韓国側が于山島を獨島(竹島)とする決定的な証拠として、朝鮮漁民・安龍福(アン・ヨンボク)の一連の行動がある。大谷・村川両家が鬱陵島への渡海許可を幕府から受け、同島で鬱陵島経営をしていた時代の1693年、鬱陵島で漁業をしていた米子の大谷家の漁師達は安龍福等と遭遇、領海侵犯の証拠として、安龍福と朴於屯(パク・オトン)の二人を拉致し、日本に連れ帰った。
この時、日本側の資料によれば、鬱陵島の近くには40余りの朝鮮人がいたとされる。一方、朝鮮側の文献によると、安龍福と朴於屯が連れ去られたのは、他の仲間は上陸して身を隠匿できたが、二人の下船が遅れたからで、それも日本の漁師達は、刀剣、鳥銃をもって両人を脅したのだという。これは日本側の鬱陵島渡海の目的の一つがトド猟でもあったため、大谷家の漁師達は、出漁の毎度に鳥取藩から鉄砲を拝借していたからである。
安龍福と朴於屯は1693年4月17日に捕まり、18日に鬱陵島を出船して4月20日には隠岐島に着き、そこで取調べを受けた後、米子には4月27日に到着している。鳥取藩は幕府に事の顛末(てんまつ)を告げ、幕府は朝鮮との交易が盛んであった対馬藩を通じ、朝鮮側に越境の取締りを厳にするよう要求することになった。 それは日本領として運営していた鬱陵島に、朝鮮人が出現し、日本側とトラブルを起こすようになったからである。日本側の漁具や施設を無断で使い、持ち去る者が出現したのだ。その顛末を述べた『七箇条返答書』には、「兼(かね)て此方より拵え置(こしらえおき)候(そうろう)、諸道具猟舟八艘、見え申さず候」と記されている。鎖国政策が厳格であった当時、幕府の許可を得て鬱陵島に渡って来ているので、この現実は黙示することが出来なかったのであろう。そこで彼らは朝鮮漁民に遭遇した時、領海侵犯の証拠として拉致し、鳥取藩に朝鮮側の不法行為を訴えたのである。
この拉致事件が起きた翌1694年、日本と朝鮮との間で鬱陵島の帰属が問題となった時、1481年に編纂された『東国輿地勝覧』の「弊邦江原道蔚珍縣に属島有り、鬱陵と曰う。本縣の東の海中に在り(中略)、本島峰巒(みねみね)の樹木、陸地より歴々と望見す」を引用して、鬱陵島は陸地より歴々と望見する事が出来ると言い、李朝は徳川幕府に鬱陵島から手を引くように伝えた。
上記を踏まえて戦後の韓国の発言を聞いて頂きたい。1954年9月25日付の「獨島領有に関する1954年2月10日付亜2第15號、日本外務省の覚え書きで日本政府が取った見解を反駁(はんばく)する大韓民国政府の見解」と題する韓国政府の公式見解では、上記に説明した『東国輿地勝覧』の文註と『世宗実録地理志』の文註から、「上記引用文の如く、于山島と武陵島(鬱陵島)の二島は、蔚珍縣の正東側の海に位置する別島である。さらにこの二島は互いに離れているが、それ程遠くないため、天気が良いと互いに望見することが出来る」と捏造解釈した。
戦後、竹島問題が日韓の争点となった際、韓国側は、『東国輿地勝覧』の「歴々と見える」を鬱陵島から見た竹島の記述とし、歴史的にも竹島は韓国領と主張していたが、1694年日本と朝鮮との間で鬱陵島の帰属が問題となった時には、その同じ『東国輿地勝覧』の「歴々と見える」を、陸地から鬱陵島が見えると解釈していた。この「歴々と見える」は、鬱陵島問題の時には鬱陵島を、竹島問題になると竹島の領有を証明する根拠にされていたのである。したがって、韓国側はとんでもない自己撞着(じこどうちゃく)を犯した事になる。
