新第一塩ビの歴史
新第一塩ビは1995年7月、第一塩ビ販売株式会社を改組する形でスタートした。「第一」という名前のとおり、前身の第一塩ビ販売の設立は共販会社として塩ビ業界のみならず日本の樹脂業界で第一番であり、以来、共同生産会社の第一塩ビ製造有限会社の設立、一体化による新第一塩ビ株式会社の設立、さらに損益悪化に伴う改組と、常に日本の塩ビ業界の改革の先頭に立ち、方向づけてきた。
筆者は1984年以降、住化の石油化学業務室に勤務して第一塩ビ販売の運営、第一塩ビ製造の設立、新第一塩ビの設立に関与し、同社設立と同時に同社に移籍、2001年6月まで在籍した。
以下はその間の歴史である。
目次:
6.一体化検討
8.ZEST史
付 1 ZEST-news 1995/7〜2001/6
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付 2 佐伯康治(新第一塩ビ初代社長)著「ポリ塩化ビニル工業の歴史と21世紀の方向」
付 3 日本ゼオン社史より 塩ビ部分
付 4 住友化学社史より 塩ビ部分
付 5 トクヤマ社史より 塩ビ部分
付 6 信越化学社史より 塩ビ部分
最初に「化学経済」連載の佐伯康治(新第一塩ビ初代社長)著「ポリ塩化ビニル工業の歴史と21世紀の方向」から、欧米および日本における塩ビ開発の歴史を転載する。
1 PVCの欧米における技術の展開
(注)CCCは後のUCC
第二次世界大戦が始まって、米国ではナイヤガラフォールやルイビルでPVCの大量生産が政府主導で行われるが、これは日本の真珠湾攻撃で、軍艦が爆撃以上に破壊されたのは、艦内に張り巡らされた当時ゴム被覆であった電気配線の束の火災によることが分かり、電線被覆に難燃のPVCを用いるべきであるとして、急ぎ政府によって工業化が促進されたという話が、小山寿の著書で、PVCの章の冒頭に書かれている。それ以後、PVCは電線被覆材として貴重な位置づけを獲得している。わが国のPVCも電線被覆から始まっている。
@1933〜1935年ころに欧米でPVCが工業化されたが、1935年ころからわが国でもPVCへの関心が高まり、北村商店などの商社を通して組織的な輸入が始められ、電線メーカーなど関心ある企業が新しい素材のPVCについて触れ、その用途を考え始めた。
A日本窒素は1941年にPVC国産化(乳化重合)に成功した。大学卒業後まもない若い中村基与志などが活躍する。1944年には横浜ゴムが国産化(懸濁重合)する。これらは空襲で破壊されたりもしたが、敗戦によってすべて中断された。
B戦前・戦中のPVCの加工はゴム用のロール、カレンダー、押出機が応用された。これが戦後PVC加工技術の基になる。したがって、初期のPVC加工メーカーはゴムの加工メーカーが中心となる。可塑剤としてはセルロイド用のTCPなどが利用された。
C戦後、米国からPVCのスクラップ(加工屑)27トンを輸入した。これはGHQ(連合軍総司令部)の強い反対を押し切って実現し、ゴム加工メーカーなど興味を示す企業十数社に配布された。これがPVC加工技術開発の原点となり、初期の国産PVCの品質への批判とその改良への強い要求のべ一スとなった。若い通産省官僚の日比秀次郎などが活躍した。
D1950年ころから、PVCについて品質、物性試験法、可塑材などについての産・学・官での共同研究が熱心に行われている。これに企業の枠をはずして参加した古谷正之などの当時の若い技術者が、わが国におけるPVC工業の発展の力となった。
E1955年には、わが国ではすでにパイプ、板、波板などの硬質PVCの加工技術が開発されていた。欧米ではまだ軟質PVCが主流であったのに対して、わが国は1963年にはすでに硬質と軟質がそれぞれ50%になっていた。これ以後、日本は硬質分野において世界をリードすることなる。これらの技術開発も、企業の枠を超えた若い加工技術者たちの同志的な協力によるものである。
以上 佐伯康治著「ポリ塩化ビニル工業の歴史と21世紀の方向」から
参考 以下に出てくるVCMの各製法は次のとおり。




住友化学と日本ゼオンの塩ビの歴史は非常に似ている。
日本ゼオンは1950年4月に古河グループの日本軽金属,古河電工,横浜護謨と米グッドリッチ・ケミカルのJVとして設立された。1952年日本軽金属の蒲原工場内で生産を開始、1956年に本拠を高岡に移した。当初はカーバイドアセチレン法でVCMを生産した。
住化は1951年新居浜の菊本でPVCの生産を開始したが、当初はカーバイドアセチレン法であった。
ゼオンは1967年高岡でGPA法VCMの生産の生産を開始した。
その頃住化でも新居浜でSBA・リンデ法でエチレン・アセチレン併産プラントを稼動した。(その後オキシ法に切替)
ゼオンは1968年に水島に山陽モノマーを設立、1969年にPVC生産を開始。
住化は1967年に千葉でPVC生産を開始(VCMは旭硝子)、1969年に千葉塩ビモノマーを設立。
その後、ゼオンは高岡のVCMと汎用PVCの生産を中止して水島に集約、ペーストのみを残したが、ほぼ同時期に住化も菊本のVCMと汎用PVCの生産を中止して千葉に集約し、ペーストのみを残した。住化は菊本での汎用PVC生産中止に伴い、ゼオンに生産を委託した。
