于山島が竹島ではないことは先に説明しました。それは即ち、韓国が近年におけるまで竹島を知らなかった事を意味する。つまり、韓国は竹島に対して実効支配をしていないのである。最初に竹島を実効支配したのは日本である。いつ竹島を発見したかは定かではないが、幕府は松島(現・竹島)への渡航許可を1656年に出しているので、少なくともそれ以前に竹島(旧・松島)は日本人の経営支配下に入っていたことを意味する。
隠州視聴合記 (松江藩士・斉藤豊仙著 1667年)
隠州在北海中故云隠岐島、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至泊州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、俗言磯竹島多竹魚海鹿、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣
翻訳
(1) |
隠州(隠岐島)は北海中(日本海)にある |
(2) |
これより南、雲州(島根県東部)美穂関まで35里。東南、伯州(鳥取県西部)赤崎浦まで40里。南西、石州の温泉津(ゆのつ)まで58里。北から東には行くべき地なし。 |
(3) |
北西の間、二日一夜の所に松島(現・竹島)があり、また一日程行くと竹島(現・鬱陵島)がある。 |
(4) |
俗に磯竹島という。竹・魚・アザラシが多い。 |
(5) |
これら2島は無人島で、高麗を見るように雲州より隠州を見るようである。 |
(6) |
ならば即ち、日本の北西の地、この島をもって国境とする。 |
韓国の捏造解釈
この隠州視聴合記は隠岐島を中心に、東西南北何があるかが書かれている。ソウル大学社会学部のシン・ヨンハ教授は、上記の文章から(2)と(4)を抜き、(1)と(3)(5)を結んで、(6)の「この島」を隠岐島のことと捏造解釈した。これでは著者の斉藤が、(2)でわざわざ隠岐島を基点とした意味が無くなってしまう。(1)から(5)を抜かさずに読むと、(6)の「この島」とは鬱陵島を指し、鬱陵島までが日本の領土として書かれているのである。そうでなければ、1693年から3年間にもわたって鬱陵島の領有権問題が日本と朝鮮で争われたことを説明する事は出来ない。隠州視聴合記は、鬱陵島問題が起こるずっと以前、1667年に書かれており、徳川幕府が日本漁民に鬱陵島への渡航許可を出して半世紀経過しているのである。慎教授は(2)、(4)を抜かして資料を捏造してはならない。
幕命によって鳥取藩が、大谷、村川両家から鬱陵島周辺海域を聞き調べ作製した図に、竹島松島之図というのがある。この図は1724年に製図されたもであるが、松島の2つの主島(西島と東島)が描かれ、その周りに幾つかの岩礁が書かれている。20世紀に入るまで、韓国ではこのような竹島(旧・松島)の2つの主島が書かれている詳細な地図は存在しない。
作者の長久保赤水(1717-1801)は、水戸徳川家の儒官として江戸に出仕した人で、晩年『大日本史』の「地理志」稿本を執筆した地理学者でもある。この「改正日本輿地路程全図」は行基図を越えた画期的な日本図である。輪郭はかなり正確になり、距離や方角も正しく読み取れるようになっている。幕末に至るまで、他の日本図の手本となった。この”日本図”には竹島が描かれている。
韓国が、「日本も自ら竹島を朝鮮領と認識していた」として持ち出す資料の一つに、地理学者の林子平(はやししへい・1738-1793)が書いた『三国通覧図説』がある。この書には付属図の『三国輿地路程全図』がある。林は日本の地図だけでなく、朝鮮の資料も参考にしたと思われる。朝鮮半島の直ぐ傍に、島名の書かれていない島があるが、これは明らかに存在しない于山島である。そして日本海の中央に描かれている島は、当時竹島と呼ばれていた鬱陵島のことである。その竹島の直ぐ傍に小さな島が書かれているが、これはチュクドと考えるのが妥当である。
1836年に、石州浜田の回船問屋・会津屋八右衛門(いまずやはちうえもん)が、幕府が渡海禁止令を出していた竹島(現・鬱陵島)へ渡り、竹や木材を伐採して密貿易をしていた事が知られ、裁判を受け死刑になった事件がある。この裁判の判決文に、「松島へ渡海の名目をもって竹島に渡り」という浜田家老の言葉がある。つまり、竹島事件で問題になったのは朝鮮領の鬱陵島への渡海であり、松島(現・竹島)への渡海については何も問題にされていないのである。
左の資料は、内務省が1877年3月20日に出した通達で、鬱陵島と外一島が朝鮮の領土であることが明記されている。韓国は、ここに載っている、「竹島外一島」の”外一島”を竹島(獨島)であると主張しているが、その論拠となる積極的な証拠は無い。
日本政府は、混乱した鬱陵島周辺を調査し確認するため、1880年9月、軍艦「天城」を派遣した。そして当時誤って「松島」と称せられていたのが、古来の鬱陵島であることが確認された結果、その後の刊行にかかる海図では、一貫して鬱陵島に該当する島を「松島」、今日の竹島に該当する島を「リアンコールト岩」と称した。ここに、昔竹島と呼ばれていた鬱陵島が松島となり、松島と呼ばれていた島がリアンコールト岩となるのである。松島が竹島と島名が変更した原因の一つがここにある。もし西欧の誤った地図が日本に逆輸入されなければ、我々は現在も竹島を松島と呼んでいただろう事は想像に難くない。
日本は1905年1月28日の閣議において、江戸時代には松島と呼ばれていた島を正式に竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管する旨を決定し、島根県知事は同年2月22日付の島根県告示第40号をもってその内容を公示しました。翌年の1906年4月8日、島根県隠岐島の一行が鬱陵島を訪れ、鬱陵郡の郡守・沈興澤に「竹島が日本領になり、その視察の序(つい)でに鬱陵島を訪れた」と来意を告げた。
