昭和天皇    中曽根書簡    小泉発言

                                    根深い中国の反日感情

                           「靖国」と政治

毎日新聞 2005/6/20

「靖国」とは?

由来・祭られている人
 「官軍」「戦死者」が対象

 靖国神社の前身は、1869年6月、明治維新の志士と戊辰戦争の官軍戦没者の慰霊のため東京・九段に建てられた「東京招魂社」だ。設立の中心となったのは旧陸軍の創立者として知られる大村益次郎で、今も九段の境内に銅像が立つ。「靖国神社」と改称したのは1879年。「靖国」は「国を靖(安)らかにする」ことを意味し、天皇の忠臣を祭る「別格官幣社」として陸海軍、内務3省が管理した。最後の内戦となった「西南戦争」(1877年)で明治政府側に多数の死者が出、国が戦没者慰霊を管理する必要が強まった背景があったとみられる。戦前は神職は、陸海軍省が任免、祭祀費も国が負担した。

 靖国神社によれば「祭神」は、戦死や戦傷病死した軍人・軍属やそれに準じる「国家のための戦いで死んだ人」。当初は「賊軍と戦って死んだ人」を祭っていたが、1894年の日清戦争を契機に「外国と戦って死んだ人」を祭る性格となった。第二次世界大戦敗戦まで「死ねば靖国の神になる」という言葉に象徴されるように、国家神道の中心的支柱とされた。
 祭る対象に加えることを「合祀」と言い、戦前は陸海軍省がその対象を判断した。1942年ごろに内規を作成し、陸海軍省に置いた審査委員会が部隊長らの上申に基づき審査し、最終的に天皇が裁可した。
 神社の運営は戦後、大きく変化する。45年12月、国家神道を廃止するGHQ(連合国軍総司令部)の「神道指令」により、国の管理から離れ、宗教法人となった(翌46年に登記が完了)。指令が出る直前の45年11月、神社の存続が危ぶまれた事情もあり、満州事変から太平洋戦争までの死者を対象者不詳のまま一斉に招魂の儀式を行う「臨時大招魂祭」が実施され、昭和天皇や幣原喜重郎首相も参拝した。講和条約発効後は未合祀者を合祀する運動が起き、56年に厚生省(現厚生労働省)引揚援護局が各都道府県に合祀事務に協力するよう通知。厚生省が未合祀者名簿を「祭神名票」として神社に送り、神社が合祀を決めた。その後も遺族の申し出などにより、ほぼ毎年合祀を続けている。昨年10月現在の合祀者数は246万6532人。神社の運営は宮司や、信者らの代表で作る「崇敬者総代会」が決める。
 宮司は旧華族の子孫から選ばれることが多く、今の宮司は岩手・南部藩で知られる南部家の45代当主で、大手広告代理店勤務の経験もある南部利昭さん(69)。戦没者遺族らによる奉納金などで神社を運営している。


「ひめゆり」「対馬丸」犠牲者も
  西郷隆盛、乃木将軍ら含まれず

 「ひめゆり学徒隊」や学童疎開船「対馬丸」の犠牲学童は祭られるが、西郷隆盛や乃木希典は対象外ーー。靖国神社の合祀基準は神社の性格を探るうえで、重要な意味合いを持っている。神社は合祀にあたり、まず招魂式を行う。戦死者の死亡の時期、場所、所属階級、名前などを記した「霊璽簿」に魂を呼び寄せる儀式で、その後、本殿の最奥の内陣に霊璽簿から魂を納める儀式を行い、合祀祭は終わる。霊璽簿は現在千数百冊あり、本殿に近い奉安殿に保管される。
 軍人だけでなく、女性や児童を含む民間人も合祀されている。女性は約5万7000柱で、祭神第1号は戊辰戦争に男装で従軍し戦死したとされる秋田の山城ミヨだ。沖縄戦で負傷兵の看護にあたり犠牲になった「ひめゆり学徒隊」の女子学生や、従軍看護婦も対象だ。民間人では、太平洋戦争中、米潜水艦に撃沈された「対馬丸」で犠牲になった沖縄の学童たちも合祀されている。一方で、東京大空襲や広島、長崎原爆の犠牲者は含まれていない。
 明治維新の志士も吉田松陰、坂本龍馬らが「国事殉難者」として合祀されている一方で、西郷隆盛は西南戦争の「賊軍」と位置付けられ、対象外。戊辰戦争の幕府側戦死者も同様に合祀されず、神社は「官軍の戦没者を祭る施設として創建されたのだから今後も(西郷の合祀は)あり得ない」(南部宮司)と言っている。日露戦争の指揮を執り、明治天皇の死に殉じた乃木希典将軍も「戦死」に該当しないため、合祀されていない。
 靖国神社問題に詳しい赤沢史朗立命館大教授は「合祀の基準は公表されていないため、全体像は知りえない。首尾一貫しているかどうかはかなり疑問に思う」と指摘する。
 一方、旧日本軍の軍人・軍属として召集され戦死した台湾、韓国人も神社には合祀されており、遺族が日本政府や神社に合祀取り下げを求める動きが出ている。

A級戦犯
 14人を78年秋に合祀

 A級戦犯とは、極東国際軍事裁判(東京裁判)で、侵略戦争を計画・遂行したとして「平和に対する罪」などで起訴された28人。死亡や精神障害で免訴された3人を除く25人全員が48年に有罪判決を受け、日米開戦に踏み切った東条英機元首相ら7人が処刑された。靖国神社は処刑された7人に、公判や服役中に死亡した7人を加えた14人を合祀している。
 日本は51年、連合国と締結したサンフランシスコ講和条約で東京裁判を「受諾」(同条約第11条)し、独立を回復した。それ以降、戦犯や遺族の名誉回復、救済措置が検討され、政府は52年、A級を含むすべての戦犯の赦免・減刑を旧連合国に勧告。
A級戦犯は56年までに、捕虜や民間人に対する戦争犯罪で連合国の裁判にかけられたBC級戦犯は58年までに、釈放された。
 戦犯が靖国神社に祭られた初めはBC級戦犯で、厚生省が「祭神名票」としてまとめた名簿をもとに、59年から合祀を始めた。A級戦犯は66年に14人が名票に載り、神社側に送付。70年に「崇敬者総代会」に諮り、合祀が了承されたが、時期は宮司に一任。78年秋の例大祭前日の10月17日に当時の松平永芳宮司が合祀に踏み切り、翌79年4月に報道によって公になった。
 「祭神名票」は「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の対象とした戦没者が基本だった。同法は53年の改正で戦犯の遺族も対象となり、これが戦犯合祀への環境を整えたと言える。「戦没者以外」を祭るのは例外的なケースだが、靖国神社側は戦犯死亡者は国家に殉じ命を落とした「昭和殉難者」であり、戦没者と同じ扱いと説明している。

◆A級戦犯として起訴された28人◆
【絞首刑】
▼東条英機 陸軍大将、首相、陸相
▼板垣征四郎 陸軍大将、陸相、支那派遣軍総参謀長
▼土肥原賢二 陸軍大将、陸軍航空総監
▼木村兵太郎 陸軍大将、ビルマ方面軍司令官
▼松井石根 陸軍大将、上海派遣軍司令官
▼武藤章 陸軍中将、陸軍省軍務局長
▼広田弘毅 首相、外相、ソ連大使

【終身禁固】
 荒木貞夫 陸軍大将、陸相
 橋本欣五郎 陸軍大佐
 畑俊六 陸軍元帥、陸相、支那派遣軍総司令官
▼平沼騏一郎 首相、枢密院議長
 星野直樹 満州国総務長官
 賀屋興宣 蔵相、北支那開発会社総裁
 木戸幸一 内相
▼小磯国昭 陸軍大将、首相、朝鮮総督
 南次郎 陸軍大将、陸相、朝鮮総督
 岡敬純 海軍中将、海軍省軍務局長
 大島浩 陸軍中将、ドイツ大使
 佐藤賢了 陸軍中将、陸軍省軍務局長
 嶋田繁太郎 海軍大将、海相、軍令部総長
▼白鳥敏夫 イタリア大使
 鈴木貞一 陸軍中将、企画院総裁
▼梅津美治郎 陸軍大将、関東軍司令官、参謀総長