トクヤマ(徳山曹達)は他のソーダメーカー(旭硝子、東洋曹達、セントラル)とともにソーダの電解への製法転換に伴い、塩素利用のためにPVC事業に参入した。塩ビ需要増大に伴い電解法ソーダ企業は設備増強により急増する塩素需要にこたえてきたが、これによって余剰苛性ソーダの処理、アンモニア法ソーダの減産などの問題が派生し、これを解決するためアンモニア法ソーダの電解法への転換が進められた。この転換は通産省の指導によって、1965年度を目標に進展したが、同省は転換により増産される塩素は原則として自家消費するよう指導したことから、アンモニア法4社はそれぞれEDCの生産を開始した。
1964年9月、徳山曹達、東洋曹達工業は周南石油化学を設立、東曹内でEDCとエチレンジアミン、徳曹内でEDCとPOを生産した。(同社は1978年に解散)
東曹は自社で1966年南陽でオキシ法VCMを生産し、1974年PVCの生産を開始したが、徳曹は1966年にダイセル、鉄興社とサン・アロー化学を設立し、VCMとPVC(後にコンパウンド、窓枠も)を生産した。
社名の「サン・アロー」は3社のJVであることから、毛利元就の故事に因み「三つの矢」(3 アロー)としたもの。サッカーの「サンフレッチェ」はアローをイタリア語にしたもの
その後、ダイセルが撤退、鉄興社は東曹と合併したため、サン・アローは徳曹100%となった。
呉羽化学は福島県の錦にプラントを持ち、カーバイドアセチレン法でスタートしたが、1964年混合ガス法、1970年原油分解法でVCMを生産した。


呉羽は1976年以降の増設の具体的な方策として旭硝子、日本ゼオン、三菱油化との共同事業(常陽モノマー計画)を検討した。
モノマーの生産規模と各社への配分など、この構想をめぐる関係各社間の交渉は、ほぼ合意に達するところまで進んだ。
ポリマーについても、ほぼ並行して旭硝子や三菱モンサント化成との共同投資の可能性が検討された。重合技術については、呉羽化学の懸濁重合法によることがほぼ決まり、呉羽の技術スタッフは重合缶のスケールアップのための研究を進めた。
この鹿島地区への進出の構想は、肝心の三菱油化のコンビナート拡張計画が、石油危機後の不況の過程で見直しを余儀なくされたために、1976年に交渉が打ち切られた。
1979年 原油分解法VCM設備の一部を休止,旭硝子に生産を委託。1982年 混合ガス法VCM設備を休止,住化,旭硝子に生産を委託した。
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(塩ビ協資料から編集)
4.第一塩ビ販売の設立
共販会社の設立
1979年1月には第2次石油危機が発生し、不況が深刻化した。
塩化ビニル業界は、1981年5月不況カルテルを結成し、事態の打開に全力を挙げが、樹脂生産費の8割以上を占める原材料エネルギー費が大幅に高騰、内需の低迷により生産量も激減して大幅な設備過剰を招いていた。企業収益が著しく悪化し、メー力ー17社の塩化ビニル樹脂部門の収益は1980年323億円に上る経常赤字を計上、翌年はさらに470億円に膨らんだ。

石油ショック時及びそれ以降の塩ビの需要と能力 (単位:千トン) 
危機的状況に立たされて、業界はカルテルの延長を要望したが、公正取引委員会はその際、構造改善を強く求めた。
このため産構法が施行される1年半前(*)の1981年10月、塩化ビニル工業協会主要9社首脳は構造改善策を協議、全17社を4グループに再編成して共同販売(共販)化を目指すことで合意した。4グループとは三菱系、三井系、興銀系、その他で取引銀行系列別に編成され、残り8社に参加を働きかけた。
まず1982年3月に「その他」グループ(住友化学、日本ゼオン、呉羽化学、サン・アロー化学)の「第一塩ビ販売株式会社」が設立され、4月から営業活動を開始した。
以後、公正取引委員会の承認を経て、日本塩ビ販売(三井東圧,鐘淵化学,東亜合成,電気化学)と中央塩ビ販売(信越化学,旭硝子,化成ビニル)がいずれも1982年7月15日に設立され(開業は8月1日)、共同塩ビ販売(セントラル硝子,チッソ,東洋曹達,徳山積水,日産化学)が8月1日に最後に設立された(開業は9月1日)。
第一塩ビ販売は日本の合成樹脂業界で第一にスタートした共販会社である。
* ポリオレフィンその他の共販会社は産構法に基づいて設立されたものであるが、塩ビ共販は上記のとおり、公正取引委員会との交渉に基づき設立された。産構法終了後、共販の「卒業」問題が出たが、公取委は塩ビ共販はMITI所管ではなく、公取所管であるとした。

塩化ビニル業界の構造改善策は別途産構審が審議を急いでいたが、業界自身が一足先に再編、集約化に踏み出した画期的なもので、他業種の産業構造改善にも影響を与えた。
産構法
通産省は、産業構造審議会を中心に事態の打開策を検討していたが、化学工業については1982年(昭和57年)7月同審議会化学工業部会に石油化学産業体制委員会、翌8月同審議会総合部会に基礎素材産業対策特別委員会を設置し、さらに具体策を深めていった。
石油化学業界では1982年10月、各社トップが欧州で意見交換をおこなった。
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高杉良は 「局長罷免 小説通産省」の中でランブイエ会議について以下の記述をしている。
