第015回国会 本会議 第11号
昭和二十七年十二月九日(火曜日)
○議長(大野伴睦君) これより会議を開きます。
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戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議案(田子一民君外五十八名提出)(委員会審査省略要求事件)
○久野忠治君 議事日程追加の緊急動議を提出いたします。すなわち、田子一民君外五十八名提出、戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議案は、提出者の要求の通り委員会の審査を省略してこの際これを上程し、その審議を進められんことを望みます。
○議長(大野伴睦君) 久野君の動議に御異議ございませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(大野伴睦君) 御異議なしと認めます。よつて日程は追加せられました。
戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議案を議題といたします。提出者の趣旨弁明を許します。田子一民君。
〔田子一民君登壇〕
○田子一民君 ただいま議題となりました、自由党、改進党、両社会党、無所属倶楽部の共同提案にかかる戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議案、右につきまして提案の趣旨弁明をいたしたいと存じます。
まず決議案の案文を朗読いたします。
戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議
独立後すでに半歳、しかも戦争による受刑者として内外に拘禁中の者はなお相当の数に上り、国民の感情に堪え難いものがあり、国際友好の上より遺憾とするところである。
よつて衆議院は、国民の期待に副い家族縁者の悲願を察し、フイリツピンにおいて死刑の宣告を受けた者の助命、同国及びオーストラリア等海外において拘禁中の者の内地送還について関係国の諒解を得るとともに、内地において拘禁中の者の赦免、減刑及び仮出獄の実施を促進するため、まずB級及びC級の戦争犯罪による受刑者に関し政府の適切且つ急速な措置を要望する。
右決議する。
わが国は、平和条約の締結によつて独立国となつて、すでに半歳以上をけみしておるのであります。国民の大多数は、独立の喜びの中に、新生日本の再建に努力しております。この際、このとき、この喜びをともにわかつことができず、戦争犯罪者として、あるいは内地に、あるいは外地に、プリズンに、また拘置所に、希望なく日を送つておりますることは、ひとり国民感情において忍び得ざるのみならず、またさらに国際友好上きわめて遺憾に存ずるところであります。(拍手)もとより、講和発効後、関係国の理解により、中国関係戦犯者九十一名の釈放、米国関係十一名の仮出所、また近くは、インド、中国におきましては、戦犯者のある部分につき釈放に同意したとのことでありまして、ここに諸君とともに、これらの国に対しましては感謝の意を表するものであります。さりながら、ひるがえつて他面を見ますれば、今もつて海外におきましては、死刑の宣告を受けておりまする者五十九名を含む三百八名、これに内地在所者を加えますれば、千百三十名になんなんとする多数の人々は、いまなお獄窓に坤吟しつつあるのであります。実に私どもの黙視し得ざる点でございます。
そもそも戦犯による受刑者と申しまするものは、旧時代における戦争によつて生じた犠牲者なのであります。これらの人々は、和解と信頼による平和条約の発効の後におきましては当然赦免せらるべきことを期待し、あきらめの態度を定め、従順かつまじめに服役を続けて来ておるのであります。しかるに、条約発効後すでに半歳以上をけみしましても、荏苒期待に反して、そのことなきことは、私どもの遺憾禁じ得ざるところであり、関係者の失望と焦燥とは察するに余りある次第でございます。いわんや、その家族、縁者の物心両界にわたる苦痛は惨たるものあり、生活の窮乏者さえ多いのであります。これらの人々は、戦後七年間はもとより、また戦時中より通算しますれば実に十数年の長きにわたつて家庭の支柱を奪われ、しかも今日までよく耐え、よく忍んで来ましたゆえんのものは、一に講和条約が発効をしたならばとの期待を持つたためなのであります。しかるに、事期待に反し、その落胆、焦心は同情にたえざるところであります。さらに一般国民は、戦争の犠牲を戦犯者と称せらるる人々のみに負わすべきでなく、一般国民もともにその責めに任ずべきものであるとなし、戦犯者の助命、帰還、釈放の嘆願署名運動を街頭に展開いたしましたことは、これ国民感情の現われと見るべきものでございます。
およそ戦争犯罪の処罰につきましては、極東国際軍事裁判所インド代表パール判事によりまして有力な反対がなされ、また東京裁判の弁護人全員の名におきましてマツカーサー元帥に対し提出いたしました覚書を見ますれば、裁判は不公正である、その裁判は証拠に基かない、有罪は容疑の余地があるという以上には立証されなかつたとあります。東京裁判の判定は、現在あるがままでありましたならば、何らの善も生まず、かえつて悪に悪を重ねるだけであると結論づけておりますことは、諸君のすでに御承知の通りであります。また外地における裁判について申し上げましても、裁判手続において十分な弁護権を行使し得なかつた関係もあり、また戦争当初と事件審判との間には幾多の時を費しまして、あるいは人違い、あるいは本人の全然関知しなかつた事件もあると聞いておるのであります。
英国のハンキー卿は、その著書において、この釈放につき一言触れておりますが、その中に、英米両国は大赦の日を協定し、一切の戦争犯罪者を赦免すべきである、かくして戦争裁判の失敗は永久にぬぐい去られるとき、ここに初めて平和に向つての決定的な一歩となるであろうと申しておるのであります。かかる意見は、今日における世界の良識であると申しても過言ではないと存じます。(拍手)
かくして、戦争犯罪者の釈放は、ひとり全国民大多数の要望であるばかりでなく、世界の良識の命ずるところであると存じます。もしそれ事態がいたずらに現状のままに推移いたしましたならば、処罰の実質は戦勝者の戦敗者に対する憎悪と復讐の念を満足する以外の何ものでもないとの非難を免れがたいのではないかと深く憂うるものであります。(拍手)
今や、わが国は、世界平和確立に鋭意努力しております。政府は、関係諸国に対し、まずB級及びC級を手始めとして、一日も早く全部の赦免、減刑、仮出獄の処置に出るよう、迅速にして適切な方途を講じ、一は国民感情の満足を求め、家族縁者の悲願にこたえ、一は国際友好の上に遺憾なからしめるよう、強く要望してやみません。
はなはだ言葉足らず、意を尽しませんが、これ本案を提出するゆえんでございます。何とぞ満堂の諸君の御賛成を仰ぎたいと存じます。(拍手)
○議長(大野伴睦君) これより討論に入ります。館俊三君。
〔館俊三君登壇〕
○館俊三君 ただいま議題になりました戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議案に対し、私は労働者農民党を代表して反対をするものであります。