【禁固20年】
▼東郷茂徳 外相、ドイツ大使

【禁固7年】
 重光葵 ソ連大使、外相

【判決前に死亡】
▼松岡洋右 外相
▼永野修身 海軍元帥

【精神鑑定の結果免訴】
 大川周明 思想家

(注)▼は靖国神社に合祀された戦犯

歴代首相の参拝
 三木、中曽根内閣が転機

 戦後の首相による参拝は、これまで15人延べ64回にのぼる。憲法は「国およびその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」(20条)と定めているため、首相参拝は憲法の「政教分離原則」に抵触するかが議論されてきた。
 現憲法下で最初に参拝したのは51年の吉田茂首相。以来、4月と10月の例大祭を中心に参拝する慣行が続いた。
 転機となったのは、75年の三木武夫首相による終戦記念日参拝だ。自民党は73年まで靖国神社の国家による管理を可能にする法案を5度にわたり提案したが廃案となり、「8・15参拝」にはその埋め合わせという側面があった。三木首相は「玉ぐし料は公費から支出しない」など4原則を示して私的参拝を強調したが、次の福田赳夫首相から公・私の区別はあえてぼかされる。
 80年の終戦記念日には鈴木善幸首相と閣僚による集団参拝が行われ、政教分離論議が再燃。80年11月、公式参拝について「違憲の疑いを否定できない」とする政府統一見解が示された。
 公式参拝の正面突破を図ったのが「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根康弘首相だ。藤波孝生官房長官の私的懇談会の報告をテコに85年、終戦記念日に首相の資格で公式参拝。宗教色を薄めれば「公式」でも合憲との見解を打ち出し、@神道方式(二礼二拍手一礼)でなく、本殿で一礼A玉ぐし料は出さず供花料を公費で出すーー方式を取った。
 しかし中国や韓国が強く反発。翌86年、後藤田正晴官房長官の談話という形で、中曽根首相は公式参拝取りやめを表明した。以後、小泉首相にいたるまでは、極秘に参拝した宮沢喜一首相と、誕生日に参拝した橋本龍太郎首相の例があるのみ。
 一方、昭和天皇は戦後8回靖国神社に参拝したが,75年以降は途絶えた。A級戦犯合祀に配慮したとの見方もある。現在の天皇は即位後、参拝していない。

福岡地裁「違憲」で私的参拝を明確化 小泉首相

 首相の靖国参拝や公費支出の是非は司法の場でも争われた。91年に仙台高裁が「首相の資格での参拝は畏敬崇拝の意を表す宗教的行為」として初の違憲判断を下した。首相参拝とケースは異なるが、97年「愛媛玉ぐし料訴訟」で最高裁は靖国神社への県費支出を違憲と判断。政教分離原則で、最高裁としては初の違憲判断を下した。
 小泉首相の01年の参拝に対しても主な訴訟が8件あり、福岡地裁が昨年4月「憲法で禁止される宗教的活動に当たる」と違憲判断を示した。首相はそれまで参拝について公・私の別を明確にしなかったが、判決を受けて「私的参拝」と表明。今年6月14日に閣議決定した政府答弁書でも参拝は「私人としての立場」と明確にしている。

靖国参拝と政教分離に関する主な政府見解

■三木武夫内閣 75年
 公式の政府見解はないが、三木首相は私人としての参拝を強調。参拝方式は@玉ぐし料は公費を支出せずA記帳に公職をつけずB公用車を使用せずC公職者は随行せず
■福田赴夫内閣 78年10月
 私人の参拝は自由。@記帳で肩書を付すのは慣例A公用車使用は警備上の都合B閣僚は(随行ではなく)気持ちを同じくした者の同行であり、こうした参拝方法ならば、私人の立場を離れたものとはいえない。玉ぐし料の公費支出などの事情がない限り、私人の立場での行動と見るべきだ(安倍晋太郎官房長官の国会答弁)
■鈴木善幸内閣 80年11月
 首相や閣僚の資格での参拝は違憲の疑いをなお否定できない。閣僚としての資格で参拝することは差し控えることが一貫した方針(宮沢喜一官房長官の国会での説明)
■中曽根康弘内閣 85年8月
 首相の資格で公式参拝する。目的は戦没者の追悼で、宗教的意義がないことを方式などの面で客観的に明らかにし、靖国神社を援助する結果にならないよう十分配慮すれば、憲法が禁止する宗教的活動に該当しない。参拝方式は(神道形式でなく)本殿で一礼(藤波孝生官房長官談話)
■中曽根康弘内閣 86年8月
 公式参拝は、A級戦犯の合祀もあり、近隣諸国国民に批判を生んだ。国際関係を重視し、近隣諸国の国民感情にも適切に配慮しなければならない。首相の8月15日の公式参拝は差し控える。今回の措置が公式参拝自体を否定しようとするものではない(後藤田正晴官房長官談話)


日本経済新聞 2005/5/23

どう考えますか「靖国」 
 日本の針路今こそ議論を
     本杜コラムニスト 田勢康弘


 近所にある女子高校の生徒たちの明るい声を耳にしながら大鳥居をくぐって巨大な大村益次郎の銅像にさしかかる。ここが東京都心だろうかと不思議に思うほどのあふれる緑と静寂の中に身を置くことになる。ヒノキ造りの門の向こうに見える拝殿。境内のあちこちに植えられた「同期の桜」。「陸士51期生会」と書かれた苔むした山桜の太い幹が、戦後六十年の歳月を物語る。

 靖国神社を訪れるのは年に二、三回だ。伊勢神宮や明治神宮ほどではないが、ここもまた訪れるたびに自分が日本人であることを諭してくれるような、どこか遺伝子を刺激されるような思いにかられる。戦死はしなかったが、早世した職業軍人の息子のせいか、それとも「靖国」という言葉の響きにからだが反応する最後の世代のせいなのか。
 「オ父サンハ大東亜戦争ノ勝利ノ為昭和二十年ノ春特別攻撃隊第二十三振武隊隊長トシテ日本男子ノ最大ノ誉ヲ得テ立派ナ戦果ノ下二散リマス(略)満智子モ智子モ克(よ)クオ母サンノ謂(い)ヒ付ヲ守ツテ立派ナ人トナリナサイ弟ノ芳則ヲ援(たす)ケテ軍人ノ遺族トシテ立派二成人シテ下サイ父ヨリ」(同年4月1日沖縄で戦死)の遺書が、拝殿前に掲げてある。身じろぎせず読みふける人の姿が続く。
 小泉純一郎首相はことしも靖国神杜に参拝するだろうか。毎年参拝することを半ば公約のようにしてきた首相が、参拝を見送れば中国の圧力に屈したと批判されるだろう。首相の性格からしてどこかで突然、参拝するような気がするが、そうなれば、中国はどう反応するのだろうか。1年4カ月後、ポスト小泉で登場する新首相は、靖国へ行くのか行かないのか。首相になる人の考え次第というのでは情けない。近隣諸国が怒るから、という視点だけで靖国問題を論じるのではなく、日本として靖国神杜に首相が参拝することをどう考えるのか、という視点、すなわち日本の針路にかかわる国内問題としてとらえ直さなければならない。

 そもそもは政治と宗教との関係で靖国問題は論じられてきた。憲法20条第3項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」と定めている。キリスト教団体など他の宗教団体などが強く反対してきたが、最近ではもっぱら、A級戦犯の合祀が議論の軸になってきた。首相就任前に小泉氏が靖国参拝について語ったりしたという記憶は筆者にはまったくない。こっそりと参拝していたのからもしれないが、いまのような確固たる信念は以前から持っていたのだろうか。時代は変わり、国や社会が置かれている状況も変わる。したがって、かつてこうだったから、これからも同じようでなければならない、などと棒をのんだようなことを言うつもりはない。しかしながら、どういう選択をするにしろ、議論しないまま、当面の危機を回避するというやり方がもっとも良くない。戦後60年の間、いったいわれわれは何をしてきたのだろうか。大事なことを議論して、その結果、進むべき道を選択するという作業を怠ってきた。すべて先送りで、まあまあと過ごしてきたのではないだろうか。
 それにしても首相の言葉はいささかおかしい。「戦没者の追悼でどのような仕方がいいかは、他の国が干渉すべきでない」という発言は、中国がなぜ怒っているかをあえて無視したものとしか映らない。「その罪を憎んでその人を憎まず」というのは少なくとも中国から見た"加害者"の日本が言うべきことではない。「日本では悪い人たちも亡くなるとみんな仏様になる。文化の違いだ。死者をそれほど選別しなければなろないのだろうか」という発言も誤解を招く。靖国神社はだれもがまつられているわけではない。反政府軍で戦った西南の役の西郷軍などはまつられていない。首相の発言には史実を無視したようなものが多いが、「胸がすっとした」と受け止める国民も多いのだ。深く感情に根差したところにこの問題の複雑さがある。