石油化学工業の中核部門であるエチレンセンター13社の社長で編成された石油化学産業調査団が欧米に派遣されたのは、ランブイエ・サミットの7年後である。
同調査団は、欧州の石油化学事情を調査することを目的としていたが、これはあくまでおもて向きで、不況の脱出策を協議することが本来の狙いであった。
利害対立が激しく、メーカー間の相互信頼関係が著しく損なわれていた中で、斎藤(通産省・内藤正久)は各社首脳を精力的に訪問し、調査団の必要性について説いた。斎藤の水際立った根回しの見事さを青山はすぐ近くでつぶさに見ていたのである。
住之江化学の堤武夫社長(住化・土方社長)を団長とする大型ミッションが最初の訪問地フランクフルトに向けて成田空港を発ったのは昭和57年10月2日のことだ。一行は随員を含めて総勢20名、副団長は光陵油化の吉岡正雄社長(三菱油化・吉田社長)と昭栄化学の西本康之社長(昭電岸本社長)。通産省から斎藤ほか2名が参加した。
斎藤の存在なくして調査団はあり得なかったし、その後の石油化学工業の再生、収益改善など望むべくもなかった、といま青山は確信をもって断言できる。
一行は2週間にわたってフランクフルト、ブラッセル、パリ、ロンドンなどを回り、西独BASF社、オランダDSM社、CEFIC(欧州化学工業連盟)、EC委員会、フランス政府工業省、英BPケミカルズ、ICI社などの首脳と意見を交換する一方、円卓会議を頻繁に開催し、不況対策について話し合った。
調査団の帰国後、各社の首脳間に相互信頼感が芽生え、過剰エチレン設備等の廃棄、ポリエチレン、ポリプロピレンなどポリオレフィンの共同販売会社の設立など抜本的な構造改善対策が次々に打ち出され、構造不況に陥っていた石油化学工業は急速に立ち直ってゆく。
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そして、同年12月石油化学産業体制委員会は、「石油化学工業の産業体制整備のあり方について」を通産大臣に具申した。内容は、@過剰設備の処理、A投資調整の実施、B生産・販売の合理化のための集約化、Cコスト低減対策の実施、D海外プロジェクトヘの対応の5項目を骨子とするものであった。
これらの構造不況対策を実施するうえで、政府は特交法の一部を改正し、1983年5月24日「特定産業構造改善臨時措置法(産構法)」を1988年6月30日を期限とする時限立法により施行した。産構法、同審議会基礎素材産業対策特別委員会の具申に基づき、独禁法との関連を公正取引委員会と調整したものであった。
塩ビ業界では4共販会社を発足させて体制整備に本格的に着手したものの、内需の低迷、輸出の不振、輸入の急増という構造不況から脱出することはできず、1982年度の業界の経常赤字合計は400億円強を計上するという深刻な事態となった。
このため産構法の施行により、1983年5月、塩化ビニル樹脂製造各社は連名で、同法による業種指定を申し出た。6月、同業界は特定産業として政令指定され、1985年6月末の目標期日までに「共販会社を核にした生産、流通の合理化」を重点に構造改善を行うことになった。
6月に告示された構造改善基本計画により、塩化ビニル樹脂は全国の年産能力201万tの24%に当たる49万tの重合設備を過剰設備として処理する目標が決まった。この処理の方法は設備廃棄を原則とし、1985年3月末までに処理を完了するなど、ほぼエチレンと同様であった。
また、目標期日までの間、重合設備の新設、増設および改造(当該設備の更新、改良を除く)は行わないことになった。
さらに、共販会社を中心に生産の共同化、生産品種の専門化、二塩化エチレンなどの原料購入の共同化を積極的に行うことなど、生産、販売、流通各分野における合理化の推進を行うことになった。
これを受け、同年11月、業界21社は設備処理と5年間の新増設禁止を主な内容とする協定を結び、通商産業省の承認を受けた。このうち設備処理については経済的負担の公正を期するため調整金(*)を設けて各社別の処理量を決めた。また、事業提携では11月に4共販会社を核とした生産、流通の合理化を進めるための計画が承認された。
結果としては、設備処理目標の年産能力49万t分に対し、処理実施実績は45万t分で目標達成率は92%、残存能力は156万tとなった。
*調整金:
PVCの場合は当初から能力はリアクターの容量で判定した。設備処理についても廃棄するリアクターの容量で計算された。調整金は廃棄m3に対し2,000千円(基準を超えて廃棄する分は4,000千円)を支給することとし、残存m3数比で各社負担した。
住化の場合、193m3を廃棄して 493m3とし, 111百万円を受け取った。呉羽の場合、後刻増設しようとしたのか、実際には廃棄したのに登録しなかった分が128m3あり、243百万円を受け取らなかった。同社は産構法期限切れまでにこの権利を利用できず、損をしたこととなる。
なお、通産省の言うPVCとはVCMが50%以上含まれるもので、グラフト等でVCMが50%未満のものは対象外。
各社の合理化
日本ゼオンは1979年に高岡のGPA法VCMを休止し、更に82年に高岡の汎用品の生産を停止し、水島に集中した。(高岡はペースト・特殊品のみとなり、VCMは水島から輸送した。)
