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   ポリ塩化ビニル工業の歴史と21世紀の方向  佐伯康治
                           


第一回(2000/8月号)

1.わが国PVC工業の歴史的概要
 わが国のポリ塩化ビニル(PVC)工業が生まれて、2000年の今年でちょうど半世紀を経たことになる。ここで、わが国のPVC工業の発生から現在の成熟段階に至った経過を総括しておくことは、創生期からPVC工業に携わってきた者としての義務のように思われる。

 そこで、「化学経済」編集部からの薦めもあって、今回からわが国のPVC工業について、産業としての変遷の過程、PVCの技術としての展開過程、環境問題とのかかわりとその技術的対応の過程、さらに世界の先進国および発展途上国にむけるPVC工業の動向、先進国におけるPVC需要の変遷などを検討し、その中から21世紀におけるわが国のPVC工業の向かうべき方向を探ることを試みたい。


1)はじめに
 わが国のPVC工業についての歴史的総括の第1回目として、歴史的な概要を述べ、その中で、今後連載していきたい項目を整理しながら、大まかな構想を示したい。

 わが国のPVC工業の前史ともなる、第一次世界大戦までの欧米におけるPVC技術の展開の状況と、戦中・戦後におけるわが国でのPVC工業の黎明期の活動を古い文献にある表を復刻する形で掲載するとともに、わが国PVC工業の変遷の中での、産業、技術、環境、需要、海外動向などにおける、主要なポイントを整理し、連載の構想とする。

2)わが国のPVC工業の前史

2−1 PVCの欧米における技術の展開
 PVCの欧米における技術の展開やわが国の戦前・戦中における開発の状況については幾つかの文献(1〜8)に述べられている。ここでは欧米における第二次世界大戦までのPVC技術の展開についての年表を
第1表に再録する(6)。これらの文献も古くなっているので、少なくとも表だけでも復刻しておく意味もある。

第1表 欧米におけるPVC技術の発展

 

年代 事項
1835 MV Regnault(フランス)VCLモノマー発見
1838 MV Regnault(フランス)VCLの重合体観察(PVC発見の最初)
1872 E. Bauman(ドイツ)紫外線によるVCLの重合(塊重合)
1912 I.  Ostromiuslensky(ロシア後に米国)VCLの重合(紫外線、塊重合)
  F. Klatte(ドイツ、Griesheim社)金属塩化物によりアセチレンと塩酸よりVCL合成  VCLとの共重合体一酸化物の触媒効果を認む
1914 Griesheim社(ドイツ)VCLの重合、工業用としての用途(工業的応用の基礎)
1920 Staudimger(ドイツ)高分子物質の概念提案
1921 H. Plauson (米国)VCLの重合
1920 E. Ried(米国)VCLの共重合
1920代末 IG(ドイツ)PVCの研究開始
1930 C.O. Young(米国CCC社)VCLの重合特許
1931 DuPont(米国)VCLの重合特許*
1932 1G(ドイツ)VCLの重合特許*
1933 W.L. Semon(米国 B.F. Goodrich社)PVCの可塑剤特許(世界最初)

(TCPなどのエステル系可塑剤)

  CCC(米国)VCLの重合特許(共重合、溶液重合)(酢酸ビニルとの共重合→不燃性セルロイド)
  CCC(米国)小プラント建設(“Vinylite”(共重合体)市販)
1934 IG(ドイツ)乳化重合によるVCLの重合特許
1935 IG(ドイツ)工業生産に移る(Igelit, Mipolam 市販)
  ICI(英国)パイロットプラントによる生産
1936 BF Goodrich(米国)懸濁重合によるパイロットプラント
1937 CCC(米国)懸濁重合によるVCLの重合特許
1938 IG(ドイツ)懸濁重合によるVCLの重合特許 CLの重合特許*
1939   ナイヤガラフォールにプラント建設
1942 B.F. Goodrich ルイビルに大量生産プラント建設

