日本経済新聞 2004/8/23
阪大、バイオの起業家塾 象牙の塔脱す「論文より実践」
株式公開が相次ぐバイオベンチャー。元気な経営者を輩出しているのが、「白い巨塔」のモデルにもなった大阪大学医学部だ。かつて教授の座を巡って暗闘を繰り広げた象牙の塔がなぜ、起業家塾に変身したのか。
東大発バイオベンチャーとして有名なオンコセラピー・サイエンス。昨年12月、東証マザーズに上場した直後には時価総額が1200億円を一時突破し、バイオブームを盛り上げた。 3年前に創業した中村祐輔取締役(51)は生粋の大阪人。1977年に阪大医学部を卒業し、94年に東大医科研の教授になった。「医者は論文より実践が大切。大阪人はチャレンジ精神が旺盛や」と遺伝子工学を駆使した副作用の少ない抗がん剤の開発を目指す。
ところかわって九州熊本のトランスジェニック。山之内製薬など製薬大手と相次いで提携し、遺伝子情報の提供では既に定評がある。社外取締役の山村研一熊大教授(55)も78年に阪大医大学院を修了、講師を経て熊大に移籍した。遺伝子を破壊したマウスを使って「治療に役立つ膨大な遺伝子データを収集したい」と起業に踏み切った。
阪大人脈をたぐっていくと、キラ星のようにバイオの起業家が登場する。時価総額ではツムラや小林製薬など準大手メーカーと肩を並べる総合医科学研究所。健康食品の評価試験受託で業績を拡大してきた。その社長である梶本佳孝氏(44)と梶本修身取締役(42)の兄弟も、阪大の出身だ。弟で創業者の修身氏は病気に関連するたんぱく質を見つける技術を在学時に開発、10年前に会社をつくった。兄の佳孝氏は大学で糖尿病の治療法開発にまい進していた。教授候補の呼び声もあったが、学会準備など雑務に追われる生活に嫌気がさし、弟の会社に飛び込んだ。
創薬開発支援のメディビックの橋本康弘社長(48)は4年前、全国に先駆け発足した北海道大学発バイオベンチャーの経営に参画。83年に阪大医を卒業し、米シリコンバレーで「起業ノウハウを学んだ」という。
このほか、松原謙二元阪大教授(70)が創業したDNAチップ研究所や森下竜一阪大教授(42)のアンジェスMGが有名だ。株式公開したバイオベンチャーの創業者の実に6割が阪大出身と東大、京大を圧倒する。
「商人の土地柄だから」(橋本社長)だけでは説明がつかない。何しろ60年代には、小説「白い巨塔」を地でいく派閥争いに明け暮れていたのだ。
疲弊しきった学内を一変させた人物が登場する。山村雄一学長(当時)。学内改革を目指し、70年代に外部の人材登用・交流を断行。さらに、バイオ研究拠点「細胞工学センター」(同)を82年に開く。大学再生の切り札にしようと大物研究者を次々と招へいしていく。
豪華な顔ぶれだった。人間の全遺伝情報(ヒトゲノム)研究の第一人者、松原氏をはじめ、岸本忠三元学長、岡田善雄・千里ライフサイエンス振興財団理事長、谷口維紹現東大教授とノーベル賞候補級の逸材がそろう。民間企業にも門戸を開放し、産学連携のモデルにもなった。
センター設立に携わった松原氏は「阪大はバイオのメッカになった」と当時を振り返る。大学の枠を超えた自由かったつな雰囲気が、ベンチャーを生み出す土壌を作り上げていく。
その山村氏の息子がトランスジェニックの山村熊大教授だ。教授は父の薫陶を受けた岸本元学長に学び、メディビックの橋本社長にいたっては、山村親子の指導を受けた。橋本社長のベンチャー精神をはぐくんだ座有の銘「夢見て行い、考えて祈れ」は尊敬する学長の口癖だ。
一連の改革で、阪大に実学重視、学生のチャレンジ精神を促す空気が次第にみなぎってくる。東大や京大は学術論文を重視し、講座は閉鎖的な面があるという。「京大ではベンチャー志向の研究者が疎んじられた時期もある」(阪大関係者)
細胞工学センターは92年に細胞生体工学センターに改称、2年前、発展的に解消された。今、阪大はアンジェスの未公開株を巡る倫理問題で揺れているが、山村元学長がまいた種は全国に飛び散り、ベンチヤーという形で花を咲かせている。