では話を元に戻します。対馬藩を通じての外交の結果、1696年1月28日、江戸幕府は鳥取藩主に対し、鬱陵島への渡海を禁止した。この決定に対し鳥取藩は即日幕命に服し、同日付で「向後、竹島渡海制禁仰出之旨、御紙にて領承其意候」という請書を、幕府に提出した。これで一件落着したかのように思えたが、歴史はそうはうまく進まなかった。対馬藩が、その鬱陵島への渡海を制禁した江戸幕府の決定を朝鮮側に伝えたのは、更に後れて翌春になった。その間に、あの3年前の領海侵犯の罪で連行された朝鮮漁民・安龍福が、今度は隠岐島及び鳥取藩に密航して来たのです。1696年5月末、江戸幕府が鬱陵島への渡海を禁じた4ヵ月後、対馬藩から朝鮮の通訳官に幕府の方針が伝えられる5ヶ月前のことです。この密航で問題がこじれることになる。この安龍福の行動は1728年に編纂された書物『粛宗実録』に書かれている。なお、韓国は、「幕府の鬱陵島への渡海禁止には、同島の付属島である獨島も含まれる」と主張しているが、それは現在の韓国側の概念であって、この渡海禁止令には松島の文字は無い。
粛宗実録 巻三〇 二十二年九月戊寅
備辺司、推問安龍福等、龍福以為、渠本居東莱、為省母至蔚山、適逢僧雷憲等、備説頃年往来欝陵島事、且言本島海物之豊富、雷憲等心利之、遂同乗船、與寧海蒿工劉日夫等、倶発到本島、主山三峰高於三角、自南至北、為二日程、自東至西亦然、山多雑木、鷹鳥猫倭船亦来泊、船人皆恐、渠倡言欝島本我境、倭人何敢越境侵犯、汝等可共縛之、仍進船頭大喝、倭言吾等本住松島、偶因漁採出来、今当還往本所、松島即子山島、此亦我國地、汝敢住此耶、遂拾良翌暁沱舟入子山島、倭等方列釜煮魚膏、渠以杖撞破、大言叱之、倭等収聚載船、挙帆回去、渠仍乗船追趁、埣偶狂飆漂到玉隠岐、島主問入来之故、渠言頃年吾入来此処、以鬱陵子山島等、定以朝鮮地界、至有関白書契、而本国不有定式、今又侵犯我境、是何道理云、爾則謂当転報伯耆州、而久不聞消息、渠不勝憤椀、乗船直向伯耆州、仮称欝陵子山兩島監税将、使人通告、本島送人馬迎之、渠服青帖裏、着黒布笠、穿及鞋、乗轎、諸人並乗馬、進往本州、渠興島主、対坐廳上、諸人並下坐中階、島主問何以入来、答曰、前日以兩島事、受出書契、不啻明白、而対馬島主、奪取書契、中間偽造、数遣差倭、非法横侵、吾将上疏関白、歴陳罪状、島主許之、遂使李仁成、構疏呈納、島主之父、来懇伯耆州曰、若登此疏、吾子必重得罪死、請勿捧入、故不得禀定於関白、而前日犯境倭十五人、摘発行罰、仍謂渠曰、兩島既属爾国之後、或有更為犯越者、島主如或横侵、並作国書、定譯官入送、則当為重処、仍給糧、定差倭護送、渠以帯去有幣、辞之云雷憲等諸人供辞略同、備辺司啓請、姑待後日、登対禀処、允之。
翻訳
備辺司(現在の国防省に相当)の取り調べに安龍福はこう答えた。彼は省戊のため蔚山に行き、たまたまそこで会った僧の雷憲らと鬱陵島の話をし、鬱陵島には豊かな海産物があると告げられると、雷憲らは心を動かされ、行ってみることになった。鬱陵島に着くと倭船もまた多く来泊しており、仲間は皆恐れた。だが安龍福が倭人に向かい「鬱陵島は我が境域である。どうして越境侵犯するのか、縛り上げてしまうぞ」と、船の舳先に立って大喝すると、倭人はこう答えた。