 靖国神社は戦前、陸海軍共管、すなわち国の神社であった。戦没者が単なる犠牲者ではなく国家すなわち、天皇のために身をささげた英霊になり、遺族は「靖国の母、靖国の妻」という言葉のようにあがめ奉られた。戦争遂行の上での重要な機能を果たしていた。戦後は国家管理から離れ、東京都認可の宗教法人となったが、そのことが皮肉にも政治が介入できない存在にしてしまった。
 A級戦犯ら14人を合祀したのは当時の松平永芳宮司(松平春嶽の孫)で、合祀の理由について「サンフランシスコ平和条約前の戦闘状態で行われた東京裁判は軍事裁判であり、そこで処刑された人々は戦場で亡くなった方と同じ」と説明している。
 靖国神社にまつられている太平洋戦争の英霊は約210万柱。この騒ぎをどのような思いで見守り、日本の将来をどう考えているだろうか。


NS MailMagazine"Boomerang" #90 2001/07/25
 
http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/cmnt/shimizu/2001/0816num90.html  

 『昭和天皇は靖国へ行かなくなった』 コメンテーター・清水建宇
 
◆ 昭和天皇は靖国へ行かなくなった ◆

   靖国神社に合祀されているA級戦犯について、小泉首相は7月11日の7党首討論会の席上、こう述べました。「日本人の国民感情として、亡くなるとすべて仏様になる。A級戦犯は現世で死刑という刑罰を受けている。死者をそれほど選別しなければならないのか」と。小泉首相のこの問いを考えるヒントとして、二つの事例を紹介したいと思います。    昭和の最後の2年間、私は宮内庁を担当していました。昭和天皇について知りたいことはたくさんありましたが、その一つは、なぜ1975年11月を最後に靖国神社へ行かなくなったのか、ということです。この問いに答えられる人は天皇の側近である徳川義寛・侍従長しかいません。何日も朝駆けし、出勤途中を待ちかまえて尋ねました。徳川侍従長は口が堅く、ほとんど無言の行でしたが、A級戦犯合祀と関係があるらしいこと、徳川侍従長も合祀に批判的だったことは分かりました。

   後に侍従長を退いてから同僚の記者が取材した証言録によると、以下のような経緯でした。

――靖国神社の合祀者名簿は例年、10月に神社が出してくるが、1978年は遅れて11月に出してきて、A級戦犯を合祀したいという。その10年ほど前に総代会はA級戦犯を合祀する方針を決めていたが、旧皇族である宮司の筑波藤麿さんが先延ばししてきたのに、宮司が代わると間もなく合祀を実施した。徳川氏は「松岡洋右さんのように軍人でもなく病死した人も合祀するのはおかしい」などと問いただしたが、押し切られた。
 
 「靖国神社は元来、国を安らかにするために奮戦して亡くなった人をまつるはずなのであって、国を危うきに至らしめたとされた人も一緒に合祀するのは異論も出るでしょう」「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と、徳川氏は語っています。昭和天皇は、戦後も1952年を初めとして数年おきに靖国神社へ参拝していましたが、事実として、A級戦犯の合祀後は行っていません。

   もう一つのヒントとなる事例は、米国のアーリントン国立墓地です。ここでは1998年に元スイス大使の故ラリー・ローレンスの遺体が掘り起こされました。軍歴を偽っていたことが発覚したためです。最近では6月に処刑されたオクラホマ連邦ビル爆破事件のマクベイ死刑囚が軍歴上、遺灰を収める資格があることがわかり、米議会は死刑囚を埋葬の対象から除外する法律をつくりました。このエピソードを報じた記事は、「追悼の対象をだれにするかは、追悼の意味を左右する」と結ばれています。
 
 小泉首相は「死者をそれほど選別しなければいけないのか」と言いますが、私は「むしろ選別するのが当然ではないか」と思います。
   最近の政治家の中では、1999年に当時の野中広務官房長官が「だれかが戦争責任を負わなくてはならない」として、A級戦犯だけを他の施設に移し、宗教を問わずに慰霊できるように靖国神社を特殊法人化する道を模索しました。野中さんは、小泉首相よりもよほど深く、この問題を考えたと言うべきでしょう。
 
 読者の皆さんは、どう思われますか?。ご意見をお待ちしています。     


「不敬」であるのは誰か?

http://deadletter.hmc5.com/blog/archives/000090.html

昭和天皇が靖国への参拝をしなくなった理由を知っているだろうか。ちなみに僕が知っていたのは、A級戦犯が合祀された事がきっかけだということだけだ。

僕のそのことについての理解は、天皇による、国内、諸外国に政治問題を引き起こすことを怖れての、自主規制、或いは宮内庁など周囲の人間が進言を行った上での自粛なのではないか、ということだった。ところがどうもそうではなく、天皇自身がA級戦犯合祀に反発した為に参拝が中止された、という話らしい。

ちなみに「昭和天皇独白録」なるものをさらっと読んでみたのだけれども、意外にも「天皇は単なる神輿ではなかった」というのが僕の印象だ。少なくとも天皇が戦時指導者たちの主張にただ振り回されていただけの人物、というようには思えなかった。彼は時に戦時指導者、後にA級戦犯とされる人たちに対して、国の行く末を誤らせたと厳しい批判を行っている(もちろん彼らの暴走を止められなかったことについても、全ての責任は自分にあるとして終戦直後はそれを免れるつもりもなかったようだ)。彼はある意味でナショナリストだったのだ。

従って天皇は基本的にA級戦犯合祀には反対だった、というわけだ。では合祀を強力に後押ししたのは誰なのか。歴史学者の秦郁彦は「厚生省引揚援護局」の旧軍人グループと、靖国神社宮司松平永芳の役割が大きかった、と主張している。

「引揚援護局」は形式上は厚生省の一部局であったのだけれども、局長のみがキャリアで(しかも腰掛け的存在)、実質面を旧軍人グループ、しかも東京裁判史観否定派のイデオロギーを代弁する勢力に牛耳られているような部署であったそうだ。彼らは1959年のBC級戦犯の合祀がすんなりと通ってしまったことに味を占め、A級戦犯も、と意気込んだのだ。

一応ここで靖国への合祀までの事務的な流れを簡単に説明しておく。(1)厚生省(引揚援護局)が、保管されている戦没者カードと靖国神社による「合祀基準」と照合・選別して所定の「祭神名票」に書きこみを行い、(2)それを靖国神社へ送付する。(3)神社側は「霊璽簿」にそれを写し、さらに「索引簿」を作成した上で遺族に通知する。(4)年2回の例大祭の前夜に合祀の儀式を行う…という流れだ。

注目すべきなのはこの中の「合祀基準」だ。これは、戦前では陸軍が、戦後は靖国神社が審査し、天皇に裁可を貰い決定に至る、という形を取っていた。要するにA級戦犯合祀を行うには天皇の了解を取り付けなければならなかったということだ。

1966年引揚援護局はA級戦犯の「祭神票」を靖国神社に送り付けた。しかしこの当時の宮司、筑波藤麿は、天皇家や宮内庁内の空気を知っていたが為にそれに配慮し合祀を差し止めた。事態が急変したのは、その筑波宮司が急逝し、後任の宮司に東京裁判否定派の松平永芳が就いてからだった。1978年松平は宮司預かりとなっていたA級戦犯合祀を行うことを決意し、合祀者名簿を天皇のもとへ持って行く。それを受け取った徳川侍従次長は、天皇の意向に基づき相当の憂慮を表明したが、松平はそれを無視し、独断で合祀を強行してしまう。結果、昭和天皇はこれに反発し、以降靖国参拝は取り止めとなってしまい、今に至るというわけだ。

この秦の主張が正しければ、天皇が靖国参拝を行わないのは、国内、諸外国の情勢に配慮した結果ではなく、ナショナリストであるが故、愚かな戦時指導者たちの罪と自らの責任の自覚故の自主的な決断であり、東京裁判史観批判派はそれを無視した「不敬」の徒、ということになる。天皇は靖国に参拝「出来ない」のではない。東京裁判史観批判派に反発して「しない」だけなのだ。

ちなみに現在、A級戦犯のような単なる「氏子」」を擁護し、神道における「最高祭司」たる天皇の決断を批判する、「不敬」の輩は確実に増加しつつある。小泉純一郎は参拝しないことを「死者にムチ打つ行為であり、日本人には馴染まない」として間接的批判を、石原慎太郎に至っては「天皇は参拝すべき」と直接的批判を行っている。「日本=天皇」という保守派の図式からすればなぜ、こういう人たちが「保守派」を名乗れるのか、名乗ることを許されているのか、僕には想像もつかないのだけれども。


