一時1ドル150円程度まで下がった円は再び1ドル100円の水準まで上昇している。(本論文は2000/1に作成したものです。)
最近こそ円高継続への懸念が強いが、つい最近までは貿易黒字と円高を擁護する意見が相次いだ。
ニューヨークで1ドルで買えるものが東京でいくらするかを示す購買力平価は1ドル=140円程度である。生計費の計算に何が含まれるかにより差が生じるが、1ドル=150円程度が妥当な為替レートであろう。
現在の100円近いレートでは、日本の平均的な給与所得はアメリカ人のそれをはるかに上回るが、実際の生活水準は全く異なっている。
満員電車に2時間も揺られて帰る狭い狭い「ウサギ小屋」に住んでいる。自動車など特定業種以外では輸出が減り、メ−カ−は安い労務費を求めて海外に工場を移すため、仕事が減り、賃金カットや希望退職の募集が行われた。
一生懸命働いて稼ぎ海外諸国から失業の輸出として恨まれた揚げ句に失業する、一体どうなっているのか。なにかが狂っているとしか考えられない。
為替レートはそれぞれの通貨の価値を換算するものである。円/ドルのレートをどうみるかは、何をもって通貨の価値を判断するかにより異なる。
国民の立場からすると、生活水準がその基準であるべきであり、名目上1ドル100円で換算した所得がアメリカ人のそれを上回ると言われても実態がはるかに下回っているなら、そんな換算は意味がない。
同じ所得なら同じような生活水準ができるべきである。
その意味では購買力平価論による1ドル=150円程度が妥当なレベルである。例えば為替レートが100円であるが、生計費で計算したレートが150円であるとすると、労務費も1ドル=150円のベースで支払われていることとなる。
原油をはじめとした基礎原料・燃料は海外から輸入されドルで支払われるが、日本での加工に対してはそれぞれの工程で労務費として円で支払われる。即ち、日本の製品のコストはそれを構成する工場の建設費や設備費、原料・燃料費、工場労務費、販売費・一般管理費、運送費などのうちドルベースで払われた部分は1ドル=100円相当であるが、それ以外の部分は、1ドル=150円ベースのコストとなっている。
これを1ドル=100円で売るのであるから、自動車など特定産業を除き海外品と競争しえない。
労務費の安い東南アジアや中国の製品と競争できないだけでなく欧米品とも競争できない。労務費比率の高い製品を労務費の安い国で作るのは理解できる。しかし日本では全ての製造業がやっていけなくなろうとしている。
アジア諸国も原料は海外に依存しているため日本と同等であり、労務費水準の差は生産性の高さやインフラの整備度の違いなどでカバーしうる。
日本での消費財の生産までを海外に移すのは生産の条件の優位さによるのではなく、為替レートにおける逆ハンディが理由である。
円が過大評価されているということは、日本で作られたものが逆ハンディをつけられているということを意味する。
開発途上国が産業育成のためにハンディを与えられるのはよいとして、開発途上国の通貨にたいして円高であるだけでなく、先進国の通貨に対しても円だけが独歩高であるということは、円が逆ハンディをつけられていることを意味し、結果として日本での生産品が海外諸国での生産品に対してペナルティを与えられていることとなる。
加工製品については余程の不利な事情が無い限り消費地で生産するというのが当然である。アジアに欧米企業が進出するのは今では伸びる需要を狙ってのことであり、以前のように低賃金を狙ってのことではない。
その意味では1億2千万人の高所得の国民を有する日本は絶好の生産基地であるべきである。
アメリカでは一時製造業が空洞化し、第三次産業だけが残るのではないかと言われた。しかし今ではアメリカの製造業は復活している。現実には日本の場合、1ドル=150円の為替レベルでは輸出が増大し貿易収支が異常なプラスとなる。
問題の根源は本来であれば購買力平価で均衡する筈が、日本の特殊事情で輸出が増え続けたことである。米国は一時はドル高が米国にとってよいことだととの立場でドルの価値を維持しつつ、日本の構造改革による日本の貿易黒字増大の終息を期待したが、これが進まないため方針を変更し、懲罰的に円高に方向転換したのが1995年後半の猛烈な円高の原因であろう。
その効果は十分に現れているといってよい。日本の対応のまずさにより国民がそのしわ寄せを受けているのである。