周知のように、戦争犯罪人を断罪した極東裁判は、ポツダム宣言受諾によつてなされたものであります。B、C級等下級戦犯者の釈放等は、従つてポツダム宣言にのつとる中ソ両国を含む全面講和の早期締結によつて初めて可能なものであります。本決議案は、この点を全く無視したものであります。
本決議案の真のねらいは、第一に、これによつてサンフランシスコの単独講和の既成事実化を推し進め、これを合理化することであり、第二にB、C級等下級戦犯者を釈放した上、これらの人々自身の意に反して、これを軍国主義と再軍備のための宣伝と組織に利用せんとするものであり、第三には、A級戦犯の全面釈放のための伏線であり布告であると私は断ずる。(発言する者あり)このことは、今日戦争反対、再軍備反対を叫ぶ熱心な多数の平和愛好者、平和運動者が全国各地で不当にも逮捕され、投獄されていることによつても、おのずから明らかであります。わが党は、これらの平和運動者の即時全面釈放と、それらの人々に対する国家の正当な補償を要求するものである。
政府はまた、さきに広汎な追放解除を強引に行い、かの侵略戦争に対する積極的協力者の多数に自由を与えたのである。これらの多くは、今日、政界、財界、文化界において、再びわが日本を戦争に追いやるために活躍しつつあります。(拍手)第四次吉田内閣自身何をやつておるか。緒方官房長官と向井大蔵大臣のごとく、追放者であり、戦争協力者を有力閣僚としているではないか。のみならず、自由党、改進党を問わず、今日この種戦争協力者が、民主主義の仮面をかぶつて、各政党、各団体内に活発に動いておる。このような状態のもとで本決議案が出されているのであります。
吉田自由党政府の再軍備、戦争政策に断固反対している労働者農民党は、いまなお獄窓にある人々には真にお気の毒ではありますが、これらの人々の釈放がかくのごとき意図のもとに行われるに至つては、欺瞞に満ちた本決議案であると私は解釈して、強く反対するものである。(拍手)
○議長(大野伴睦君) 山下春江君。
〔山下春江君登壇〕
○山下春江君 私は、改進党を代表いたしまして、ただいま上程されました戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議案に対しまして賛成の意見を申し述べたいと存じます。(拍手)
先ほど趣旨弁明の言葉の中にもございました通り、かつての極東裁判の判事であり、しかも日本の無罪を主張いたしましたインドのパール博士は、去る十一月十一日に、巣鴨の拘置所において、戦犯に対して、あくまでも正義を主張してやまない人間の真実の叫びとして、大要左のようなあいさつをされたのであります。「すべて、裁判官の真諦は、人間の心の中に法の公正さに対する信頼感をもたらすことにある。その意味で、今次戦争最大の損失、最大の災害は、法的正義に対する信頼感の破壊にあつた。法律家の中には、連合国のつくつた法は、敗者である皆さんのみを対象としたものであつて、彼ら自身もしくは一般人類に適用されないものであるということを告白している。もしそれが真実ならば、そこに生れたものは法律ではなく、そこに成り立つたものは正義ではない。ここにおられる皆さんは可能なる最悪の不公正の犠牲者である。英国において上層部の間に論争が行われている。そのうちのある者は、戦犯條例によつて定められた法は、ドイツ人を、あるいは日本人を対象とした法であつて、一般社会に適用されるべきものでないことを認めている。連合国は一体どこから権利を得てこれらの法律をつくり、それを適用し、それによつて判決を下し得たのであろうか。」というあいさつをされておるのであります。
占領中、戦犯裁判の実相は、ことさらに隠蔽されましてその真相を報道したり、あるいはこれを批判することは、かたく禁ぜられて参りました。当時報道されましたものは、裁判がいかに公平に行われ、戦争犯罪者はいかに正義人道に反した不運残虐の徒であり、正義人道の敵として憎むべきものであるかという、一方的の宣伝のみでございました。また外地におきまする戦犯裁判の模様などは、ほとんど内地には伝えられておりませんでした。国民の敗戦による虚脱状態に乗じまして、その宣伝は巧妙をきわめたものでありまして、今でも一部国民の中には、その宣伝から抜け切れないで、何だか戦犯者に対して割切れない気持を抱いている者が決して少くないのであります。
戦犯裁判は、正義と人道の名において、今回初めて行われたものであります。しかもそれは、勝つた者が負けた者をさばくという一方的な裁判として行われたのであります。(拍手)戦犯裁判の従来の国際法の諸原則に反して、しかもフランス革命以来人権保障の根本的要件であり、現在文明諸国の基本的刑法原理である罪刑法定主義を無視いたしまして、犯罪を事後において規定し、その上、勝者が敗者に対して一方的にこれを裁判したということは、たといそれが公正なる裁判であつたといたしましても、それは文明の逆転であり、法律の権威を失墜せしめた、ぬぐうべからざる文明の汚辱であると申さなければならないのであります。(拍手)
その一、二の例をあげますと、事件の内容で、有罪項目が自分の行為ではなく、まつたく虚構であつたか、あるいは捏造された者、人違いであつた者、あるいは部下または上官の行為の責任をとらされた者などが非常に多く、さらにまた、事件発生の部隊または地域にたまたまおつたというとによつて添えを食つた者、さらにはなはだしきは、日本人なるがゆえに、他に何らの理由もなく処罰された者などがあるありさまでありまして、自己の行為と多少のつながりがあるといたしましても、著しく事実を誇張し、またはゆがめられたものが圧倒的に多かつたのであります。また、裁判の審理が一方的で、公判廷において被告に十分の陳述を許されず、証拠も物的証拠はなく、ほとんどが人的証拠、すなわち証人の証言によるものでありましたが、その証人も多くは公判廷に出席せず、検事のつくつた宣誓口述書を単に読み上げるものが多かつたようでございます。それは、もし証人を出席させますと、被告人と対決することにより、証人の偽つた証言が暴露されることをおそれたからでございましよう。
このようなさばきを受けまして、今巣鴨にいる大多数の者は、長らく異境にあつて戦争に従事し、終戦とともに引続き戦争犯罪者として逮捕、裁判に付せられた者で、終戦後八年を経過いたしました現在、家庭を離れてすでに平均十年になつており、十五年から、はなはだしきは二十余年に及ぶ者もいるありさまでございます。戦時中は、いまだ留守家族は、国家、国民のあたたたかい庇護を受けて、ただ別離の悲しみのみでございましたが、終戦後は、一家の大黒柱を奪われたまま、怒濤のごとき社会的、経済的混乱のまつただ中に投げ出され、一顧だに与えられなかつたのみならず、忌まわしい戦犯者の家族として、一般国民以上に深刻な精神的な苦悩を負わされて参りました。留守家族が経済的に困窮して生活にあえぎ、また種々の不幸を人一倍味わわされたことは、想像にかたくないのでございます。講和発効にあたつて、国内の裁判を受けて入獄いたしております者は、大赦によつてその罪を軽減されたにもかかわらず、たとい国内法による裁判ではないといえ、常にヒユーマニズムを説く連合国に対して、独立日本の権威にかけても、政府はこの機会を逸せず、強力なる釈放の手段を講ずべきであつたと考えるのでありますが、(拍手)なすところなく過ぎ去りましたことは、まことに残念でございます。
