日本の構造問題


 日本の政治経済の最大の問題は「国民のため」という発想の欠如である。

 日本の政治は豊臣秀吉の刀狩りの時代から、「寄らしむべし、知らしむべからず」の方針に基づいていた。国民は権力のための手段にすぎず、国民もまた、それを当然のこととするとともに、なにごとにも「おかみ」に頼る甘えの構造ができている。

 明治維新後、欧米の列国に追いつくための富国強兵、それに続くアジア進出で、天皇制を利用し政官財それに軍部が結合して個人より国家を優先する体制をつくりあげた。

 終戦後は米国の考えをいれ、新憲法で国民主体がうたわれ、日本を民主国家になった(筈である)。
 法律上はあらゆる面で国民主体となっている。

 しかし、終戦後の経済復興のため限られた資源の最大利用のため、官僚による行政指導が行われた。

 朝鮮動乱やベトナム戦争もあり日本経済は見事に復興し、世界中に官僚中心の日本型経済政策が宣伝された。

 企業経営者も技術導入と革新的経営でスクラップアンドビルドを実施し、国際的に競争力をもつ体制を確立した。

 政治に関してはトランジスターのセースルマンと揶揄されたが、日本経済は世界の機関車といわれるまでになった。

 問題はその後である。経済再建のために結びついた政官財は、再建が終わり繁栄時代に入った時点で、それぞれの利益の維持拡大のために一層結びつきを強化した。

 他方、国民側は、何世紀にもわたってお上に頼ってきた国民性を維持し、新憲法で国民主権を与えられても、その意識をもたないままでいる。

 本来は終戦時の大混乱に対応するための臨時の措置として官僚に経済運営をまかせた筈だが、経済立て直しが完了しても官僚は主権を離そうとしなかった。
 政官財が自己の利益のためのもたれ合い構造をつくった。

 これは日本が世界の経済大国になっても変わらず、国民はそれを当然とするかのように、何らの対抗も行わない。

 政治家は票かせぎのため支持団体である特定業界や地域集団のために働くとともに、田中角栄に代表されるよう個人の利益のために働く。
官僚は政治家に代わり実質的に法律をつくるとともに、省令や規則で法律を自己の思うままに運用し、更に行政指導により法律で決めずに、勝手に関連業界を動かす。
 また外郭団体を多数設立し、自らの天下りの場所をつくるとともに、それを通じて国民や関連業界を規制し、それら団体に国の予算をつけてそれを思うが侭に使用する。
 企業経営者も労働組合を懐柔し、株主総会を形式化して拮抗力を弱め内部固めをするとともに、官僚の行政指導の力を借りて内外からの競争を抑え(いわゆる護送船団方式)、企業を実質的に私物化する。

 政官財の結びつきは次第に国を私物化し、国民の犠牲において自己の利益の増大に向かっていき、それを誰も阻止できないようにしていった。

 政治家にとっては一般国民のために働くより直接票につながる利益団体のために働くこととなり、官僚も本来の主人である国民のためでなく、自己の権益に役立つ業界団体のために働き、企業経営者も本来の主人である株主が株式が大衆化したのに伴い、これを文句を言わない債権者に変えていき、そうした政官財が互いに協力するようになった。

 

 企業の私物化

 政治家と官僚の問題については以前から明らかになっている。
しかし企業の経営者の問題は日本の企業が活力を示し、海外でも大活躍し、政治は三流でも企業は一流と豪語している間は明らかになっていなかった。

 今や、超一流企業がバブルの失敗や部下の背任等で数千億円という赤字を出し、かつ平然としている。海外投資からの撤退も相次いでいる。

 つい最近までは世界の金融機関の上位を日本の金融機関が占めていた。いまやBIS基準のの銀行としての最低限度の資格を得るのに汲々とし、信用状が拒否される銀行さえ出る状況にある。
その事態になっても政官財の結合により税金により存続を図っている。

 企業においても経営者による企業の私物化が進み、経営者がその本来の責任を忘れたのが今のひどい状況の真因である。
企業の私物化も社内外での拮抗力の排除の結果である。

 拮抗力の排除は最初は労働組合の懐柔から始まった。生き残りを確保した後は、下請けをバッファとし、労働条件の改善により労使の共存共栄体制を確立した。

 株式の持ち合いにより株主総会を形式的なものに変質させた。

 今や組合と株主総会を無力化し、企業経営者は社内で独裁者である。

 法律上は株主総会が取締役を選び、取締役が取締役会で社長を選ぶ。総会はまた監査役を選任し、取締役会での業務遂行を監査する。

 しかし、実際には社長、会長などトップが取締役や監査役の候補を社内で選ぶ。監査役も同様である。
 2年ごと(監査役は3年)の総会で取締役や監査役は改選となるが、退任か留任かを決めるのもトップである。
 このため取締役会は取締役がそれぞれの立場で意見を言い、重要事項を決定すると言うことはありえない。完全に上下関係が出来ており、取締役会はトップが決めたことを商法の規定上、形式的に決議する場になっている。

 このなかで企業のトップは次第に独裁者となり、企業を私物化する傾向が出てくる。
 社内で批判を許さず、次第にイエスマンを取締役に選任するようになる。
また株主総会で質問が出ること自体を避けようとする。総会屋問題はこれが原因である。

 また経営判断のミスで赤字が出ても責任を取らず、株や土地を売り、その売却益で穴埋めをする。
 「株の売却益で穴埋めして配当は継続するので株主に迷惑はかけない」などの発言はひどいものである。

 株や土地の売却益は経営者の私物でなく、本来株主のものである。
 経営を任せられ、高給をもらいながら、自らの失敗を株主の持ち物を売却した利益で埋めて、迷惑をかけていないとして居座るのは企業の私物化以外のなにものでもない。

 しかも配当も仮に額面に対し10%の1株5円としても1株500円で買った株主にとっては1%である。
 30年前の不景気で株価が額面すれすれの場合も5円であった。その後株価が10倍になっても余り変わらない。

 その間従業員の労務費は何十倍にもなり、役員の報酬も同様である。
 従業員に対しては退職年金制度や社宅などの福利施設等待遇の改善は行っているが、物言わぬ株主は全く無視されている。

 更にこの傾向は企業の衰退につながる。

 企業の成長はいかに革新をおこなうかにより決まる。
最近の企業を取り巻く環境の変化は著しい。需要も技術もものすごいスピードで変化する。
 企業が国際化するにつれ、国際情勢や海外の政治経済の変化も大きく影響する。

 このような時代には以前に決めたことをいかに変えていくかが企業の成長のポイントとなる。しかしこれをトップが自分の以前の業績の否定と考えるようになれば、革新はおこなわれない。
 企業経営者は官僚と結びつき、革新ではなく政府の規制に頼り、国民を犠牲に企業を存続させようとする。

 最も明白なのは大蔵省の護送船団方式で、あたかも大蔵省銀行の支店長のようなやり方で経営を行ってきた銀行経営者である。
 銀行経営者の意思決定の基準は
 「大蔵省がどう言っているか」と、
 「他の銀行がどうするのか」
との二つだけしかないとまで揶揄されている。

 一般企業においても特定の革新経営者のいる企業を除き、大なり小なり同様である。
 規制緩和を主張して革新経営を行った企業も一旦権利を得るとそれを規制で守ろうとする。

 その結果、被害を受けるのは一般国民である。政治家も官僚も企業経営者と組んではじめて利権が実現する。
 政官財が結びついて
、自らのための政治経済体制をつくりあげているのである。


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