住化では1982年に構造不況対策として不採算8品目(塩ビ、化成肥料、SBR、反応性染料、フタロシアニン系染料、αナフトールクロルベンジン系中間物、アンチゲンRDの8品目)の合理化策がたてられた。
塩ビについては以下の策により、縮小均衡による生き残りを図ることとなった。これにより住化の塩ビ事業の基盤であった菊本にはペースト・特殊品プラントと研究が残るだけとなり、汎用品は千葉の1CV
15千トン、2CV 35千トンの合計50千トンのみとなった。
・菊本サスペンジョンの停止による千葉集中、日本ゼオンとの東西スワップ
・菊本ペーストの合理化
(停止案が出たが、縮小合理化することで継続を認められた。)
・同VCM自製中止(菊本用は鐘化と長期契約を締結し、高砂から海上輸送)
・研究縮小
・日本塩化ビニール(その後の千葉電解)のDI転換による合理化(*)
(*) 住友化学と電気化学は千葉でのVCM製造のための電解からの一貫JV「日本塩化ビニール」を設立した。しかしMITIの指導で旭硝子、日産化学、チッソとのVCM共同生産に替わり、日本塩ビは電化とのJVの電解/EDC会社となった。その後サウジのEDC生産構想により国産EDCの競争力が問題となり、EDCを縮小することとなり、電解に(液塩、次亜塩素酸ソーダの関東での供給基地を求めていた)徳山曹達を参加させるとともに、同社技術でそれまでのダイヤモンドシャムロック隔膜法をDI法に転換することとした。これに伴い、電解部分を千葉電解、EDC部分を千葉EDCと分け、新たに液塩、次亜塩素酸ソーダ生産のための袖ケ浦ケミカルを設立した。
これら各社の歴史は以下のとおり。
5.第一塩ビ製造の設立
第一塩ビ販売株式会社(DEH)での増設検討
1982/2/15 住友化学、日本ゼオン、呉羽化学、徳山曹達の4社は「塩ビ共販会社基本契約書」を締結した。(徳山曹達はその後100%子会社のサン・アロー化学に権利義務を譲渡した。) その第21条では、将来共同投資を目指すこと、品質規格の統一、共同開発を行うこととしている。
第21条 各社が老朽設備の廃棄・更新等を実施する場合は、効率的な生産を行うため、極力共同投資によることを検討するものとし、この目的を円滑に実施しうるよう、製品の品質規格の統一を進めると共に、新品種及び生産技術の共同開発等を推進する。
1982/4 4共販の先頭を切り、第一塩ビ販売(DEH)が営業を開始した。
DEHではブランド統一(「ダイイチPVC」)、スワップ、グレード統合などを行ったが、2代目社長の滝澤氏は将来構想として共同生産を描いていた。上記の第21条をもとに1982/7に技術部会が発足、ゼオンの佐伯氏がヘッドとなって、生産技術の合理化、品質の改良、保安操業などの点から各社の技術の公開を含め交流を図ってきた。
*他の共販会社はポリオレフィン共販を含め、社内は完全縦割りで、他のメンバーに技術を公開する雰囲気ではなかった。DEHのみ、リアクターの中まで完全公開した。
その後1985/6には「塩化ビニール樹脂の共同研究に関する契約書」を締結し、技術の相互公開と共同研究を行って、ユーザーニーズに対応した品質改良等の成果を挙げた。
更に1987/4には将来の共同投資を目指し「次世代PVC重合器の開発の共同研究に関する覚書」を締結した。次世代重合器の候補としては呉羽化学が開発した内部ジャケット法を採用し、同社設備による共同試作を開始した。
それまでの重合器は外部ジャケットであった。

(左図が従来の外部ジャケット、 右図が新しい内部ジャケット)
外部ジャケット(カーボンスチールの外側から水で冷却)の問題点は大型化の場合に伝熱性能が不足し、重合時間が長いことである。重合に6時間程度かかった。
当時は能力制限はリアクターの容量(m3数)であったため、重合時間が短い程、有利で、月に1m3当たり何トンできるかが特に問題であった。
* 当時の住化の平均は13トン/m3/月、第一塩ビ製造は35トン/m3/月を目標とした。
呉羽の内部ジャケットは右図のとおり。
これは呉羽の丹野広正氏の発明で、リアクターの内側にジャケットを置き、薄いステンレススチールを通して冷却するため非常に冷却効果がある。同社は神鋼パンテックと一緒に共同特許を取り、錦工場に45m3リアクターを1基設置していた。しかし、短時間で重合する処方が出来なかったため、他の外部ジャケットのリアクターと同じ使い方をしていた。
技術部会では各社協力し、4時間で重合する技術を完成させた。
4社は共同で用途特許を申請した。1999年に最後のものの結論が出たが、処方のみのものを含め、16件申請し、うち特許となったものは14件(内部ジャケット関連は全て特許化)、拒絶は処方のみのもの2件であった。
共同生産計画
住化では1985年1月、構造不況対策3ヵ年計画(1983-85)の終了に当たり「塩ビビジョン」を作成した。計画が奏功し、塩ビが黒字に転換したことの認識を得るとともに、縮小均衡から拡大均衡への転換を図ることとした。但し、サスペンションについては自社での拡大ではなく、将来、第一塩ビでの共同投資により拡大を図るとした。
その後住化では能力不足から第一塩ビ販売のシェア(20.1%)を常時下回るようになり、なんらかの対策が必要となった。
