住友化学の米国農薬基地Valent 設立の背景 中山一男
小林昭生さんが2024年5月に逝去された。
成城大学 経済学部・経営学科の平野 創教授が、小林さんからヒアリングを行い、「化学産業のオーラル・ヒストリー」をまとめられ、@〜Bが発表された。Bの最後近くが農薬時代で、大赤字解消のための海外需要家との値上げ交渉と、ベーラントの設立をとりあげている。
@ https://www.seijo.ac.jp/education/faeco/academic-journals/jtmo420000001iji-att/224-5hirano.pdf
A https://www.seijo.ac.jp/education/faeco/academic-journals/jtmo420000001iji-att/229-3hirano.pdf
B
https://www.seijo.ac.jp/education/faeco/academic-journals/jtmo420000001iji-att/234-6hirano.pdf
農薬はそれ以前は大きな黒字を計上していた。赤字になった原因はプラザ合意である。1ドル250円前後で推移していたのが、一挙に130円程度になった。海外での売価はドル建てのため、手取りが一挙に半分になり、その結果の赤字である。小林さんは需要家を歴訪し、ドル建て売価の引き上げをおこなった。
ベーラントについては次のように述べられている。
現地販売の勉強のためにまず 50:50 の合弁会社を作ろう,それも行く行くは合弁を止めて持ち分をこちらに売ってくれそうな会社を探そうということになりました。
アメリカにシェブロンオイルという大きな石油の会社があり,そこには農業化学品事業部があるのですが,「石油会社はガソリンという消費物資を売るのに,農薬を扱っているとイメージがあまり良くない」という噂を聞いていたので,シェブロンはやがて農薬事業を手離すだろうと踏みました。そこでシェブロンに「おたくは新商品が少ない一方で,我々は原体の良い商品を持って来るから一緒に 50:50 の合弁をやりませんか」と持ち掛けました。交渉の過程で,彼らはやがて合弁事業を解消して株を我々に売ってくるという見通しが確信に変わりました。
しかし、これは正確ではない。
米国に販売拠点を持つというのは、事業部の一部の人の悲願であった。(当時は、農薬事業部は儲かっており、他の多くの人は「あれば良いな」という程度であった。)
そして、住化アメリカから提案を行い、本社で経営会議にかけるまで持っていき、小林さんが企画部から農薬事業部に移り、引き継いだものである。
今や、関係した人の多くが亡くなり、詳しい事情を知る人も少なくなった。当時の事情を残すことも意味があると考える。
以下に、筆者が関与した範囲のものを述べる。
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筆者は1962年入社で、1975年に農薬事業部に移った。
1964年3月 経理部主計課
1975年9月 農薬事業部営業課兼業務課 : 家庭用ピレスロイドの営業、MPCCの日本側窓口
1980年2月 住友化学アメリカ(SCAI)勤務
1984年6月 石油化学業務室
1995年7月 新第一塩ビ 常務取締役
2000年6月 新第一塩ビ改組でトクヤマ鰍フ会社になったのに伴い退任その後、ホームページ https://knak.jp/、ブログ 化学業界の話題 (バックナンバー)を運営
農薬事業部への転勤の経緯:
別記の通り、1975年6月にMPCC(Mount Pleasant Chemical Co. ) が設立された。
住友化学が米国でMPCCからSMT(Sumicion)を購入し、輸出するために会社が必要である。
このため、1976年春に駐在員事務所を子会社(SCAI:Sumitomo Chemical America, Inc.) に改変することとし、そのための調査を行うこととした。
SCAIには、従来の技術系駐在員のほかに農薬事業部から営業及び開発要員、およびMPCCの運営でStauffer と交渉する要員を派遣することとした。企画担当の高嶋さんは、SCAIでのMPCC運営交渉要員と考えて小生の転勤を進めたと考えていた。
それに対し、農薬事業部の森本さんは、米国でのSMTの製造が始まることから、事業部内部で要員が必要と考え、小生を受け入れたと認識した。
その結果、SCAI出向者をどうするかが問題となった。経理の磯嶋さんも含めた協議の結果、最終的に森本さんの意向が通り、SCAIには企画部でMPCC設立交渉を担当していた中本くん(1963年入社)が出ることとなった。
1975年9月に農薬事業部に転勤。 農薬営業課(国内家庭用担当)と業務課(MPCCの事業部窓口)の兼務となった。
