「四国88ケ寺徒歩巡り」体験記

        
石川信太郎        
hs.ishikawa@dream.com

 

第一回 出発への思いと準備

第二回 発心の道場(徳島)

第三回 修行の道場(高知)

第四回 菩提の道場(愛媛)

 

第五回 涅槃の道場(香川) と むすび

    66 雲辺寺  67 大興寺
68 神恵院  69 観音寺
70 本山寺  71 弥谷寺
72 曼荼羅寺 73 出釈迦寺
74 甲山寺  75 善通寺
76 金倉寺  77 道隆寺
78 郷照寺  79 高照院
80 国分寺  81 白峰寺
82 根香寺  83 一宮寺
84 屋島寺  85 八栗寺
86 志度寺  87 長尾寺
88 大窪寺

11月8日、歩き遍路を始めてから丁度40日目の朝5時に起床し、伊予・川之江市の民宿大野屋を7時に出立しました。向かうは涅槃の道場(香川県)最初の寺である66番雲辺寺であります。今にも雨が降りそうな曇り空でありました。雲辺寺の住所は徳島県・池田町でありますが、直ぐ隣が香川県で県境にあるということで涅槃の道場に入っているようです。海抜910M、88の寺の中では最も高い山岳寺院であります。

道は伊予・川之江市から阿波・池田町への国道192号線を歩き、約14キロの雲辺寺口より急峻な山道のへんろ道を登って行きます。約2時間かけて登りきったところが雲辺寺で、ところどころに数日前に降った雪が残っており、この時期としては少し寒すぎたようです。しかし、さすが雲辺寺は山全体が境内となっている一種独特の風格をもった寺という印象が残っております。天気がよければ讃岐平野が一望出来るようですが、あいにくこの日は曇りがちで、風も強く、早々に下山することにしました。

山頂の食堂でおにぎりと讃岐うどんの昼食をとった後、海抜910Mから一挙に平地までのへんろ道をロープウェイを左手に見ながら降り、67番大興寺に午後3時に参拝しました。そしてこの日の宿は近くの「民宿おおひら」(香川県三豊郡山本町)に前日予約を入れておりましたので早々に着き、ゆっくりすることが出来ました。歩き遍路は午後3時から5時頃宿に入るのが普通で、夕方から朝の起床までは食事時間を除き、風呂に入ったり、洗濯をしたり、テレビを見たりとするのが大半になります。しかし、この日は翌日からのスケジュールをどうするかといろいろ思案をしたのであります。特に涅槃の道場(香川県)は163キロと短い距離の中に23の寺があり、距離と時間で参拝する寺と宿をどうするかで悩むことになります。

私はここで明日9日の68番恵院(観音寺市)から最後の88番大窪寺(大川郡長尾町)までのスケジュールを試行錯誤し、組み立てたのであります。予定通り行けば14日の45日目に結願出来そうだと分かると何か落ち着かず、嬉しくなってなかなか寝付けなかったのを覚えております。人間不思議なもので先が見えてくると、いろいろ考えるもので結願後はどうしようかとか、高野山へはどうして行こうかとか思い悩むのであります。これも涅槃の道場に入っての心の変化であったのであろうか?

68番恵院と69番観音寺は同じ境内の中にあり、88の寺の中で唯一同時に参拝と納経が出来、歩き遍路にとって何か得したのか損したのか妙な気分にさせられました。この後70番本山寺、71番弥谷寺(いやだにじ)、72番曼茶羅寺、73番出釈迦寺と六つの寺を約30キロの平坦な道を歩き、夕刻に民宿「門先屋」(讃岐・善通寺市)に入りました。特に印象に残ったのが71番弥谷寺で、平地から海抜200Mまで階段を登ることになります。どこも寺には階段かつきもので、おそらく88の寺の中では階段を登るについてはここが一番長く、厳しいアプローチであったと思っております。特に9日は土曜日の休日とあってマイカーの家族連れの一般参詣客や団体バスツアーの遍路で土産物屋の建ち並ぶ参道が埋めつくされておりました。おそらくこの周辺では有名な「お寺」なのでしょう。

11月10日、今日も平坦な讃岐平野にある多くの寺を訪ねることになりました。74番甲山寺、75番善通寺、76番金倉寺、77番道隆寺,78番郷照寺の五つの寺を訪ね、夕刻に坂出駅前の「松の下旅館」に宿泊しました。75番善通寺は弘法大師・空海が生まれ育った寺で、88の寺の中では最も格の高い寺ということになります。お寺近くの売店のおばさんに聞いた話では空海の母親は中国人であったそうです。おそらく空海は幼少のころより中国語がある程度理解出来ていたのでしょう。空海が西暦804年に遣唐使として中国に渡った時、船が遭難して中国・福州に漂着し、空海の中国語の会話カと作文力によって一行が救済されたという有名な話がありますが、これもなるほどとうなずけることが出来ます。日本歴史に残る天才・空海のふるさとを訪ねることが出来、その感慨もひとしおでありました。