幸いにして、今日では社会の同情が高まつて参りまして、やや慰められるところが多くなつて参りましたものの、その困窮の状況は依然として深刻なるものがございます。すなわち、家庭の生活状況は、両親が健在で、独身者で心配がないという者が、在所者八百十八名中わずかに十二名あるだけでありまして、その他は極度の困窮に陥つていて、現在母と子が親子心中一歩手前の悲嘆にくれている者が百七十五名もございます。一家がすでに離散してしまつた者が三十五名もあります。戦犯者となつたがために、本人が離婚または婚約解消のうき目を見た者が実に六十九名もあるのでありますが、この悲しみは、単に本人のみならず、家族も、戦犯者の家族なるがゆえに就職を拒否された者二十二名、結婚をはばまれた者十二名、その他社会的迫害を受けた事例ははなはだ多いのでありまして、はなはだしきは、これがために自殺をはかつた者十二名、発狂した者十六名という、悲惨きわまりないものでございます。現在は情勢が一変して参りましたから、もはや社会的迫害などということはあり得ないと思うのでございますが、講和条約発効を釈放の機として、これに唯一最大の期待をかけて忍んで来た家族が、予期に反して、講和発効後八箇月を経た今日、依然として拘禁せられて、いつ帰つて来るかわからないという一大失望落胆は、今後ますます家庭悲劇の大きな根源となつて来るでございましよう。
つい最近のことでございますが、私が巣鴨訪問中、待ち切れなくなつた妻から離婚届の捺印を求めて来た書簡を持つて、ぽたぽたと涙を流しながらうなだれている戦犯者の前で、何と言つて慰めてよいか、言う言葉もなく、私もまた涙しながら政府のふがいなさに憤りを感じたのでございます。(拍手)終戦後すでに八年の長い拘禁生活中に、父母妻子その他の肉身の不幸にあつた者は実に四百九十五名おります。そのほとんど全部が、最愛の父母妻子の死目にもあうことができず、むなしく獄窓に断腸の涙をのんだのでございます。
年の瀬を控えまして、九度目の正月を獄舎に迎えんとする父と、ふるさとにさびしくも悲しく父を待つ妻と子らの上に明るい喜びをもたらす糸口となりますよう、本決議案に対して衷心より賛意を表しますとともに、政府はこれが実現のためにあらゆる方途を講じ、最善の努力を傾け、すみやかに解決せられんことを念願いたすものでございます。(拍手)
○議長(大野伴睦君) 田万廣文君。
〔田万廣文君登壇〕
○田万廣文君 私は、日本社会党を代表いたしまして、ただいま上程されておりまする決議案に対して賛意を表明するものであります。
ただいま山下さんからもお話が、ございましたが、かつての東京裁判においてインド代表として列席されましたパール判事の言は、私どもの解するところでは、正義と公平とが人道上からいろいろ批判の対象になつておるのでございます。御承知の通り、受刑者の方々の中におきましては、無期または十五年以上の長期刑、米国関係の中におきましては、三十年、四十年、超長期刑に至りましては七十年の刑もあると聞いておるのでございます。かくのごときことは、生けるしかばねと言うも、あえて過言ではないと思うのであります。このような長期にわたる受刑者御本人もさることながら、留守家族の方々の生活状態は、報告書によれば、ほんとうにその日その日の糊口に苦しんでおるという実態だそうでございます。私どもは、人間として、人道上から、この決議案に対して賛意を表せざるを得ないと考えるのでございます。(拍手)特に申し上げたいことは、B級、C級の戦争犯罪受刑者の諸君の中におきましては、今日明確になつた点においては、事実無根のために、すなわち無罪たるべき者が多数入つておるということであります。私どもは、この点を強く当然主張いたしまして、国際的な良識に訴えて、関係各国の良心に基いた手続が望ましいと思うのであります。(拍手)
私どもは、正義を愛し、平和を愛します。その意味から申しましても、この決議案に盛られた趣旨は正しいと考える。B級、C級の戦犯者こそは、すみやかに釈放せらるべき運命の星にあると私は考えるのであります。独立後相当日にちを経過いたしました今日、デリケートな国際関係のさ中におきまして、国際関係の調整上からいいましても、正義、人道の上からいつても、本決議案のすみやかなる採択と、政府の強硬なる態度を要望してやまないのでございます。岡崎外務大臣は、最近いろいろ批判の対象になつておるのでありまするが、どこまでも独立した日本であるというかたき信念の上に立つて、正義の策を勇敢に叫んでいただかなければ困ると考えるのであります。(拍手)
何とぞ皆さんの御賛意を得まして、本決議案がすみやかに本院を通りまして、特に気の毒なるB級、C級、これらの人々のすみやかなる釈放を心から念願いたしまして、賛意を表明する次第でございます。(拍手)
○議長(大野伴睦君) 古屋貞雄君。
〔古屋貞雄君登壇〕
○古屋貞雄君 私は、社会党を代表いたしまして、ただいまの提案に賛意を表するものでございます。
平和条約が成立して相当の日時を経過いたしましたけれども、いまだに戦犯は釈放されないのであります。平和条約によりまして、わが国は国際憲章並びに世界人権宣言の履行を約束いたしました。しかるに、戦争が最も大きな犯罪でありますることは、われわれがここに強調をする必要がございません。戦争が残虐であるということを前提として考えますときに、はたして敗戦国の人々に対してのみ戦争の犯罪責任を追究するということ――言いかえまするならば、戦勝国におきましても戦争に対する犯罪責任があるはずであります。しかるに、敗戦国にのみ戦争犯罪の責任を追究するということは、正義の立場から考えましても、基本人権尊重の立場から考えましても、公平な観点から考えましても、私は断じて承服できないところであります。(拍手)特にB、C級の戦犯に対しましては、その行為が残虐であつたということによつて、いまだに釈放されておらぬのでございますけれども、戦争が残虐であることは、私どもがただいま申し上げた通りであります。
世界の残虐な歴史の中に、最も忘れることのできない歴史の一ページを創造いたしたものは、すなわち広島における、あるいは長崎における、あの残虐な行為であつて、われわれはこれを忘れることはできません。(拍手)この世界人類の中で最も残虐であつた広島、長崎の残虐行為をよそにして、これに比較するならば問題にならぬような理由をもつて戦犯を処分することは、断じてわが日本国民の承服しないところであります。(拍手)
ことに、私ども、現に拘禁中のこれらの戦犯者の実情を調査いたしまするならば、これらの人々に対して与えられた弁明並びに権利の主張をないかとろにして下された判定でありますることは、ここに多言を要しないのでございます。しかも、これら戦犯者が長い間拘禁せられまして、そのために家族の人々が生活に困つておることはもちろんでありまするけれども、いつ釈放せられるかわからぬ現在のような状況に置かれますることは、われわれ同胞といたしましては、これら戦犯者に対する同情禁ずることあたわざるものがあるのであります。われわれ全国民は、これらの人々の即時釈放を要求してやまないのでございます。
こうした理由から、本提案に対しましては賛意を表するものであります。何とぞ政府におかれましては、国民のこの要望、この熱望にこたえるだけの責任ある態度をとられんことを要望いたしまして、賛成の意を表する次第でございます。(拍手)
○議長(大野伴睦君) これにて討論は終局いたしました。
採決いたします。本案に賛成の諸君の起立を求めます。
〔賛成者起立〕