1980年2月にSCAI出向。
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1970年以前は、一部を除き、住友化学の農薬事業は国内を対象とした事業であった。
1970年代に米国での事業が出てきた。スミチオンとスミサイジンである。
T スミチオン
スミチオンについては、日本での環境問題が関連する。
(農薬反対運動)
レイチェル・カーソンの著書『沈黙の春』は 、1964年に南原実翻訳で日本語版が出版され、大きな反響を引き起こした。「農薬は毒」との考えが広まった。
宇井純の東大での自主講座「公害原論」でも、農薬の公害が大きく取り上げられた。
これらの結果、1990年代後半のダイオキシン騒動と同様、農薬は諸悪の根源とされた。農薬=毒薬=危険とみなされた。
このときの反農薬の動きは想像を絶するものである。
(住友化学への影響)
1.スミチオン
環境問題が取り上げられている最中に、大分のスミチオン工場で1973 年に爆発事故と原因不明の倉庫火災が連続して発生した。当時、農薬反対運動が盛んで、農薬反対者(もしかすると社内の)によるものかとの見方もあった。
スミチオンは当時、公称能力6000トンであったが、継ぎ足しの増強のため、実際にはもっと小さな能力であった。
そのなかで、 日本では毒性の強いパラチオンが禁止され、スミチオンの国内需要が急増、海外でも同様に需要が急増すると考えた。このため増設が必要となったが、2度の事故での反対運動で大分の増設は問題外、千葉や大阪でも農薬工場は認められなかった。
2.ピレスロイド
ピレスロイドは春日出工場の近くの酉島分工場で製造していたが、住宅地のど真ん中にあり、先行き、立ち退きを求められるのは必至であった。
また、能力が小さく、ほぼフル稼働のため、早い増設が求められた。
これについては、ようやく三沢市が受け入れてくれた。 (除虫菊代替であり、危険な農薬という感じが少なかったことが好影響を与えた。)三沢工場では能力を倍増した。
この時点では家庭用殺虫剤として天然除虫菊がまだ中心で、ケニア・タンザニアから輸入していた。このため、三沢工場では長期間、低操業が続くのではと懸念された。
しかし、工場完成直前に現地が大旱魃で、除虫菊がほぼ全滅した。このため合成ピレスロイドの需要が急増、三沢は初年度からフル稼働で、増設を検討するまでになった。
(スミチオンの立地)
日本で駄目なら海外で、ということで海外立地を検討した。米国市場を狙っていたこと、原料の入手などから、米国を候補地とした。
スミチオンの生産のためにはメタクレゾールが必要だが、これは流通していない。
そのため、現地でプロピレンとトルエンを購入、クレゾールを生産、これからBHTとメタクレゾールを生産し、メタクレゾールからスミチオンを生産することとした。(大分工場の略号でKBS計画と称した。)
各社を訪問、Stauffer(農薬を生産しており、燐製品も生産)がスミチオンに関心、KoppersがクレゾールとBHTに関心を持った。
先行してStaufferとスミチオン事業の交渉を行った。(最終的にKoppersはこの事業を諦めた。)
当面、大分からメタクレゾールを輸出、Staufferでこれからスミチオンを生産する。
米国内のスミチオンの開発→販売はStaufferが行うが、輸出(及びメイン州での森林用)は住友化学が行う。
このためにはJVは生産JVとし、Staufferに生産委託を行う。StaufferにはROIを保証する。(住化ではこの時点で初めて、「ROI保証」という概念を知った。)
以下 住友化学私史 MPCC史 参照
(MPCC失敗の原因)
日本では1971年に毒性の強いパラチオンが禁止され、スミチオンの売上は急増した。
住友化学では海外でもこの動きが広がると考えた。 需要の急増に備え、増産が必要と考えた。「作れば売れる」と考えた。
しかし、これは誤りであった。
日本では田圃が住宅地に接近していることもあり 、パラチオン散布中に中毒や死亡事故が相次いで発生し、社会問題となった。このためパラチオンが禁止され、スミチオンの売上高は急増した。
しかし、米国では住宅地から離れた広い農地で空中散布するため、毒性は問題にならなかった。家庭用などは早くに禁止されたが、全面禁止は1991年である。
開発途上国では価格が問題となった。
スミチオンはメタクレゾールを原料とするが、パラチオンはパラニトロフェノールを原料とする。
スミチオンのコストはパラチオンと比べ、非常に高く、途上国では「安全性」を理由に高いスミチオンを使うことにはならなかった。
当時輸出されていたのは、先進国による援助計画に基づく購入に限られた。
