が増えたら何が貢献したのか、減ったら何が足を引っ張ったのか、これまたあいまい。すべて惰性で動いている無責任組織に映る。だいたい営業計画は事業部内の一応の高い目標と、会社に提出する安全な計画の二通りあるというのだからおかしい。
もっと大きな問題があった。医薬品事業にとっての生命線である研究所だ。まるで象牙の塔にいるかのように論文を書くのに忙しく、企業の研究所として最も大事な売れる薬づくり、「創薬」という意識がないのだ。
質量ともに国内最高水準のスタッフを抱え、しかも潤沢な研究開発費を投じながら目立った新薬が出ない。研究のための研究というわけだ。この非効率な研究体制を他社から“武田病”と揶揄されていた。
知れば知るほど危機感が募ってくる。これがいうところの大企業病かと思った。この体質、風土を打ち破らないと、グローバルな競争相手ととうてい戦えないと痛感した。
研究所改革 “象牙の塔”脱却を急ぐ 画期的な創薬へ組織再編
1991年(平成3年)、私が医薬事業部長となった当時、新薬開発を担うべき研究所は利益追求という意識が希薄だった。まるで大学の研究所とうわさされていたぐらいだ。これでは国際戦略どころか生き残れない。
そこで、あくまで企業の研究所であるという意識を持たせ、同時に新薬を生み出せる組織に改編することにした。まず、バラバラだった研究、開発、生産、営業の各部門の連携だ。それぞれの村は孤立し、つなぐのは細い村道しかない。参謀の長澤秀行さんに「この道を太い幹線道路にしてくれ。いや高速道路や」と頼んだ。
スピードの速い海外の大手企業に対抗していくには研究から営業まで一貫した体制をつくらなくてはならない。それでできたのがMPDR戦略だ。マーケティング、プロダクション、ディベロップメント、リサーチの頭文字をつなげたもので、各組織を貫通する高速道路といえる。ここにコミュニケーションという車を走らせるわけだ。
言い換えると縦割りのセクションに横串を通し、研究の段階から市場性、開発方針、生産計画、販売方針に至るまでの意思疎通を図り、効率を上げるものである。実際、各部門の責任者を集めた初会合では「初めまして」と名刺を交換するメンバーもいる始末だった。
次は研究所の改革だ。それまでは研究所長に任せていたが、いっこうに新製品の芽らしきものが生まれてこない。まず改革のプランを考え出し、引っ張ってくれる人を探さなければならない。私自身、この方面のことはさっぱりわからない。
私はこれまで何かと相談を持ちかけていた武田の開発本部長であったドクターに「なぜ新製品が出ないのか」と尋ねてみた。ドクター曰く「レセプター(受容体)の研究をしなければだめだ」。「では誰がレセプターのことを知っているのか」というと、「藤野(政彦=後の会長)さんしかいない」。そこで小西さんに断った上で、藤野さんの話を長澤さんと聞くことにした。
その場で研究部門の再編についてアイデアを出してもらおうと思った。藤野さんはTAP躍進の基盤を築いた前立腺がんの治療薬「リュープリン」を生み出し、基礎研究の拠点として設立した筑波研究所の責任者になっていた。
研究所といっても千人規模の大阪の中央研究所と比較にならないわずか50人の小所帯だ。中央から離れているからこそ全体の問題点がわかっていると思ったのだ。
「研究所を改革したい。その方策を聞かせてほしいLと頼むと、「実は私もいろいろ考えていたところです」との答えだった。その言葉通り数日後にはリポートが私の手元に届いた。「中央研究所は化学、生物、発酵とか専門分野別に組織が分かれ、各分野間の壁も厚い。これは大学の発想であり、相互の境界がなくなりつつあるサイエンスの流れにそぐわない」
我が意を得た思いだった。その進言に従い、国内外で高い評価を受ける画期的な新薬、差別化できる新製品の創出を目的とした組織の改革を実施した。それが創薬研究本部、医薬開拓研究本部の二本部体制だ。ひと言でいえば、研究の種探しから創薬まで薬の領域ごとに組み替え、事業化への責任の所在を明確にしたのである。
取締役に 小西会長を質問攻め 再生プランの策定へ動く
取締役に選任されてから小西新兵衛会長に頻繁に呼び出された。人事をはじめ、会社の抱える諸問題について、「國男君はどう思うかね」と意見を求められる。末端の役員では担当分野はともかく、社全体のこととなるとなかなか考えもまとまらない。