(注)1.* その会社における最初の特許 2.VCLは塩化ビニルモノマー      
   3.CCCは後のUCC

この年表から、歴史的に重要で、しかも興味ある事項を個条書き的に以下にまとめる。

@モノマーが連鎖的に結合して高分子になることを提唱したのは、1920年代の初めにドイツの Staudingerであるが、それ以前に塩ビモノマー(VCM、表ではVCLとなっている)を重合して、それを工業用としての用途を考えていたことは興味あることである。
 「科学」よりも「技術」が先行して展開する例の1つである。新しい技術が生まれる時は経験の積み重ねである技術が、何となく形成され始める。これを理論的に整理する形で科学が確立されていく。ある領域の科学が確立されると、その領域の技術は急速に展開するというのが、一般的な技術発展のパターンである。

A Staudingerによる高分子の概念の確立によって、ポリマー合成への科学的根拠が与えられた。それ以後急速に合成繊維、合成ゴム、そしてプラスチックの研究がドイツと米国で展開する。とくにPVCの展開は著しく、1930年代の前半にはドイツも米国も工業生産段階に入っている。常温で気体の塩ビモノマーを、40〜60℃の温度でどのように反応をさせたか、各種装置の材料、耐圧シール法など、当時の技術レベルでは、その苦労は並大抵ではなかったものと思われる(6)。

B第二次世界大戦が始まって、米国ではナイヤガラフォールやルイビルでPVCの大量生産が政府主導で行われるが、これは日本の真珠湾攻撃で、軍艦が爆撃以上に破壊されたのは、艦内に張り巡らされた当時ゴム被覆であった電気配線の束の火災によることが分かり、電線被覆に難燃のPVCを用いるべきであるとして、急ぎ政府によって工業化が促進されたという話が、小山寿の著書で、PVCの章の冒頭に書かれている(9)。それ以後、PVCは電線被覆材として貴重な位置づけを獲得している。わが国のPVCも電線被覆から始まっている。これだけの歴史を持つPVC電線被覆を、最近みられる「脱PVC」として、安易に電線被覆材を他の材料に転換できるものであるかどうか、再考すべき問題であろう。

2−2 わが国の戦中・戦後のPVC開発過程
 わが国のPVC工業についての初期(1935〜1963年)開発の過程が、
第2表に示すようにまとめられているので、これを再録する(7)。

 

第2表 塩化ビニル樹脂(PVC)の日本における発展経過

年代 一般情勢と製造技術 加工技術 需要
1935 日本においてPVCが注目されはじめる(欧米ではすでに工業化の段階にはいり商業生産開始)    
1937 日本窒素カ一バイド・アセチレンを利用してPVC研究計画    
1939 欧米からPVC商品見本国内に入りはじめる。北村商店が中心となり電線メーカー、有機合成メーカーによるIGからPVCの組織的な輸入 射出成形機ドイツから1台輸入(日本窒素水俣工場に入る) UCC“Vibtlite”

IG“Igelite”

日本窒素“ニッポリット” 

 PVCと塩ビー酢ビ共重合体の2品種

1941 日本窒素によってPVCパイロットプラント運転(乳化重合)

日本窒素 本格的量産プラント(3トン/月)運転開始

大日本セルロイドPVC生産

戦争中の加工技術

加工機械はゴム用ロール、カレンダー押出機を電熱加熱式に改良して使用

可塑剤はセルロイド用のTCP,DBP,TPPなどを流用して使用

安定剤は鉛白、リサージなど使用

加工性の点で主としてニッポリットの酢ビ15%の共重合PVCが使用された

PVCの品質と需要

重合度低く、不純物が多く熱安定性、電気絶縁性が不良

軍需品、繊維として試作が行われたが有効需要は開発されなかった

 