○議長(大野伴睦君) 起立多数。よつて本案は可決いたしました。(拍手)
この際法務大臣から発言を求められております。これを許します。法務大臣犬養健君。
〔国務大臣犬養健君登壇〕
○国務大臣(犬養健君) ただいま成立いたしました決議に対して敬意を表し、この際政府の所信を申し上げたいと存じます。
先刻提案者が示されました通り、戦争犯罪に問われて現在巣鴨刑務所に服役中の者は、A級十二名をも含めて八百十名に上つております。また国外において服役中の者は、オーストラリアのマヌス島に百九十九名、フイリピンのモンテンルパに百九名、計三百八名でありますが、これらの人々は、すでに長い年月の間幽閉の生活を続け、その家族の生計もまことに悲惨な状況にありまして、物心両面の痛手は真に想像に余りあるものがあるのでございます。政府におきましても、これら戦犯者本人の心中はもとより、この家族の悲しみに思いをいたしまして、御同様まことに深き同情を禁じ得ないのでございます。御承知のごとく、外地にあります戦犯者の内地送還につきましては、独立後現在までに、マヌス島より七名、モンテンルパより二名、合計九名の送還を見たのでありまして、いまだ少数ではありますが、この関係国の処置に対して感謝の意を表しますとともに、さらに一日も早く残りの全部について好意ある処置がとられるよう切望いたし、政府といたしましても、その実現のためにあらゆる努力を現在払つて参つているのでございます。
次に、巣鴨刑務所にあります戦犯者の釈放につきましては、この赦免、減刑及び仮出所の勧告を行うように鋭意努力いたしまして、現在仮出所適格者の大部分について仮出所の勧告を終了いたしまして、各国の同意決定を待望している次第であります。これに対して、アメリカにおきましては、先般、戦犯釈放委員会というものが設置せられまして、その検討の結果、今日までに計十九名の仮出所の同意が得られたのであります。しかるに、米国以外の英・仏・濠よりはいまだ何らの回答にも接しておらないのでありますが、米国におけるこの動きは、必ずや他の関係国にもよい影響を与えるものと確信いたしつつ、今後とも関係国の好意と理解の獲得につき全力をあげて折衝いたしたいと存じております。(拍手)
なお、かような個別的な勧告と並行いたしまして、政府は関係各国に対し全面赦免の勧告を行つているのであります。(拍手)すなわち、本年七月十四日に、フランス国の革命記念日を期しまして、フランス国関係の戦犯者につき全面赦免を勧告し、さらに八月上旬には、その他の関係国に対してB、C級座員の全面赦免を勧告いたしました。さらに、今般行われた立太子式の国家的慶事に際しまして、A級をも含めた全戦犯者の全面赦免を再勧告いたしたのでございます。(拍手)しかして、この全面赦免の勧告に対しましては、本年の十一月十五日にインド国政府より、また十二月三日には中華民国国民政府より、A級戦犯の釈放につきそれぞれ賛成なる旨の通知を受けたのでありまして、ここに両国政府の好意に対して深甚なる感謝の意を表する次第であります。(拍手)なおこのほか、フランス国政府よりも特に好意をもつて考慮する旨の回答に接しておりますが、その他の関係国からはまだ何ら具体的回答を受け得るに至つていない状態でございます。
しかし、政府といたしましては、本日のこの御決議の意を体し、さらに今後とも関係国の好意ある処置を期待しつつ、あらゆる手段方法によりまして、適切迅速なる方途をとり、一日も早くこの不幸なる事態を解消いたしまして、本日の御趣旨に沿いたい覚悟でございます。(拍手)
毎日新聞 2005/7/12ー7/23
「靖国」と政治
A級戦犯合祀
個性派宮句が断行, 27年前、東京裁判否定狙い
東京・九段の靖国神社。小泉純一郎首相の参拝問題をめぐり対中、対韓関係がこじれ、年内の参拝にどう対処するかは今や郵政民営化と並ぶ政治課題だ。国家神道の支柱だった戦前のみならず、戦後政治にもさまざまな形で絡み続けた「靖国」。分岐点は27年前の「決断」にさかのぼる。
「昨晩、新しい御霊を合祀申し上げた。白菊会に関係のある14柱の御霊もその中に含まれております」
1978年10月18日、靖国神社の秋季例大祭。マイクを使い、淡々とあいさつする松平永芳宮司(当時)の言葉を、日本遺族会の板垣正事務局長(当時。元参院議員)は特別な思いで聞いた。板垣氏は極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として裁かれ、処刑された板垣征四郎元陸軍大将の二男。「白菊会」とはA級戦犯を含む戦犯の遺族でつくる「白菊遺族会」を指し、合祀実施にすぐ気づいた。
例大祭の直前に関係者から合祀の可能性を聞かされてはいた。それでも「宮司が代わったばかりで(予想より)早かったというのが実感だった」と板垣氏は振り返る。靖国神社によると、東条英機元首相らA級戦犯14人の合祀手続きが取られたのは前夜の17日夜。当時は福田赳夫首相だったが、政権の中枢にもこのことは知らされず、翌79年4月19日付の「朝日新聞」が報じ、初めて表面化した。
78年7月に第6代宮司となった松平氏は幕末期の「安政の大獄」で、閉門を命じられた福井藩主・松平春嶽の孫。第二次世界大戦で海軍士官として従軍、戦後は陸上自衛隊に勤務した。A級戦犯合祀は信徒代表らでつくる「崇敬者総代会」がすでに70年に了承し、就任直後の判断には8年間の「懸案」にケリをつける意味があった。
「(就任を)決心する前、東京裁判を否定しなければ日本の精神復興はできないと思うから、いわゆるA級戦犯の方々も祭るべきだという意見を申し上げた」。89年に発行された雑誌の対談で、松平氏は当時の心境をこう明かしている。
靖国神社が合祀を先送りし続けた背景には、当時の政治状況がある。自民党は69年から73年にかけて5回にわたり、議員立法の靖国神社法案を国会に提出した。目的は同神社の「国家護持」だ。当時の党関係者は「法案作成では靖国神社とも調整を繰り返した」と証言している。法案審議への配慮が合祀先送りの一因とみていいだろう。しかし、社会党など野党の激しい反対もあり結局、国家護持構想は挫折した。
松平氏の登場で、政治と靖国の関係は変化をきたす。合祀直前の78年9月、松平氏は宗教紙のインタビューで「今の政治家の生き方を見ていると、この人たちに靖国神社を任せるというか、管理させるわけにはいかない」と述べ、国の関与をあえて拒む姿勢を明確にした。
「政治不信と言うか、政治家が介入すべきでないとの考えだった」(板垣氏)。国による関与よりも、A級戦犯の復権の方がより重要であると松平氏は判断したのだ。85年、中曽根康弘首相(当時)周辺がA級戦犯分祀を靖国神社に打診した際も、松平氏ははねつけた。その強烈な個性ゆえに当時の政界で「ホメイニ(イラン革命の宗教指導者)」とささやかれた。
ある官房長官経験者は宮内庁長官の口からA級戦犯合祀に対する昭和天皇のこんな「つぶやき」を漏れ聞いたという。「山階なら、ああいうことをしなかったんではないか」。松平氏の前任である筑波藤麿宮司は、皇族の身分を離れた山階宮家の出身だった。この長官経験者は「陛下は、やはり外交関係への影響をお考えになったんじゃないか」と語った。
現在、90歳の松平氏は病床にある。東京都内の自宅マンションを訪ねると、インターホンごしに「今、入院しています。(私も)これから病院に行くところです」と家人が答えた。(松平永芳氏は7月10日死亡)