私の戸惑いなどお構いなく、次から次に弾が飛んでくる。答えに窮することもしばしばで、これはたまらんと戦法を練った。あらかじめ話題になりそうなテーマについて、事前にネタを仕入れておき、「会長ならどうします」と反対にぶつけるわけだ。
聞く方が楽だし、もともと役者が違う。これでようやく議論がかみ合ってきた。各方面の課題について勉強し自分の考えをまとめる訓練になった。そして、経営トッブの思考回路のようなものが見えてきた。
父、長兵衛と小西さんは社長と副社長、会長と社長という具合に長いことコンビを組んできた。それはお互い絶妙のパートナーだった。おうような旦那タイプの父と、実務家タイプの小西さん。以心伝心の間柄だった。
父が亡くなって以降、小西さんは後任の社長さんたちを大所高所から見守っていたが、その存在が大きすぎて孤高という印象であった。話し相手もなく、寂しかったのではないだろうか。見渡すと年の差はあるが、家族同然で気の置けない私がいたということだと思う。
よく夕食に誘われた。フランス料理が多く、いつもポケットマネーであった。それで初めのころは注文するのに気が引けた。そのうち、私が遠慮なくどんどん食べるのがうれしいのや、それに大富豪だし、と割り切って大いに会食を楽しんだ。
1991年、専務になった。ある時、小西さんに「そろそろ君を社長にしようかと考えている」といわれた。役員になってから一期2年ずつで常務、専務ととんとん拍子に上がってきた。小西さんが常に私を引き回していたことも周知のことだった。私が「株主総会の司会をするのはかないまへんなあ」と冗談でいうと、小西さんは「それだけは他の人に任せられんな。総会では漢字に仮名を振ってもらって読めばいい」。
私も正直、そんなこともあるかと意識しないではなかった。それでもはっきり告げられれば、やはり「えらいこっちゃ」となる。子どものころ、庭の池の鯉をじっと見つめて動かなかった父の姿が目に焼き付いている。今思えばそれは責任を一身に担う経営トップの孤独な姿だったのだ。
いつの日のことかはわからないが、就任と同時に全速力で突っ走れるよう手を打っておこうと思った。徐々にスピードを上げて、などと悠長なことをいってる場合ではない。もとより社長一人が走っても何の意味もない。全員がともに走るのだ。
社長の考え方をただちに全社に徹底する体制を整えなければならない。そのヘッドは長澤さんだ。このキーマンをすぐに経営企画部に送り込んだ。現在ろくに機能していないこの部を、文字通り会社の長期戦略を立案する中枢部隊としてよみがえらせるねらいがある。同時に企業再生のアクションプランを早急に策定するよう指示した。92年、副社長になった。私はいつでもピッチに飛び出せるよう気持ちを高めていった。
社長就任 「もうける経営」を追求 トップダウン、怒鳴りまくる
1993年6月、社長に就任した。兄が健在であればあり得なかった人事だ。マスコミは四代続いた武田家以外の社長からの大政奉還と書き立てた。「大政奉還て何や」。私はその詳しい意味を知らなかった。
一代限りの奉還などないだろう。すると、これからも武田の一族が会社を支配していくということか。この時代、同族経営で乗り切れるほど甘くはない。武田の名前の社長が私で終わることにいささかの思いもない。
就任時、私の頭の中では「武田が抱える問題は何か」「今、武田に何が必要か」などについてかなり整理された状態になっていた。ただ、社長の目で改めて会社全体を見渡して、今更ながら感じたのは人員が多すぎるということだった。
我が社は本業の医薬以外に食品、化学、農薬などの多角化を進めていた。その結果、医薬専業の同業他社に比べて従業員が過大で、しかも生産性が非常に低かった。それなのに、だらだらと採用を続けている。
どういう考え方で採用し、どう配置するか。その原則というか哲学のようなものがまったくなかった。それどころか、人事は「将来、大量に退職者が出るから早めに手当てしておかないと」と一人でも多く確保しようと張り切っているのだ。これには参った。