MPCCが失敗に終わった時点で、農薬輸出部のメンバー(MPCC決定時は欧州駐在員)が、「海外では、(パラチオンが禁止されていないので、)自分のカネでスミチオンを使う人はいない」と述べた。
このため、最終的に米国では農業用では登録が全く取れず、海外でもカナダ森林用が少しは売れたが、開発途上国での販売も全く増えなかった。
MPCCの生産量は、1977年9月のオイルインから1981年6月の生産停止までの4年弱の総生産量は7,101トンにとどまった。
(1977年の検討時の生産計画は、大分、MPCCともに6000トンであった。)ーーー
Staufferとの交渉が進み、1974年12月経営委員会でMPCCの承認が得られたが、この直後に Staufferから連絡があり、DMPCT が燐や電力料、排水処理費のアップで大幅に値上がりするとの連絡が入った。翌1975年2月の日本での会議では、更に建設費がインフレや廃水処処理) の費用のアップし、 34百万$に増加する見通しが伝えられ、計画を再検討してはどうかとの示唆があった。(MPCC史)
Staufferからの計画再検討提案に対し、住化はコストダウンを要請するとともに、星野輸出部長が欧米メーカーを廻って原料価格アップの 将来影響を調査し、「他の製品もコストアップと成る」から大丈夫とのニュアンスを持ち帰った。
実際にはStaufferの言う通り、原油価格は下がらず、スミチオンのコストも下がらなかった。パラチオンとの価格差は相変わらずで、売上は増えず、MPCCの解散につながった。
なお、米国でのスミチオンの販売については、森林用と家庭用(防疫用)は住友化学が権利を維持し、農業用、防疫用をStaufferに権利を渡した。
Staufferは、パラチオンが禁止されないため、果樹、野菜、アルファルファ、庭木などを対象としたが、いずれも登録を取るに到らなかった。
ゴキブリ用については登録が取得できたが、Staufferが権利を放棄したので、SCAIが引き取って販売活動をスタートさせた。
しかし、直後に有機リン系殺虫剤によるカーペットの着色問題が発生(デュポンの新種の染料に起因)、業界全体として販売を中止した。
筆者の駐在中はメイン州の森林用販売も州の予算問題などでゼロに終わった。
このため、米国でのスミチオンの販売はゼロであった。
上記のとおり、原料価格上昇等により、Staufferから事業中止の提案があったのを、住化が事業を進めることを強く主張し、「住化がそれほど言うなら」としてStaufferが事業を進めた。
スミチオンの販売急増が期待されるなかで、MPCC以外に生産立地がなかったという基本的な事情のほかに、(推測だが)下記事情も影響していると思われる。
当時、アルミの海外JVはあったが、住化単独での海外進出としては第一号で 、JV契約締結前に、長谷川社長が本件でStauffer を訪問している。
1974年の経営委員会でMPCC事業を承認したが、その前後の役員会で長谷川社長が農薬の相馬事業部長を激賞し、皆も 相馬事業部長を見習え、と述べた。
こんなことがあった直後に 、やっぱり止めますでは相馬社長のメンツがつぶれる。
これが住友化学の自社工場であれば、スミチオンが駄目なら、他の製品をつくるということ可能で、それが一般的である。解散交渉の際の事前根回しで、住化がMPCC設備を買い取ることを提案したが、Stauffer工場と一体となっているため分離できないとして拒否された。
実際には1989年に三井東圧とICIの英米でのトナー製造のJVのImage Polymerが設立された。米国では旧MPCCのプラントを 購入し、改造した。今は三井化学100%で運営されている。
U スミサイジン
1973年の秋、イギリスのプライトンにおける学会で英国のNRDC(National Research & Development Corp.)によるパーメスリン(NRDC-143)の発見が報告され、
続いて1974年夏のヘルシンキの学会で住友化学からフェンパレレート(S-5602、Sumicidin ) の発見が報告された。これまでのピレスロイドは光に弱く、屋内用の家庭用殺虫剤として使われたが、これらは農業用に使用できた。
米国ではワタ用に1977年に緊急登録が認められ、1979年に正式に登録が認められた。
それまでのワタ用殺虫剤は、DDTが1973年に禁止された後はメチルパラチオンとトキサフェンの混合散布がなされていた。
しかし、これはHeliothis類の蛾の防除が困難で、新しい殺虫剤が渇望されていたため、 ピレスロイドの発明は大評判になった。
住友化学では海外に販売拠点を持たないため、全世界を対象にShellと開発販売契約を締結した。
米国はShell Chemical Company、米国以外はShell International Chemical Company(本社:英国)