ただ、松平宮司の意思だけで合祀に至ったとも言えない。政府がそのレールを敷いた側面もある。合祀名簿の原本となるリスト作成に旧厚生省が関与していた。86年10月、秋季例大祭のあいさつで松平氏はA級戦犯合祀について「国家機関による公的決定」を経たという認識を強調していた。
戦犯の復権 国内外で二重基準
靖国神社の境内に旧軍の資料を展示した「遊就館」がある。先月25日、その前に一つの顕彰碑が建った。極東国際軍事裁判(東京裁判)で、東条英機元首相らA級戦犯の無罪を主張したインドの故パール判事をたたえたものだ。除幕式には在日インド大使館から武官が出席した。
「博士は東京裁判が、勝利に傲る連合国の、今や無力となった敗戦国日本に対する野蛮な復讐の儀式に過ぎないことを看破し、事実誤認に満ちた連合国の訴追には法的根拠が全く缺けていることを論証し」……。碑には南部宮司の賛辞が記されている。
日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で、東京裁判を受諾し、独立を回復した。しかし、戦争責任をめぐり、自民党からは「私は(東京裁判の正当性を)認めない。A級戦犯と言われる方々が、犯罪とか罪という考えは毛頭ない」(中曽根康弘元首相)「東京裁判が正しかったのかを世界にも発信すべきだ」(森岡正宏前厚生労働政務官)など、東京裁判を疑問視する声が後を絶たない。
戦後前期、戦犯は徐々に国内法上の権利や名誉を回復した。50年7月の法務総裁(今の法相)通知は「軍事裁判により刑に処せられた者」について、国内刑法犯と同様の扱いとした。しかし、講和条約発効直後の52年5月に通知は撤回され、戦犯は選挙権などを回復した。
生活待遇の改善も進んだ。53年、当時の左派社会党と右派社会党も賛成し「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が改正され、拘禁中に死亡した戦犯の遺族にも遺族年金などを支給するようになった。
そして「靖国」合祀だ。旧厚生省は援護法の対象となる戦死者のリストを「祭神名票」(71年以降は様式を変更)として、56年から靖国神社に送付し始める。神社はこれをもとに合祀するーーーという制度が86年度まで続いた。「A級戦犯」の名票も66年に神社側に送付された。合祀当時の宮司である松平永芳氏が「国家機関の決定」と強調した根拠はここにある。
援護法改正当時の右派社会党委員長だった河上丈太郎氏の長男、河上民雄元衆院議員は「遺族の生活は大変で、何とかしようという流れだった。改正したからといって、戦争責任がすべて免除されるわけではない。遺族補償と戦犯顕彰がリンクした点に問題がある」と指摘する。
政府は、靖国神社にA級戦犯の祭神名票が送られたのと同じ66年、パール氏に勲一等瑞宝章を授与した。同年10月5日付の毎日新聞によると東京都内のホテルで行われた来日歓迎式で同氏は「人生における最大の名誉です」と、喜びを語っている。政府内部資料の受章理由の欄には「極東国際軍事裁判に際し、被告全員の無罪を主張(した功績)」などと明記されている。
裁判を受諾したとする日本政府が、その裁判に疑問を投げかけ、無罪を求めた判事を顕彰するという二重基準。一方、靖国神社参拝に固執する小泉純一郎首相は6月2日の衆院予算委員会で「(A級戦犯は)戦争犯罪人であると認識している」と答弁した。東京裁判と、A級戦犯をあっさり認めているのだ。
出口見えぬ分祀論 打診と拒否の20年
「A級戦犯として処刑された旧軍の関係者はみな、部下思いだった。現在の難しい状況を受け、合祀を辞退されるお気持ちになるのではないか」
1985年11月、国会近くのキャピトル東急ホテルの一室。当時、中曽根康弘首相のブレーンとして知られた瀬島龍三氏(元大本営参課)は板垣正参院議員(当時)に向かって、こう、切り出した。中曽根氏の意を受け、靖国神社に合祀されている父、征四郎・元陸軍大将らA級戦犯の分祀を打診した瞬間だった。これが、以後20年にわたる分祀論議のスタートとなった。
78年に合祀された東条英機元首祀らA級戦犯14人を祭る対象から外し、首相の靖国神社参拝に対する中国の反発を回避するーー。この発想は85年、中曽根首相が終戦記念日に公式参拝に踏み切り、中国の強い反発を招いた直後に生まれた。この時、中国側は初めて「A級戦犯合祀」を靖国神社問題批判の最大の論拠に据えた。
瀬島氏は分祀の打診にあたり、中曽根氏の名を出さなかった。しかしその後、山崎拓官房副長官(当時)が板垣氏に「合祀取り下げの話はどうなりましたか」と尋ねたことから、板垣氏は政権中枢の意向と確信した。
だが、この試みは結局、他の遺族の了解が得られず不発に終わる。板垣氏によると、東条元首相の遺族は「東京裁判の被告として国家の名誉を守るため裁判を戦った。(分祀に応じると)東京裁判を認めることになる。取り下げは、故人の遺志にかなうこととは思えない」と語っている。板垣氏以外の遺族にも働きかけようという計画も立ち消えとなり、中曽根氏は翌年、参
拝を断念した。
その後も、分祀論は蒸し返される。96年に橋本龍太郎首相が参拝した後も、自民党の加藤紘一幹事長が中曽根氏に「分祀が可能か」と相談。99年には小渕政権下で野中広務官房長官が動いた。
「政治」が表立って分祀を働きかければ、憲法20条の政教分離に触れるおそれがあるため、折衝は、絶えず水面下で行われた。首相参拝をめぐり近隣諸国との関係が悪化した小泉政権下でも、中曽根氏は仕掛けに動いた。同氏側近の島村宣伸農相が入閣前の昨春、靖国神社を訪ね「中曽根氏の意向」であるとして分祀を湯沢貞宮司に提案したが、受け入れられなかった。昨
年12月、今度は首相補佐官だった山崎氏が神社を訪ね、湯沢宮司から代わった南部利昭宮司に「中曽根先生が、天皇陛下の参拝を実現するため分祀を主張されている」と持ち掛け、拒否された。
靖国神社は「ろうそくの火を別のろうそくに移しても、元の火は消えない」という例えで、分祀を否定する。他の神社に霊を分ける「分霊」は可能でも、取り下げ除去する「分祀」はあり得ないというのだ。78年当時の松平永芳宮司がA級戦犯合祀に踏み切った狙いは、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)の否定にあった。
靖国神社は昨年3月、「仮にすべてのご遺族が賛成されるようなことがあるとしても、分祀することはありえません」という見解を公表している。首相が参拝すれば中国と韓国が反発し、近隣外交の行き詰まりの打開を探れば「靖国」の論理がこれを阻むという循環。出口はあるのだろうか。
消えた国家護持法案 折り合わぬ憲法と神社
「社会的儀礼習俗の範囲なら、国が一定の宗教的なものに公金を出しても構わない」。今年3月3日、自民党本部で開かれた憲法改正を議論する小委員会では、憲法20条に定める政教分離原則の緩和を求める意見が相次いだ。神社に奉納する玉ぐし料に公金を充てることを認めようという思惑が背景にあり「首相の靖国神社公式参拝の復活をにらんだ」(党幹部)議論とみられた。
今でこそ首相参拝の是非だが、自民・社会両党対決の70年代前半は違った。そのころ「靖国」問題と言えば、最大テーマは靖国神社・国家護持法案の成否を指した。戦前と同様、靖国神社を国が管理し公費を投入できるよう宗教法人から特殊法人へ改組しようという法案だ。議員立法を目指した自民党は69年から計5回、国会に同法案を提出。74年には強行採決で衆院を通過したものの、野党の猛反発で結局は廃案になった。