経営改革をするに際して、何より会社の目指すべき方向、ビジョンを全社員にはっきり示すことが大事だ。株式会社である以上、株主の利益を最大限、追求しなければならない。当然、これまでのもたれ合いのぬるま湯体質は許されない。そして、成果を上げた人が報われる仕組みにしなければいけない。
こういった問題意識から、「人々の健康とすこやかな生活に貢献する」という理念を再認識してもらうことから始めた。その上で、東洋の一小島のローカル企業にとどまることなく、医薬主体の「研究開発型国際企業」として世界競争を勝ち抜こうと呼びかけた。これしか生き残る道はないという決意表明でもある。
この方針に基づいて当面の中期計画を策定し、いよいよ具体的な改革に着手することになる。スリムで強靭な会社に生まれ変わるという構造改革である。医薬への特化と医薬外の事業の自立を図るために、「事業の高付加価値化」「人員の適正化」「経営資源の重点的配分」を基本戦略とする95ー00中期計画をスタートさせた。
早い話、もうける経営だ。もとより古い会社だから一応のフィロソフィーはある。それはあるが、商売、金もうけのフィロソフィーがなかった。私は最初から「銭、銭」と言っていた。何せもうけると。そして働けと。
自分のことはともかく、人が働いとらんのを見ると無性に腹が立つ。そういういやな性分だ。自分はのんきにしていて、人が「しんどい」といったらとにかく気に入らない。
それに、いくらお題目をつくっても実行しなければ意味がない。
「医薬に集中しろ」といったところで、今までは「そうなんですが、これこれの理由で難しい」とかできない言い訳ばかりいうに決まっている。徹底して責任をとる人がいないのだ。ボトムアップだったのをトップダウンに変えて怒鳴りまくることにした。
闘う集団づくり 人事や組織に大ナタ ギリギリ思い詰めて病に
眠れる武田薬品を戦闘集団に変える構造改革に着手した。その集大成が95ー00中期計画。もちろんつくったのは私の知恵袋、長澤(秀行取締役)さんである。
1万1千人いる社員を7500人に削減する。早期退職優遇制度も導入し、不要な研究所や不採算の内外の工場を閉鎖する。医薬品の海外売上高比率を50%にする。食品や化学品などの多角化部門の自立を社内カンパニー制によって促す。そして年功より成果に基づく人事報酬制度など。どれも大ナタを振るうような厳しい内容であった。
おっとりした社風に慣れていた社員やOBから強引との批判が多く寄せられた。とりわけ早期退職優遇制度は過去に例がなかっただけに強い反発があった。「業績が悪いわけではないのに、今なぜこんなむちゃをするのか」「長年築き上げてきた家族経営の良さが失われてしまう」
武田は何せ江戸時代から200年を超える歴史を引きずっている。変えることへの抵抗は予想以上のものがあった。おまけに社員は私にいいイメージを持っていない。立派な人だったら言うことを聞くだろうが、「あいつはばかや」と思っているから理解しようともしない。
「お前みたいなボンボンに何がわかる」といった内容の匿名の手紙が何通も自宅に送りつけられた。周りは心配したが、どつかれたらどつき返したるぐらいに思っていた。しかし、改革がうまくいくか確信はなかった。私には「上にいる者が考えをコロコロ変えたらいけない」との信念があるが、やはり不安になる時はあった。1万人の生活がかかっていると思うと眠れない日が続いた。
ものごとをスピーディーに処理するには頭でっかちではできないと思って役員も減らした。ピーク時には32人もいたのが、2年後には21人になり、現在は9人、監査役を入れても13人だ。
欧米型の実力主義の人事制度も上から始めた。当初、人事担当が一斉に導入しようとするのをやめさせた。上にいる者が信賞必罰の範を示さなければ改革などできない。第一陣は経営幹部、次いで管理職、社員はその後だ。「偉い人たちは安全地帯にいて」と思われたら社員はついていかない。
後継者登録制度はうまくいかなかった。幹部社員に自分のポストを引き継ぐ候補を何人か選ばせるようにした。早くから幹部候補生としてさまざまな経験を積ませる趣旨ではあったが、人事がからむとどうしても疑心暗鬼になる。名前は公表しなくても、薄々感じて、やる気をなくす人まで出てしまったのだ。