現在韓国政府は、1905年の竹島編入は無効であると主張している。韓国の国定教科書、中学校『国史』(下)に掲載された、竹島関連の記述にも韓国の主張を垣間見ることが出来る。
「我が国を侵略しながら日本は獨島を強奪し、間島を清に与えた。獨島は鬱陵島に付属する島として、鬱陵島が三国時代に新羅の領土に編入して以後、我国の領土とされてきた。朝鮮の太宗時代に流民を防止するため、そこに住む人々を本土に連れ戻して、鬱陵島と獨島の管理が疎かになった。その後、粛宗時代に鬱陵島に出掛けた漁民安龍福が、不法に侵犯している日本の漁夫を追い払い、日本に渡って我国の領土であることを確認されることがあった。しかし、日本の漁民は密かに鬱陵島の木材を伐採し、魚を獲るなどしばしば侵犯した。だが、日本は露日戦争中に強制によって、日本の領土に編入してしまった。」(韓国国定教科書・国史より)
果たして本当に韓国政府が言うように、竹島は強奪され、強制によって日本に編入されたのだろうか?
竹島編入時期の日本・大韓帝国・ロシアの関係を見てみよう。
1904年02月06日 |
日露開戦 |
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1904年02月09日 |
旅順攻撃 |
日韓議定書 |
1904年02月23日調印 |
1904年05月01日 |
鴨緑江渡河作戦 |
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1904年08月10日 |
黄海海戦 |
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1904年08月14日 |
蔚山沖海戦 |
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1904年08月07日 |
旅順総攻撃T |
第1次日韓協約 |
1904年08月22日調印 |
1904年08月24日 |
遼陽会戦 |
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1904年09月19日 |
旅順総攻撃U |
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1904年10月08日 |
沙河会戦 |
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1904年12月 |
203高地奪取 |
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1905年01月12日 |
旅順陥落 |
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1905年02月20日 |
奉天会戦 |
竹島の編入 |
1905年02月22日決定 |
1905年05月26日 |
日本海海戦 |
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1905年07月30日 |
樺太全土を制圧 |
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1905年09月05日 |
ポーツマス条約調印 |
第2次日韓協約 |
1905年11月17日調印 |
年表を見ると、戦争と並行して韓国に対する干渉が強くなっていっているのが分かる。これだけを見ると、確かに竹島の編入は日韓議定書からの連続した侵略過程とも採らえることが出来る。しかしよく考えて頂きたい。その頃(1905年2月22日)の韓国は歴然とした独立国(大韓帝国)でした。第2次日韓協約(日韓保護条約)によって、日本が韓国の外交面を担当するようになったのは、1905年11月17日。従って強奪でも強制でもなんでもないのです。大韓帝国は主張できる立場にあった。また編入はマスコミにもよっても知らされた。
1936年に日本の陸軍測地測量部が作成した「地図区域一覧図」という地図があるが、これを基に韓国は、「竹島は朝鮮領として描かれていて、近代に入っても日本政府の竹島に対する認識は朝鮮領であることを自ら示している証拠である」と主張している。
しかし、この「地図区域一覧図」は、軍隊の運用のためその管区を定め、部隊を運用する為の地図である。基本的には管区や運用を行政境界と一致させるとしても、運用上の便宜から例外が出ることは不思議ではない。結論として、竹島が軍の地図区分において朝鮮管区(軍令上の区画)に加えられたとしても、あくまでも「行政区画」上、島根県に属していた事実は変わりない。国家の領域を管轄して、天皇を補弼(ほひつ)したのは内務省であるから、行政区画をもってその帰属を論ずるべきである。韓国は行政上の地図と軍事上の地図を同一視してはならない。
現在韓国では、日本の韓国侵略の始まりは竹島の日本編入(1905年)からであると主張しているが、その当時から朝鮮併合の意思があったなら、日本政府は、領土的には何の価値も無い竹島ではなく、人が住める鬱陵島の主権を奪ったはずである。ところが日本政府は江戸幕府と同様に一貫して鬱陵島は朝鮮領とした。 また、下の写真のように、竹島は主に西島と東島から成り、「竹島松島之図」などには島の詳細が描かれているが、その一方で韓国は、20世紀に入るまで正確かつ詳細な竹島の地図を持ち合わせていない。これは実効支配をしたことのある日本と、全く無い韓国との違いを端的に表している。