「吾が輩は本、松島に住んでおり、たまたま漁採の為に来ただけだ。今、丁度戻ろうとするところだ」。そこで安龍福は、「松島は即ち于山島だ。これもまた我が国だ、どうして住めるのだ」と言った。更に翌日の暁、舟を漕いで于山島に入ると、倭人達はまさに大釜を並べて魚を煮ているところだった。安龍福は杖でそれらを撞(つ)き破り、大いに叱りつけると、倭人達は釜を拾い船に乗せ、帆を上げて去ってしまった。安龍福は船に乗って追いかけたが途中で狂風に遭遇し、隠岐島に漂到した。隠岐島では島主が何故来たのか聞くので、「先年ここに来た折、鬱陵島、于山島を以って朝鮮の他界と定めた関白の書き付けがあるが、ここでは徹底していないようだ。今また我が境を侵犯したがこれはどういう訳だ。伯耆の国にも伝えてもらいたい」と言ったが、久しく何の返答もなかった。伯耆の島主はそれを許したので、李仁成に上疏文(じょうそぶん)を書かせたが、対馬藩主の父親がやって来て「もしこの訴状が幕府に上れば、息子の死罪は免れない。どうか止めてもらいたい」と頼むので、遂にそれは沙汰止(さたや)みとなった。そのかわり前日越境した15人は、処罰された。伯耆の島主は更に「既に欝陵・于山両島が朝鮮に属した後は、領域を犯す者や対馬藩が専横な事をすれば国書を作り、通訳官を通して送って寄越せば、重き処罰を与えてやろう。ついては帰国に際しては護送し、食料も与えてやろう」と語った。しかし、安龍福はそれを辞退した。
解説
この粛宗実録は1728年に編纂された書物であるが、粛宗22年(1696)の条には、安龍福の発言が記録されている。安は備辺司(現在の国防省に相当)
の尋問に対して上記のように答えているのだが、これを根拠に韓国側は、竹島に対する韓国の主権を当時の江戸幕府に認めさせたと主張する。竹島問題が起こった1954年、韓国は日本政府が意見を述べた反論を出しているのだが、原文の「倭言吾等本住松島」を「我々は松島に行こうとしていると日本人が言った」と翻訳した。しかし、「住」は居住の意味であり、「行く」という意味ではない。竹島は人が住めない島であることが分かっているので、辻褄を合わせる為に、故意に資料を捏造解釈したのである。また、「仮称欝陵子山兩島監税」と原文にあるが、税を取る為にはそこに人が住んでいないと取れない。
当時の朝鮮は鎖国政策の中にあり、違反した者は死刑を科せられたのだが、安龍福は、日本に竹島の朝鮮領有を認めさせたとの嘘の発言をすることによって、自らの功労をでっち上げて死罪を逃れようとした。実際彼は死罪はならずに流罪を言い渡されるのである。上記のように粛宗実録に書かれてある資料を基に韓国政府は発言しているのであるが、韓国は原文そのものの検証は全くしていないのである。また別の記録、『辺例集要』によると、安龍福は于山島を鬱陵島より頗(すこぶ)る大きな島だったと言っている。しかし鬱陵島と日本本土との間には大きな島は隠岐島以外には存在しない。つまり安が見た大きな島とは隠岐島だったのである。(隠岐島の面積は鬱陵島の4.8倍)
この安龍福密航事件を記した『粛宗実録』によって、後年書かれる『東国文献備考(1770年)』、『萬機要覧(1808年)』『増補文献備考(1908年)』にも、安龍福が日本に対し于山島の領有を認めさせたと記載されるのである。しかし、安の証言が事実ではないことは、原文を読めば一目瞭然である。