靖国神社公式参拝関係年表 

http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/yasukuni/nenpyo_2.htm       

昭和   主 要 な 事 項    
20 11 20 天皇陛下御親拝21回目 臨時大招魂祭
27 10 16 天皇・皇后陛下御親拝
28 10 18 秋季例大祭に戦後初の勅使参向
29 10 19 天皇・皇后陛下御親拝 創立85周年
32 23 天皇・皇后陛下御親拝
34 天皇・皇后陛下御親拝 臨時大祭 創立90周年
38 15 政府主催全国戦没者追悼式 天皇・皇后陛下御臨席
40 10 19 天皇陛下御親拝 臨時大祭
44 10 19 御創立100周年年記念大祭 天皇・皇后両陛下御親拝
50 11 21 天皇・皇后両陛下 終戦30年 御親拝
53 10 17 靖國神社A級戦犯(東京裁判の呼称)14名合祀(判明は昭和54年4月19日)

A級戦犯を含むすべての戦犯は、サンフランシスコ講和条約第11条にもとづき関係 11ヶ国の同意を得て免責されています。また国内法でもすべての戦犯はすでに復権しています。だから、靖国神社に合祀されている(祭られている)人の中にA級戦犯が混じっていたとしてもなんら問題はありません。

大東亞戦争の戦勝国は、東京裁判で28人の被告を「平和に対する罪」で起訴しましたが、戦勝国は彼らをA級戦犯と呼びました。東京裁判は個人を裁いたものであり、弁護人もそれら個人の弁護人です。その東京裁判では死亡などで免訴になった3人を除く25人全員が有罪となり、東条首相や広田首相たち7人が絞首刑になり、平沼騏一郎元首相ら18人が終身禁固刑などに処せられました。そして死刑の7名と受刑中に死んだ5名と判決前に死んだ2名の14名が靖国神社にまつられています。

起訴されたA級戦犯

荒木貞夫
 板垣征四郎 梅津美治郎 大川周明 大島浩 
岡敬純 賀屋興宣 木戸幸一 木村兵太郎 小磯国昭
佐藤賢了 重光葵 嶋田繁太郎 白鳥敏夫 鈴木貞一
東郷茂徳 東条英機 土肥原賢二 永野修身 橋本欣五郎
畑俊六 平沼騏一郎 広田弘毅 星野直樹 松井石根
松岡洋右 南次郎 武藤章

死刑の7名
東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、松井石根、木村兵太郎、武藤章

 

もちろん戦争で負けなければA級戦犯というものは存在しません。もし戦争を起したこと自体が罪ならば、ベトナム戦争でもイラク戦争でも米国政府や米軍の首脳たちはA級戦犯です。また、戦勝国側は捕虜虐待などの普通の戦争犯罪の命令者をB級とし、その実行者をC級とし、それらの被告をBC級戦犯と呼びました。復讐裁判や冤罪も多くありましたが、法的に普遍的な意味での戦争犯罪人とは捕虜虐待などの罪のBC級戦犯です。もっとも戦勝国のBC級戦犯が裁かれることはありません。

昭和27年に日本が独立すると、戦犯釈放運動が全国に広まり、当時の成人のほとんどいってもよいくらいの四千万人もの署名が集りました。そして昭和28年に戦犯の赦免に関する決議が国会で、社会党や共産党まで含めて一人の反対もなく決議されました。

一方、昭和27年4月28日に発効した対日講和条約第11条(下記)によって、それ以後も引き続いて服役しなければならない1224名の「戦犯」に国民の同情が集まり、その早期釈放を求める一大国民運動が同年7月から起こる。(最終的には約4000万人の署名が集まる。)
この国民世論を背景にして、国会で昭和28年8月から「戦傷病者戦没者遺族等援護法」および「恩給法」の改正が重ねられ、「戦犯」の遺族も戦没者の遺族と同様に遺族年金・弔意金・扶助料などが支給され、さらに受刑者本人に対する恩給も支給されるようになる。


そして国際的にも、
サンフランシスコ講和条約第11条にもとづき関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は昭和31年に、BC級戦犯は昭和33年までに赦免し釈放しました。

対日講和条約第11条

日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限[赦免し、減刑し、及び仮出獄させる]は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基づく場合の外、行使することができない。

(末尾)
以上の証拠として、下名の全権委員は、この条約に署名した。

千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で、ひとしく正文である英語、フランス語及びスペイン語により、並びに日本語により作成した。

英文
Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan, and will carry out the sentences imposed thereby upon Japanese nationals imprisoned in Japan.

The power to grant clemency, to reduce sentences and to parole with respect to such prisoners may not be exercised except on the decision of the Government or Governments which imposed the sentence in each instance, and on recommendation of Japan.

In the case of persons sentenced by the International Military Tribunal for the Far East, such power may not be exercised except on the decision of a majority of the Governments represented on the Tribunal, and on the recommendation of Japan.

衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会 昭和26年10月17日
○西村(熊)政府委員

第十一條は戦犯に関する規定であります。
戦犯に関しましては、平和條約に特別の規定を置かない限り、平和條約の効力発生と同時に、戦犯に対する判決は将来に向つて効力を失い、裁判がまだ終つていない瀞は釈放しなければならないというのが国際法の原則であります。従つて十一條はそういう当然の結果にならないために置かれたものでございまして、第一段におきまして、日本は極東軍事裁判所の判決その他各連合国の軍事裁判所によつてなした裁判を承諾いたすということになつております。後段は内地において服役しております戦犯につきまして、日本が判決の執行の任に当るということと、こういう人たちの恩赦、釈放、減刑などに関する事柄は、日本政府の勧告に応じて、判決を下した連合国政府においてこれを行う、極東軍事裁判所の下した判決につきましては、連合国の過半数によつて決定する、こういう趣旨でございます。従いまして第十一條後段の利益は、国外において服役中の戦犯者には適用ありません。これは国民の一人としてまことに遺憾と思う次第でございまして、一日も早くわれわれの念願がかないまして、現在外地において服役しております約三百五十余名の同胞が、一日も早く内地服役になるように念願いたす次第であります。

戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議案


*>「A級戦犯の戦争責任は、日本がサンフランシスコ講和条約で >東京裁判の判決を受け入れたことで、国際的には決着のついた >ことである。」

サンフランシスコ講和条約11条というのは連合国側の軍事法廷 が日本人被告に言い渡した刑の執行を日本政府が肩代わりする事と受刑者の赦免、減刑、仮出獄などの権限の制限を受諾したものであって、朝日が言う東京裁判そのものを認めたものではないし、A級戦犯を認めたものでもありません。 この11条の意図は、交戦国間の平和条約は締結とともに戦犯が 赦免されるのが国際法上の通例だったので、日本政府も講和締結後、刑の執行の停止をするであろうと想定し、何が何でも阻止せんとして連合国が設けた条項、草案検討時にメキシコ、アルゼンチ ンなどから世界の文明諸国の刑法典の原則にそぐわないとして反論がだされたシロモノです。 この解釈は昭和61年ソウルで開かれた国際法協会の大会で諸外国の国際法学者たちの共通の見解として表明されましたし、 今日の国際法学界では常識とされています。


そのため例えば、A級戦犯のうち重光外相と賀屋蔵相は絞首刑になってなく終身禁固刑などの刑だったので、復権した後には副首相や法相になっています。

また国内的には昭和27年のサンフランシスコ平和条約の翌年には「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が改正され戦争裁判による死亡者も適用対象者として認められ、遺族にも一般戦没者と同様に遺族年金および弔慰金が支給されることになりました。恩給について、昭和29年の恩給法改正によって、拘禁中獄死または刑死した者の遺族は一般戦没者の遺族と同じ処遇を受け、戦争裁判受刑者本人に対する恩給も昭和30年改正によって拘禁期間を在職期間に通算し、さらに拘禁中の負傷または疾病を在職中の負傷または疾病として支給されるようになりました。こような一連の法改正により、戦争裁判による死亡者や拘禁中の傷病者は、一般の戦没者や傷病者と同じ取り扱いとなり、国はA級やB・C級を問わず戦争裁判による死亡者を一般戦没者と同様の戦争による公務死と認定しています。

  (法律上の扱い)

このように現在では法的には国内でも国際的にも戦犯の意味はなくなりました。ただ、旧A級戦犯は国内問題としては結果的に国を敗戦に導いた指導者としての責任はあります。その旧A級戦犯の靖国神社合祀は崇敬者総代会で可決されましたが、国会で靖国神社法案が長く審議されていたので合祀は延期されていました。しかし再度の崇敬者総代会で審議し承認され昭和53年の秋の例大祭で堂々と合祀されました。旧BC級戦犯は同様な方法でもっと早く昭和34年の春の例大祭で合祀されました。もちろん合祀された後は各種の慰霊に関しても旧ABC級などという区別も一般戦死者との区別もないことは言うまでもありません。


A級戦犯とは戦争犯罪人の処罰を定めたポツダム宣言にもとづき、極東国際軍事裁判(東京裁判)で処罰された日本の侵略戦争の中心的指導者です。同裁判所条例の第六条が定めるa、b、cのすべての罪が問われました。同条例でいうb、cにあたる罪が問われた一般将兵など(BC級戦犯)と区別しA級戦犯と呼びます。