当時、反対派の顔としてテレビ出演の機会が多かった旧社会党の元衆院議員、河上民雄氏(80)にはこんな経験がある。69年暮れの衆院選で落選の憂き目を見た直後、理髪店主と思われる戦没者遺族から届いた手紙にこうあった。「毎日、客の髪を刈りながら、あなたにだけは(票を)入れるなと(客に)言ってきた。落選は当然。これで(戦死した)息子に顔向けできる」--。「国に殉じた人の慰霊は、国が責任を持つべきだ」という遺族感情が背景にあった。
自民党もジレンマを抱えていた。憲法と矛盾しない形で靖国神社を公的な機関とする方策として、法案に信者の教化育成などの活動を禁じる条文を挿入した。一方で、靖国神社側の意向をくみ、儀式については「伝統をかえりみつつ行う」とのくだりも加えていた。
しかし、74年5月、「衆院法制局見解」が出て、環境は大きく変化する。法制局は、靖国神社を公的機関にする以上は儀式も「宗教性を帯びない性格」にする必要があるとして「拝礼は(神道方式の)二礼二拍手一礼に拘泥せず自由に」とすることなどを求めた。靖国神社は態度を硬化させた。保革勢力の伯仲もあり、自民党は75年以降、法案提出を見送った。
靖国神社の国家管理・特殊法人化という構想は四半世紀後の99年、まったく別の脈絡から再登場する。野中広務官房長官(当時)が同年8月の定例記者会見で、検討を表明したのだ。
中国の指導部との間に太いパイプを持っていた野中氏の狙いは、第二次世界大戦のA級戦犯の分祀にあった。国の管理下で分祀に踏み切り、アジア諸国の理解を得る形で首相参拝を実現しようとしたのだ。しかし自民党、保守論壇の反発は根強く、立ち消えになった。
「国内外の議論で毎年8月15日、静かな靖国の森が喧騒にあるのは、遺族にとっても決してうれしいことではない。特殊法人化すれば、国で経費をある程度みることもできる」と振り返る野中氏。「靖国」への国の関与をめぐる議論は小泉政権下では首相参拝の是非を問うという形でにぎにぎしく提示され、改憲論議にも影響している。
天皇参拝30年の空白 復活絡めた分祀論も
第二次世界大戦で多くの日本兵や在留邦人が犠牲となったサイパン島(米自治領)。天皇、皇后両陛下は先月27日、戦後初めて同島を慰霊のため訪問された。同じ日、島内の「中部太平洋戦没者の碑」の前で、靖国神社の山口建史・権宮司らが参加し、慰霊祭の神事が行われた。
民間団体が派遣した両陛下の「奉迎団」に、靖国神社からは神官ら数人が私費で参加していた。天皇陛下は翌日、ホテルのロビーで、千羽鶴を持っていた巫女に「ありがとう」と声をかけた。天皇訪問に合わせての別行動は、靖国神社の立場と、皇室への感情を象徴していた。
明治維新では「官軍」の犠牲者を、日清戦争後は外国と戦った戦死者を祭った。誰を祭るかについて、戦前は最終的に天皇が裁可した。靖国神社と皇室は一体だった。
1945年11月、昭和天皇は、太平洋戦争の全戦死者を対象とする「臨時大招魂祭」に参列するため、靖国神社を訪れた。同神社は間もなく連合国軍総司令部(GHQ)の「神道指令」により宗教法人に改組されるが、天皇は1952年から参拝を再開した。昭和天皇による戦後の参拝は8回を数える。
しかし、天皇参拝は75年11月21日を最後に途絶えた。現在の天皇も皇太子時代に4回参拝したが、即位後の参拝はない。
なぜ、途絶えたのか。78年のA級戦犯合祀に配慮したとの指摘が政界には根強い。ただ、最後の天皇参拝と合祀の間には約3年の空白がある。このことから、最後の参拝の前日、75年11月20日の国会審議が響いたとみる向きも多い。同年8月15日の三木武夫首相の参拝は「私人」の資格を強調したため、野党は天皇参拝はどうなのか、と追求。吉国一郎内閣法制局長官は「私人としての行為」であり、公的参拝は「憲法20条(政教分離原則)の重大な問題になる」と答弁した。
この論争が今なお続くのは、天皇参拝を実現するステップとして、A級戦犯の分祀を求める議論が政界にくすぶっているためだ。先月26日、分祀論者の中曽根康弘元首相は「首相も天皇陛下もお参りできるようにしてあげたい。そう考えると、分祀ができれば一番いい」と語った。自民党の武部勤幹事長は「天皇陛下もお参りでき、外国の国家元首も献花できる施設」が望ましいという。天皇参拝は、新たな国立追悼施設構想と絡めて論じられることもある。
天皇と靖国神社の関係は、敗戦で完全に断ち切られたわけではない。同神社は戦後も合祀対象者名を記した上奏簿を随時、宮内庁に提出している。また、春秋の例大祭には天皇の「勅使」が神社に派遣されている。昨年9月に就任した南部利昭宮司によると、靖国神社から霞会館(旧華族会館)を通じて就任を求められた段階ではためらいがあった。しかし、同会館で開かれた昼食会で天皇陛下から「靖国の守りを頼みます」と声をかけられ、決意したのだという。
今年6月、政府は昭和天皇の参拝は「私人としてのお立場でなされた」と説明する答弁書を閣議決定した。ただ憲法の定める「国事行為」以外に明確な公私の別を示す基準はなく、政府関係者は「まったく私的な行為とは言えない」と認める。靖国神社自身、天皇「親拝」を宮内庁に再三要請しているが、それが実現する道筋は見えない。
首相の「8.15」参拝 “封印"は解かれるのか
01年夏。政権発足直後で人気の絶頂にあった小泉純一郎首相は、自民党総裁選の公約通りに8月15日の終戦記念日に靖国神社を参拝するかどうか、決断を迫られていた。当時、自民党の加藤紘一元幹事長は、帰国中の中国の武大偉駐日大使に電話を入れ、「8月13日ではどうか」と感触を探った。政府・与党内には参拝日をずらすことで中国の反発をかわそうと動いた人々がいた。
「8.13」なら収拾可能とみた加藤氏は同11日夜、山崎拓自民党幹事長とともに3時間かけて首相を説得。「YKK」会談を経て首相は譲歩した。その後、首相は「8・15」を避けつつ毎年参拝を続け、中国はどんどん硬化していった。山崎氏は今、01年の調整は「失敗だった」と総括する。
初めて「8・15参拝」に踏み切ったのは、1975年の三木武夫首相。靖国神社国家護持法案をあきらめた自民党は、首相の公式参拝を新たな目標に据えた。それも戦後30年の節目に、参拝日も慣例だった春秋例大祭の前後ではなく、終戦記念日の参拝を求めた。
三木氏はハト派である。その決断に、当時の毎日新聞は「(小派閥出身で政権基盤が弱いため)三木批判の急先ぽうになりかねないタカ派の不満を抑える必要があったようだ」と分析した。ただし三木氏は「憲法違反」という批判をかわすため、移動に公用車を使わず、私的参拝を強調した。当時、官房副長官だった海部俊樹元首相は「三木の政治心情の根底には『議会の子』という自負がありた。憲法違反と言われることはできなかった」と振り返る。
「8・15」参拝は、84年までに福田赴夫、鈴木善幸、中曽根康弘の各首相を含め計7回行われている。そして85年、中曽根氏は「8・15」公式参拝に踏み切った。藤波孝生官房長官の私的懇談会の報告をテコに、宗教色を薄めれば公式参拝であっても合憲、という政府見解を決定。「(公式参拝は)違憲の疑いを否定できない」とする従来の政府見解を転換した。
だが、満を持しての公式参拝は、たちまち外交問題化する。中国外務省スポークスマンは、政府見解が出た同年8月14日、「東条英機ら戦犯も祭られている」と首相参拝を激しく非難した。当時の駐中国大使、中江要介氏(82)は「(本国から)中国の様子を聞かれたこともなく、反対は予期しなかった」と語る。