1942 古河電工大井町研究所でPVC製造研究
1944 横浜ゴムー部生産開始(懸濁重合)
1945 終戦 日本窒素水俣工場爆撃で工場破壊
1946 東京芝浦電気 中間プラント(50kg/月)生産(乳化重合)

横浜ゴムPVC生産再開(500kg/月)

1947 CIE図書館開放、図書輸入開始によって欧米のPVC発展事情が分かる
1948 米国のミュールズタインからPVCのスクラップ輸入(27トン)

ビニル懇話会発足(重合度測定法の確立目的)

PVCスクラップ十数仕に分配され、検討の結果、加工技術について自信を持つようになる PVCの将来性への確信と国産PVCの品質の低いことの認識
1949 三井化学(旧)、三菱化成、鐘化、鉄興杜、東亜合成などPVCメーカーの出現

30社近くのPVC企業化計画

通産省、PVC5カ年計画を発表

PVC、可塑剤(とくにDOP)、安定剤の輸入開始

PVC加工メーカーの出現(川口ゴム、長浜樹脂、東洋化学など)

国産PVC(乳化重合品)が出まわりはじめる

フイルム、シートなどの日用雑貨品として少しずつ市場に出るようになる(軟質PVC)

加工メーカーを中心として乳化重合から懸濁重合への要求強まる

1950 研究開発共同化

カーバイド産業研究会一PVC部会

高分子化学協会一標準試験法研究会

東工試水谷研究室一PVCについての共同研究

DOP国産化共同研究会

東部ゴム工業合一PVC分科会(加工メーカー組織化)

古河電工テッスラー電線連続被覆装置輸入(大型プラスチックス押出機では最初)

PVC加工講習会などが東京、大阪で開かれる

 

 

1951 三菱モンサント技術提携によってPVC生産開始(懸濁重合) DOP可塑剤国産化開始

加工機械の本格的輸入開始

東亜合成など硬質パイプに興味をもつ
1952 日本ゼオン技術提携によってPVC生産開始(懸濁重合)    
1953 PVCメーカー縮小され十数社となる

乳化重合から懸濁重合への全面切りかえに成功

塩化ビニル協会結成(統計資料のまとめ開始)

加工機械の国産化開始

硬質パイプ製造開始(輸入ツインスクリュー押出機による)

安定剤国産化開始

ペ一ストレジン国産化開始懸濁重合による良質の国産PVC出まわる

 

 

1955 共重合製品の出現

日本ゼオン レコード用PVC開発

 

 

パイプ、板、波板などの硬質PVCの加工技術の確立

共重合樹脂

硬質板、レコード、冷蔵庫内張りなど特殊分野へ進出

硬質PVCは投資ブーム、建築ブームによって、パイプ、板、波板として発展

軟質PVCは家庭電化ブームなどにより電線用として発展

農業用フィルムとしても発展

PVCの工業的用途(とくに硬質PVCとして)の開発

 

1958 呉羽化学 低温重合PVC開発
1960 呉羽化学 無可塑PVC開発

石油アセチレンが問題となりはじめる(千代田化工による高分子原料開発組合結成

PVC射出成型開始(射出成形機輸入)
1961 東亜合成 塊状重合PVC製造技術導入(フランスのサンゴバン仕)  
1962 日本ゼオン 耐熱性PVC製造技術導入(米国のグッドリッチ)  
1963 EDC法採用によるPVC第3次増設開始  

 

 この表から、わが国のPVC工業の初期における注目すべき項目を幾つか以下に列挙する。
@1933〜1935年ころに欧米でPVCが工業化されたが、1935年ころからわが国でもPVCへの関心が高まり、北村商店などの商社を通して組織的な輸入が始められ、電線メーカーなど関心ある企業が新しい素材のPVCについて触れ、その用途を考え始めた。

A日本窒素は1941年にPVC国産化(乳化重合)に成功した。大学卒業後まもない若い中村基与志などが活躍する。1944年には横浜ゴムが国産化(懸濁重合)する。これらは空襲で破壊されたりもしたが、敗戦によってすべて中断された。