カンパニー制は多角化部門の活性化策だ。各カンパニーの長に権限を与えるが、1年で成果が表われなけれぱ更迭するつもりだった。ところが長澤さんに「3年の猶予期間はいる」と押し切られてしまった。
私には企業はいつひっくり返るかもしれないという強迫観念がある。本当はもっとドラスティックにことを進めたかった。とはいえ、全社員のコンセンサスがなければ真の改革はできないということも事実だ。日本では急激な改革といわれたが、欧米と比べたらまだまだ甘く遅い。ギリギリ思い詰めているうちに病に倒れてしまった。
がんと闘う 手術15時間、生き返る。 決算発表の場で自ら公表
社長に就任して3年、再生への道筋を必死で探っていたころのことだ、ぼうこうのあたりに異変を感じた。虫がいるみたいにもぞもぞごそごそする。しかし、仕事の忙しさにかまけて放っておいた。
社長になって週の大半を東京のホテルで過ごすようになっていた。ある朝、小便すると便器が赤く染まっていた。血尿だ。驚いて神戸大学の知り合いの医師に相談すると、「すぐこい」という。「これはがんですね。それもだいぶ進行しています。すぐ入院してください」。医師の宣告にがっくりきた。これで我が人生、一巻の終わりか。
阪神大震災の後で高速道路などが分断され、車が使えなかった。帰りの阪急電車の中で改革途上の会社の行く末、家や子どもたちのあれこれを考えているうちに、頭の中が真っ白になった。即入院といわれても簡単にはいかない。とりあえず出社して長澤さんを呼んだ。「俺、がんやて。どないなるかわからんから、そん時は頼むわ」。妻にも「がんや言われた」と電話すると声も出ない。
あいにくその夜は、大阪のホテルで米国の合弁会社のトップとの打ち合わせがあった。この先の契約条件のことで、相手は自分に都合のいいことばかり主張する。聞いているうちにだんだん腹が立ってきた。こちらは半分死んだ気でいる。ガダガタぬかすな、と席をけって帰ってしまった。
そして入院。精密検査の結果はたちの良くないぼうこうがん。おまけに前立腺やリンパ節に転移していた。4月末に手術と決まつた。その日、15時間かかったというが、麻酔で何も覚えていない。気がついたら集中治療室で、下腹部の中はほとんど空っぽになったらしい。もともと細い体が骨だけになった。「よう生き返りましたなあ」という医師の言葉にひとまず手術がうまくいったことを知った。
それからは放射線治療で、おそらく髪の毛はみんな抜けるだろう。6月末には株主総会が控えている。大胆な改革を断行しているさなかに、社長ががんとわかっては具合が悪い。抗がん剤の投与を延ばして総会に臨んだ。本人は大きな声を出しているつもりでも、全然力が入らない。立っているのがやっとだった。
私は業界の付き合いとか不義理をしていた。顔を見せなくても「どうせあいつは欠席やから」ぐらいにしか思われない。社内でも病気の事実は伏せていた。それでも4、5カ月消息がないと雑音が聞こえてきた。長澤さんが「東京で死んだん違うかいう噂が流れてまっせ」といってきた。
「ほな、1回お化けみたいに出てやろか」と11月の中間決算の発表に出かけた。席に着くと記者の皆さん、頭に目がくぎ付けだ。これまで半年も隠していたことで、企業の危機管理の面でいかがかと批判された。半面、本人が自ら公表したのは勇気ある行為との評価もあった。上場企業の経営者が公式にがんと宣言したケースは初めてだったようだ。
発表に際して、いくら業務に復帰しているどはいえ、この頭では「いくら何でも」とずいぶん心配された。白状すると、カツラをあつらえたのだが、ばれたら恥ずかしいと腹を決めた経緯がある。このカツラ、大枚50万円もしたので捨てるに忍びず、いまだに引き出しにしまってある。
気がつけば10年 医薬回帰へ走り抜く 周囲の協力大きな励みに
がんにも負けず、運よく生き残った。その後、再発の不安を抱えながらも、「一度は死んだんや」と会社の構造改革を進めた。それがこれほどしんどいとわかっていたら、初めから手をつけなかったのに、と思うこともしばしばだった。
実際、私が頭が良く先が見通せる才能があったら、取り組まなかったと思う。あいにく、その辺が読めず、走り抜くしかなかったのである。
