農薬事業部   1975年9月〜1980年2月 (2/28住化アメリカに着任)           ←目次へ

 

1975年9月 農薬事業部営業課に転任。
のち、業務課ができ、営業課 兼 業務課勤務。

転任時のトラブル

 1975/6に米国のスミチオン(SMT)の生産JVのMount Pleasant Chemical(MPCC)が設立され、翌年春にはNew York駐在員事務所を住化アメリカ(SCAI)に改組することが決まっており、JVの運営を含めて担当を派遣することとなっていた。
 礒嶋経理部長からはこれを前提に農薬事業部に転任すると説明があった。
 しかし農薬事業部の森本副事業部長は農薬事業部の要員として受け入れたとし、SCAIには企画部から出すよう主張、高嶋企画部長と対立した。
 結果的に企画部が降り、MPCC計画を担当してきた中本氏を出すこととなった。(4年後に筆者と交代)


農薬事業部

 当時の営業課の業務は国内の農薬と家庭用殺虫剤の営業と事業部業務であった。当時の農薬事業部は生産を化成品事業部に委託していた。
 筆者はこのうち家庭用殺虫剤の営業(関西)と業務を担当した。(後、業務課ができ、営業課と業務課の兼務となった。)

 家庭用殺虫剤では大日本除虫菊(金鳥)、フマキラー、アース、ライオンかとり、その他和歌山地区の線香メーカーが需要家であった。(家庭用殺虫剤の歴史、状況:添付)
 ピレスロイドは当社の独占で、売価は当社で決めて通知するというものであった。
 問題は独占であるがために業界秩序維持の責任もあり、エクスミンのような新剤が出た場合に各社の進出を抑える仕事もあった。
 また大日本除虫菊との関係が問題であった。同社の勝田氏が新しいピレスロイド(Furamethirin:商品名ピナミンDF)を開発し、独占が破れるのを恐れた住化はこれを買い取るとともに、将来の新剤に対して大日本に優先権を与えた。これは他社には秘密にしていたため、大日本と他需要家との板ばさみになった。

   住化のピレスロイドの歴史については別紙参照

 事業部業務ではMPCC計画と三沢計画を担当した。
 当時は公害問題が発生し、農薬の生産立地が問題となっていた。大分でのSMTの増産が不可能で、他の国内立地もないために米国に進出したのがMPCC計画であったが、大阪の此花区の酉島工場(周囲が住宅地)でのピレスロイド(ピナミン、ネオピナミン)の生産が将来難しくなると考え、青森県三沢に新工場をつくり移転しようとしたのが三沢計画であった。当時の酉島工場の生産能力が150t/yであったのに対し、将来を考えて倍増した。
 既述のとおり農薬事業部は生産を化成品事業部に委託しており、SMTとピレスロイドの新立地検討も化成品事業部(SMTは企画部と共同)であった。農薬事業部は化成品事業部に対して供給責任を要請するだけであった。

三沢計画

 1975年頃の雰囲気はMPCCよりも三沢が大変というものであった。MPCCについては大分能力と同規模であり当初は苦しいがSMTの需要拡大には自信をもっており、将来的には全く問題視していなかった。
 それに対してピレスロイドは同じく能力倍増だが、競合のケニア、タンザニアの天然除虫菊が1974/75シーズンには15,300tと最高水準となっていた。このため三沢工場は長期間低操業になるのではないかと懸念された。
 しかし工場完成前に旱魃のために両国の天然除虫菊の収穫が激減し、穀物への転作もあってその後全く勢いがなくなった。このため工場完成時には倍増能力が売り切れ、増設を考える必要が出るまでになった。
 1978年春に三沢工場の竣工式が行われ、筆者も出席した。実は需要家の団体の殺虫剤工業会のメンバーを招待することとしており、前日に東京、大阪から青森空港に入り、蔦温泉で一泊して三沢に入る予定であった。しかし前日に全日空のストがあり、中止となった。(1ヵ月後に実施)

MPCC計画  (
MPCCの歴史、経緯については別紙参照)

 1975年末に中本氏と米国に出張し、住化アメリカ(SCAI)の設立調査を行った。1976年5月にSCAIが設立され、中本氏(38年入社)がTreasurerとして赴任した。同時に米国での農薬事業のために農薬開発部長として佐藤氏(36年入社、故人)と農薬営業部長として近藤氏(36年入社)が赴任した。
 筆者は業務担当として、Staufferとの諸交渉に参加するとともに、SCAIの日本側受け皿として調整役となった。

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