農業用ピレスロイドの第1号として高収益であったが、Shellへの販売損益とロイヤリティ収入に限定され 、海外での販売損益はShellに帰属した。
とはいえ、スミサイジンは農業用ピレスロイドの第一号であり、利益は膨大で、これをShellと分け合った。
これに続いてS-3206(ダニトール)が開発されたが、これも 登録取得〜販売を他社に委託せざるを得ず、Chevronと開発販売契約の交渉を始めた。
しかし、交渉は難航した。
1番手は需要家に渇望された製品で、競争が少なく、高価格で販売できるため、Shellへの供給価格とロイヤリティは高くても、Shelll は高収益が期待できるため、交渉は比較的容易であった。
しかし、2番手の場合は状況が異なる。供給者が増えることから、価格は下る。
このため、契約交渉は難航した。
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上記のとおり、米国に拠点があれば、スミチオンの需要が減っても、工場を他の用途に利用して損失を少なくできた。スミサイジンやダニトールのような画期的製品が開発され、今後も新しい製品が期待できるなか、自ら開発、販売ができれば、大きな利益が期待できる。(将来的に製造までやるとしても、当初は輸入販売)
今のままでは、良い製品が開発できたとしても世界最大の市場で利益が得られない。他社を儲けさせるだけである。
しかし、米国で農薬事業をやるには、新剤の開発と毒性テスト、基礎の効力テストは日本(宝塚研究所)でやるとしても、米国で対象市場別の実地での効力テスト、製造、販売体制が必要である。一つの製品の登録を取るのに何年もかかる。
何をどうすればよいのか、全く分からない。当時の農薬事業部内では、これは単なる「夢」であった。
逆に、当時の状況で満足している人もいた。
短期間、農薬事業部長をした森英夫氏(社長、会長)が就任後、星野輸出部長とともに訪米、住化アメリカの少数メンバーと会食した。その際、「農薬のような儲かる事業部にきて幸いだ、安心だ 」と述べた。これに対し、小生から上記の問題を詳細に説明した。翌日、星野部長から「森さんはあのあと、考えると寝られず、一晩起きていたと言っていた」と伝えられた。トップがそんな状況であった。
実際に、なんとかして、これをやりたいと言い続けていたのは初代のSCAI駐在で、農薬海外開発部の佐藤香重氏(1961年入社、1987年頃に交通事故で逝去)だけであった。
筆者も、いろいろ考えたが、よいアイディアは浮かばなかった。 ゼロから組織を作るのは無理だし、事業の買収も容易ではなく、適当な買収相手もなかった。
そのうち、たまたま、Chemical Week の1982/8/25の記事 "Why Big Oil bombs in specialties" を見つけた。
スミサイジンはShell にライセンスし、S-3206はChevronとライセンス交渉をしていたように、当時、世界の石油会社がすべて農薬事業に参入し、利益を上げていた。
しかし、石油会社は農薬事業で儲けながらも、次々と農薬事業を手放しつつある 。
理由は、本業の石油事業と、新たに進出した農薬事業では、全くカルチャーが異なるという ことである。
石油は、多額の投資をして石油井戸を掘り、失敗してゼロになることもあるが、当たれば一挙に多額の利益が得られる。
それに対し、農薬は10年もかけてコツコツとテストを続け、途中でギブアップするのが多数で、当たって登録を取れれば利益率は高いが、利益額は石油と比べ物にならない。
石油と農薬は全くカルチャーが異なり、1つの会社でやっていけないというものである。モービルその他石油会社がどんどん農薬事業から撤退していた。
シェルもその後、事業を売却した。(Shell USA の農薬事業については1986年にDuPontに売却、Shellは1993年に農薬事業の中止を決定し、American Cyanamid に売却した。)
これを読み、住化の農薬対策の案ができた。(1983/6/24に日本に送付:当時は郵送)
1) 住化の農薬事業の将来のためには、米国進出が必要
2) 米国でマーケティング機能をもつことが必要
3) 1から作るのは無理で、買収がよい。
4) 候補の第一はS-3206の交渉をしているChevronである。
理由として、Chemical Weekの記事を説明した。
この案に対しては、考えには賛同するが、なぜこの時点でやるのか、MPCCで損を出したこの時点でやるのか、Sumicidinのようなスーパー農薬が出た時点でやればよい、などの消極的賛成がほとんどだった。
このため、SumicidinとS-3206の違いを挙げ、S-3206でもやっていける体制をつくらないと将来がないと説明した。