多角化から本業の医薬品事業に回帰し、株主の皆さんの期待に応えられるようキャッシュフロー重視の効率経営を実現しようとしてきた。そして本当に努力した人が報われる会社にしたかった。この一心で毎日、激を飛ばし続けた。同時に、医薬外の事業はそれぞれの分野に携わる従業員が、将来に向け夢を持って働けるように自立を進めなければならない。
気がついてみれば、10年の月日が過ぎていた。振り返ればあっという間であった。ずいぶんむちゃやバカをやったが、少なくとも嘘をついたり、安易な妥協をせず、本質を貫くことをモットーとしてきた。
問題が起きれば、真っ正面から立ち向かい、悩み抜くことでピンチを切り抜けてきた。私の場合、窓際が長かったせいで、既定路線を変えることに抵抗がない。その点、本流で上り詰めた人たちは自己否定が必要で苦労したのではないだろうか。
自慢めいて恐縮だが、この10年で1兆円企業に仲間入りし、海外での売り上げが7割に達した。配当も10年前の13円から今年度は88円となる見込みだ。
国内市場中心の多角化から研究開発型の国際的な製薬会社に脱皮し、マルチナショナルな巨大製薬会社がひしめくグローバル競争の土俵に上がろうかというところまでこぎ着けた。
これも高血圧症や糖尿病の治療剤など4つの世界的な大型新製品に恵まれたことによる。ずっと前に研究を手掛けた先人の労苦の成果だ。我ながらつくづく運がいいとしかいいようがない。
それに、“丸投げ”“人頼み”で、おまけに極端に語彙の乏しい“ボキャ貧”の私を支え、方針を正しく翻訳し、通訳してくれた長澤秀行さんのような人たちの存在が大きい。また歴代の幹部、長年のカルチャーを180度転換するような急激な変化を求める私についてきてくれた従業員、家族の協力があった。
バブル盛んな時期、経理部門からの「どこでもやっている財テクを」との提案に乗って、小西新兵衛さんに「うちもやりましょうや」と言いにいった。初めて見るような怖い顔で怒鳴られた。「本業以外に絶対手を出してはいかん」。私は「老害や」と経理の人たちといっしょになって小西さんのことをくそみそに批判したが、今思えば背筋がぞっとする。
まさに父のように見守ってくれた小西さんがいなければ、今日の私も武田薬品もなかったと思う。確か社長就任2年目の経営方針会議の時だった。すでに病床にあった小西さんが車いすで現れ、私の方針発表を聞き、うなずいてくれた姿が今も目に浮かぶ。95年1月、阪神大震災の翌日に息をひきとられた。
バトンタッチ 会長の立場に虚脱感 財界活動で不勉強恥じる
社長になって10年たった。この間、非効率、非合理だった仕組みを一つずつ改革し、会社の体質を変えていった。組織や人を変え、医薬外の事業を自立させていった。こういう基本的な問題に手をつけ、反発と摩擦を凌ぎながらトップダウンで推し進めるには、武田という名前とエリート社員にはない型破りの発想が役に立った。
まがりなりにも会社が向かう方向をはっきりさせ、経営の大きな枠組みはでき上がった。いよいよ日本初の世界的製薬企業として羽ばたいていかなければならない。
そのうちお節介なマスコミの人たちから「後継者のメドは」と聞かれるようになった。そのたびに「死ぬまで社長をやる」と煙にまいていたが、自分の役割は終わったと感じていた。後進の人材も育ってきていた。
02年の年末ごろ、社長在任10年の節目を潮時に交代しようと腹を固めた。改革の大枠と方向が決まった後の具体的展開、いわば土俵に上がってからの闘いはもっとセンスのあるリーダーが当たるべきだ。そう思って03年に最年少の取締役だった長谷川閑史新社長にバトンタッチし、会長に就任した。
「何を基準に選んだのか」との質問には、「公私混同のないこと」を一番に挙げた。役員の布陣も大幅に入れ替えた。平均年齢は私が引き上げに貢献していてもだいぶ若返った。業務は当然、社長がすべて取り仕切り、私は一切口を出さないことにした。
しかし、実際、会長の立場になってみると実に寂しい。空虚な空間をただぼーっとさまよっている感じである。長澤さんも顧問に退かれ、これまでのようにカンカンガクガクやり合うこともない。皆が社長の方を向き、まるで大事な宝物を全部さらわれたようで、正直いえば悔しい。相も変わらずのひがみ根性だ。