B戦前・戦中のPVCの加工はゴム用のロール、カレンダー、押出機が応用された。これが戦後PVC加工技術の基になる。したがって、初期のPVC加工メーカーはゴムの加工メーカーが中心となる。可塑剤としてはセルロイド用のTCPなどが利用された。

C戦後、米国からPVCのスクラップ(加工屑)27トンを輸入した。これはGHQ(連合軍総司令部)の強い反対を押し切って実現し、ゴム加工メーカーなど興味を示す企業十数社に配布された。これがPVC加工技術開発の原点となり、初期の国産PVCの品質への批判とその改良への強い要求のべ一スとなった。若い通産省官僚の日比秀次郎などが活躍した。

D1950年ころから、PVCについて品質、物性試験法、可塑材などについての産・学・官での共同研究が熱心に行われている。これに企業の枠をはずして参加した古谷正之などの当時の若い技術者が、わが国におけるPVC工業の発展の力となった。

E1955年には、わが国ではすでにパイプ、板、波板などの硬質PVCの加工技術が開発されていた。欧米ではまだ軟質PVCが主流であったのに対して、わが国は1963年にはすでに硬質と軟質がそれぞれ50%になっていた。これ以後、日本は硬質分野において世界をリードすることなる。これらの技術開発も、企業の枠を超えた若い加工技術者たちの同志的な協力によるものである。

3)わが国PVC工業の変遷の概要
 わが国のPVC工業の歴史的推移を第1図に示す。

 横軸は年代で、縦軸は月ごとのわが国PVCの生産能力、生産量、輸出量を示している。生産能力と生産量のギャップは単月でみると、その時の稼働率を示している。網がけした黒い面積でみると、それはその時期におけるPVC工業の不況の状況を表している。実際にわが国経済の好不況の波とよい一致を示している。

 第1図に従って、わが国PVC工業の変遷の概要をみることにする。
 1955年から1970年までは生産能力も生産量も指数関数的に急上昇している。いわゆる高度成長の曲線を示している。この間にも不況が3回ほど起こっているが(小さい黒い面積部分)、これは高度成長中に起る在庫調整不況といわれるものである。この不況を挟んだ好況期間を1955年から「神武景気」、1959年からを「岩戸景気」、1963年からを「オリンピック景気」、1967年からを「高天原景気」と呼んで経済成長を謳歌した。わが国の経済高度成長とともにPVC工業も大きく発展した。

 しかし1970年に入ると、需要は急激に停滞することになり、すでに高度成長の延長線上で計画された設備能力と実生産との差が急に大きくなることになり、図の黒い面積が大きく連続的になる。わが国におけるPVC需要が一巡して、市場が飽和化した段階に入ったとみることができる。また、長期にわたる稼働率の低下はPVCメーカーの収益性を大きく圧迫することになった。

 1973年と1979年の2回、世界的な石油ショックが発生し、図でみられるように、この時期には仮需によって一時期生産は上がるが、翌年には急激に低下している(10)。この状況は1980年代の前半まで続き、いわゆる「構造不況」といわれる状態となった。

 1982年塩ビ業界は政府の指導によって不況カルテルの1つとして、共販会社を設立した。これは当時の17社のPVCメーカーを4つのグループに分けて、販売についての共同販売会社をつくり、不況下での過当競争を抑制しようとしたものである。構造不況はポリオレフィンの業界も同じであり、PVCに続いてポリオレフィン業界も共販会社を設立した。図の生産能力の推移でみられるように、塩ビ業界は共同で、1972年、1981年、1984年の3回にわたってPVCの設備廃棄を行っている。せっかくの設備を壊すという不思議とも思えるわが国の不況対策である。