注 DEHのシェアは設立時に定めたがサンアローの要請で1年後に修正し、その後は変更しないことと定めていた。DEHではシェア未達の場合、未過達調整手続きを取った。未達会社は過達会社に未達数量を協定価格で購入してもらうもの。本来は後にこれを精算することになっているが、住化の場合、絶対的な能力不足でこれが溜まる一方となった。
なおこの方式(DEHのみのもの)は当初から公取にも届けていたが、1993年になり公取がこれを批判した。「共販が本当に一体化すれば、共販会社は品質・距離などから最適の工場から出荷するのが望ましい。それにより共販のメリットが出て、需要家にメリットが還元できる。シェア調整により親会社間の競争がなくなり合理化が進まないとメリット還元もできないではないか」というもの。これに対して未過達調整を表に出さず(内容はそのまま)、以下の説明付けを行うこととした。
・ 第一塩ビ販売が需要家の希望などを勘案し最適プラントから出荷する。
・ 但し各プラントの在庫バランスなどから一部を他のプラントから出荷することも有りうる。
・ 第一塩ビ製造品は同一のため、第一塩ビ販売の判断で調整する。
1988年11月にDEHで将来構想を協議した。各社の考えは以下の通り。
呉羽化学 :当面錦工場増設、
将来は錦をスクラップ、千葉で共同投資*
サンアロー:徳山でのS&Bをやりたい。
ゼオン :当面関東で15千トン希望
将来は水島のS&Bだが、千葉にも乗る。
住化 :当面関東で20千トン必要、将来千葉で共同投資
*錦工場はVCMがなく、小名浜港まで海送、そこからローリーで陸送する必要があり、同地でのS&Bは考えられない。
住化ではとりあえず呉羽に錦での増産・委託等の検討を依頼した。呉羽の回答は、20千トン増産に16億円必要で、うち12億円をTake
or Payで負担して欲しい、加工賃は@27(VCM運賃を入れると @33)というもの。「つなぎ」としては高過ぎる、長期間コミット(Take
or Pay)はきついとして断った。
1989年に住化で共同研究の成果の内部ジャケット方式技術による共同生産案を作成した。
A案:第1期 3CV
55千トン新設(1CV 15千トンスクラップ)
第2期 4CV 90千トン新設(1CV跡地、2CV
35千トン休止)
B案:袖ヶ浦に 90千トン新設
この後の検討の結果、原立地で8万トンの新設が可能となった。
この頃ゼオンでは水島でのS&Bを内部ジャケット方式で実施することを決めた。
*水島工場のL2の老朽35m3x2基を65m3x1基に順次替えていく計画で、2回だけ実施した。
これに対し住化・小松原事業部長が、当初の構想の共同生産で技術を使用すべきだと強く主張した。
*銀座のクラブ麻那古での小松原・佐伯両氏の激論は今でも話題になる。
これを受け89/4にゼオン滝沢社長より住化に対し、長期的視点から4社トップで共同生産の議論をしたいので、案を出して欲しい、必要なら立案に協力するとの申出があった。また別途ゼオンよりペーストの増設を千葉で共同でやりたいとして検討依頼があった。
高岡立地ではやっていけないとし、千葉での共同生産の提案。新設するなら袖ヶ浦しかなく、建設費が高くなりすぎるのでギブアップ。
89/7 DEH親会社社長会で共同生産計画を検討することが決まった。産構法の精神の下で重合機のm3数は増やさず、各社が持ち寄ることとした。なお席上、森社長から、西地区での共同生産も合わせ検討してはどうかとの提案があった。
* 産構法は1988年に終了したが、(増設禁止の)精神はそのまま続けようというのが業界の暗黙の了解であった。(但し、信越化学は産構法で廃棄する筈の設備(鹿島の127m3)を廃棄せず封印してもっていたが、88年の品不足に当たり、通産省と交渉し、中央塩ビの特別枠として稼働させた。)
これを受け各社で検討した結果、ゼオンは2万トン、サン・アローは1万トン、呉羽は2万トン乗りたいとの意向で、以下の案を作成した。
3CV 200m3新設、35t/m3で8万トン
住化3万トン、ゼオン2万トン、呉羽2万トン、サン・アロー1万トン
建設費 80億円
本案について住化のトップは「これまで塩ビに金を使わなかったツケだ」として賛成したが、塩ビに金をかけることには基本的には反対との声もあった。
DEH伊藤社長(ゼオン)は、DEHが能力不足で他共販に負けていること、公取対策(一体化を進めないなら共販をつぶせとの圧力を強めていた)にもなるとして本案を推進したいとした。
またMITIも「将来構想」としてこの案を聞き、共販の一体化の見地からも共同生産計画を早く進めて欲しいとした。
その後ゼオンが消極的になり、2万トンは取れない、遅らせてはどうかとしたが、住化が1CV休止により実質4万トン引き取ることとした。但し住化50%では「共同」のニュアンスが薄まるため、ゼオン枠を表面2万トンとし、ゼオンとの東西スワップを1万トン増やし、西でゼオンから1万トンを余分に引き取ることとした。
89年11月 住化経営会議で基本的にOKとなった。
89年末にDEHでは共同生産準備委員会(委員長 伊藤DEH社長)をつくり、下部にプロセス部会(部会長:住化・河内)、技術部会(部会長:ゼオン・佐伯)、業務部会(部会長:住化・中山)を置いた。運営全般については既に運営委員会(メンバーは、呉羽:段、サン・アロー:福永、ゼオン:長岡・大宅、住化:中山、DEH:小田、中村)ができてきていた。