 条例六条のaは「平和に対する罪」で、侵略戦争の計画や開始、遂行などです。bは戦争法規違反など狭義の「戦争犯罪」で、占領地人民の殺人、虐待、奴隷労働などを含みます。cは「人道に対する罪」で、「戦前若しくは戦時中にすべての一般人民に対して行われた」殺人、奴隷化などをさし、ドイツの強制収容所や、上官命令による実行犯にも適用されています。

 A級戦犯はアジア・太平洋への侵略戦争を計画・実施しただけでなく、二千万人以上の死者を出した日本軍の蛮行にも関与しました。軍の作戦書や記録、戦争中に連合国政府が送付した捕虜虐待への抗議文書など多くの証拠が提示されました。

 


また、病気で亡くなった軍人は、「特旨をもって合祀」された。つまり、病気で死んだ兵士は本来「犬死」に(いぬじに=その死が何の役にも立たないむだな死に方)であり、靖国神社の祭神になる資格はないのだけれど、天皇の特別のお恵みをもって神さまに祀るのだという意味である。弾に当たって戦死した戦没者と病気で死亡した戦没者との間には、はっきりと差別(区別)があるのである

さらに、1912年9月13日、
明治天皇崩御の時、夫妻で殉じ乃木希典(のぎ・まれすけ=乃木大将)や日露戦争の英雄、東郷平八郎元帥らも戦死でないことから祭られていない。

 

天皇に命をささげた(戦死)どうかが合祀の条件で、吉田松陰(寅次郎)・橋本左内や坂本竜馬・高杉晋作・頼三樹三郎・真木和泉守・清川八郎・中岡慎太郎ら明治国家建設の礎を築いた幕末の志士らも1887(明治20)年ごろから合祀されているが、原爆の犠牲者や空襲で死んだ一般国民はもとより、天皇に刃向かった戊辰(ぼしん)戦争での徳川方(会津白虎隊等)や維新の元勲・西南戦争の西郷隆盛側は、国賊・反政府の烙印を押し、合祀の対象から外している(まさに、「勝てば官軍、負ければ賊軍」である)。

また「屠卒(とそつ=牛や豚などの屠刹{とさつ}を職業とする雑兵)はこの限りにあらず」として、被差別部落の人々も排除された。


胡耀邦中国共産党総書記宛て 靖国神社公式参拝の取り止めに関する『中曽根康弘書簡』  1986/8/15



胡耀邦総書記閣下

謹啓
 
 炎暑厳しい折から、閣下には益々御健勝のことと心からお慶びもうしあげます。 1983年秋には閣下を我国に御迎えして、日中両国の子々孫々の代までの平和と友好の契りを交して以来、早くも3年の歳月が流れようとしています。

 顧みますと、その翌春の私の貴国訪問と日中友好21世紀委員会の発足、閣下の御提唱による我国青年3千人の御招待による日中青年大交流の成功、北京の日中青年交流センター建設の具体化などを通じて、日中両国の青年・文化交流、経済・科学技術交流は、政府民間のさまざまな分野でかつてない新たな進展を遂げて参りました。  

私はこの3年間を振り返って、閣下と私の間で確認しあった日中関係4原則、すなわち「平和友好・平等互恵・相互信頼・長期安定」の考え方が、激動する内外の諸情勢の風雪と試練に耐えて、しっかりと定着しつつあることを、閣下と共に大いなる満足をもって回顧するものであります。  

日中両国の各分野における交流が量的に拡大するにつれて、両国関係に若干の摩擦、誤解、不安定要因が生起することを完全に避ける事は困難であります。私達にできることは日中関係4原則、なかんずく日中両国の「相互信頼」の原則に立って、日中間に生起する摩擦、誤解・不安定要因を早期に発見し、率直に意見を交換し、小異を残して大同を選び、これらの諸問題の解決のために機敏に行動することによって、問題の拡大を未然に防止し解決を見出すことであると確認いたします。
 
私はこの両3年間に生起したさまざまな諸問題について、日中両国がこの基本原則に従って行動し、着実な成果を収めてきた事をよろこばしく思うものであります。
 
日中関係には2千年を超える平和友好の歴史と50年の不幸な戦争の歴史がありますが、とりわけ戦前の50年の不幸な歴史が両国の国民感情に与えた深い傷痕と不信感を除去していくためには、歴史の教訓に深く学びつつ、寛容と互譲の精神に基づいて、日中両双方の政治家たちが、相互信頼の絆により、粘り強い共同の努力を行う必要があります。
 
私は戦後40年の節目にあたる昨年の終戦記念日に、わが国戦没者の遺族会その関係各方面の永年の悲願に基づき、首相として初めて靖国神社の公式参拝を致しましたが、その目的は戦争や軍国主義の肯定とは全く正反対のものであり、わが国の国民感情を尊重し、国のため犠牲となった一般戦没者の追悼と国際平和を祈願するためのものでありました。
 
しかしながら、
戦後40年たったとはいえ不幸な歴史の傷痕はいまなおとりわけアジア近隣諸国民の心中深く残されており、侵略戦争の責任を持つ特定の指導者が祀られている靖国神社に公式参拝することにより、貴国をはじめとするアジア近隣諸国の国民感情を結果的に傷つけることは、避けなければならないと考え、今年は靖国神社の公式参拝を行わないという高度の政治決断を致しました。
 
如何に厳しい困難な決断に直面しようとも、自国の国民感情とともに世界諸国民の国民感情に対しても深い考慮を行うことが、平和友好・平等互恵・相互信頼・長期安定の国家関係を築き上げていくための政治家の賢明なる行動の基本原則と確信するが故であり、また閣下との信頼関係に応える道でもあると信ずるが故であります。  

正直に申せば、私の実弟も海軍士官として過般の大戦で戦死し、靖国神社に祀られています。  

戦前及び戦中の国の方針により、すべての戦没者は、一律に原則として靖国神社に祀られることになっており、日本国に於て他に一律に祀られておるところはありません。  

故に246万に及ぶ一般の戦死者の遺族は極少数の特定の侵略戦争の指導者、責任者が、死者に罪なしとゆう日本人独自の生死感により神社の独自の判断により祀られたが故に、日本の内閣総理大臣の公式参拝が否定される事には、深刻な悲しみと不満を持っているものであります。  

特に過般の総選挙で圧倒的大勝を私達に与えた自民党支持の国民は殊に然りであります。  

私は、この問題の解決には更に時間をかけ適切な方法を発見するべく努力することとし、今回の公式参拝は行はないことを決断いたしたものであり、この間の事情について閣下の温かい御理解を得たく存ずるものであります。  

私は、日中間の如何なる困難な問題も、両国国民及び政府間の相互の理解と思いやりにより、双方の満足する適切な解決方法を、時によっては時間をかけても解決する実績を積上げつつ、更に更に強固な相互信頼と新たな発展を拡大強化することを念願致しております。
 
今秋9月、東京と大礒におきまして日中友好21世紀委員会第3回会議が開催されることとなっており、既に日中双方の委員会は会議の成功のために精力的な努力を続けていると聞いております。

私はこの第3回会議の成功を心から祈るとともに、閣下を通じて王兆国座長以下中国側委員の御来日を歓迎し、お待ちしている旨お伝え下さい。
 
閣下の御家族の皆様の御健康と御多幸を謹んでお祈り申し上げます。

昭和61年8月15日

内閣総理大臣 中曽根康弘


昭和61年09月16日 衆 - 本会議

○土井たか子君 

 私は、日本社会党・護憲共同を代表いたしまして、今国会の冒頭に行われました中曽根総理の所信表明に対し質問をいたします。(拍手)

 (中略)

 次に、総理が力を込めてお話しになりました「世界の平和と繁栄への積極的貢献」の中の二、三の問題について伺いたいと思います。
 まず、総理のおっしゃった言葉で言えば、「最近、アジアの近隣諸国との関係に悪影響を及ぼしかねない事態が生じた」こと、もっとはっきり申しますと、藤尾前文部大臣発言問題などについてであります。私は、
八月十五日の靖国神社公式参拝をことしは取りやめ、日本を守る国民会議編集の歴史教科書に修正を要請し、藤尾前文部大臣を罷免なすった総理の御判断に敬意を表します。しかし、これら一連の措置を講じなければならなかったことは、そもそも総理の責任とは無関係と言い切れるでしょうか。総理の御所見はいかがなものでございましょう。

 (中略)

 また、総理は最近、さきの戦争について、私は侵略戦争だったと思っていると述べられたことが伝えられております。いまだかつてない御発言と思われますが、このことについてもあわせてお伺いしておきたいと思います。(拍手)