 1985年ころから、政府は景気対策のための内需拡大策として大幅な金融緩和を行った。それに伴って上地や株などの資産インフレが起り、それらに支えられた消費ブームは、わが国のあらゆる産業に表面上の活性化をもたらし、久しぶりの好況となり、1991年まで約7年間続いた。後にこの景気を「バブル景気」と呼ぶようになった。1992年にはバブルは崩壊し不況に入るが、バブル期の膨大な不良債権などと重なって、わが国は国際的にも地位の低下をもたらす長い「平成不況」に突入することになった。

 PVC工業もこのバブル期には、生産量も急激に増加し、生産の能力もそれに対応して拡大して行った。またバブルの好況期を契機に、業界としての共存のための自主規制もなくなり、共販会社も消滅する方向に進んで行った。

 平成不況に入ってからは、PVC工業の採算はますます悪化していった。これはまさにわが国PVC業界の構造の問題であることが明確となり、1995年にはPVCメーカーの日本ゼオン、住友化学工業、トクヤマ(サンアロー)の3社が、PVCの生産・販売を親会社から切り離し、PVC部門を合併して新第一塩ビを設立するに至った。同時に東ソー、三井化学、電気化学工業の3社も、大洋塩ビを設立した。また、2000年にはさらに撤退、委託生産などでPVCメーカーが整理再編された。

 この間、PVCの国内需要はバブル崩壊後急激に低下したが、1990年代に入ってからは、中国やASEAN諸国など東アジアでの経済成長とそれに伴うPVC工業の発展が始まり、大量の輸入が行われるようになった。それによってわが国の輸出も毎年その量を更新するほど多くなり、第1図に示すように輸出によって、生産能力を補っているという状況が続いている。

 これらの歴史な概要からみても、わが国のPVC工業は20世紀末には、完全に成熟段階に入ったということができる。


4)PVC工業の歴史的に重要なポイント

 以上のような歴史的な流れの中で、産業、技術、環境問題、需要構造の変化などの各視点から、わが国のPVC工業に、ある転換点をもたらしたような重要なポイントを上げて、それぞれについて以後の連載で具体的に検討することにする。ここでは各主要なポイントを羅列的に示すだけにする。

4−1 PVC工業の産業としてのポイント
 産業としての経緯は第1図に示したが、主要なポイントを列挙する。

@戦後多数のPVC工業への参入計画(1945〜1950年)

A塩ビモノマー(VCM)原料のアセチレンからエチレンヘの転換(1960年代後半)

Bエチレン大型化、電解大型化に伴い、PVCへのソーダメーカーの参入(1970年代初)

C構造不況による、共販会社の設立と設備廃棄(1982年)

Dバブル景気による共販体制の崩壊と生産能力アップ(1985〜1991年)

Eわが国のPVC工業の採算性と過当競争体質(1970年以降)

F合弁会社設立と業界の整理統合(1995年以降)

4−2 PVCの技術展開のポイント
 VCM,PVCについての技術の展開の推移を
第2図に示す。これから主要なポイントを以下に列挙する。

第2図 生産技術の変遷

年代 1950 1960 1970 1980 1990
原料製造          
 炭素源 カーバイドアセチレン 石油化学スタート エチレン大型化    
 塩素源 水銀電解法増加       イオン交換膜法に転換  
モノマー製造 カーバイドアセチレン/塩酸合成法      
    オキシクロリネーション法への転換 空気酸化から酸素酸化へ
ポリマー製造 懸濁重合法への集約   プロセスクローズ化 クローズ化レベルアップ
(汎用品)   懸濁重合品の品質改良   設備の大型化・生産性向上
重合器容量  420 m3  1050 m3 4060m3(127m3)     60154 m3
重合生産性      12 t/m3・月 18 t/m3・月 25 30 t/m3・月
ポリマー品質 懸濁重合易加工

樹脂の国産化

強化剤、加工助剤、グラフトなど特殊品出揃う ドライブレンド

高速押出への対応

品質の高度化、多様化 造粒べ一スト出現
需要構造 軟質雑貨主体 硬質主体に転換   土木・建材の比重高まる

 