90/1/22 日刊化学通信にDEH共同生産の記事が掲載された。
第一塩ビの共同PVC設備、新重合技術を採用へ
呉羽・ゼオン・サンアロー・住化の4社の塩ビ部門共同会社の第一塩ビ販売はわが国の塩ビ共販会社として初めて、PVCの共同設備を新設することで準備を進めている。設備規模は年産6〜8万屯となる模様だがこれには採用技術が各社共同研究のコンピューターをフルに利用した新重合技術であり、塩ビ業界の目標となっている屯/m3の30屯台が実現することになろう。この屯/m3の見方だ6〜8万屯の幅のある規模になるとされている。塩ビ業界の一般的な見方はPVC設備は年産202万屯/8700m3となっているので、定修等を考えると平均的な屯/m3は23屯程度となり、第一塩ビの採用技術は大幅アップになるとみられている。なお原料VCMは原則として加入4社のPVC引取り量に応じて供給する。また100リューベの大型重合缶の2基を住化千葉工場内に建設という考え方のようである。
これについてはまだ決まっていないと否定したが、公取が報告がないとして反発、またこの計画は単なる参加メーカーの共同生産であり、ごまかしであると批判した。
公取は産構法期限切れ後も共販体制が続いているのが不満でいろいろの圧力をかけていた。1月末からの塩ビ、ポリオレフィン共販のヒアリングで、産構法期限切れに当たり88/9に共販各社が上申書を出し、「他のグループに属するメーカー又は共販会社と販売面で協調的行動を取らない」としているのに他のメンバーとの受委託が増えているのは認められないとした。またポリオレフィン共販は産構法により出来たが、塩ビ共販の場合はその前に公取の承認で出来たものであり、公取が主管官庁である、また定期的報告を約束しながら自発的報告がないとした。そして産構法期限切れ後も存続するのは販売カルテルの是認として日米構造協議での問題になるとして解散か製販一体化を要求した。
業界紙の記事が公取の批判を避けるためのものと誤解したもので、事情を説明しなんとか了解を得た。
90/3 FSの結果が出た。建設費は当初予想の80億円に対し、BL内外で大幅に増加し、更に工場整備、純水増強などが必要なこと判明し、100億円を越えるものとなった。
引き取りコストは1100タイプで加工費
38.285円/kg(但しフルベース)
1300,1450タイプの場合は変動費、固定費ともアップ。
想定人員(15.7人)、金利は利率8%(当初6%)
これに対し各社は、新規投資としては建設費とコストがこの程度かかること、grass-rootよりも安いことは理解するも、自社工場(旧設備の有効利用可能)での増設と比べ高過ぎるとし、自社S&Bの場合は人員増加なしでやれるし、工場管理費なども増加なしであり、今回の共同投資は各社のS&Bを集めたものなのでなんらかの配慮が欲しいとした。呉羽からは加工費30円以下でないと難しいとの社内意見の表明があった。
住化からは見直し案(VCMタンクなし、想定人員減による引き取りコスト引き下げなど)の提案を行った。またDEHとしてサイロの大幅カットの提案があった。
業務部会では300tサイロ18基が必要としたが、当初は操業度が低いという理由で13基でスタートすることとした。現在でも13基のままで、他に2基分の架構がある。
90/4月、共同生産委員会では最終案をまとめ、各社社内に諮ることとした。合弁契約書、定款についてはほぼ合意を得た。
設備費 9,051百万円(うち 653百万円は二期工事:サイロ残り)
コストは平均 33円/kg、更に蒸気の価格の引き下げを当社で検討する。
5月連休明けに呉羽が来訪。同社の経営会議で4時間にわたり議論したが、採算が問題として再検討せよと言われた。住化は能力不足、ゼオン、サンアローは関東の供給基地確保というメリットがあるが、呉羽としては若干の手直しでかなりの期間、錦工場でやっていけるところからコスト差が大きすぎ、このままではのれないというもの。
対策として住化が供給しているVCMの値引きすることで了解を得た。
5/25共同生産推進委員会を開催、呉羽化学もやっと参加を決定し、各社JV設立で合意した。製品は4グレード(1000,
1000H,1300,1400)で、能力は1000換算とする。
(1300,1400は生産性が84.3%劣る計算。)


5月末に公取とMITIに報告。MITIでは各社のスクラップ計画を問題にした。
業界、MITIでは産構法は終わったが精神は生きているとの考えで、各社のm3数の制限は残っており、増加200m3に対し、各社がどのように減らす計画かが問題であった。
その後の各社説明は以下のとおり
住化 100m3 1CV(114m3)スクラップ(3CV完成後)
ゼオン 25m3 老朽35m3x2→65m3(−5m3)順次実施
サン・アロー 25m3 将来徳山で老朽設備スクラップ
呉羽 50m3 産構法で破棄したが対外的には残存の128m3を利用
実際には住化の1CVだけがやり玉にあがり、3CVの稼働遅れにより休止が延びたのをMITIから批判された。
(MITIとしては某社=信越がうるさいので言わざるを得ないとの言い訳があった。)