○内閣総理大臣(中曽根康弘君) 

 土井議員にお答えをいたします。

 (中略)

 次に、いわゆる靖国問題でございますけれども、靖国神社が戦没者に対する追悼の中心施設である、平和祈念と戦没者に対する追悼、そういう考えに立ちまして、昨年公式参拝をし、官房長官談話を発表したところであります。この官房長官談話は今日も生きております。しかし、その後いわゆるA級戦犯の問題が惹起されました。やはり日本は近隣諸国あるいはアジア諸国との友好協力関係を増進していかなければ生きていけない国でございます。しかも、それらの国との平和の回復の際におきましては、条約あるいは宣言等におきまして、過去についてはこれを教訓とし、そして反省すると我々は約束もしておるところでございます。しかし、一方におきましては相手側の国民感情もございますが、日本側の死生観とか日本側の国民感情もあり、主権と独立の擁護、内政不干渉という、厳然と守らなければならぬ点もあります。
 しかし、国際関係におきましては、我が国だけの考えが通用すると思ったら間違いでありまして、一方的通行というものは危険であります。特に
アジア諸国等々の国民感情も考えまして、国際的に通用する常識あるいは通念によって政策というものは行うのが正しい。それが終局的には国益を守る方途にも通ずることになると思います。アジアから日本が孤立した場合に、果たしてアジアのために第一線で戦死したと考えているまじめなあの将兵たちが、英霊が喜ぶであろうか。英霊も理解していただけるのではないかとも考えております。日本がアジアから孤立して喜ぶ国はどこの国であるか、そういう点も外交戦略としてもまた考える必要があり、いわゆる国益全般を考え、また日本の国際的名誉を確保するという面からも、日本には民主主義に応ずる正しい反省力もある、そういうことも国際的に示す必要もあると思っております。(拍手)
 やはり
民主主義の一番強いところは反省力であり、抑制力であると私は思っております。そういうような考えに立ちまして、靖国神社の問題を処理したものでございます。今後とも、このように国際関係を良好に維持することによりまして、責任を果たしてまいりたいと思います。

(中略)

 次に、侵略戦争の問題でございます。
 私は、六十年十月二十九日の衆議院予算委員会における答弁におきまして、「私は、いわゆる太平洋戦争、大東亜戦争とも言っておりますが、これは
やるべからざる戦争であり間違った戦争である、そういうことを申しております。また、中国に対しては侵略の事実もあったということも言うております。これは変わっておりません。」このように予算委員会において昨年答弁しているところでございます。歴史の解釈、歴史の流れというものは、一つにはやはり国際的に通用する判断で考えられなければならない、そうして、歴史の流れ全般を考えながらこれは大局的に判定すべきものである。一つ一つの個々の事件というものに焦点を当てれば、両方にいろいろな言い分もございましょう。しかし、大きな歴史の流れというものも我々はよく考えなければならない。それと同時に、我が国の主権、独立、内政不干渉を我々が擁護するという点ももちろん考えなければなりませんが、先ほど申し上げましたように、民主主義の大事な点は、その自制力と反省力にあるという点もまた大事な点であると考えております。
 私は、日中戦争につきましては、例えばいわゆる対支二十一カ条の要求であるとか、あるいは張作霖の爆殺事件であるとか、あるいは柳条溝事件であるとか、さまざまな事件がその根底にありまして、
中国民族の感情を著しく傷つけていたという事実を否定することはできない。しかも、それらの事件が起きた場合に、大部分の場合には、中央政府は不拡大方針をとっておったけれども現地軍がこれを次第次第に拡大の方へ持っていったという歴史的事実も指摘されております。そういうような状態全般を考えてみた場合に、やはり侵略的事実は否定することはできないと私は考えておるところでございます。


平成17年05月16日 衆 - 予算委員会

○仙谷委員

 靖国参拝についても、多分、やはりここが問題だという指摘は胡錦濤さんからはあったんじゃないんですか。これは問題になっていないんですか、総理の靖国参拝は。少なくとも、我々の理解をしている限りにおいては、A級戦犯が祭られている靖国神社については、総理の在任中には控えてほしいというのが、中韓とも、まずは入り口の、歴史認識について反省を実行に移してほしいということの一つの言い方じゃないんですか。なぜ、中曽根総理が参拝をしたけれどもやめて、それから現職の総理は行かなかったのに、小泉さんだけが行くんだ、この大事なときにそういう、いわば小泉さんの言い方で言えば国民の気持ちを、少なくとも国民の気持ちを逆なでするようなことをされるんですかというのが彼らの疑問でしょう。
 そういう問題について、私から見ますと、少なくとも外交の上で、いろいろな外交カードを切り合うんでしょう、それは。しかし、何かこういうもつれることになってきた口実を与えていることは間違いないですよ。
 それを、従来のように、二国間でああだこうだということを言っていて済む時代ならばまだいいんですよ。あなたが、国連常任理事国入りをすべきだということで、従前の、十年前の主張を変えられて、とんとことんとこ走っていっているじゃないですか。十年前、反対のことを言っていたじゃないですか、田中秀征さんと一緒に。そうでしょうが。

(中略)

 そこで、靖国神社、これについて、適切な行動、適切に判断するとか配慮していきたいとか、そういうふうにお答えになったんですか。お答えになったとすれば、年内は行かないんですね。どうですか。

○小泉内閣総理大臣 
 私の言うことを誤解してとらえておられるようですが、私は、国連常任理事国入り、これについては十年ほど前から大きな関心を持っておりましたし、今のP5、同じようなことはできないということをはっきり言わなきゃいけないと言っていたわけであります。日本の立場というのは現在のP5とは違う。核保有国でもないし、海外で武力行使をしない、こういう国である。そういう点について誤解のないような、日本の基本方針が国際社会にわかった上で、そういう上で国連常任理事国入りに手を挙げるなら、これは差し支えないであろうと。現に、そういう方針でやってきております。
 (中略)

 そういう中で、日中間の問題におきましても、靖国の問題がお話出ましたが、これは私がかねがね申し上げておりますように、どの国でも戦没者に対する追悼を行う気持ちを持っているはずであります。どのような追悼の仕方がいいかということを他の国が干渉すべきではないと私は思っております。
 今日の日本の繁栄は、あの六十年前、過酷な戦争で日本国民も大きな犠牲を受けた、そして、当時、家族を持ちながら、戦場には行きたくなかった方も心ならずも国家のために戦場に赴いて命を落とさなければならなかった、そういう方の犠牲の上に今日の日本の平和と繁栄があるのではないか。そういう戦没者に対して心からの追悼の誠をささげるというのがなぜいけないのか、私は理解できません。そして、日本は二度と戦争をしてはいけないという気持ちでお参りをする。現に、六十年間日本は、二度と戦争にも巻き込まれず、戦争もしていないんです。そういうことに対して、靖国参拝してはいけない、この理由が私はわからないんです。
 民主党の中にも、靖国参拝すべしという議員がおられます。国民の中でも、すべきである、しない方がいい、した方がいいといろいろな議論があります。しかも、中国が、胡錦濤国家主席との間でも、あるいは温家宝首相との会談でも、靖国の問題が出ました。靖国参拝はすべきでないというお話もありました。しかし、今のような理由を私は申し上げました。
現に東条英機氏のA級戦犯の問題がたびたび国会の場でも論ぜられますが、そもそも、罪を憎んで人を憎まずというのは中国の孔子の言葉なんです。
 私は、日本の感情として、一個人のために靖国を参拝しているのではありません。心ならずも戦場に赴いて命を犠牲にした方々、こういう犠牲を今日の平和な時代にあっても決して忘れてはならないんだ、そういうとうとい犠牲の上に日本の今日があるんだということは、我々常に考えておくべきではないか。現在の日本というのは、現在生きている人だけで成り立っているものではないんだ、過去のそういう積み重ねによって、反省の上から今日があるわけでありますので、戦没者全般に対しまして敬意と感謝の誠をささげるのが、これはけしからぬというのはいまだに理由がわかりません。
 いつ行くか、適切に判断いたします。