反発は想像以上だった。当時、中国共産党総書記だった胡耀邦氏から「大変親しい中曽根首相との良好な関係が損なわれるのは残念」というメッセージも内々に伝えられた。中曽根政権は、中国国内保守派が靖国問題を利用して親日派の胡氏を追い落とそうとしているーーとみて対応を検討、翌86年夏、中曽根氏は後藤田正晴官房長官に「外交上の深刻な問題を起こすなら、避けたほうがいい」と伝え、参拝自体を取りやめた。
以後、「8・15」参拝を実施した首相はいない。小泉首相の場台、初めの年は8月15日に固執し、それが阻まれたために翌年以降は常に意表をつくタイミングで参拝を続けた。それゆえにかえって「日付」が焦点となってしまった面もある。そして今夏、郵政民営化法案の参院本会議採決を控え、「衆院解散」「8・15参拝」、というふたつのテーマが現実味を帯び、政界は緊迫の度合いを深めている。
揺れる日本遺族会 参拝の推進役に転機
「皆さんに心配をかけた。私の発言にご批判もあるので、私の進退のことも話してほしい」
先月17日、日本遺族会の全国支部長会議。会議の終わりに、古賀誠会長(元自民党幹事長)が切り出した。幹部が「会長を中心にまとまっていきましょう」と引き取り、会議は終わった。その6日前、非公式に開かれた遺族会幹部会で、古賀会長は小泉純一郎首相の靖国神社参拝について「ありがたいが、英霊が静かに休まることが大事だ」と述べ、参拝自粛を促したと受け取られた。遺族会は首相参拝を求め続けてきただけに、古賀会長の発言には問い合わせが殺到した。支部長会議で、古賀氏は「小泉首相の参拝を継続するためにも、近隣諸国への配慮が必要だ」と釈明し、軌道修正した。
戦没者遺族でつくる日本遺族会は1947年、「日本遺族厚生連盟」として設立された。主な活動は「英霊の顕彰と慰霊」と「遺族の処遇向上や福祉増進」。靖国神社の国家護持法案に取り組んでいた70年代は潤沢な政治資金を誇る日本医師会、農村地帯に「票田」を擁した農業協同組合と並び、自民党の「三大圧力団体」と呼ばれた。
その政治力は、首相の靖国神社への参拝にも影響した。同会顧問の板垣正・元参院議員によると、91年10月の自民党総裁選を制した宮沢喜一氏は、総裁選出馬に際して遺族会の支援を得る見返りに、首相就任の暁には靖国神社を参拝すると約束した。現職首相の参拝は中曽根康弘氏が85年に実施して以来途絶え、復活は遺族会の悲願だった。
宮沢政権も終幕に近づいた93年4月、板垣氏が首相官邸を訪ねると、宮沢氏は2人きりの席で「板垣さん、約束は守りましたよ」と語った。関係者によると、天皇訪中後の92年11月ごろひそかに参拝したという。しかし、靖国神社にそれを示す記録はない。
小泉首相の靖国参拝にしても、初めから「遺族会対策」の色彩が濃かった。01年の自民党総裁選のさなか、首相は遺族会の森田次夫副会長に「私は8月15日に絶対参拝します。遺族会のみなさんに伝えてほしい」と電話した。当時、橋本龍太郎元首相を擁立した野中広務元官房長官は「遺族会は橋本さんの一番の支持基盤だった。8月15日参拝を小泉さんが言い出し、『あー、負けた』と直感した」と振り返る。
遺族会の会員は現在、約100万世帯。運動を担った戦没者の妻や兄弟が高齢化し、遺児や孫へ世代交代を迫られる。昨年7月の参院選では比例代表で水落敏栄氏(堀内派)を当選させたが、得票は17万票余りで、足腰の衰えは否めない。
「遺族の処遇改善といっても、関心は低くなっている。英霊顕彰をもっと平和運動的なものに変えるか、会としても悩んでいる」と、遺族会幹部。会長を務めた橋本元首相は、靖国神社への「A級戦犯」合祀について「会員の間に分祀すべきだという意見はないが、戦犯合祀が子供や夫、父親の静かな眠りを妨げるということに、気持ちのいい思いはしていない」と語る。
殉職自衛官合祀 護国神社で慣例に
防衛大学校(神奈川県横須賀市)には、「東京行進」などと呼ばれる毎年12月恒例の学生による行事がある。三浦半島にある同大から東京都千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑まで延々68キロを夜通し歩く、学生自主参加の催しだ。心身鍛錬や学生間の親ぼくが目的だが、実は行進には有志による「追加」部分がある。希望者は千鳥ケ淵から東京・九段の靖国神社に向かい、制服に、着替えて参拝するのだ。経験者は「長い距離を歩き、自然に『靖国』を意識した」と言う。
戦後、靖国神社に自衛隊員が合祀されたことはない。先の大戦後、日本は戦争をしておらず、殉職自衛官はいても「戦死」ではないためだ。
ただ、殉職自衛官を護国神社に合祀する慣例は、西日本を中心に続いている。退職自衛官で作る社団法人「隊友会」が、殉職者の情報を故郷の護国神社に提供し、取り次いでいる。同会によると02年度末現在、熊本県86柱、鹿児島県82柱など16府県の護国神社に、訓練中の事故などで殉職した自衛官計553柱が合祀されている。73年、山口県護国神社に祭られた殉職自衛官の妻が、国(自衛隊)などを相手取り、憲法20条の定める政教分離原則に反するとして、提訴。88年の最高裁判決は、「隊友会の単独の行為」と認定し、原告が敗訴した。
現在、全国に52ある護国神社は、明治維新の戦没者を慰霊するため全国各地に建てられた招魂社などが起源だ。政府は日露戦争後、「祭神は靖国神社に合祀の者に限る」と通知。名称も1939年、内務省令で「護国神社」に統一し、実質的に靖国神社の地方組織に組み込んだ。
それぞれが独立の宗教法人として分離した戦後も、靖国神社に戦没者が合祀されると、それに従い各地の護国神社にも合祀されるーーという関係は続いている。両者の深い結びつきを示すように、「全国護国神社会」の事務局は、靖国神社内にある。
ただ、護国神社における「戦死者」と、「殉職自衛官」の区別は、ともすれば微妙になる。今年4月5日、甲府市内の山梨県護国神社。境内の本殿脇にある社で、殉職自衛宮の慰霊祭が行われ、退職自衛官や遺族らが玉ぐしをささげた。同神社は99年から殉職自衛官を祭っているが、「靖国」には祭られていないことなどから、本殿への合祀は見送られている。熊本県護国神社は殉職自衛官を本殿に祭るが、名前などを記した霊璽簿は「戦死者」と区別している。全国護国神社会事務局は「通例は、戦死者と殉職自衛官は別に祭る。祭り方は各神社の判断」と説明する。
政府は03年12月、イラク南部サマワヘの陸上自衛隊派遣を決定した。それに先立ち同年、防衛庁は東京・市ケ谷の同庁内に殉職自衛官を慰霊する「メモリアル・ゾーン」(慰霊碑地区)を整備した。国際協力をめぐり自衛隊の役割が急速に変化する一方で、不測の事態が起きた場台、国がどう、弔意を表すかの議論は必ずしも尽くされていない。
熊本県護国神社に祭られた自衛宮の遺族は「息子は自衛官を志願し、任務に就き、事故死したが、国に尽くしたのだから、靖国神社にも祭っていただきたい」と語る。今後、殉織自衛官をめぐり「靖国合祀」議論が起きる余地は残されている。
もう一つの“分祀”問題 アジアの傷跡 今も
鎮魂の社・靖国神社(東京・九段)が、その日は騒然としていた。先月14日、右翼の街宣車が集まり、警察が警備する中、2台のバスが神社の手前で制止された。乗っていたのは台湾人遺族ら約60人。先の大戦で戦死し靖国に合祀された祖先の霊を迎え入れる伝統儀式を、神社前で執り行うのが目的だった。
「安全のため」と通行を阻む警察に、遺族らは「返せ!