最終的に94/10/13にMITIに1CVの設備廃棄届を提出した。ゼオンについては上記のS&Bを2回行い、10m3減らした。その後共販解消後に増設自粛問題は自然解消し、本件についても忘れられた。
6/13 4社共同発表(DEH伊藤社長が代表で発表)
発表文は以下のとおり。
平成2年6月13日
第一塩ビ販売グルーブ 塩化ビニール樹脂製造に関する合弁会社設立の件
呉羽化学工業梶Aサン・アロー化学梶A住友化学工業梶A日本ゼオン梶A第一塩ビ販売鰍フ5社は、下記の通り合弁会社を設立し、新たに塩化ビニール樹脂の製造設備を建設することで合意致しました。
呉羽化学工業梶Aサン・アロー化学梶A住友化学工業梶A日本ゼオン鰍フ4社は、昭和57年8月塩ビ事業をとりまく環境の変化に対応するため共同で「第一塩ビ販売梶vを設立し共同販売を行うと共に、種々の合理化計画の一環として、将来の共同投資を念頭におき現在まで各社の技術の相互公開と共同研究により、製品規格の統一、新品種の開発および新生産技術の確立等に努めてきました。
今般、4社の設備の老朽更新期に当たり、昨今の塩化ビニール樹脂の需要増加に応えるため、第一塩ビ販売鰍含め関係5社で共同開発技術を基に最新鋭の製造設備を建設することにしたものです。
記1.合弁会社の概要
@社名 第一塩ビ製造有限会社(仮称)
A本社 東京都中央区
B資本金 5億円(設立時2億円)
C出資比率 呉羽化学工業梶@ 24%
サン・アロー化学 12%
住友化学工業梶@ 36%
日本ゼオン梶@ 24%
第一塩ビ販売梶@ 4%
D社長未定(住友化学工業鰍謔闡I出予定)
E設立時期 平成2年7月(予定)
2.立地 住友化学工業叶逞t工場内
3.生産能力 80千トン/年
4.製品引取 呉羽化学工業梶@ 20千トン/年
サン・アロー化学梶@ 10千トン/年
住友化学工業梶@ 30千トン/年
日本ゼオン梶@ 20千トン/年
5.採用技術 4社の共同開発技術
6.完成時期 平成4年初(予定)
7.運営 建設、運転その他の管理業務は合弁会社が住友化学工業鰍ノ委託
90/6/14日本経済新聞記事
塩ビ製造設備新設 住友化学など5社共同 92年メド、年8万トン住友化学工業など4社と、その共同販売会社である第一塩ビ販売は共同出資で代表的な汎用樹脂である塩化ビニール樹脂の生産会社を7月に設立、年産8万トンの大型製造設備を新設する。88年3月に塩ビが特定産業構造改善臨時措置法(産構法)の指定業種からはずれて以降、初めての設備新設となる。好調な内需を背景に、石油化学業界では投資リスクの回避を狙いにポリプロピレンなど共販会社を核にした共同投資の動きが広がっている。
新会社の設立に参加するのは住友化学、第一塩ビ販売のほか、呉羽化学工業、日本ゼオン、サン・アロー化学(社長大橋淑男氏)。
新会社は「第一塩ビ製造」で、本社は東京、社長は住友化学から派遣する。設立時の資本金は2億円で、設備稼働時までに5億円に増資する。出資比率は住友化学36%、呉羽化学とゼオンが各24%、サン・アローが12%、第一塩ビ販売が4%。
新設備は92年初めまでに住友化学の千葉工場内に建設する。投資額は80億円。4社の共同開発技術を使い最新鋭の設備とする計画で、既存設備に比べ2倍近い生産性が見込めるという。
生産量は各社が出資比率に応じて引き取り、第一塩ビ販売が一括して販売する。塩ビの既存設備は60年代後半に建設されたもので、老朽化が著しく、設備更新時期にきている。塩ビ需要が今後も順調に推移することが見込まれるため、スクラップ・アンド・ビルド方式による設備増強に踏み切った。新設備完成後に、需要動向をみながら老朽設備を廃棄する。
塩ビの88年生産量は180万9千トン、89年は195万1千トンと産構法の指定解除以後、毎年過去最高記録を更新している。
1990/6/21 化学工業日報社説
新しい風が吹き始めた塩ビ業界の話題
今回、第一塩ビグループによる第一塩ビ製造が設立されることになったのは、設備の老朽化が進む中で、早晩、更新投資を迫られている業界が、共販8年の実績を通じて得た知見と信頼感を基盤に、効果を生産面にまで拡大しようとする理念による。この点からも塩ビ業界に新しい風が吹き始めた、と見ることもできる。
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第一塩ビ製造有限会社の設立

役員は次のとおり。
社長 村本 信幸 住友化学工業梶@取締役
取締役
上田 周二 呉羽化学工業梶@取締役
同
橋本 光正 日本ゼオン梶@ 樹脂事業部長
同 杉 直樹
サン・アロ−化学梶@常務取締役
同
堤 碩 住友化学工業梶@樹脂事業部長
同
小田 博幸 第一塩ビ販売梶@社長(6月総会で新任・呉羽)
監査役 なし
92/11第一塩ビ製造の運営委員会で以下を説明。
工程:各社からは当初予定とおり92年2月完成の要請が出ていたが、スタートの遅れ、人手不足からの業者の見積もり遅れなどから、現状では4月完成がやっとという状況。操業中の工場の横で工事をするため無理ができないという事情もある。
予算:当初予算外の工事40百万円(各社了承)を含め、2億円程度オーバーが予想されるが、引き続き交渉する。
契約関係:技術供与契約、製造受委託契約がまとまり、年内調印予定。前者は採用した技術のなかで各社固有の技術、共同研究の成果の技術を区分し(これの明確化に時間がかかった)、その扱いを定めたもの。