@乳化重合による初期の国産化から、懸濁重合への転換(1950年代)

A汎用PVCの懸濁重合への収れんと加工技術の懸濁重合粒子に依存しての展開(1970年代)

B重合器の大型化の推移とスケール付着防止技術開発との関係(1970年代)

C生産性の向上(トン/m3・月)と重合器の除熱方式の開発(1980年代)

D品質の向上ー残留モノマーの削減、かさ比重のコントロール、フイシュアイの低減(1970〜1980年代)

E製造プロセスのクローズドシステム化(1970〜1990年代)

Fぺ一スト製造技術の展開ーマイクロサスペンション法と乳化重合法によるぺ一ストPVC(1960〜1970年代)。ぺ一ストPVCの造粒、穎粒化技術(1980〜1990年代)


4−3 PVCにおける環境問題と対応

 PVCはその分子構造の中に塩素を含んでいるために、特徴あるプラスチックとなっている。しかし一方、この塩素はさまざまな場面での環境問題の原因となる。また軟質における可塑剤も問題となっている。これらの問題への対応の展開を示す。

@VCMモノマーの発ガン物質問題ー残留モノマー規制と製造プロセスのクローズドシステム化(1970年代)

Aダイオキシンの発生とPVC(1990年代)

B廃棄物間題ー産業系PVC廃棄物のリサイクルのシステム化と家庭系(一般系)廃棄物の問題点(1970年代〜1990年代)

C軟質PVCの可塑剤と環境問題(1990年代)

5)PVC工業の今後の方向

5−1 世界のPVC工業の動向
 世界のPVC工業の動向をみて、今後のわが国の方向を探る。それには先進国の状況とアジア諸国を中心とする発展途上国の状況をみる必要がある。

@北米、EUなど先進国のPVC工業の動向

A中国、ASEAN諸国の発展途上国におけるPVC工業の動向

B先進国におけるPVC需要構造の推移とその比較

5−2 わが国PVC工業の進むべき方向

 以上の各項目における検討から、21世紀におけるわが国のPVCの進むべき方向を検討する。

@クロールアルカリ工業の側面からのPVCの位置づけ

A21世紀における発展途上国の経済成長に伴う、地球の資源と環境問題からのPVCのあるべき方向

BPVCの本当の特徴を生かす今後の技術と需要の方向

6)おわりに
 連載の第1回目として、PVCについての初期の技術的な展開とわが国PVC工業化の初期の段階について、古い文献の2つの表を再録して簡単に整理した。また、わが国のその後の展開について、その概要を示し、今後この連載で取り上げるべきポイントを羅列的に示した。

 今後の具体的な作業の中で、その内容はいくらか変わっていく可能性もある。また、今回示したポイント以外に、これはどうしても入れておくべきだというポイントについて、ご指摘があれば、ぜひご意見をお寄せいただきたい。

文献
 1)小山寿、「日本プラスチック工業史」工業調査会(1967)
 2)近畿化学工業会、「ポリ塩化ビニルーその化学と工業」朝倉書房(1961)
 3)近畿化学工業会、「ポリ塩化ビニルーその化学と工業」朝倉書房(1966)
 4)近畿化学工業会、「ポリ塩化ビニルーその基礎と応用」日刊工業新聞社(1988)
 5)塩化ビニル工業協会、「塩化ビニル工業30年の歩み」(1985)
 6)化学技術史研究会(佐伯康治、脇一郎)、化学経済、〔1〕、100(1965)
 7)平木道夫*、科学朝日、〔I〕、155(1965) *(佐伯康治)
 8)古谷正之、「塩化ビニル樹脂」プラスチック材料講座14、日刊工業新聞社(1961)
 9)文献1)のP.287
10)北村哲三、エコノミスト、9月4日号、P.40(1973)

 

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