我が祖霊」と日本語のボードを掲げ約1時間半粘った。が、結局儀式をあきらめ、バスをUターンさせた。台湾先住民で民族衣装姿のブヌン族、チャン・イシババナルさん(52)は訴えた。「遺族は祖先の霊の帰りを待ってる。日本人が祭るのは間違いだ」
靖国神社によると、合祀者約247万人のうち、約2万70OO人が台湾籍、約2万1000人が朝鮮半島出身で旧日本軍に徴用された軍人・軍属だ。靖国神社は軍人・軍属ら「国家のための戦いで死んだ人」であれば、国籍を問わず「等しくお祭りする」姿勢。戦後、旧日本軍資料を引き継いだ旧厚生省が、神社側に日本人以外の戦死者の情報も提供し、合祀された。台湾人や韓国人の遺族には「被害者と加害者を一緒に祭るべきでない」などとして「合祀取り下げ」を申し入れた人もいるが、神社側は応じていない。
父が靖国神社に合祀された韓国の李煕子さん(62)は02年、合祀取り下げを求める裁判で「靖国側は『すべての人々が合祀を誇りに思っている』と言うが、私はまったく誇りに思ってない」と陳述している。靖国神社は今月、毎日新聞の取材に「『すべての人』とは言ってないはずだが、ほとんどの人が合祀を誇りに思われているのは事実」と回答した。死者をめぐる両者の意識はすれ違う。
A級戦犯とは異なるもう一つの「分祀」問題。こちらの方には政界も関心が薄い。1970年代後半から80年代にかけて、旧社会党議員らが国会で取り上げたが、政府の介入を求めれば憲法違反を促すという側面があり、追及は尻すぼみに終わった。永田町はその後もこの問題をほとんど顧みなかった。当時質問に立った同党の野田哲・元参院議員(79)は「票にならんから…」と振り返る。
小泉純一郎首相の靖国参拝に反発しているのは中国や韓国だけではない。フィリピンのシアゾン大使は毎日新聞の取材に対
し、「靖国神社は日本軍国主義政策の象徴と考えられ、A級戦犯が合祀されている」と指摘した上で、参拝は「理解できないし、中止すべきである」と回答。「中韓両国だけでなく、フィリピンの人々にとっても(靖国参拝は)問題だと受け止められている」との考えを示した。
橋本龍太郎元首相も、靖国問題のすそ野の広さを思い知らされたことがあるという。97年に、首相としてシンガポールを訪問した際のこと、同国政府は橋本氏に対し旧日本軍に虐殺された市民の慰霊碑である「血債の塔」への参拝を求めた。橋本氏が併せて、同国内にある日本人BC級戦犯墓地にも献花したいと申し出ると、同国政府は一転、「この話はなかったことに」と応じ、一切を白紙に戻したという。戦後60年たった今もなお残るアジアの傷跡。首相の靖国参拝問題を、中韓両国との政治ゲームだと割り切ることはできない。
国立追悼施設構想 大戦の総括
重い課題
03年3月13日夜。小泉純一郎首相は官邸に福田康夫官房長官(当時)の私的懇談会「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」の今井敬座長らメンバーを招き、慰労の食事会を開いた。同会は02年12月、首相の靖国神社参拝でこじれた対外関係の修復を念頭に、靖国神社とは別の無宗教の国立追悼施設の設置を提言していた。しかし、新施設の意義を訴えようとした出席者は拍子抜けした。「新施設のことを持ち出すと、首相は露骨に話題をそらそうとした」(出席者)のだ。
「無名戦士の墓」で知られる米アーリントン国立墓地のように、多くの国には、戦争犠牲者を追悼する施設がある。しかし、日本には普遍的な国立の追悼施設はない。戦前、陸海軍省と内務省が所管した靖国神社が戦後も宗教法人として存続し、そこへ首相が参拝するたびに内外世論が反応する展開が続いている。
国立の追悼施設を作る構想は、約20年前に芽生えていた。85年の中曽根康弘首相の公式参拝に道を開いた藤波孝生官房長官の私的勉強会で、その必要性を指摘する声が出ていた。しかし、具体的な議論は、小泉政権下で始まった。01年8月13日、小泉首相は靖国神社参拝に際し「内外の人々がわだかまりなく追悼の誠をささげるにはどのようにすればよいか、議論をする必要がある」という「首相の談話」を発表した。政府関係者によると、このくだりは「当時の福田長官と古川貞二郎官房副長官が発案し、首相も受け入れた」という。
しかし、「追悼・平和」懇談会の提言は事実上、黙殺された。靖国神社の地位が脅かされることを警戒した自民党や「日本遺族会」などから反対論が噴出したのだ。先の大戦における海外戦死者のうち、身元不明の軍人・軍属などの遺骨を納める国立の「千鳥ケ淵戦没者墓苑」が完成した1959年当時も、靖国神社との競合を懸念する意見が国会で出ていた。
04年からの陸上自衛隊イラク派遣が、追悼施設の検討にブレーキをかけた、との指摘もある。懇談会の提言は戦死者だけでなく、国際平和活動による死者も追悼対象に含める構想だった。メンバーだった御厨貴東大教授は「客観的には(追悼施設を)そのために用意していると、解釈されてしまう。タイミングが悪かった」と振り返る。
靖国参拝問題が焦点だった先月20日の日韓首脳会談で、追悼施設の検討を改めて確認した小泉首相は、同行記者団に「国内の状況を見ながら検討する。(他国から)言われて考えるものじゃないんですよ」と語った。世論の動向を見極めるというわけ
だ。毎日新聞が今月実施した世論調査で、追悼施設に「賛成」は63%に達した。
靖国神社は毎日新聞の求めに対し、追悼施設について22日、「その是非を論じることは致しません。ただ、追悼施設については違和感を覚えます」との見解を寄せた。「現在、当神社には年間推定500万人の参拝者があります。かの米国を代表するアーリントン国立墓地が年間約400万人の参拝者があると聞いていますが、その数から考えても当神社が日本を代表する中心的慰霊施設(中略)と思います」と、国民への定着を自負してみせた。
国は悲惨な戦争の犠牲者に対する弔意をどのように表現すべきか。この問いに誠実に向き合おうとするほど、近・現代、とりわけ昭和の戦争をどう総括するか、という、重い課題が投げ返される。