この頃徳山曹達からVCM共同生産の提案があり、検討することとした。
徳曹、日本ゼオンとも将来VCM不足となるため徳山で増設したいが、競争力あるものにするため200千トン程度のものにしたい。ポリマーにあわせVCMでも第一塩ビグループでの共同生産としたい。呉羽にも西地区でのポリマー受託の相談をしておりこの分はのってもらうことで提案したい。半分は自製EDCとしたく、電解も増設したいというもの。
91/2/8 第一塩ビ製造の起工式を実施。
92年5月に、ローリー出荷業務の機械化による無人化起業を承認。
ローリーが入門する段階でローリーに積み込んだ無線の電波で車番を発信、コンピュータで判定して該当ゲート番号を表示。運転手がサイロからローリーに製品を投入、受付で処理された伝票を受け取るもの。(住化で特許申請)
また、7月に千葉工場正門近くに巨大なサイロができ威圧感を与えるため塩ビマークシートで図案(飛び魚とカモメ)をつけることを承認。その後宣伝のためサイロに「住友化学」の表示をつけることも承認(宣伝費を住化から受け取る)。
* 村本工場長の提案で、現在も好評。
(92/5 ゼオンから一体化の提案があり、各社間で意見交換が始まった。)
92/5 操業計画では以下を予定した。
7/1 oil-in
7月、8月は試製造(試製造品を需要家におくり品質チェック)
9月 セミコマ−シャル運転
10月 定期修理
11月 商業生産開始、竣工式
7/27から8/7 まで、4社立ち合いのもとで、2グレ−ド、合計5バッチを試作した。ハ−ド面では順調だが、品質面ではフィッシュアイ、嵩比重で若干問題があった。
4グレ−ド(汎用3グレ−ドとハイバルク品1グレ−ド)のうち汎用3グレ−ドは完成したが、残り1グレ−ド(1100H:呉羽の処方で、新しい3種混合懸濁剤を使用するもの。主にクボタ向け)がいろいろ条件を変えてもスペックに合わず、難航した。呉羽の製造部長以下がほぼ常駐の形で試作に参加した。
汎用3グレ−ドについては初めの段階で当初設定した処方の生産が出来たが、他社がその後、低フィッシュアイ・グレ−ド化を進めたために、この時点ではこのグレードでは当初に想定した大量販売が不可能になったことが判明、処方の変更が必要となった。
92/11/10 未完のままで竣工式を行った。
93年に入ってもうまくいかず、住化でプロジェクト体制を組み、対応した。
6月にバッフル角度の変更、7月に1000Hの重合仕込み手順の変更で、ようやく品質の向上を見た。
この結果、減価償却は93/7から開始した。
(ZESTは95/7に親会社から設備を買い取り、6年償却としたが、3CVは93/7償却開始で8年償却のため、ともに 2001/7に残存簿価10%までの償却が完了することになる)
しかしSDM後に透明球の発生とフィッシュアイでの不合格が発生。その後諸策を講じた結果、94年に入りようやく完成し、2月下旬から懸案のクボタ向けの出荷を開始した。
合わせて品質安定化と汎用グレ−ドの品質改良への取組みを開始した。
低フィッシュアイ化には処方の変更(懸濁剤の種類と量の変更)とコンタミ防止のための non-scale剤の塗布を検討、各社でのラボテストの上で実機テストを行った。品質安定化には酸素濃度管理や操業条件・仕込手順変更を実施した。
9/26第一塩ビ製造 運営委員会で操業状況報告
・8月生産数量は 4,179t,9月は 4,300t の見込みでこの数か月不合格品なし。
・品質問題は解消。他社の低フィッシュアイ・グレ−ド並みとなった。
・付着防止剤テストの結果効果が大きいことを確認、品質問題も発生せず。このためSDM時に残り1基にも塗布設備を設置する。この結果洗浄時間が大幅に減少(94/1 3.71 時間が 0.6時間に)し能力アップに寄与。更に短縮を図る。
94年4月 住化社内で1CV停止問題の打ち合わせを行った。
1CVは10月中旬の定修入り時で停止することとし、高圧ガス設備の廃止届けを出し(以後検査不要)、塩ビ製造設備としては使用できないようにする。
但し設備は撤去せず残存設備用に有効利用する(サイロ、スラリ−タンクなど)。
これにより業界で10月から実施するVCM排出自主規制をクリアする。
1CV生産グレ−ドは高重合度品をサンアロ−に委託し、残りは3CVで生産。
10/13 1CVを10/15 の定修入り時に停止するためMITIに設備廃棄届を提出した。
後記
本プロセスはインドネシアのサイアム・マスピオン・ポリマーズに技術輸出された。
これを通じ、この技術は飛躍的に向上した。
総合:世界最高レベルの技術
40t/m3/月の生産速度
One Line 120,000t/Y の世界最大の重合・乾燥ライン
→ 次期新設時に活用
個別:新たに取得した技術
150m3 大型缶へのスケールアップ
リフラックスコンデンサーの高度利用(内部Jacket重合缶の性能最大化)
Hot Charge, Cat Early Stage Charge 等によるMinimum Cycle Time 達成
国内各工場への適用
リフラックスコンデンサー高度利用のための制御技術( Lamping 停止など)
Cycle Time短縮のための、ノウハウ