○仙谷委員 総理、個人的な感慨と、一国、主権国家を背負ったトップリーダーは、やはりちょっと分けて考えてもらわなきゃいけないんですよ。いいですか、そこをごちゃごちゃにしてはいけないんですよ。
 総理、もう一遍ポツダム宣言を受諾したことの意味を思い出してくださいよ。我々は、心ならずもか……(発言する者あり)ポツダム宣言を受諾したから独立できたんでしょうが。何を言っているんだ。
 ポツダム宣言の中にどう書いてありますか。軍国主義的傾向の解体と民主主義の復活と書いてあるじゃないですか。民主主義の復活というところにも意味があるんだけれども、軍国主義の解体、そこについて、どう評価をされようとも、当時政治としてはそれを受け入れたんですよ。
 あなたの靖国参拝は国際政治問題になっているんですよ。中国がどう言うからとか、干渉されたくない。干渉されないでいいんです。干渉されないで自律的に、我が国がアジアの中にどうやって溶け込んでいくかという努力をするためにどういう政治選択をしなければいけないか、それがトップリーダー、総理に課された使命なんですよ、私に言わせれば。
 個人的には、靖国神社に行きたい、結構です。総理としてはそれを自制するのが政治的な判断、決断じゃないですか。いつまで戦後に生まれた我々の世代に、あるいは今の二十代、三十代の方々に、この戦争の戦後処理の問題をだらだらと残すんですか。後世代のためにけじめをつける発想すらないんですか、政治家として。私は残念で残念でしようがない。
 そこで、この問題についての総理の返答については、ことしじゅうに靖国神社に行く、こういうふうにここでおっしゃったものと理解して次に進みますが、いいですね。

○小泉内閣総理大臣 
 私が靖国神社に参拝することと、軍国主義を美化しているととられるのは、心外であります。なぜ靖国神社を参拝することが軍国主義を美化することにつながるんでしょうか。全く逆であります。
 日本は、戦争に突入した経緯を踏まえますと、国際社会から孤立して米英との戦争に突入した。国連も脱退した。二度と国際社会から孤立してはいけない。そして、軍国主義になってはいけない。だから、戦後、戦争中の敵国であった国とも友好関係を結んできた。そして、国際協調というものを実践によって示してきた。
 軍国主義、軍国主義と言いますが、一体日本のどこが軍国主義なんですか。平和国家として、国際社会の平和構築に日本なりの努力をしてきた。この周辺において、戦争にも巻き込まれず、戦争にも行かずに、一人も戦争によって死者を出していない。平和国家として多くの国から高い評価を受けている。そういう中にあって、なぜ私の靖国参拝が軍国主義につながるんですか。
 よその国が言うから、けしからぬ、よその国の言うことに従いなさい。それは、個人的な信条と、両国間、国際間の友好関係、これはやはり内政の問題と外交関係の問題におきましてはよくわきまえなきゃいけませんが、私は、こういうごく自然の、過去の戦没者を追悼する気持ちと、二度と戦争を起こしてはいけないという政治家としての決意、これを六十年間、みんな日本国民は反省しながら実践してきたじゃないですか。それを、一部の外国の言い分を真に受けて、外国の言い分が正しいといって、日本政府の、私の判断を批判するというのは、政党が違いますから歴史的な認識も違うかもしれません、御自由でありますが、私は、これは何ら問題があるとは思っておりません。

・「罪を憎んで・・」は、そもそも孔子の言葉としてはかなりマイナー。
 「論語」に収録されておらず、「孔叢子(こうそうし)」の中にワンフレーズで触れられているもの。
   *
孔叢子(くぞうし・こうそうし) 秦代。孔子の九世の孫鮒(そんこうふ)著。萬暦5年? 7巻。孔子及びその一族の代々の言行録を集大成した書。
 しかも、原典では「
その意を悪みてその罪を悪まざりしか」。
 どんな文脈で述べられているかと言うと、孔子の弟子が「司法官として、『赤子を保つように』と書物には書いてありますが、具体的には?」と孔子に問うたところ、孔子が「罪を犯したその動機・背景にまず目を向けるべきであって、罪そのもの(ひいては罪人)のみに囚われるべきではない」と答えたとのこと。

 そもそも孔子は「徳を以て治める」ことを理想と説いており、今の言葉で言う「罪刑法定主義」には真っ向から反対している。親父が罪を犯しても、それを隠し庇うのが息子としての考だと説いているくらい。従って、原義は、「罪に対して厳罰で臨むな」ということ

・この言葉が日本で何故メジャーなのか?
 第一に、「大岡裁き」で有名な大岡政談の影響が大きい。講談や、最近では時代劇で脚色された「人情派」的イメージで捉えられる。罪人を処罰する話と、勧善懲悪的な要素が絡み合い、罪を償うほうも納得してしまうような裁きを下す。つまり、「情状酌量」のニュアンスがこの言葉にはある。
 第二に、仮名手本忠臣蔵、日本人が大好きな忠臣蔵の話に由来する。九段目で、「
君子はその罪を憎んでその人を憎まずと言えば、縁は縁、恨みは恨みと、格別の沙汰もあるべきにさぞ恨みに思われん」という由良助(大石蔵助)の台詞があるのだが。浅野内匠頭を殿中で抱きとめた梶川与惣兵衛が大石力に殺害された際、蔵助がその動機を説明する際に使われる台詞として有名。「罪を憎んで人を憎まずではあるのだが、主君の恨みを雪ぐためやむなく殺害に至った」ということ。

 つまりは、「罪を憎んで人を憎まず」は、孔子が原典というものの、かなりその意味が日本では曲解されて定着していて、かつ、その曲解された意味がキリスト教世界の普遍的価値観と合致する、という構造になっているわけですな。
 中国人にしてみれば、「罪を憎んで人を憎まず」といわれても、「はぁ?」ってなもんではなかろうか(わからんけど)。孔子の言葉のニュアンスは、恐らく「
正しい動機に基づく罪は罪ではない」ということと推察されるので、むしろ「造反有理」や「愛国無罪」にニュアンスは近い。なぜ「意を悪みて罪を悪まず」が「罪を悪みて人を悪まず」になったのかは不明だが、少なくとも小泉首相の発言は中国サイドに対する効果的な反論にはなっていない。
http://blog.livedoor.jp/yasukichi2004/archives/22511262.html

「罪を憎んで人を憎まずは孔子の言葉なんですよ!」(小泉首相)

「罪を憎んで・・」は、そもそも孔子の言葉としてはかなりマイナー。
「論語」に収録されておらず、「孔叢子(こうそうし)」の中にワンフレーズで触れられているもの。しかも、原典では「その意を悪みてその罪を悪まざりしか」。どんな文脈で述べられているかと言うと、孔子の弟子が「司法官として、『赤子を保つように』と書物には書いてありますが、具体的には?」と孔子に問うたところ、孔子が「罪を犯したその動機・背景にまず目を向けるべきであって、罪そのもの(ひいては罪人)のみに囚われるべきではない」と答えたとのこと。

孔子の言葉のニュアンスは、恐らく「正しい動機に基づく罪は罪ではない」ということと推察されるので、むしろ「造反有理」や「愛国無罪」にニュアンスは近い。

出典:「孔叢子−刑論」 用例の出典:孔叢子(くぞうし・こうそうし) 秦代。孔子の九世の孫孔鮒(そんこうふ)著。萬暦5年? 7巻。孔子及びその一族の代々の言行録を集大成した書。


日本経済新聞 2005/5/27

 「日本は東京裁判受け入れている」 小泉首相


歴史問題政府内に中国批判
 森岡厚労政務官「戦犯合祀悪くない」
 町村外相「教科書に問題ない」

 中国などとの摩擦が再燃している歴史問題で26日、政府・与党内から中国への批判や反論が相次いだ。細田博之官房長官ら首相官邸側が抑制的な対応をしているのとは対照的な図式となった。

 町村信孝外相は26日の日本経団連の定時総会であいさつし、日本の歴史教科書について「批判が出るような教科書など全然ない。中国も韓国も新聞のスローガンしか見ないで批判をしている」と反論した。
 森岡正宏厚生労働政務官ば同日の自民党代議士会で、小泉純一郎首相の靖国参拝に関連して「靖国神杜にA級戦犯がまつられていることを悪いかのごとく言うのは後世に大変な禍根を残す。日本国内ではもう罪人ではない」と述べた。さらに東京裁判についても「勝った方が正義で負けた方が悪であるということはない」と強調した。
 自民党内では森喜朗前首相が都内でのパーティーで「中国も韓国も(日本が)歴史を美化しているというのは、いちゃもんもいいところだ」と強調。亀井静香氏は同日の派閥総会でA級戦犯分祀論に対し「中国の歴史観に乗っかる話だ。われわれが魂を売って形式的な参拝をしたからといって英霊が喜ぶわけではない」と批判した。

官邸は抑制的な対応
 「日本は東京裁判受け入れている」 小泉首相

 小泉純一郎首相は26日、靖国神社に合祀されている
A級戦犯の責任について「それはもう東京裁判で済んでいるじゃないですか。日本は(東京裁判を)受け入れているわけですからと述べ、A級戦犯に有罪判決を下した東京裁判で決着済みとの認識を示した。そのうえで「私の参拝とは関係ない」と強調した。首相官邸で記者団の質問に答えた。
 細田博之官房長官は26日の記者会見で、森岡氏の発言に関して「自分の思いを言ったと思うが、事実関係に種々誤りが含まれていて論評する必要のない発言だ」と不快感を示した。
 長官は25日、記者会見などでの当局者の発言がキャッチボールのように行き来して日中関係に影響を与えることに懸念を表明。自らはコメントを控える方針を示している。