会長としての役割は、大所高所から会社の長期的な方向性を見ていくことである。それはわかっているつもりだったが、このむなしさは1年ぐらい続いた。何かと会長が口をはさむと会社はぐちゃぐちゃになる。
社員は会長と社長の両方の顔色をうかがうのが仕事になってしまう。院政とか派閥とかトップの軋轢とかよく聞く話だ。これが会社をつぶす元凶である。「会社はお前のおもちゃじゃないぞ、このボケが」。心の中で自らに怒鳴り続け、近ごろではどうにかひがみの炎も下火になってきた。
そのかわりといっては何だが、日本経団連など財界活動の声がかかってきた。死ぬまでには一度はこういう場に携わるのもいいか、と柄にもなくやらせてもらっている。ここで改めて知ったことに日本の経済界における企業相互の関係の深さ、つながりの広さがある。
産業の相互関連という意味では医薬品は何となく別世界の感じがする。これは保険制度の中に組み入れられた規制業種であり、研究開発中心の自已完結型ですそ野が狭いという特性からきているのだと思う。
それはともかく、経団連の会合で錚錚たる経営者の方々に囲まれていると、ボキャ貧できっちりした意見一つ言えない自分が心底情けない。それもこれも若いときに勉強してこなかった報いというものだろう。この年になって気がついても手遅れだ。
くすりづくり 自らの役割は「伝道師」 自然の中の暮らし楽しむ
2003年6月に社長を交代し、会長職に就いた。業務執行はすべて新社長に仕切ってもらうことにした。1年かけて寂しさは克服した。社長時代によく見た父や長兄の夢も不思議に見なくなった。ところが、もう一つの感情がわき上がってきた。
社長時代は毎日毎日いかに利益を上げるかに追われていたが、いったんその世界から離れてみると、自分は10年間いったい何をやってきたのかという空しい自問をするようにもなった。確かに業績は上がり、株主の皆さんにある程度お応えすることができた。会社のさらなる発展のため必要最低限の形をつくって後継者に引き継いだ。でも、それ以外に何を残せたのか、残せるのか。形や数字以外にはないのか。
人によっては、子どもに仕事を継がせたくなる気持ちになるのかもしれない。この年になって、子どもに継がせたい親の心、死の直前に私に「長男でなくお前が代わりに」という目で見た父の気持ちがわかる。しかし、そういうことが許される状況でも時代でもない。すでに幹部以上の子弟は入社できないという内規もつくった。
そんな先日、この掲載を機に久しぶりに生家に足を踏み入れた。父の書「運根鈍」、祖父が記した社訓「規(ノリ)」が目に入ってきた。父が好んだ「行くに徑(コミチ)に由らず」という言葉も思い出した。王道を歩めとの意味だ。これらが言わんとするのは、200年以上の歴史で築いた「くすりづくり」という王道を、誠実に愚直にコツコツと歩み続けることだ。それを内外のグループ各社に訴え続ける、いわば「伝道師」の役割こそが自分の仕事なのかもしれない。そんな気がした。
少々格好良すぎる話になってしまった。これまでの人生を振り返ってみて、改めて自分は勉強も向かん、仕事も向かん、しかもわがままな性格だし、人との付き合いも極端に下手な人間だと思う。勉強や仕事は好きではないが、生き物好きは天下一品だ。やっぱり相手は生き物がいい。従順だし、文句はいわない。余計な気を使うこともない。
動物、植物、自然に囲まれて生きるのが向いている。休日は神戸・御影の自然の中を散歩したり、庭いじりを楽しんでいる。この10年は特にエビネに情熱を注いでいる。今年、紫のすばらしい花ができたので、これに「國の紫」と命名した。
生き物といえば、シカゴで誕生した末娘も大学生。以前から乗馬に惹かれ、現在、オリンピックに過去三回出場の杉谷泰造選手について特訓中である。今秋は国体でも上位に入賞することができた。
これまで、私はスポーツの応援にはあまり熱が入らなかったが、日本選手が活躍したアテネオリンピックはテレビ観戦に力が入った。情熱を注ぐ対象が少なくなったせいかもしれない。会社の仕事もそこそこ、ゴルフもそこそこ、エビネもそこそこ。後は“親ばか大将”よろしく、アメリカやヨーロッパで、そして若き日を過ごしたフランスで、乗馬で転戦する娘の“追っかけ”をしてみたい。これも娘と馬次第ではあるが。