この案をSCAI内で説明すると、横塚社長が岡野事業部長宛のSCAIとしての提案とするレターを書いてくれた。
これで、中山個人としての案が、現地SCAIの提案となった。(1984/5/18送付:筆者の帰国直前)
佐藤氏がこれを持ち歩き、事業部内を説得した。 佐藤氏は、Valentの設立を見ずに逝去(自動車事故)
筆者は石化業務室で東京勤務のため、その後の経緯の詳細は不明だが、下記の経緯が分かっている。
・1987年2月27日 経営会議で 農薬事業の米国における本格的事業展開案を説明
・Chevronに提携の可能性を打診
・1987年5月 Chevron Davis 社長/岡野専務会談 Chevronとしても住友化学との提携に基本的に興味がある旨の表明
・1987年8月31日経営会議 JV構想(50/50 JV)
*筆者の本社への提案に記載の通り、永続的な50/50 JV は意見の相違が出た場合に問題を生じる。
しかし、この時点では、Chevronは農薬事業を続ける意向であった。(但し、住化では筆者の報告により、そのうち農薬から撤退するだろうと考えた。)
このため、Chevronとの提携を実施するため、50/50JV案で進めた。
後に、この計画を進めた小林昭生氏が「化学産業のオーラル・ヒストリー」で次のように述べている。
私が農業化学部門に行ったのは 1988 年で,海外農薬事業部長として赴任しました。そして,1989 年に取締役になり,農業化学部門の 4事業部を統括管理するようになってから自分の判断でどんどんやっていくようになったのです。
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現地販売の勉強のためにまず 50:50 の合弁会社を作ろう,それも行く行くは合弁を止めて持ち分をこちらに売ってくれそうな会社を探そうということになりました。
アメリカにシェブロンオイルという大きな石油の会社があり,そこには農業化学品事業部があるのですが,「石油会社はガソリンという消費物資を売るのに,農薬を扱っているとイメージがあまり良くない」という噂を聞いていたので,シェブロンはやがて農薬事業を手離すだろうと踏みました。そこでシェブロンに「おたくは新商品が少ない一方で,我々は原体の良い商品を持って来るから一緒に 50:50 の合弁をやりませんか」と持ち掛けました。交渉の過程で,彼らはやがて合弁事業を解消して株を我々に売ってくるという見通しが確信に変わりました。
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その後,やはり予想通りにシェブロンは,株の売却を提案して来ました。
1988年4月 Valent USA を設立
1989年9月 ChevronがValent の株式買取を要請
1991年9月 Valentを住化100%に。
以上の結果、筆者が1983年6月に本社に提案したことが 、佐藤氏やその後を引き継いだ人の努力で実現したことになる。
本件は「偶然の幸運」と言える。
MPCCがなければ、住化アメリカ設立はもっと遅くで、この時点で佐藤さんや筆者は米国にいなかった。本社には米国の農薬会社が必要との認識はなかった。
筆者がChemical Weekの記事を読んでいなければ、Chevron買収という本社への提案はなかった。
仮に他人(外国部など)がこの記事を読んでいたとしても、住化の農薬の海外戦略には結びつけなかったであろう。
この記事の前に、ダニトールを本業が石油会社であるChevron と交渉していたことも偶然で、例えばダウと交渉しておれば、この案はなかった。
Chevronがもっと前に農薬事業撤退を決め、他社に売却していても同じである。
現在の住化の農薬事業は、偶然の幸運と、少人数の努力によっているといえる。
筆者の農薬事業担当の時点での資料は下記参照
日本の家庭用殺虫剤 SCAI赴任に当り、関係者(輸出部、海外普及部を含む)に説明したもの
ピレスロイドシンポジウム 住化では住商と組んでアジアの需要家を招待してピレスロイドのシンポジウムを開いた。(バンコック、台北)
筆者が日本のピレスロイドの状況を報告した。日本の各メーカーのTVコマーシャルを集め、映写した。
この資料はその後も使用された。
ブログ 蚊取り線香物語 ピレスロイドの歴史 2006年に作成
米国ピレスロイドビジネス
NPY特許切れ対策 特許切れとはなったが、作戦で値下げ無しで押し切った。米国における家庭用・防疫用殺虫剤の開発・普及体制. 今後の体制の提案
米国市場における農薬事業の展開について 今後の体制の提案付 ChevronとのS-3206交渉 ChevronとのJV設立提案(経営会議資料)