日本経済新聞 2005/5/30

根深い中国の反日感情
 「屈辱の世紀」背景に 両国の賢明な指導力必要
   ピーター・H・グリース コロラド大学助教授

 最近の中国における反日感情は、中国共産党による反日教育の影響だけではなく、中国人にとって屈辱的な十九世紀半ば以降の歴史に対する再認識が背景にある。日中関係は今後当分の間、不安定な状態が続くのは必至で、紛争を避けるには両国政府の賢明な指導力が必要である。

共産主義の正当性低下
 4月16日に上海で行われた反日デモには、「中国人民は怒っている。覚悟せよ」と大書した横断幕をデモ参加者が掲げ、大学生を中心に数万人が参加した。他の横断幕を見ると、怒りの矛先は「打倒日帝」であり、具体的には「日本の常任理事国入り阻止」、「歴史教科書に抗議」、「魚釣島(尖閣諸島)を守れ」などと書いてある。
 手書きのプラカードを掲げる参加者もいた。一番多かったのは日本製品の不買運動に関するもので、「日本製品を1カ月買い控えれば日本は1年苦しむ」、「日本製品を排斥すれば日本は干上がる」といった主張が並んだ。このほか、日本の国旗にナイフや剣、矢などを突き刺したポスターや、小泉純一郎首相の風刺画も目立った。
 デモ参加者は中国の国旗を振り、反日スローガンを叫ぶだけにとどまらず、一部は暴力的な行為に及んだ。日系のスーパーや日本料理店の窓ガラスを割り、日本車をひっくり返し、日本の国旗や小泉首相のプラカードなどを焼いた。さらに日本総領事館に卵やペンキの缶などを投げつけた。
 上海は中国最大の国際都市と目されており、外国人も安全にビジネスができる都会とみられてきた。ところがその上海の若者が、日本に怒りを向けたのだ。上海だけでなく、北京、広東、深センなどの諸都市で、数万人を巻き込む抗議行動が3週末連続して繰り広げられた。
 現在の反日感情の高まりは、2003年夏を想起させる。このときはインターネットと路上で起きた一連の反日運動が、中国の対日政策を巡る国民的な論争に発展した。
 多くの日本人は、最近のこうした動きに困惑している。日本では、中国政府が対内的・対外的な思惑から反日運動を後押ししたとの見方が一般的だ。中国共産党は、対内的には日本をスケープゴートにして政府当局に対する批判をかわし、対外的には大規模な反日行動を利用して、日本の国連常任理事国入りの阻止といった外交政策上の目的の達成を狙っているとの見方である。
 この見方は、今回の事件の重要な側面をとらえている。中国共産党は1989年の天安門事件を境に共産主義の正当性を主張しにくくなった。そこでナショナリズムを通じて威信を強化する狙いから、1990年代前半に愛国教育運動を開始した。教育や宣伝を通じて中国共産党が反日思想を植え付けてきたことは間違いない。
 だが、今日の中国にみられるナショナリズムをすべて中国共産党のせいにするのは間違っている。これはもはや誰にも止められない流れなのだ。インターネットや携帯電話などが登場し、一般の活動家も政府とは無関係に行動できるようになったからである。
 もちろん中国政府は、こうした一般活動家を取り締まる力はある。例えば人民武装警察は、上海のデモに介入し、日本総領事館への投石などを阻止できたはずだ。
 だがそれをすれば代償は避けられない。どんな政治体制も(たとえ独裁であっても)短期的に力に訴えることはできても、長期的にはその妥当性を問われる。中国は民主国家ではないが、だからといって「中国人民の意見」が存在しないわけではない。反日感情が広がる現状で、中国政府が武力に訴えてデモを鎮圧すれば、中国人民にきわめて不当な行為と受け取られるだろう。そして、どんな体制も力だけでは存続できない。政治体制の安定には、統治される側の賛同が必要である。
 言い換えれば、長期的に問題なのは、中国共産党が民衆のナショナリズムを操作できることではなく、完全には制御できないことである。

19世紀以来の歴史を再認識
 それでは、中国の若者はなぜ日本に怒りを向けるのだろうか。確かに教育と宣伝が一因ではあるが、現在の中国に広がる反日感情はもっと根が深い。二十一世紀を迎えた現在、中国人の歴史観や中国人であることの意味が変わってきたのだ。四半世紀にわたって前例のない経済成長を遂げてきた中国は、もはや日本を恐れていない。そこで、長いこと抑圧されてきた怒りが再び表面化してきた。十九世紀半ばから二十世紀半ばにかけての「屈辱の世紀」を巡る新たな解釈が今日の中国人の自己認識を決定づけ、反日感情につながっている。
 現在の中国で最も教育水準の高い人たちは、1842年に英国と、また1895年に日本と結ばざるを得なかった「不平等条約」の苦い思い出を共有している。これらの条約によって賠償金の支払いや治外法権、貿易港における外国人居留地の設営など一方的な譲歩を強いられ、今なお屈辱的な国家主権の喪失と認識されている。
 この「屈辱の世紀」は、中国人の世界観を根本から覆した点で、決して忘れられない重大な意味を持つ。古代の侵入者は中国に同化され、国境の向こうの野蛮人は「文明」に対し丁重に貢ぎ物をささげてきたと中国人は考えており、どちらも中国文明こそ卓越した普遍的文明であるという中華思想を強める役割を果たした。
 だが十九世紀における「西」との暴力的な遭遇はまったく異なるものだった。「西洋鬼子」は独自の文明を持ち、儒教文明の普遍性と優位性に真っ向から挑戦してきたのである。衝撃的な西と東の遭遇は、中国人の世界観、ひいては世界における中国の位置づけを甚だしく混乱させた。
 「屈辱の世紀」に対する中国人の見方には、帝国主義との苦痛に満ちた遭遇になんとか折り合いをつけようとする苦悩が反映されている。毛沢東政権下では、近代に入って中国の被った苦難を清朝の封建制と欧米の帝国主義のせいにしつつ、封建制や帝国主義打倒に立ち上がった大衆が侵略者を撃退する英雄的行為を強調した。「屈辱め世紀」のこうした英雄的側面の強調は、1930−40年代の共産革命、さらに50−70年代の中華人民共和国の建設という目標に多数の国民を動員する効果があった。新生中国はまさに英雄を必要としていたのである。
 しかし、十年以上前から、かつての「英雄伝説」に、徐々に「被害者伝説」が入り込むようになった。後者では、日本を含めた「西」が中国の苦難の原因であると非難されている。この新しい見方は、実は中華民国時代(1921−49年)に書かれた「屈辱の世紀」に関する文書の中から、迫害の部分を焼き直したものである。中国を暴行された女性になぞらえる表現が再び使われるようになったことも、こうした変化の表れと言えよう。長い間封印されてきた屈辱と再び向き合ったとき、当然ながら怒りも呼び覚まされた。

不安定な関係今後当分続く
 この怒りが日本に向けられたのはなぜだろうか。多くの中国人にとって、日本人は「日本鬼子」である。中国を侵略した日本軍の残虐さのせいだけではなく、それ以前からあった道義的な怒りのためだ。
 中国の敗北に終わった日清戦争にはじまり、1895年の屈辱的な下関条約、1915年の一方的な21カ条の要求、そして第二次大戦中の多くの残虐行為は、「弟」である日本が「兄」たる中国に対してとった極めて無礼な行為であり、不当極まりないと認識されている。その結果、中国では、高い倫理的レベルと卑近な本能的感情のレベルの両方で日本に対する怒りが生まれた。この怒りの複雑さと根深さが、現在の反日感情につながっている。
 二十一世紀の今、日中間の紛争を避けるためには、両国政府の賢明な指導力が必要である。長い間封印されてきた残虐行為の傷口はいまだ生々しく、誇りをひどく傷つけられた中国人の痛みはなかなか消えない。このため、多くの中国人は日本の謝罪を受け入れられずにいる。
 一方、多くの日本人は、中国で繰り返されるバッシングとしか思えない行為は日本の国家的威信を傷つけるものとして、次第に怒りを覚え始めている。不幸なことに、日中関係には中国人と日本人のアイデンティティーの問題が深く絡んでいる。したがって両国関係は、今後当分の間、不安定なものとなろう。

67年生まれ。カリフォルニア大政治学博士。専門は国際政治、中国政治。