80番国分寺の後は坂出市から高松市にいたる丘陵地の海抜280Mの81番白峰寺(坂出市)と海抜360Mの82番根香寺(ねごろじ・高松市)があります。ここでは山の紅葉がすばらしく、心が洗われる気持ちでした。北海道の札幌から自転車で来たというN氏とともに「もみじ」をバックに記念撮影をしたのが昨日のように思い出されます。さらに進んで高松市の観光地にもなっている84番屋島寺、85番八栗寺をケーブルカーを横目に見ながら、歩道を登ったのも強く印象に残っております。この後13日には86番志度寺、87番長尾寺を参拝し、午後4時に長尾寺近くの「やなぎや旅館」に入り、翌日の結願に備えるべく午後8時に就寝したのであります。

 

11月14日の朝は曇りがちの晴れと言ったところで、宿を出て88番大窪寺へ向かったのが午前7時でした。大窪寺への道は平坦な一般道(約16キロ)と海抜760Mの女体山越えのへんろ道(約13キロ)の二つがありますが、私は難所と言われる女体山越えを選びました。実際登ってみると一部険しい岩道があるものの、これも難なくクリアーして午前10時半には女体山頂上に着くことが出来ました。頂上からの跳めは曇りがちでいまいちでしたが、快晴の日であればすばらしい讃岐平野が一望出来たのにという思いでした。女体山を下ればそこが88番大窪寺です。結願を前に頂上で約1時間、ゆっくりと歩き遍路最後の充実した時を過ごし、丁度12時に88番大窪寺に到着したのであります。

大窪寺で納経帳に結願のサインをもらい、これで約1200キロの「歩き遍路」にピリオドを打つことが出来ました。しかし、出発前に抱いていた結願の感激というものはほとんどなく、ただたんたんとしたものでした。これも時間の経過とともにこみあげて来るものだと解釈し、88番大窪寺をあとにしました。

思えば10月1日に1番霊山寺を出てからの44泊45日間の旅ではいろいろありました。しかし一番心配しておりました自分の「からだ」についてはずっと快調を維持出来たことが何よりであり、また事故、災難等にも会わず大過なく結願出来たことは全くラッキーでありました。留守を預かってくれた家族をはじめ、同行してくれた歩き仲間、接待してくれた人たち、道を教えてくれた地元の皆さん、宿でお世話になった女将さん等々の多くの関係者に率直に感謝申しあげたいと思っております。

この後、結願当日の11月14日夕刻に1番霊山寺へお礼参りに戻り、17日に弘法大師・空海が開祖した和歌山県・高野山を訪ねております。四国88ケ寺を巡拝した遍路は皆さん高野山に参り、納経帳なりにサインをしてもらうようで私も同じようにやって来ました。18日はこれも弘法大師・空海が国から管理を任されたという京都の東寺を訪ね、夕刻新幹線にて49日ぶりに東京・墨田区の我が家に帰宅したのであります。

 

結願後、約半年になりますがよく人に「何か心境の変化はありましたか?」と聞かれますが、「特別自分に心境の変化のようなものはありませんよ」と答えております。事実、日頃自分の行動や心に変化があるわけでもなく、歩き遍路に出る前と同じで淡々としたものです。ただ、この体験記を書くうちにようやく「歩き遍路」の達成感のようなものが湧いて来ることがあります。

そして次なる行動として、0番札所と言われる弘法大師・空海が遣唐使時代に学んだ「唐の都・長安の青竜寺」(中国・西安)を訪ねたいことと、3年か5年後にもう一度「四国88ケ寺徒歩巡り」をしてみたいと言うことです。今回の「歩き遍路」でいろいろ体験したことの見直しや体験出来なかったこと等への挑戦も含め、再度歩いてみたいという気持ちがあります。

また、キリスト教国であるヨーロッパのフランスとスペインにまたがる「カミーノ・デ・サンディアゴ」(サンディアゴヘの道)という徒歩巡礼があります。これはフランスからピレネー山脈を越えてスペインのサンディアゴ・デ・コンポステラにあるコンポステラ寺院までの約900キロの道を各寺院を訪ねながら歩くのですが、私の夢としてこれに挑戦してみたいということです。そして実現出来るかどうかはこれからの私の精進次第であるものと思っております。

おわり


青竜寺

青竜寺は唐の長安城の新昌坊に位置し、密教の有名な寺院であった。この寺院は隋の開皇二年(582)に建立されたものである。
初めは霊感寺と称されたが、唐の武徳四年(621)から、一時退廃したが、唐の竜朔二年(662)観音寺として再建されたが、唐の景雲二年(771)青竜寺と改称された。空海のころ青竜寺は、恵果阿闍梨が別当で、当時の密教の重要な道場の一つとして最盛を極めた。密教を求める僧侶が国内外から訪れた。日本からは「入唐八家」のなかの六家(空海、円行、円仁、恵運、円珍、宗睿)が前後にして青竜寺で密教を学んだ。
唐の会昌五年(845)全国的に廃仏事件が起こり、その際青竜寺も廃棄され、皇家の内園となった。その翌年の五月に再び寺院として復活し護国寺と名づけられた。北宋の元祐元年(1086)以降次第に荒廃し、ついに廃虚となり地上から消えてしまった。
中華人民共和国成立後重要文化遺跡に指定され発掘調査が行われた。

 

カミーノ・デ・サンディアゴ